豪徳寺(東京都) | yampoo 御朱印集めの旅 

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御朱印を集める旅を始めました。

東京都世田谷区の豪徳寺にお参りしました。

豪徳寺と言えば、「招き猫」発祥の地ということで有名です。

彦根藩3代目藩主の井伊直孝が猫によってお寺の門内に招き入れられるのですが、そのことによって雷雨を避けられ、更には和尚の有り難い法談を聞くことができ、大いに喜んだそうです。

後に直孝はお寺の伽藍を創建し、豪徳寺は井伊家の菩提寺になりました。

ですので、ここでの招き猫はいわゆる「商売繁盛」というイメージは無く、小判とかを持たない素朴な感じの招き猫です。

 

豪徳寺には歴代彦根藩主の墓所があります。そのなかでも一番目を引くのはやはり井伊直弼のお墓です。大老の直弼は尊王攘夷派に対して強権的な安政の大獄を指揮したとして、日本史のなかではヒール役といった感じですが、私の感覚としては幕末の熱狂的な攘夷派というのは、戦後の学生運動に似ているような気がしていて、どこか書生論に過ぎないところがあり、治安維持という面でも、直弼がとった厳しい取り締まりについては私はある程度理解できます。

直弼は結局、水戸藩脱藩者らによって桜田門外で暗殺されるわけですが、その後、井伊家は幕府内で急速に力を失っていくことになります。

 

井伊家は幕臣なかでも筆頭格で、彦根という東海道の要衝の地を任された家柄です。西から江戸幕府に対して敵対勢力が攻めてきたときは、まず彦根で止めるというのが徳川家康の戦略だったはずです。しかし、その井伊家が戊辰戦争のときには、いち早く官軍側に付いたというのは私にとっては驚きでした。現に、彦根市民のなかには、井伊家は会津藩と一緒になって官軍と戦ったと思っている人が少なからずいるという話しを聞いたことがあります。

それでは何故、井伊家は徳川家を見限って、そんな簡単に官軍側に与したのでしょうか?

 

井伊直弼が暗殺された後、井伊家のなかで勤王派が実権を握ったということもありますが、桜田門外の変で幕府の権威が失墜したとして、井伊家は10万石減封の厳しい処分を受けました。その恨み節が根底にあったのではないでしょうか?

徳川家への忠誠か勤王か、あるいはどのようにして藩は生き残れるのかといった現実的な問題の狭間のなかで、井伊家は最終的に官軍に付くという選択をしたのだと思います。

 

ところで、こちらも驚きなのですが、徳川御三家の筆頭である尾張徳川家も戊辰戦争のときは官軍側に味方しています。

実は当時、徳川宗家と尾張徳川家はかなりの冷戦状態にあったようです。その発端は八代将軍を決めるときに、尾張の徳川宗春が紀伊の徳川吉宗に敗れたことに遡ります。それ以来、尾張徳川家は徳川宗家から何かと冷遇されます。例えば、藩主を徳川宗家の方から送り込まれるといったことがありました。現代風に言うと、グループ会社の親会社から筆頭の系列子会社へ社長が天下るような感じで、その社長も元を糺せばライバル子会社(紀伊徳川家)の系譜を持つ人物ということになります。生え抜きの社員を社長にしたいという子会社にとっては屈辱の何ものでもありません。

 

ということで、官軍側としては彦根と名古屋という東海道の要衝が簡単に開けたことで、極めて有利に戊辰戦争を戦えたということになります。

もしか、徳川宗家がこの両藩と親密であったら、戊辰戦争はもっと激戦になっていたに違いありません。徳川家康にとっては、西国の大名が朝廷と組んで江戸に攻めてくるかもしれないことは予想されても、井伊家と尾張徳川家が簡単に西に味方するというのは、大誤算だったことでしょう。

 

それにしても、井伊家が江戸および江戸周辺に広大な土地を所有していたということは、いかに信頼されていたかという証しだと思います。豪徳寺がある世田谷も井伊家の土地でした。

私が豪徳寺を参拝したのは雨の日曜日でしたが、多分そういう歴史を知らない多くの外国人観光客が訪れ、招き猫を買い求めていました。