出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -4ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 瀬尾まいこさんの『図書館の神様』の中で、登場人物が夏目漱石の『夢十夜』のことを話していて、その題名が心に残っていました。

 

 『夢十夜』の第一夜には、病に伏せる美しい女の人が登場します。彼女は死に際に「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと会いに来ますから」と男に言い残し、亡くなります。

 男はずっと待っている。唐紅(からくれない)の天道が、何度も登り、沈んでいくのを見ながら。

 ある時、ふと男の足下から青い茎が伸び、真っ白い百合の花を咲かせます。それを見て、男は、初めて、もう百年たったことに気付くのでした。

 

 『夢十夜』を読んで、もう一度、この本を読むきっかけをくれた『図書館の神様』を読み返しました。

 

 『図書館の神様』には、この話について、高校生がおしゃべりしている場面があります。

「こんなに無防備に愛せるってすごいよね」

「でも、いくら好きでも百年なんて待たないって、普通。俺は二時間が限度だな」

「本当に好きだったら、何年だって待てるんだって」

「だけどさあ、百年待って、百合が咲くだけじゃ空しくない?」

 

 本当にありそうな高校生の会話。深いことを話しているわけでもない。でも、私は、この会話が『夢十夜』の夜の深みに連れて行ってくれたようでした。百年の夜を貫くような愛の美しさと、一方で静かな文体であるが故に、凍えるような怖さも感じます。

 

「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。──赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、──あなた、待っていられますか」

 (夏目漱石、『夢十夜』より)

 

 こんな情熱的な思いをぶつけてほしい。でも、自分の愛の深さを問われているようで、やっぱり怖い。

 

 

 一人で海へ出かけた老人の綱に、想像を絶する巨大なカジキマグロがかかる。孤高の老漁夫と、海の主のような魚との戦い。壮絶な戦いの結果、老人は魚を仕留めるが、余りに巨大であるため舟に上げることができず、舟の横にしばりつけて帰ろうとする。しかし、血のにおいを嗅ぎつけたサメたちに襲われ、魚は食いちぎられていく──。

 

 「この魚を何としても釣り上げたい」という単純で強い願いをもつ老人から、「アメリカン・ドリーム」を感じます。そしてその精神は、少年へと引き継がれていきます。

 

 もしかするとヘミングウェイは、自然の威厳と、その中でたくましく生きている人間への賛歌として、この不朽の名作を描いたのかも知れません。

 

 

 「衝突を避けるためには、わたしたちはどうすればいいのだろう? 論理的に言えば、それは簡単だ。夢を見ることだ。夢を見つづけること。夢の世界に入って出てこないこと。そこで永遠に生きていくこと」

 (村上春樹、『スプートニクの恋人』より)

 

 この小説の登場人物は、“こちら側の世界”と“あちら側の世界”を彷徨います。“あちら側”の世界は、現実離れした世界。楽なのだろうけれど、きっと人は退廃に向かうのでしょう。辛いこと、苦しいこともあり、人との衝突は避けられないけれども、“こちら側”で生きていくことでしか、本当の生を感じることはできない。小説を読み終え、そんなことを考えました。

 

 小説の冒頭では、次のような故事が語られます。

 

 ──昔の中国の都市の門には、死んだ兵士たちの骨を埋め込んでいた。死んだ兵士たちが自分たちの町を守ってくれるように望んだからだ。でもそれだけでは足りない。そこに生きている犬を何匹か連れてきて、その喉を切り、血を門にかけた。ひからびた骨と新しい血が混じり合い、そこで初めて呪術的な力をもつ、そう考えたんだ。

 

 生きているということは、きれい事ばかりではないし、時には血も流れる。しかし、それを避けていては、ひからびたような無味乾燥の人生しか味わえない。

 『ノルウェイの森』でうっすらと感じていたのですが、『スプートニクの恋人』で一層その思いが強まりました。

 

 村上春樹さんならではの、超現実的な世界。でも、訴えかけてきたことは、現実世界の重みでした。

 

 

 昨日の予告通り、今日は『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ)を紹介します。 

 

 この本は、ブレイディさんとアイルランド人のパートナーとの間に生まれた息子さんの、英国の中学で得た様々な経験を綴ったノンフィクションです。「多様性とは何か」ということについて考えさせられます。本の帯に「一生モノの課題図書」とある通り、考えさせられる言葉とも、たくさん出会いました。

 

 例えば、「エンパシー(共感)とは何か」と問われた息子は、こう答えます。

「自分で誰かの靴を履いてみること」

 

 また、こんな言葉も。

「『ハーフ』とか『ダブル』とか、半分にしたり2倍にしたりしたら、どちらにしてもみんなと違うものになってしまうでしょ。みんな同じ『1』でいいんじゃない」

 

「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」

「楽じゃないものが、どうしていいの?」

「楽ばっかりしていると、無知になるから」

 

「無理やりどれか一つを選べという風潮が、ここ数年、なんだか強くなっていますが、それは物事を悪くしているとしか僕には思えません」

 

 

 さて、ブレイディさんは、新聞の取材で、こう言っています。

 

 「実はアイデンティティーは一つじゃない。いくつかの組み合わせで一人一人のユニークな「自分」ができている。その個人が尊重されること、これが多様性なんだと思います。」

   (朝日新聞(2020.1.1)より) 

 

 自分は、たった一つではなく、様々な自分が合わさってできている。

   職場での自分

   家庭での自分

   仲間と飲んでいるときの自分

   恋人とデートしているときの自分

 

 どれも本当の自分です。

 そんないろんな自分があっていいということ。そして、周りの人にだっていろいろな側面があるんだということ。 

 これを分かりやすく教えてくれたのが、結城志歩さんのブログでした。


 ここに紹介されている平野啓一郎さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ』も、ぜひ読んでみたい本です。

 本を読んで、登場人物の言葉や行動に共感するように、ブログを読んで、書き手の方を近く感じることがあります。

 先日のあかり文庫さんのブログから。

  ※以下、青太字部分は、あかり文庫さんからの引用です。

 

共感その1

思わぬ副産物だったのは、知人との会話で、最近読んだ本やおすすめを聞かれたときに、スムーズに言葉が出てくるようになったことだ。

→私も、人の話を聞いて瞬時にコメントをしたり、与えられた題で文章を書いたりしなければならないことがあるのですが、ブログのおかげでしょうか。以前より負担感なく言葉を組み立てられるようになった気がします。

 

共感その2

ノートに気になった文章を書き写す(「写経」と呼んでいる)。

これをしていると作者が自分に乗り移った気分になってくる。

→なんとノートの種類まで同じ。私が「写経」(※妻は「メルヘン・ノート」と揶揄する)しているノートも、あかり文庫さんと同じメーカーの同じ色です。

そして、ひたすら「写経」している。

これは、次回のブログに掲載予定の『ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー』(ブレイディ・みかこ)の「写経」です。

 

共感その3

なんか、ここまで書いてきて、どうしてこんなに七面倒くさくて時間のかかることを続けられるんだろう・・・と疑問が湧いてきた。

読んだだけでその本のことを理解できて、感想もスルスル出てきたなら、読書量は今の3倍くらいに増えるはずだ。

→そうなんです。この手間な作業をしなければ、もっといろんな本を読めることでしょう。

でも、このメルヘン・ノートがあることで、自分のお気に入りの言葉を何度も読み返すことができるのです。手軽に1冊の本を何度も味わえる幸福感があります。

 

おまけ

「活字変態の集まり」のようなものがあったら是非参加してみたい。

→他の活字変態さんは、どんな日常を送っているのでしょう。

ぜひその変態ぶりを覗いてみたいものです。