南宮神社(長野県) | yampoo 御朱印集めの旅 

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御朱印を集める旅を始めました。

中央アルプスを挟んで、東側が天竜川沿いの伊那谷、西側が木曽川沿いの木曽谷となります。開放的な雰囲気の伊那谷に対して、木曽は典型的な山深い「谷」といった印象です。

中央高速道路の伊那インターで降りて、伊那市街地とは反対の木曽方面に向かい、長いトンネルを過ぎたあたりが、木曽町の日義という地名になります。昔は「宮ノ越」と呼ばれる中山道の宿場町があったところで、かつての宮越村の鎮守が南宮神社です。

 

「南宮」と言えば、美濃国の一之宮で、関ヶ原に鎮座されている南宮大社が有名です。実は宮ノ越の南宮神社は、もともとはこの地から東に1kmほど離れた「古宮平」という地で祀られていたのですが、平安時代後期、木曽義仲が南宮大社を分祀勧進し、中山道沿いの現在の地に遷したのだそうです。従って、御祭神は南宮大社と同じく金山彦命(かなやまひこのみこと)で、鉱山や金属を司る神様とされています。

 

中山道は京の都から江戸の日本橋まで69宿ありますが、宮ノ越はほぼその中間に位置します。

もうひとつ、大きな街道としては東海道があります。大きな河川をいくつも渡らなければならない東海道は、一度河川が増水すると足止めをくらい、スケジュールが狂ってしまうのと、それに伴い費用がかさんでしまうという欠点がありました。従って、京都と江戸の往還で中山道が選ばれるケースはかなり多かったようです。幕末、孝明天皇の妹にあたる和宮が14代将軍家茂に嫁入りしたときも、中山道を使って江戸に赴きました。

 

ところで、中山道のルートについて以前から疑問に思っていたことがありました。京から江戸に下るときに、この木曽の宮ノ越を過ぎると塩尻から下諏訪の方へと向かいます。

下諏訪からだと、本来なら現在の中央高速道路のルートと同じく、甲府、大月、八王子を経由して江戸に向かう方が近いと思うのですが、なぜ中山道は下諏訪から現在の上田方面に向かい、軽井沢から高崎へと遠回りをするのか不思議でなりませんでした。

 

そこで、調べてみたのですが、江戸が発展するのは当然のことながら、江戸時代以降のことで、中山道はその昔から主要な街道として存在していました。中山道というのは京から現在の岐阜、長野から北関東、そして東北地方へと一気に繋がる、いわゆる「東山道」の街道として古来インフラ整備されてきたのです。そもそも江戸は頭には無かったということです。高崎から先の江戸へのルートは江戸時代以降、交通量が増えたのであって、それ以前は支線みたいなものだったと言えます。

江戸時代、甲州街道もそれなりに整備されたのでしょうが、やはり、笹子や小仏の峠を越えるのは大変だったらしく、また古くからある中山道の方が宿の数とか利便性の面で圧倒的に良かったようです。

それと、よくよく地図を見ると、下諏訪から江戸まで、中山道でのルートと甲州街道のルートでは意外にさほど距離の差はないというのに気が付きました。「中山道が遠回り」と感じるのは大いに気分的なものでした。

 

南宮神社は中山道、現在の国道19号線沿いにあり場所はすぐ分かります。

神社の本殿裏には「旭の滝」と呼ばれる高さ20mほどの見事な滝があり、私が参拝した日はプロと思われる数名のカメラマンが三脚を立てて写真を撮っていました。ちょっと離れて眺めると、滝の流れはまさに龍神のように見えます。

実はこの滝は明治時代に用水路のいわば一部として作られた人工の滝だそうです。昭和に入ってから原因不明で消失したのですが、平成26年に神社の氏子さんたちによって復元されました。一時期、幻の滝と言われていたものが、現在はしっかりと見ることができます。

滝の水は境内を流れる町川用水と一緒となり、木曽町を潤しています。

 

初夏とは言えないような気温が上がった日にお参りしましたが、お社はヒノキやケヤキの森の中に鎮座されているせいか、さらには滝の流れる水によってマイナスイオンを大いに感じることができ、本当に癒やされました。

御朱印はラッキーなことに直書きで授かることができました。