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出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 『カラマーゾフの兄弟』の中でも有名なくだりの一つに「大審問官」があります。「大審問官」は、カラマーゾフの次兄イワンが創作した話で、大審問官がキリストに詰め寄る場面を描いています。

 

「お前は彼らに天上のパンを約束した。だが、もう一度くりかえしておくが、かよわい、永遠に汚れた、永遠に卑しい人間種族の目から見て、天上のパンを地上のパンと比較できるだろうか? かりに天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たちは、いったいどうなる?」

 (ドストエフスキー、『カラマーゾフの兄弟(上)』より)

 

「人はパンのみにて生きるにあらず」

 キリストの有名な言葉です。上の引用文で言うところの「天上のパン」とは、“心の幸せ”の比喩でしょうか。人を信じたり愛したり、神を尊んだり、キリスト教的な教えを含んでいるものと考えられます。

 しかし本当に貧しい人たちにとって、「地上の(現実の)パンよりも、天上のパンをこそ」という教えに従うことはできるのか、それが問われています。

 

 神の教えが尊いのは分かります。大切にしなければならない心も知っています。でも、その気持ちをずっと維持できない弱さがあるのも人間です。神を裏切るような行為をしたら、「神への冒瀆だ」と責められ不幸になるような世の中は生きづらい。あらゆる人が崇め、忠誠を誓わざるを得ないような神のいる世界には、少しおそろしさを感じます。

 イワンは、善人としては描かれていません。くせのある人物です。でも私は、イワンの語るこの「大審問官」のくだりを、神への反抗として全く退けてしまうこともできないのです。

 

 

 『蛇にピアス』で芥川賞を受賞した金原ひとみさんが、この『カラマーゾフの兄弟』について、「上巻読むのに4か月。一気に3日で中下巻!」と言っています。

 その上巻を読んでみました。

 確かに手強い…。

 

 『カラマーゾフの兄弟』という題名の通り、主人公は「カラマーゾフの兄弟」です。

 放蕩無頼な長男ドミートリイ。冷徹な知性人である次男イワン。敬虔な人物である三男アリョーシャ。

 この3人を通して、ドストエフスキーは何を描こうとしているのか、読み解くのに苦しみました。この3人の誰かを善とし、誰かを悪と位置付けようとしているのか。それとも、兄弟3人を通して人間の姿を描こうとしているのか。あまりにも難解です。

 

 それでも、神(宗教)と人間について考えさせられる部分がたくさんありました。

 例えば、イワンとアリョーシャの会話から。

 

「もし悪魔が存在しないとすれば、つまり、人間が創りだしたのだとしたら、人間は自分の姿かたちに似せて悪魔を創ったんだと思うよ」

「それなら、神だって同じことですよ」

 (ドストエフスキー、『カラマーゾフの兄弟(上)』より)

 

 人間には、神様のような心もあれば悪魔のような心もある。そもそも人間がそういうものであるなら、だれがそれを肯定したり否定したりできようか…ということでしょうか?

 世界文学屈指の名作と言われるこの長編を読み解く鍵は、ここにある…のでしょうか?

 もう一度読み返しながら、またブログをしたためていきます。

 

 1960年ごろの東京都立高校入試の話。

 当時、例えば都立日比谷高校は、毎年東大に100人以上の合格者を出していました。日比谷に入学したいが故に、住所をそこに移して受験させるということも多々あったようで、そのやり方に、都民からは「おかしい」という声も出ていました。

 そこで「公立校は平等であるべき」と考えた当時の教育長が教育改革に踏み出しました。進学実績の高いところとそうでないところを2、3校ずつの「学校群」にし、受験者は「学校群」を選んで受験する。そして合格者は抽選でその中のどこかの学校に振り分けられるという方式をとりました。つまり、日比谷高校に入学したくて、その学校群を選んで合格しても、入学するのは別の学校、ということもあるのです。

 

 ところが、勉強のできる子どもやその親にとっては「冗談じゃない」という話になり、これを樹に優秀な受験生の都立高離れが加速して、それと裏腹に急激に私立高校のレベルが上がっていきました。私立の御三家(開成、麻生、武蔵)誕生のルーツはここにあるそうです。

 「受験戦争」とも言われていた当時の過酷な状況をなんとかしたい、という思いから始まったこの改革も、結果的には正反対の方向に進んでいってしまいました。

 

 教育改革は難しい。何かをやると、別の何かが思わぬ形で顔を出したりすることもあるわけです。

 (池上彰、佐藤優、『教育激変』より)

 

 それでも、世の中は、一歩一歩、いいほうに進んでいると信じたい。

 森絵都さんの『みかづき』の言葉を思い出しました。

 

 常に何かが欠けている三日月。教育も自分と同様、そのようなものであるのかもしれない。欠けている自覚があればこそ、人は満ちよう、満ちようと研鑽を積むのかもしれない。

 (森絵都、『みかづき』より)

 

 

 

 ずっと私を指南してくれていたある先輩が、伊集院静さんのファンでした。 「文章を書くときは、伊集院静のエッセイを参考にしている」とよく言っていました。

 その伊集院静さんの第一作品集が『三年坂』です。

 

 この本には、五つの短篇が収められていますが、どの作品も、素朴な文章が人間の真実を語りかけてきます。

 夫を早くに亡くし、厳格に生きていたと思っていた母親が、着物の奥に愛らしい一人の女の姿を持っていたことを知る、表題作「三年坂」。

 崖から足を踏み外し、必死に一本の木につかまり耐える父親の強さと、なんとか父親を救おうとする少年の緊迫した思いが心を打つ「皐月」。

 海に自分の命を奪われそうになる中、それまで出会った「命」を振り返る「チヌの月」。

 人生に疲れた男が、偶然参加した草野球の試合を経て、気軽に生きることに希望を見いだしていく「水澄」。

 新婚旅行を間近に控えはしゃぐ娘にあきれながらも、過去の自分の、貧しくも幸せだった新婚旅行を回想する「春のうららの」。

 

 池上冬樹さんの書いた巻末の「解説」も、この作品集のよさをうまく言い表しています。

 …作家は処女作に向って成熟するという逆説的な言葉があるけれど、本書『三年坂』はまさに伊集院文学の原点であり、豊かな文学の色あざやかな萌芽を見ることができるだろう。

 

 

 

 自分の小説の影響で、人が死んだ。その苦しみの中にあったチヨダ・コーキを救ったのは、「私は生きています」で始まる、匿名の少女の手紙でした。

 ─チヨダ・コーキの小説を読んで人を殺した人がいる。でも、私は、チヨダ先生の小説を読んで、生きる勇気をもらった。自殺しようとした思いから、立ち直った─。

 切々とその思いを綴った手紙です。

 

 ─派手な事件を起こして、死んでしまわなければ、声を届けてはもらえませんか。生きているだけでは、ニュースになりませんか。何も問題が起こらないこと、今日も学校に行けることが「平和」だったり、「幸福」であるのなら、私は、死んだりせずに問題が起こっていない今の幸せがとても嬉しい─

 (辻村深月、『スロウハイツの神様(下)』より)

 

 強く自己を主張したり、人目を引くことをして、自分の思いを通そうとする人がいます。

 一方で、この少女のように、そっと思いをしたためながら、一生懸命に生きている人もいます。でも、あまりにも平凡に見えるその思いは、取り沙汰されることは、まずありません。

 

 その少女のことが少しずつ明らかになり、そして小説の伏線が見事に符合した時、私は、この二人の、そして『スロウハイツの神様』のファンになりました。

 

 この本の帯に、「辻村ワールドすごろく」というのがありました。「この順番で読めば、より楽しめる!」のだそうです。すでに読んでいるものもあるのですが、それも含めて、辻村ワールドを歩いてみたくなりました。