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出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 人気作家チヨダ・コーキの文学は、現実逃避の文学。現実と虚構がごっちゃになり、若い世代に絶大な影響を与える。しかし、人は大人になり、現実を受けとめるにつれて、コーキから離れていく──。

 

 それでも、チヨダ・コーキは言います。

「大人になるのを支える文学。……それで構わないんです」

「その時期を抜ければ、それに頼らないでも自分自身の恋や、家族や、人生の楽しみが見つかって生きていける。それまでの繋ぎの、現実逃避の文学だと言われても、それで構いません。自分の仕事に誇りを持っています。だから逃げません」

 (辻村深月、『スロウハイツの神様(下)』より)

 

 私たちは、子どものころに読んだ全ての本を覚えているわけではありません。でも、私たちは、自分が読んできた、忘れ去られた本に支えられ、その本によってつくられている。そう思います。

 

 この本の解説で、西尾維新さんも力強く言っています。

 断言してもいい。人間は触れてきた作品通りの人間になる。

 

 

 

 『まなの本棚』の中で、芦田愛菜ちゃんが辻村深月さんの大ファンだと言っていました。触発されて、辻村深月さんの『スロウハイツの神様』を読んでみました。

 

 この本に登場する“赤羽環”は、人気若手脚本家として活躍し、誰に対しても強気に振る舞います。愛菜ちゃんは、彼女を「好きな登場人物」の一人として取り上げていました。

 

 …母親への思いや、つらかった過去など、触れてほしくない部分があるからこそ、自分を装うことで、心をガードしている。そんなモロくて繊細な部分を持ちながらも、強く生きていこうとする環さんは、とても人間らしくそれも魅力的に感じます。

 (芦田愛菜、『まなの本棚』より)

 

 環の魅力は、どんなところにあるのか。

 例えば、環は、人に「なぜ、小説やアニメ、漫画ではなく、脚本を書くのか」と聞かれ、こう答えます。

 

「私、絵も小説も書けないの。セリフとセリフの間にまだるっこしい感情を自分で書き込むなんて、絶対無理。ストーリー単体でいいの。泣きながら、とか笑いながら、とか書けば、後は役者なり絵コンテなりが処理してくれるでしょう? 人間の感情なんて、あとは観る側が勝手に解釈すればいい」

 (辻村深月、『スロウハイツの神様』より)

 

 一見乱暴なようなこの環の言葉。でも奥底には、環が人の思いを大切にする気持ちが隠れているように感じます。

「自分の思いを人に押しつけることなんてできない」

「相手には相手の解釈があっていい」

 

 だから、振る舞いは素っ気なくて個人主義のようですが、やっぱり環は魅力的なのです。

 

 

 昨日のブログで取り上げた『スローカーブを、もう一球』は、昭和60年初版。私が今回、読み返そうと思ったのは、今年初めの朝日新聞「天声人語」に取り上げられていたからでした。

 

 まるで小さな子が投げるような山なりの“スローカーブ”でチームを甲子園に導いた、群馬県立高崎高校のエース・川端俊介さん。「天声人語」は、川端さんが56歳でお亡くなりになったことを伝えていました。川端さんは、その後、小学校の先生をしていたそうです。

 コラムは、次のようにしめくくられていました。

 

 教室で倒れた川端さんは「子どもたちの声が聞きたい」とリハビリに取り組んでいたという。どんな表情で子どもに接し、何を伝えてきたのだろう。思いを巡らせつつ合唱する。

 (朝日新聞、「天声人語」(2020.1.8)より)

 

 子どもたちに何を伝えてきたのでしょう。

「ピンチになれば、逃げればいいんだよ。」

「そのうち、いつかチャンスはまわってくるんだよ。」

 こういうことを言いそうな気がします。

 

 あるいは逆に、自戒を込めて、

「逃げてちゃダメだよ。チャンスは自分でつかまなきゃ。」

 こういうことを言っていたのかもしれません。

 

 でも、どちらにしても、きっと子どもたちの心に届く言葉だったのだろうな。

 『スローカーブを、もう一球』は、スポーツライター・山際淳司さんの描いた、ノンフィクション短篇集。

 今日は、その中から表題作「スローカーブを、もう一球」を紹介します。

 

 川端俊介は、進学校である茨城県立高崎高校のエース。甲子園とは無縁と思われたこの高校を甲子園に導いたのが彼でした。しかし、私たちのイメージする「甲子園投手」とは、少々異なっています。武器はスローカーブ。まるで子どもが投げるような山なりの球。この球で打者を惑わせます。

 

《ピンチになれば…》と川端俊介は言った。

《逃げればいいんです》

 

彼は人生もスローカーブのように、なだらかに曲線的に渡っていきたいと思っている人間だった。

 

《かわしていれば、いつかチャンスはまわってくるもんですよ》

 

 (山際淳司、『スローカーブを、もう一球』より)

 

 「ゆらゆらと本塁に向かっていくボールがまるで自分のように思え、妙に好きになれるのだった」という川端投手。剛速球で打者をばったばったとなぎ倒すのではない。甲子園のアイドルになるような選手でもない。でも、こういう生き方もあっていいんだ、という安心感を与えてくれるところが、彼の魅力になっているように感じます。

 

 

 職場のフロアに一部屋増設するということで大掃除をしたところ、昔からそこに置かれていた胡蝶蘭の置き場がなくなりました。胡蝶蘭といっても、過去に誰かがもらい、気付いた人が気付いたときに水やりをしていただけの、少々かわいそうな運命をたどっていた花です。このままだと、さらに悲しい運命をたどりそうなので、私がいただいて、家に持って帰りました。

 

 職場の明るい窓際に置いてあったときは、あまりさえない風貌だったのですが、家に持ち帰り、鉢を掃除し、床の間に置くと、なんだかいい雰囲気になってきました。(お花の専門家の方がご覧になると、笑われそうですが・・・)

 思い出したのが、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』。煌々と照る日差しの中ではなく、ひっそりとした陰翳の中に美しさがある。その日本的な美を説いた本です。

 

 美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。夜光の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失う如く、陰翳の作用を離れて美はないと思う。

 (谷崎潤一郎、『陰翳礼賛』より)

 

 今は葉も弱々しく、かろうじて花茎が伸びているような胡蝶蘭ですが、花の季節が終わったら植え替えます。育て方をネットで勉強しながらお世話もします。来年の今頃は、もう少し元気な胡蝶蘭をお目にかけられるように。