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出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 喪失を予感させた『ノルウェイの森』の上巻

 “喪失と再生の物語”と言われるこの小説は、下巻で、“再生”に向って歩み出すのでしょうか。

 

 確かに、下巻の終末、主人公ワタナベが、再生に向って歩き出しそうな描写が現れます。

 

 我々は生きていたし、生きつづけることだけを考えなければならなかったのだ。

 

 僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいある。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会って話がしたい。何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。

 

 しかし、その直後、物語は、次のように締めくくられます。

 

 僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ? 僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。

 (村上春樹、『ノルウェイの森(下)』より) 

 

 「雨の中の庭」で濡れながら戸惑っているようなワタナベ。まだ「ノルウェイの森」をさまよっているようなラスト。

 読み終わった後にすべてが終わってしまうような文章ではなく、何か余韻を残すような結末。また何かが始まりそうな予感。それも『ノルウェイの森』の魅力の一つです。

 

 

 『ノルウェイの森』──最初は『雨の中の庭』というタイトルが考えられていたようです。

 どちらにしても、確かに、涙が滴るような森の中、あるいは霧雨の中で静かに進んでいくような物語でした。

 

 主人公はワタナベ。

 直子は、ワタナベの親友キズキの恋人。

 キズキが自殺したのち、ワタナベはしだいに直子に惹かれていきます。

 しかし、直子の心の中も、森の中のように静かでベールに包まれているようです。

 

 途中、直子は、こう語ります。

 

「朝って私いちばん好きよ。」

「何もかも最初からまた新しく始まるみたいでね。だからお昼の時間が来ると哀しいの。夕方がいちばん嫌。毎日毎日そんな風に思って暮らしてるの」

 (村上春樹、『ノルウェイの森(上)』より)

 

 次の日の朝に希望が持てないかのような直子。1日の終わりが、自分の終わりを暗示するかのような心境なのでしょうか。そして、ワタナベのまわりに登場する他の人物も、「どこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく」ような人たちです。

 

 『ノルウェイの森』は“喪失と再生の物語”と言われます。

 でも、この上巻は、 “喪失”の予感を強く漂わせる上巻でした。

 物語は、“再生”に向って動き出すのでしょうか。

 下巻に続きます。

 

 

 言葉の仲間分け問題を一つ。

 「カモシカ」「キリン」「木の葉」を、どのように仲間分けするでしょうか。

 普通、「カモシカ」と「キリン」が仲間。そして「木の葉」が別のカテゴリー。そのように分けるでしょう。

 ところが、南アフリカの、ある地方の米作農民は、「カモシカ」と「木の葉」を仲間にするそうです。なぜなら、カモシカは木の葉を食べるから。

 

 社会や文化が変わると、考え方も変わるのだなあと面白く思いました。同時に、自分たちの尺度で物事の考え方の正しさを計ってはいけないということ。むしろ生活と密着した考え方として、南アフリカの農民の思考の方がたくましいような気がします。生きていくために大切なことを、しっかりと身に付けて分かっているから。

 

「猿の優等生って知ってる?

 ほら、竹馬に乗ったり、ミニ・オートバイに乗ったりする猿がいるだろう。

 ああいうの、猿の群に戻すと、全然ダメなのね。何もできないの。知ってる?」

 (灰谷健次郎、「友」(『子どもの隣り』収録)より)

 

 頭の中だけでこねくり回さないで、本当に生活に大切なことを身に付けていく。実体験が希薄になる中、忘れてはならないことだと思います。“猿の優等生”にならないように。

 

 

 自分たちの少し前の時代を歩み、時代の移り変わりを一足早く見つめた人の言葉は含蓄に富みます。

 竹西寛子さんの『望郷』から。

 

 情報量の増加という、あってないような大義名分を楯に、新聞の記事やテレビ、ラジオ番組がとかく小間切れになり、考究、考察の持続、深化が疎まれがちになって久しい。

 (竹西寛子、『望郷』より)

 

 言われてみれば、世の中は短絡的な結論を急ぎ、すぐ解決策を求めたがり、じっくりと考えていると愚鈍とさえ見られてしまいます。「頭のいい人」「頭の切れる人」というのは、問われたことに即回答を返せる人のこと。「仕事のできる人」というのも、もしかしたら同じように考えられているかもしれません。

 

 情報だとかAIだとか、得体の知れないものが人間の能力を超えて社会を席巻しようとする中、いったん立ち止まり、熟考できることが人間の叡智ではないかと思うのですが。

 

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「・・・源頼朝は弟の源範頼・義経らの軍を派遣して平氏と戦い、摂津の一ノ谷、讃岐の屋島の合戦を経て、ついに1185(文治元)年に長門の壇の浦で平氏を滅亡させた。」

 

 ある高校の教科書では、この程度の記述です。

 でも、本当はこの1行の中に多くの武士の言葉があり、彼らの威勢も怖れも雄叫びも哀しみがあります。それを『新・平家物語』が、全16巻というボリュームで描きました。

 

 私がこれまで読んできた本の中では、もっとも長編の物語でした。

 読み終えた達成感も一入でした。

 

 最終巻・第16巻の最期に、一人の無名の人物の存在が浮き上がってきます。

 そこまでの16巻は、この最期の一場面のためにある、とも感じられます。

 『新・平家物語』が16巻もある、私にとっての理由です。

 

 ブログに最初に取り上げたのが1月6日、それからの19回を並べてみました。

 よろしければ、のぞいてみてください。

 

◆おれの鏃(やじり)は、いったい、何を求めようとして・・・(第1巻)

 

◆もう弓矢で戦わなくても、世は、そのまま地獄よ・・・(第2巻)

 

◆青空の下で、貧しくても、心から歓んでくれるちまたの人びとの中で、笛も吹きたい・・・(第3巻)

 

◆たれの場合も、出発は正しくて美しい・・・(第3巻)

 

◆母の髪の毛は子をつなぐという・・・(第4巻)

 

◆政子という人の子の、たましいが、そうわたくしに教えました・・・(第5巻)

 

◆平和というのは、この姿の中にあるものだ・・・(第6巻)

 

◆母以外にはない大きな愛の掌であるにはちがいない・・・(第6巻)

 

◆これほどな人びとが、これほど心をいためても、一個の人間の死を、どうにもならぬ・・・(第8巻)

 

◆麻鳥は心の王者。自分は、心の貧者だった・・・(第9巻)

 

◆花の雌しべも、何かに結びつく風をを待つではございませぬか・・・(第10巻)

 

◆ああ、嬶(かか)の顔が見とうなったわ・・・(第11巻)

 

◆智者は逆に、相手の智に、もてあそばれ・・・(第12巻)

 

◆どうせ落ち目の運命ならば、この落日のように、荘厳でありたいものだ・・・(第13巻)

 

◆家に、鼓があり、庭に花が作れるぐらいな坪さえあれば・・・(第14巻)

 

◆人の驕(おご)りや栄花のたどり出す道とは、なんと、変哲のないものか・・・(第15巻)

 

◆大河の濁りが常に返れば、魚も自然おのれの住む瀬に返ろう・・・(第16巻)

 

◆これから先、お汝(こと)たちが、旧主の怨みをはらさんなどという考えを起こしたら・・・(第16巻)

 

◆何が人間の、幸福かといえば・・・(第16章)

 

 ↑お気に入りの本棚に鎮座する、全16巻の『新・平家物語』