コメントに関してですが…基本的に誰でも書きこんで構いませんが、記事に関係したコメント以外はお断りします。 そういうコメントは気が付き次第削除しますので悪しからず(´・Д・)」 ブログ開始日 2008年11月10日
  • 24 Apr
    • 一矢神社(常陸大宮・下檜沢)

      どうもおはようございます、りんですm(_ _)m茨城県常陸大宮市下檜沢850-1一矢神社(いちのやじんじゃ)鳥居社号標水盤参道階段拝殿拝殿扁額凱旋記念額賽銭箱天神宮山の神 稲荷神社水の神弓の神創建は安永2年(1773)、村人・井上忠次ェ門等数名熟議の上、常陸国新治郡玉取村の八坂神社(現・つくば市 一ノ矢八坂神社)の分霊を勧請し奉斎文化2年(1805)、社殿造営文政2年(1819)、神輿を造り村内を神幸式を行うこれ以後村内では流行性伝染病が無くなったとされ、以来恒例として夏祭りを行う様になったそうです。御祭神は素盞嗚命さて、こちらは小さい神社ですがなかなか面白いのです。看板は聞いた事がありますよね…有名な武将の性格を喩えたアレ思いっきりアレンジしてますね(笑)あと、賽銭箱にある矢と鈴…取り外しができまして振る事ができます。実はココ、鈴がぶら下げてなく多分…賽銭箱にある鈴付きの矢を幣束を振るかの様にするのではないだろうか?私は振りましたけどね(笑)鹿嶋神社にていただけました。また、こんな御守りもあるそうです( ´ ▽ ` )ノど根性守

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  • 22 Apr
    • 鹿嶋神社(常陸大宮・下檜沢)

      どうもこんばんは、りんですm(_ _)m茨城県常陸大宮市下檜沢3621鹿嶋神社(かしまじんじゃ)鳥居?水盤拝殿扁額本殿浅間神社 天満神社雷神社 稲荷神社大桑神社石祠神輿庫殉国之碑境内創建は不詳また、文永年間(1264-1274)に佐竹義胤により八幡十二所明神を奉祀したとも言われる永正11年(1514)2月、佐竹義舜により再興元禄4年(1691)10月、徳川光圀の命により御祭神を武甕槌命と改め、神鏡1面を奉納正徳2年(1712)、拝殿改築寛政2年(1790)、本殿模様替え明治6年(1873)4月、村社列格昭和6年(1931)2月、神饌幣帛料供進指定御祭神は武甕槌命こちら、常陸大宮市の旧美和村東部にある神社でして…元は八幡神社、光圀の寺社改めによる御祭神の変更があったところになります。実はこの寺社改め、以前に書いたこともありますが神社に対しては俗に「八幡潰し」とも言われ…八幡と名乗っているところはほとんどこの対象となりまして、他所の神社から新たに分霊を勧請し御祭神の変更、それに伴い社名変更も行なわれました。水戸藩領である現在の茨城県北部では、現在でも八幡と名乗っている神社はかなり少ないのです。この八幡潰しを免れたところは僅か4社、高萩市の安良川八幡宮・常陸太田市の馬場八幡宮と若宮八幡宮・水戸市の水戸八幡宮だけになります。ちなみに、この地域で静・吉田と名乗っているところは元は八幡の可能性が高く、鹿島(鹿嶋)はその可能性が少なからずあるという有様名君として知られている光圀ですが、寺社に対してはかなり厳しい事をしているみたいですね( ̄▽ ̄)八幡を槍玉にあげたのは常陸の元領主である佐竹氏が信仰していた八幡を潰し、影響力を削ぎたいという思惑もあったとされる…まぁ、寺院に対してもかなりやってますからねσ(^_^;)拝殿内にていただけました。記事にする為に新たに写真を撮りに行ったところ…境内にこんなのがキノコ( ̄▽ ̄)これはアミガサタケと呼ばれるキノコでして、春に生える種類となります。フランス料理だとモリーユと言われてまして…比較的見つけやすいキノコですが、実は高級食材です( ´ ▽ ` )ノまぁ、キノコに関しては素人は下手に手を出さないのが無難かな?よく、秋になるとキノコを食べて食中毒になったとニュースがありますものねσ(^_^;)〇〇モドキとかニセ〇〇とか名前が付く毒キノコもあるぐらいですから…ホント

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  • 20 Apr
    • 岩谷寺(笠間・来栖)

      どうもこんにちは、りんですm(_ _)m茨城県笠間市来栖2696真言宗 智山派醫王山 護命院 岩谷寺(いわやじ)寺号標平城天皇勅願所碑山門境内手水本堂石仏薬師堂収蔵庫薬師如来坐像(国重文)薬師如来立像(国重文)仏像写真はパンフレットより引用創建は大同4年(809)、平城天皇の勅願所として空海の弟子・秀悦阿闍梨により開基当時は現在の笠間市街の東側にある佐白山、その北側に寺があったとされ、護命山醫王院岩谷寺と称していた。承久3年(1221)、笠間時朝が佐白山に城を築くにあたり忠圓阿闍梨を迎え、現在地に移転し再興この際、醫王山護命院岩谷寺と改める江戸期には30石の朱印地を与えられ、末寺5ヶ寺・門徒26ヶ寺を持ち、境内には大小14の堂宇があったそうです。元禄5年(1692)、笠間藩主・本庄宗資により薬師堂改修明和6年(1769)、山門建立文政11年(1828)・明治16年(1883)、火災により諸堂焼失し山門のみ免れるこちら、かさま文化財公開の時の参拝となります。ここ岩谷寺は笠間市郊外の寺でして、参道が狭く車同士のすれ違いは困難な為、当日はスタッフが参道入口と寺に居て交通整理をしていました。ほんとありがたいですね…欲を言えば、前記事の楞厳寺も同じようにして欲しかったなと、同じくらい狭いんだがなぁσ(^_^;)さて、こちらでは重文の薬師如来さまが2躰公開となっておりまして…ほんと良かったわ、見惚れていたと言っても過言ではない数人に対してスタッフの説明があって、それを聞きながら観ていたが…全く耳に入って来ないσ(^_^;)おかげで、スタッフの説明用の資料を見せてもらうハメに(笑)なお、薬師如来坐像は平安時代末の作とされ、薬師如来立像は鎌倉時代中期、建長5年(1253)に笠間時朝の発願により造られたと刻銘があるそうです。こちらの仏像も笠間時朝により造られたものでありまして、花祭時に開帳となりますので興味のある方は是非ちなみに、花祭時にのみ開帳というお寺さんも結構多いので、この日を狙って普段見ることができない仏像を拝観しに行くのもいいですね( ´ ▽ ` )ノあと、本庄宗資ですが…この人の出世がすごい摂関・二条家の家臣の二男として生まれまして、最初は切米800俵から始まり…その後加増が続き下野足利藩1万石、常陸笠間藩4万石→5万石とまぁ、恐ろしいまでの加増ですな( ̄▽ ̄)でもこの人、コネなんです5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が姉になるのですよ…将軍の叔父ですから、この出世もわからないでもないがなぁσ(^_^;)最終的に、次の代には松平姓も与えられてますしね…この家は本庄松平家と呼ばれまして、4代松平資昌から丹後宮津7万石で幕末まで存続しています。調べてて、コネは必要不可欠なものなのかなと思ってしまいました(;´Д`A文化財公開中のため受付で頼み、庫裡内にていただけました

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  • 18 Apr
    • 楞厳寺(笠間・片庭)

      どうもこんにちは、りんですm(_ _)m茨城県笠間市片庭775臨済宗 妙心寺派仏頂山 楞厳寺(りょうごんじ)山門(国重文)寺号標参道参道階段四脚門太子堂収蔵庫御堂本堂観音さま笠間氏累代墓地墓地墓地から山門を望む創建は不詳ですが、当初は律宗で開山は宋の僧・千岩と伝えられています。隆盛したとされますが、鎌倉時代初期には衰退鎌倉時代中期、笠間領主・笠間時朝が再興し笠間氏の菩提寺とする室町時代、大拙和尚を招き中興し律宗から臨済宗に改める寛永8年(1631)、火災にて焼失し奥の院にあった観音堂を仮本堂とする昭和29年(1954)、現本堂造営こちら、去年10月のかさま文化財公開の際の参拝になります。ここでは国重文の木造千手観音立像の公開でした。笠間市のサイトより引用この仏像は笠間時朝の寄進により建長4年(1252)に造られたものであり、同じように時朝により寄進された六体の仏像を総称して笠間六体仏と呼びます。この笠間六体仏は、楞厳寺の観音大士・岩谷寺の薬師如来・阿弥陀院の地蔵菩薩・石寺の弥勒菩薩・花蔵院の毘沙門天・蓮台寺の不動明王がそれなあたり、現存しているのは楞厳寺・岩谷寺・石寺の三体のみになっております。その現存三体はどれも国重文に指定されていますので、いかに良い仏像なのかわかるかと思います。そうなると、あとの三体も現存してればなぁ……と思います(´・ω・`)こちらの寺に行く途中にある茅葺の山門も国重文でして、室町時代中期の建立で禅宗様式の四脚門です。パッと見地味ですが、禅宗の門として風格があり私的に好きな門なのですよ( ´ ▽ ` )ノまた、寛永年間の焼失前は門の裏側(現在は田んぼになっている場所)に伽藍があったとされます。こちらの寺、笠間の山あいにありまして……市内の観光地と違い、観光客は来ないですが重文の山門・仏像や苔むした参道や境内など、ある意味穴場的なお寺さんなのかと?私的にお気に入りな場所かな(o´艸`)ちなみに重文の仏像は、毎年4月の花祭時に御開帳なので、実際に見たい方は是非どうぞ。なお、この花祭時に笠間六体仏を全部見るのを六堂参りといいますので、一ヶ寺のみでなく六ヶ寺巡る事をお勧めします。ちなみに笠間時朝はあちこちに仏像を寄進していまして、京都の三十三間堂にも二体寄進しており、寄進者の名前がわかるのは時朝のものだけだとか…文化財公開中でしたので、境内のテントにていただけました

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  • 14 Apr
    • 阿彌陀院(常陸大宮・国長)

      どうもこんばんは、りんですm(_ _)m茨城県常陸大宮市国長834真言宗 豊山派五佛山 阿彌陀院(あみだいん) 西蓮寺寺号標参道山門山門扁額本堂本堂扁額観音さま灯篭創建は不詳だが、口伝によると弘法大師の奥州巡錫の折、当山を開創したともいわれるなお「新編常陸国誌」によると、15世紀に有榮により開基と記されています。下野国福原(栃木県大田原市)の宝持山金剛寿院伝法寺の末寺である。本末関係図(美和村誌より引用)宝徳2年(1450)、祐誉上人により中興寛文3年(1663)の徳川光圀による社寺改革により寺領削減を受けたとされる元治元年(1864)、天狗党の乱により寺域荒廃明治35年(1902)、暴風により本堂倒壊後に本尊を薬師堂へと移し現本堂建築こちらは去年10月の常陸太田指定文化財集中曝涼の時の参拝となりますが…こちらは同時共催された常陸大宮市にある寺院になります。ここでは茨城県指定文化財・阿弥陀三尊の公開でありました。緒川村誌より引用こちらの寺は農村地帯にあるのに、鎌倉時代の中央仏師が造った仏像があるという事もあり?まして…江戸期には常陸国の真言宗では格式高い寺だったといわれています。また、本寺である金剛寿院は那須氏の庇護を受けて栄え地域本山として多数の末寺を持っており、下野国から常陸国北西部へと真言宗の拡がりが動線としてわかる寺なのかなと旧緒川村八里地区には多数の金剛寿院がありまして…現在まで存在するのはこちらのみとなります。明治維新後に寺院は廃仏棄釈の煽りを受け、全国的に多数の寺院が廃寺となりました…ですが、常陸国の寺院はこれより前に試練の時があったのです徳川光圀・綱條・斉昭などにより寺社の整理が行われました。水戸藩領の6割にあたる1400寺が破却または処分を受けまして…旧緒川村だけに絞ると、寛文年間には光圀により52ヶ寺のうち42ヶ寺破却天保年間(1830-1844)には斉昭により10ヶ寺のうち3ヶ寺破却明治維新後の廃仏棄釈により、江畔寺とこちらのみのたった2ヶ寺しか残らなかったのです。とまぁ、こんなに激しい弾圧をくぐり抜け残った寺ですから…有り難みが違うかな?光圀の処分には明確な規定があったそうでして「諸宗非法式様子覚」に破却の条件が記載されていました。①息災(祈祷)・滅罪(葬祭)ともに行わない寺②禅宗・浄土宗・日蓮宗の寺で宗門の法式に背き祈祷ばかり行っている寺③祈祷ばかりで葬祭を本意としない寺④檀家が全くいない寺⑤町屋敷・百姓地にある寺⑥住持が掛け持ちの寺この他、無住の寺・元和年間(1615-1623)以後創建の寺も破却とまぁ、このような厳しい条件により多数の寺院が破却となりました。いろいろと考えはあったのだろうが、ここまでやらなくてもよかったのではないだろうと私は思うのだが……庫裡にていただけました参拝していて、ふと見上げたら…スズメバチの巣がっ∑(゚Д゚)留守でしたσ(^_^;)びっくりしたな……もぅ

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  • 09 Apr
    • 今年の授与

      どうもこんばんは、りんですm(_ _)m本来ならば参拝記事を更新すべきなのですが、とある寺院の由緒で引っかかりなかなか進んでいません(;´Д`A先日、水戸藩の寺社改革の話を聞き法系図とかを見せていただいたところがありまして…寺社改革の記事には法系図をツッコミたいと図書館に通い詰めたりしてて、調べ終わったものの資料の整理で逆に疑問点が出てきて更にわかんなくなって来てる始末(笑)そんなんで、一度リセットです( ´ ▽ ` )ノ今年参拝し授与していただいた寺社を紹介しようかと思います。まぁ、記事にする予定の寺社は後々更新予定です(今回の記事からは除外してます)ので気長に待っていただけると幸いです。更新予定(2017/04/09現在)神社…42社寺院…20寺やっばいなぁ(´△`)鷲子山上神社雀神社鶴峯八幡宮沓掛香取神社東蕗田天満社結城諏訪神社健田須賀神社白鷺神社稲田神社鴨大神御子神主玉神社櫻川磯部稲村神社鴨鳥五所神社亀岡八幡宮宮原八幡宮鹿嶋三嶋神社別雷皇太神淡島神社(別雷皇太神境内社)電気神社(別雷皇太神境内社)聖徳蠶養神社(別雷皇太神境内社)水戸八幡宮天満天神宮(水戸八幡宮境内社)磐裂根裂神社今宮神社十二支社(今宮神社境内社)泉神社都々古別神社安積國造神社總産土阿邪訶根神社鏡石鹿嶋神社笠間稲荷神社常陸国出雲大社水戸東照宮森友瀧尾神社日光東照宮 二荒山神社輪王寺(黒門)輪王寺(三仏堂)輪王寺(四本龍寺)輪王寺(護摩堂)輪王寺(薬師堂・鳴龍)輪王寺(常行堂)輪王寺(大猷院)輪王寺(大猷院)鹿島神宮鹿島神宮(奥宮)息栖神社香取神宮常磐神社東湖神社(常磐神社境内社)東蕗田天満社宗任神社桑原神社白根三吉神社霊山神社子安神社胎安神社常陸國總社宮清滝寺西光院八雲神社芳賀天満宮とまぁ、こんな感じになっております(笑)こちらに上げた寺社は全部記事にしていますので、由緒や境内写真などに興味のある方はそちらを見てください。まぁ、初期の由緒は自分的には調べが甘すぎるんですけどね……そのうち改訂版を更新したいが、有り余るストックをどうにかせねばσ(^_^;)ずいぶん多く写真上げたなぁ、ちゃんと見れるかな?

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  • 06 Apr
    • 生品神社(太田・新田市野井町)

      どうもこんにちは、りんですm(_ _)m群馬県太田市新田市野井町1923生品神社(いくしなじんじゃ)社号標一の鳥居神橋二の鳥居手水舎三の鳥居神楽殿?神代木拝殿扁額本殿冨士嶽淺間大神新田義貞公銅像創建は不詳ですが、平安時代に編纂された上野国神名帳には「新田郡 従三位 生階明神」とある事から平安時代には存在していたのは確実です。なお、いつ現在の表記である「生品」と書く様になったのかは不明天喜年間(1053-1058)、源義家が奥州征伐の際に参拝し戦勝を祈願元弘3年(1333)、後醍醐天皇の綸旨を受けた新田義貞が鎌倉幕府討伐の兵を挙げる昭和9年(1934)、国史跡「生品神社境内(新田義貞挙兵伝説地)」に指定昭和58年(1983)、挙兵650年記念として義貞公の銅像が作られる平成12年(2000)、国史跡「生品神社境内(新田義貞挙兵伝説地)」に関連史跡を追加し「新田荘遺跡」として指定平成22年(2010)2月、義貞公銅像盗難平成24年(2012)5月、義貞公銅像再建御祭神は大国主命なのですが、平将門を祀っているという伝説もあるとか…?こちら、南北朝時代の有名な武将である新田義貞が鎌倉幕府倒幕の為に挙兵をしたとされる神社でして、この際に軍旗を掲げた木が境内の神代木(欅)になります。神社にて旗揚げをした当初は150騎でしたが、越後の一族が加わり最終的には数千騎まで増えたとされます。この際、越後の一族に挙兵を知らせたとされるのが西慶寺の山伏と云われており、こちらの不動は新田触不動と呼ばれています。また、盗難にあった銅像は未だに見つかっていないとか…なお、再建された銅像は新田義貞の弟・脇谷義助の子孫で、彫刻家・脇谷幸正により造られました。あと、8月に例祭として鏑矢祭がありまして…こちらは義貞公が鎌倉に向けて矢を放ったという故事にならった祭事でして、近くの生品小の6年生児童が行うのです。また、日本ハムの斎藤佑樹投手もこの鏑矢祭をやったみたいですよ。現在はこちらで行われている鏑矢祭は、元々は旆塚八幡神社で行われていた悪霊退散の行事だったそうで、これが明治23年(1890)から生品神社で行われる様になり、義貞公の故事と結びつき現在の鏑矢祭になったといわれています。社務所にていただけましたなお、こちらのものは申年限定になっております( ´ ▽ ` )ノ

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  • 04 Apr
    • 南光寺(みどり・笠懸町阿左美)

      どうもおはようございます、りんですm(_ _)m群馬県みどり市笠懸町阿左美967北関東三十三不動尊霊場 八番札所関東八十八ヶ所霊場 七番札所日輪山 観音院 南光寺(なんこうじ)寺号標庚申塔その他もろもろ六地蔵その他もろもろ入口鐘楼お堂本堂大師堂仁王様七福神創建は鎌倉時代、行基作の白衣観音を本尊とし開創されたともされる建武年間(1334-1336)、後醍醐天皇の子・護良親王の妃・南の方が親王の菩提を弔うために入山南の方は南光比丘尼と名乗っていたとされ、入山も新田氏を頼って落ち延びて来たと…慶長年間(1596-1615)、永真大徳により中興慶安2年(1649)、徳川家光より寺領21石4斗を賜り、高野山龍光院末中本寺の格式を得る平成15年(2003)、大師堂建立こちら、先日の国瑞寺から程近い住宅街の中にあるお寺さんでして…行くのにちょっと迷ったσ(^_^;)カーナビの案内で行ったら、狭い道に突入させようとするから、目的地はそのままに案内を無視したらリルートの嵐(´△`)そんなこんなで到着し参拝です(笑)由緒を調べると、この地を領した新田氏の元に護良親王の妃が落ち延びて来て、夫である護良親王の菩提を弔っていた寺院でありまして…南北朝時代の南朝方に所縁のあるところになります。まぁ、今で言う群馬県東毛地区は新田氏の本拠地ですから、その所縁の寺社はいっぱいありますからね…でも、あんまり行けてないからそのうちこの辺を集中的に参拝しようかなとは思っています。それというのも、先日に福島県の霊山神社に参拝しまして…こちらは南朝方であった北畠氏を祀る神社で、建武中興十五社のひとつで、こちらとは少なからず関係があるのかなぁと?まぁ、一番関係あるのは鎌倉宮ですけどね…御祭神は護良親王ですし( ̄▽ ̄)庫裡にていただけました。なお、今回は北関東のみいただいたので関東の方はいただいてはおりませんσ(^_^;)あと、新上州三十三観音霊場の札所でもあるらしいですよ( ´ ▽ ` )ノ

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  • 03 Apr
    • 風土の祭り

      どうもこんばんは、りんですm(_ _)mこちらの記事は神社で開催されていますが、内容を考慮して美術館のカテゴリーに入れさせてもらいます。風土の祭り常陸國總社宮先日、茨城県石岡市の常陸國總社宮で現代美術の展示があり行って来ました( ´ ▽ ` )ノ以前、同じ常陸國總社宮で行われた神社×美術数多の祭りに行き、記録集を頼む際に住所氏名を書いたところ主催の浅野さんから今回のパンフレットが届いたので、行って来たのであります٩(ˊᗜˋ*)وこちらの御本殿の改築が終わってから参拝していなかったので、これ幸いと神社へ(笑)さて、展示の一例ですが…題名や作者名とかは忘れてしまったのがありますので、作者の方には失礼ですが、その辺りは勘弁願います(つд⊂)作品とまぁ、こんな感じの現代美術作品が境内や社務所内に展示されています。歴史ある神社にこういう現代美術は、違和感を感じる方もいるかと思います…ですがむしろ、相容れないと思われる物こそ一緒に見たりすると案外いいものなのですよ( ̄▽ ̄)まぁ、モノによっては拒否感を感じる物も人によってはあるかもしれない…でも、現代美術はそういうもんだと開き直ればどういうのでも許容範囲に(笑)会期はあと1週間、8日までになっておりますので興味ある方はどうでしょうか?

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  • 01 Apr
    • 国瑞寺(みどり・笠懸町阿左美)

      どうもこんばんは、りんですm(_ _)m群馬県みどり市笠懸町阿左美1614黄檗宗鳳陽山 国瑞寺(こくずいじ)寺号標入口法華塔山門六地蔵本堂髪塔岡登次郎兵衛景能墓寛文7年(1667)、幕府の代官・岡登景能により創建延宝元年(1673)、景能が師事していた独湛性瑩禅師により開基山門を東京三鷹禅林寺より移築平成15年(2003)、本堂落慶こちら、群馬県みどり市旧笠懸町のあまり見かけない黄檗宗という宗派の寺院でして…先日の宝徳寺とともに、一部の方々には知られているお寺さんになります。帳面いっぱいを使う印でして、ここまで大きいのはなかなかないのでは?なお、こちらはこの大きさ故に押し辛いらしいし、書いてから祈祷をするという事をしているので、全部書き置きになります。さて、創建者は岡登景能という代官でして…あまり知られていないかな?江戸時代、荒地だった笠懸野を切り開き街道や宿場町を作り、農業も寛文12年(1672)に約12kmにも及ぶ岡登用水を引いたのです。ですが…貞享4年(1687)、用水を引く為に年貢米を流用したと同僚からの讒言により江戸へと召還、途中の駕籠の中で切腹をしてしまいました今も昔も、何かを成し遂げた人は何かしら同僚からの嫉妬を受け、その為に悲劇が起こってしまうのだなと…(つД`)ノあと、開基をした独湛性瑩禅師は黄檗宗の管長を務めた方になります。平成28年度版平成29年度版お正月版庫裡にていただけました。いただいた後、群馬県の黄檗宗達磨寺の話になりまして…私が納経をした後、若い女性に長々と説教をしていた事を話したりしてました。まぁ、あそこは納経をしないといただけないし御朱印という怒られますからね…σ(^_^;)

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  • 31 Mar
    • 宝徳寺(桐生・川内町)

      どうもこんにちは、りんですm(_ _)m群馬県桐生市川内町5丁目1608臨済宗 建長寺派大光山 宝徳寺(ほうとくじ)半蔵坊大権現碑 寺号標 入口参道門本堂鐘楼庭園原爆の火襖絵衝立宝徳年間(1449-1451)、建長寺73世・仏印大光禅師を開山とし、桐生領主・桐生(佐野)正綱の開基により創建天正年間(1573-1593)、由良氏により桐生氏が滅亡し荒廃江戸時中期には復興し、本山である建長寺の管長を務めるほどとなる明治元年(1868)、大間々第一分校(現・桐生市立川内北小学校)が境内に開校こちら桐生市の郊外にあるお寺でして、今では一部の方々には有名なところです( ´ ▽ ` )ノ季節毎に限定が出たりして、そういう時の土日にはかなり待たなくてはならない事に…そんなんで本堂で庭を見つつ待つか、近くの桐生織物の発祥地でもある白瀧神社を参拝するかしかないかもしれない(;´Д`Aまぁ、長時間待たなくてはならない場合は預けて桐生市内に出る方がいいかも?一部の方々に有名とは書きましたが、実はちょっと前まではあまり知られてはいませんでした…絵入りのを授与する様になってから一気に知名度が高くなって来たお寺です。この辺りだと、鹿沼の古峯神社が絵入りを授与していますのでそちらもどうでしょうか?庫裡にていただけました。今回いただいたのは常時いただける見開きでして、その他にも限定がある時もあります。帳面をこの様に開いて縦書きはあまりない書き方ですね( ´ ▽ ` )ノ実は、こちらの限定って有り難みを感じないんですよね…私はだって、仏教に関係のない事書いてあるからなぁσ(^_^;)

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  • 28 Mar
    • 白根三吉神社(伊達・梁川町白根)

      どうもおはようございますっていうか…まだ夜中ですよね、りんですm(_ _)m福島県伊達市梁川町白根字中倉82白根三𠮷神社(しらねさんきちじんじゃ)鳥居拝殿拝殿内本殿神社全景新社殿(8月時点)拝殿扁額本殿神社から梁川方面を望む創建に関して詳細な記録は無く、口伝にのみ伝わっているそうで…西暦1800年代初頭、秋田太平山三吉神社の大神の導きにより宮司家の先祖が御分霊を賜り、この地に祀ったのが始まりとされる昭和3年(1928)、社殿造営平成28年(2016)11月、現社殿に遷座御祭神は大己貴大神・少彦名大神・三吉大神こちら、伊達市梁川地区の山側に位置しまして梁川八幡宮から約10分程で神社へと行けるのですが…県道から一本入り、その途中にある龍澤寺から本当にこの先にあるのかと心配になりますが、電柱の看板で安心しながら山へ(笑)神社ですが、非常に小さくパッと見民家のように見えますがれっきとした社殿です。私が参拝した8月、新社殿は完成していたものの11月の遷座祭に向けて色々と準備をしている最中だったみたいです。この記事を書いていたら…手水舎の写真を撮り忘れてたなとσ(^_^;)伊達市はまだまだ行けてない神社が多いから、そちらを参拝時にこちらにも再訪しようかなと思っています。前宮司筆現宮司筆授与所にていただけました実はこの前、同じ太平山三吉神社から勧請した国見町の三吉神社でいただいて来たので、隣に書くのはちょっと緊張したと言ってましたσ(^_^;)

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  • 26 Mar
    • 天照神明宮(伊達・保原町)

      どうもこんばんは、りんですm(_ _)m福島県伊達市保原町字宮下1天照神明宮(てんしょうしんめいぐう)鳥居社号標手水舎狛犬拝殿扁額本殿稲荷神社妙見宮境内社境内社灯篭旧拝殿創建の年代は不詳昔、上保原出身の三日市二郎太夫という神主が伊勢神宮で修行をし、故郷に帰り地元・上保原に神殿を建て神宮より分霊を勧請その後、古川が氾濫し増水により社殿が流出し御神体が流れ着いたが…破損はおろか濡れてもいなかった事から、この御神徳にあやかりたいとこの地(現在地)に社殿を建て御神体を祀ったそうです。当時の境内は百間(約180m)四方もあり、その境内で蚕も飼っていた事から白蚕神明宮と呼ばれていた。戦国期、この地を領した殿様が神明宮の神領を巡見中に病に罹り、夢枕に御祭神が現れお告げにより病が治りその事が御祭神の御神徳とし、神社の再建を命じた正徳3年(1713)、「天の下を明るく照らしてくださる神様」として天照神明宮と改称する慶応2年(1866)、鍋屋火事とも称される保原大火により焼失明治2年(1869)、本殿再建昭和44年(1969)、現在の拝殿造営御祭神は撞賢木厳之魂天疎向津比売命・誉田別命・武甕槌命さて、こちらは伊達市保原地区の総社的な神社でして、初めて参拝した時からこの記事を書き始めるまで社名は「あまてらす」だと思っていましたが…調べてみたらまさかの「てんしょう」とは(;゚Д゚)!ずっと間違っていたとは神社に対して申し訳ないm(_ _)mあと、御祭神である撞賢木厳之魂天疎向津比売命がなかなかないですよね…天照大御神の荒御魂と考えられてるそうですが、私が今まで参拝した神社ではこの名前でというのは初めてでした。このようにメジャーな神様も名前が変わるだけで誰って思ってしまうのは良くある事で、これを期に別名も調べてみようと思うまぁ、ここ最近忙しいから言うだけで本当に調べられるのはいつになる事やら…授与所にていただけましたマンホール

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  • 21 Mar
    • ビミョーなお年頃

      どうもこんばんは、りんですm(_ _)m私事ですが…今日、私の誕生日でした(^0^)/誕生日が来た事に対して嬉しい気持ちがあまりないわ(笑)まぁ、歳が上がるにつれ嬉しい気持ちも薄れつつありますよね(;^_^Aそんな中、仕事から帰宅したら…こんな格好で出迎えられました(o´艸`)まぁ、いつものメイド服ですけどね(笑)たまに違うのもみたい気もしますが…以前、そういう事を言ってみたら市販のは、私の体型だと1部入らないのよ…確かに(;゚Д゚)!あの大きさだと入らないわなぁ(´△`)デブってる訳じゃなくて…胸がデカいんでね彼女の誕生日に、重いから持っててと言われた事がσ(^_^;)まぁ、ムフフな事になだれ込んだのは言うまでも無い(/ω\)そんな訳で、いつものメイド服を横目で見つつこの記事を書いています( ´ ▽ ` )ノ変わり映えの無い日常ですが…祝ってもらえる事に対しては嬉しいですね( ̄▽ ̄)

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  • 18 Mar
    • 八幡神社(福島・飯坂町)

      どうもこんにちは、りんですm(_ _)m福島県福島市飯坂町字八幡1八幡神社(はちまんじんじゃ)鳥居社号標狛犬手水舎拝殿扁額本殿境内社足尾神社村崎神社 鳥居村崎神社慰霊殿神楽殿鯖湖碑創建は天喜4年(1056)、後三年の役で陸奥に出陣した源義家がこの地に差し掛かった際、空にたなびく八条の雲を見て、あたかも源氏の白旗が大空に翻る様に見えた義家は八幡神が戦勝の験として示されたと信じ、必勝祈願として勧請したとされる。養和元年(1181)、大鵬城城主・佐藤基治が城内に豊前宇佐八幡宮より分霊を奉遷し社殿を建立宝永7年(1710)、城内より現在地へ遷座明治4年(1871)、村社列格明治28年(1889)、郷社列格御祭神は誉田別命・息長足姫命・玉依姫命こちらは飯坂温泉の街中に鎮座していて、周りは一方通行になっていまして…私はかなり迷ってしまいました(;^_^A歩いていたオバチャンに聞いたら、この先を真っ直ぐだよと聞かされたが…一方通行の標識があるんですけど( °Д°)!気を取り直してカーナビで向かう私(笑)八幡神社の例大祭はけんか祭りとしても知られており、町内を巡幸した神輿が他の神輿の宮入りを阻む為に神輿をぶつけ合う祭りだそうです。この祭りは岸和田の「地車祭り」、角館の「飾山はやし」と共に、日本三大けんか祭りに数えられているとか…社務所にていただけました。マンホールストックを徐々に減らそうとしてはいるが、忙しさに負けて遅々として進みません(´×ω×`)1部難解な神社があって、調べてたら余計に解らなくなってしまい…完全にお手上げ状態なところも(;^_^A

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  • 14 Mar
    • 熊野神社(南陽・宮内)

      どうもこんにちは、りんですm(_ _)mなんか久しぶりですね…仕事の忙しさに体調の悪さが重なって書く余裕が全く無かった(´・ω・`)まぁ、そんな中にも群馬県高崎周辺や東国三社参りとかしてるから、そこそこ余裕はあったのかもしれない(笑)山形県南陽市宮内3476-1熊野神社(くまのじんじゃ)鳥居社号標銀杏手水舎土社神社参道狛犬鐘楼拝殿神楽殿本殿二宮神社三宮神社蟻王山八幡宮御神木創建は不詳大同元年(806)、平城天皇の勅命により紀州熊野権現の分霊を勧請し再興貞観6年(864)、慈覚大師の巡錫で訪れ阿弥陀如来・薬師如来・観音菩薩の三像と大黒天を自ら彫り本地仏とした久寿2年(1155)、後白河天皇により勅願所となる弘安4年(1281)、元寇の際に亀山上皇の勅命により上使が詣で、天下泰平の祈祷が行われたその後、天台宗・真言宗・羽黒修験・神道の4派が融合し熊野修験の霊場として栄え、最盛期には33の宿坊があったとか…室町期から戦国期にかけて在地領主から庇護を受け、大江・長井・最上・伊達・上杉の各氏より社領の寄進や社殿の造営や修繕が行われる慶長9年(1604)、直江兼続が大旦那となり社殿修復天明7年(1787)、拝殿造営明治5年(1872)、郷社列格大正6年(1917)、県社列格御祭神は熊野夫須美大神・熊野速玉大神・熊野家津御子大神さて、こちらは熊野大社と名乗ってはいますが正式な社名は熊野神社となっています。また、日本三熊野の1つとされまして…あとは和歌山県の熊野三山、群馬県・長野県の県境にある熊野神社・熊野皇大神社になります。だけど、島根県の出雲国一宮である熊野大社が入ってないのが気になるところではあります(;^_^Aこちらは私的に好きな神社でして、拝殿の茅葺き屋根がもぅたまらん(o´艸`)あと有名なのは本殿裏手の兎ですかね…彫刻の中に3羽の兎が彫られていまして、全部見つけると願いが叶うとか幸せになれるとか言われているそうです。私は……2羽は見つかったんだがなぁ。゚(゚´Д`゚)゚。3羽見つけて幸せになりたい方は是非(*゚▽゚)ノあと、毎月満月の夜に縁結び祈願祭「月結び」が行われていまして、送迎もあるそうですよ。授与所にていただけました。ここらでストック(授与)の数を公開(笑)神社…34社寺院…18寺この他にいただいてはいないものの、記事にしようかと思っている神社が10数社やばいなぁ……今月に行ったところなんかはいつ更新できるのやら?

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  • 26 Feb
    • 烏帽子山八幡宮(南陽・赤湯)

      どうもおはようございます、りんですm(_ _)m山形県南陽市赤湯1415烏帽子山八幡宮(えぼしやまはちまんぐう)社号標市神社参道鳥居手水舎狛犬拝殿本殿温泉神社舛形神社赤湯神明宮津島神社烏帽子岩創建は寛治7年(1093)、清原武衡が乱を起こし源義家が下向し鎮定したが、その弟の加茂二郎義綱が北町八幡沢に祠を建て勝運の長久を祈ったのが始まりとされる明治23年(1890)、社殿新築造営明治36年(1903)、石の大鳥居建立御祭神は応神天皇・菅原道真・鳴雷神こちらは置賜地区の温泉、赤湯温泉裏手の山に鎮座し、神社がある烏帽子山公園は「さくら名所100選」に選ばれており、烏帽子山千本桜と言われているそうです。ここで語るべきは鳥居ですよね( ^ω^ )これは神社裏山から切り出された凝灰岩から造られており、継ぎ目のない一本石なのです。普通の鳥居だと、柱の上に貫や島木や笠木が乗っているのですが…こちらのはこれが一体化しているというスゴい鳥居なのですよ( ´ ▽ ` )ノまぁ、こちらのは神明鳥居なので島木はないですけど、この規模のものを継ぎ目なしで作るのはほんとにスゴいです。高さ10.75m、笠石の長さ12.7mの規模でして、吉田善之助・市川良次により完工また、社名・公園名になっている烏帽子山ですが境内の岩が由来とされています。これは密教の修験者が彫ったとされていますが、銘や造立年号も彫ってあったが磨耗していて年代はわからないそうです。古文書によると、慈覚大師のもとに塩竈神社からの使いのものが、所用の問答が終わって塩竈に帰ろうとするとき烏帽子を置き忘れた石であるとも…この日、なかなか暑い日でして…下から登って行くと汗が吹き出してきまして、神社に着く頃には汗だく(つД`)ノ汗をかくっていうのは新陳代謝がきちんと働いているので、身体には悪くはないのですが…さすがにね(;´Д`A社務所にていただけました

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  • 23 Feb
    • 犬の宮・猫の宮(高畠・高安)

      どうもおはようございます、りんですm(_ _)mさて、今回はちょっとマニアックな神社ですが…ある分野ではなかなかに知られているそうです。山形県東置賜郡高畠町高安910犬の宮(いぬのみや)一の鳥居手水湯殿山碑二の鳥居参道狛犬拝殿和銅年間(708-714)、都から役人が来て村人を集め「この里は昔から年貢も納めず田畑を作っていたが、今年から年貢のかわりに毎年春と秋のかな二回子供を差し出すように」といいつけ、村では悲しみ困っていたある年、亀岡文殊堂帰りの座頭が道に迷い一夜の宿を頼んだところが、今年の人年貢を差し出す家であったあくる夜役人が現れ、ご馳走を食べながら「甲斐の国の三毛犬、四毛犬にこのことを知らせるな」と何回も念を押して帰るのを耳にした座頭は甲斐の国に使いをやり、三毛犬と四毛犬を借りてこさせ、いろいろ知恵を授け村を去った。村人は早速役人を酒席に招き、酔いが回ったところに二匹の犬を放ったところ大乱闘になった。あたりが静まり返った頃おそるおそる座敷を覗いてみると、血の海の中に子牛のような大狸が2匹と多数の荒狸が折り重なって死んでいて、側には三毛犬と四毛犬も息絶え絶えに横たわっていた。村人は必死に手当をしたが、とうとう犬は死んでしまった。この村を救った犬を村の鎮守とせよとのお告げにより、祀ったのが現在の犬の宮といわれている。 猫の宮(ねこのみや)鳥居拝殿創建は延暦年間(781-805)、村の庄屋夫婦には子がなく猫を子の様に可愛がっていたが、なぜか次々と病死してしまう。今度こそ丈夫な猫が授かるように祈っているとある夜、夢枕に観音菩薩が現れ「猫を授けるから大事に育てよ」とのお告げがある。翌朝庭に三毛猫が現れ、夫婦は大いに喜び玉と名付け子供のように大切に育てていた。玉も夫婦にますますなつき、そして村中のネズミを獲るのでたいそう可愛がられていた。玉は不思議なことに、おみねの行くところどこへでも付いていき、寝起きはもちろんの事、特に便所へいくと、天井を睨み今にも飛び掛からんばかりに耳を横にして唸っているおみねは気持ちが悪く思い、夫にそのことを話してみると夫が妻の姿をして便所に行くと、玉は同じ素振りをするので庄右衛門はいよいよ怪しく思い、隠し持っていた刀で猫の首を落とした瞬間、首は宙を飛び屋根裏に潜んでいた大蛇に噛み付いた。この大蛇は、三毛犬・四毛犬に殺された古狸の血をなめた大蛇が、いつかいつの日か仕返しをしようと狙っていたが、玉が守っているため手出しできなかったのだった。この事を知った夫婦は大いに悔やみ村人にこの事を伝え、村の安泰を守ってくれた猫の亡骸を手厚く葬り、堂を建て春秋2回の供養を行ったさて、こちらは犬と猫を祀る神社でして…ひっそりとした場所にあります。由緒から来ているからか、ペットの供養の為に参拝する方が多いらしく社殿にはペットの写真がいっぱい貼られています。首輪や貼られた写真を見ると、ちょっと切なくなります(;´Д`A毎年7月第4土曜日にはペット供養祭が開催されるようです。また、この地高畠町高安は戸川幸夫の「高安犬物語」の舞台でして、高安犬は現在は犬種としては存在しませんが、ルーツは犬の宮の由緒どおり甲斐犬でして元来はマタギ犬だったそうです。この「高安犬物語」で戸川幸夫は直木賞を受賞しており、日本初の本格的な動物文学ともされたとか…最後に、両宮の由緒は高畠町のサイトを参考に書かせていただきました、この場を借りてお礼を申し上げますm(_ _)m

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  • 18 Feb
    • 大聖寺(高畠・亀岡)

      どうもこんにちは、りんですm(_ _)m珍しく更新した週だったなと……朝までの夜勤をして、夜勤明けのハイになった頭で書いてるからかも(笑)そうならば、これからは夜勤明けに書いた方が貯まりに貯まったストックを減らす事ができる?山形県東置賜郡高畠町亀岡41真言宗智山派松高山 大聖寺(だいしょうじ)寺号標狛犬手水舎仁王門参道本坊 門本坊手水舎参道鐘楼堂縁結び観音狛犬文殊堂知恵の水利根水(りこんすい)鎮守 蔵王大士創建は大同2年(807)、平城天皇の勅命により徳一により中国五台山より伝来した文殊菩薩を安置したのが始まりとされる往古は文殊寺と称し、真言宗に属したとされる戦国時代は伊達氏により崇敬され、伊達氏が陸奥国岩出山に移る際に同じように岩出山へと移る福資寺の鐘楼を伊達政宗より奉納される慶長7年(1602)、直江兼続により奉納詩歌会を開催し上杉家家臣により100首あまり奉納江戸期には徳川綱吉の信仰が篤かったそうで、中納言格と文殊堂領として朱印状が与えられた。大正3年(1914)、伊東忠太の設計により文殊堂再建こちらは米沢市の北側にある高畠町にありまして、大聖寺という名前よりも亀岡文殊といった方がわかりやすいかと思います。ここ亀岡文殊は、京都府宮津市の切戸文殊・奈良県桜井市の安倍文殊院と共に「日本三文殊」とされる。今回、ほぼノープランで山形に参拝に行ったのですが…こちらは山形に行ったら是非行こうと前々から思っていたところでしたそれというのも、智慧を司る仏とされる文殊菩薩を安置しているし、日本三文殊という事なので( ̄▽ ̄)そんなところなので、ちょうど今頃の受験シーズンには参拝客が増えるのは間違いないですね( ^ω^ )ですが……残念な事が文殊堂の裏側の壁に「○○大学合格!」「○○高校合格」とか彫ってあったり、書いてあったりしたのを見つけてしまいました。確かに、文殊菩薩さまにおすがりしたいのはわかりますですが、彫ったり書いたりしますか⁉︎ありえないですよ∑(゚Д゚)大学や高校も知名度の高い関東地方の学校でして…こういう恥知らずな人は「落ちてしまえ‼︎」と願ってしまいました(笑)まぁ、彫ったり書いたりした当人はどうなったのかは知りませんがねσ(^_^;)話は変わるが、ここの参道が雰囲気が良くて好きなんですよ…灯籠や石碑などが立ち並び、刻まれている銘や年号を見ながら登っていくのが楽しくて( ^ω^ )山形県の寺社って、結構石物がいいのが多くてゆっくりと色々なところに参拝したいなとは思っていますが、なかなか行けないんですよねσ(^_^;)まぁ、有名寺社は一通り参拝してますが……それ以外にも良いところがありますからね〜こちらに参拝したあと、山形県出身の大学生と知り合いまして、センター試験の前にこちらでご祈祷をしてもらったと話していました。その大学生は米沢出身でして、先に記事にした上杉神社・松岬神社の事を熱く語っていたのを思い出しました(笑)授与所にていただけました御姿

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  • 16 Feb
    • 上杉家廟所(米沢・御廟)

      どうもこんばんは、りんですm(_ _)mこちらは厳密には廟所なので寺院ではないのですが、寺院管理という事で寺院のカテゴリーに分類しています。山形県米沢市御廟1丁目5-30上杉家廟所(うえすぎけびょうしょ)門参道案内看板初代 謙信公中心より向かって左側十二代 斉定公世子 顕孝公十代 治憲公八代 宗房公六代 吉憲公四代 綱勝公十四代 茂憲公記念碑二代 景勝公中心より向かって右側三代 定勝公五代 綱憲公七代 宗憲公九代 重定公十一代 治廣公こちらは上杉家代々の廟所でして、米沢藩上杉家の初代である謙信公から十二代の斉定公までの藩主の墓地であります。ですが、治憲公の世子である顕孝公の墓地と十四代茂憲公の記念碑も廟所にあります。廟所の歴史としては、元和9年(1623)に景勝公が死去し現在地に埋葬されたのが始まりその後、八代宗房公までは火葬にて埋葬し入母屋造の御堂を建てていたが、九代宗房憲公からは土葬となり宝形造の御堂となる。これは治憲公(鷹山)の倹約令に基づいており、以前の御堂よりも材質や造りを簡略化した事による。明治になり謙信公の廟所が米沢城内より移転され現在の廟所の配置となる。謙信公の墓が移転前は中央に景勝公の墓地があり、右→左→右と代々の墓地が配置されていた。謙信公墓地移転前の配置現在の配置なお、明治政府の沖縄県令だった十四代茂憲公の記念碑は沖縄県の有志により建てられたものになります。茂憲公の墓所は、東京都港区白金の興禅寺に存在しています。ちなみに、十三代の斉憲公の墓地も興禅寺にあります。昭和59年(1984)、国指定史跡に登録拝観受付にていただけました配置図は米沢藩主上杉家廟所のサイトより引用いたしました、この場を借りてお礼を申し上げますm(_ _)m

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