出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -6ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 『新・平家物語』のもう一人の主人公、それは一人の庶民・麻鳥だと思います。

 

 清盛、義経、頼朝と、名だたる者たちが活躍し、そして消えていきました。

 しかし、無力な麻鳥と蓬(よもぎ)の夫婦は争いの世に踏み殺されもせず、今、吉野山の桜を見ながら、若草の上に腰をおろし、静かにゆっくりと時を楽しんでいました。

 

「何が人間の、幸福かといえば、つきつめたところ、まあこの辺が、人間のたどりつける、いちばんの幸福だろうよ。これなら人もゆるすし、神のとがめもあるわけはない。そして、たれにも望めることだから」

 (吉川英治、『新・平家物語(十六)』より)

 

 貧しいながらも人と人とが思い合って暮らす尊さ。

 主人公の一人、義経は、それを望みながらも、世がそれを妨げました。そこに哀しさがありました。

 麻鳥は、位階や権力とは無縁の中で、自分らしく生き、そこにあたたかさがありました。

 立場も人生も全く異なる二人が、この軍記物語を、ただの権力争いの物語ではなく、喜びも哀しみも、愚かさも尊さも伝える人間の物語に高めている、そう感じました。

 

 

 兄・頼朝の命を受け、源氏のために戦ってきた義経でしたが、あらぬ誤解を受けます。理不尽を感じながらも、しかし、自分さえ我慢すれば、そして怨みをはらすような戦を起こさなければ、人々を苦しめ続けた無意味な争いをここで止めることができる。そう思った義経は、指揮下の兵に告げます。

 

「…これから先、お汝(こと)たちが、旧主の怨みをはらさんなどという考えを起こしたら、義経の最期は無惨、犬死にとなるだろう。こんぱくは宙に迷うぞ。」

 (吉川英治、『新・平家物語(十六)』より)

 

 こうして義経は、自らの命をなげうちます。

 

 二度と世の中を戦の世にしない。自分が争わなくとも、「義経殿の仇!」などと臣下の者が戦いを起こせば、また世を戦渦に巻き込んでしまう──。

 義経の活躍は、一ノ谷や屋島、壇ノ浦にありと思いがちですが、本当の面目は、この最期にあったと言えます。

 

 名は『平家物語』ですが、この長い16巻もの話の主人公の一人は、私は義経だと思うのです。

 そして、もう一人。目立たぬ一人の男が。

 それについては、また次回で。

 

 

 戦の世──。

 

 蓬(よもぎ)の息子・麻丸は悪徒とつるみ、家に帰ってきません。麻丸を心配する蓬に、僧・文覚は言います。

 

「魚が藻や石の巣をほうり出されて、濁流の中で盲泳ぎに泳ぐのは、魚に悪性があってではない。河のせいだ。大河の濁りが常に返れば、魚も自然おのれの住む瀬に返ろう」

 (吉川英治、『新・平家物語(十六)より』)

 

 子どもは世の人々の中で育ちます。

 あたたかい社会の中で育てば安心して育ち、その逆であれば心も荒みがちになるでしょう。ましてや源氏と平氏の争いを目の当たりにして育った子どもたちは─。

 

 だから、子どもたちが安心して戯れることができる河をつくること、河を残していくことが、私たち大人の大切な役割です。

 

 

 それにしても。

 人の驕(おご)りや栄花のたどり出す道とは、なんと、変哲のないものか。

 (吉川英治、『新・平家物語(十五)』より)

 

 「驕る平家は久しからず」。その有様を見てきたはずなのに、平氏に変わって権力を握った頼朝は、庶民のことよりも、盛んに社寺の建立に力を注ぎ、鎌倉に大都府を打ち立てます。見栄者であることは清盛以上にも思えます。

 

 愚かな業──。

 でも、私の中にも、清盛や頼朝がいて、ちょっと調子のいい日が続くと舞い上がり、気が大きくなります。そして、しばらくすると、へまをして打ちひしがれる。その繰り返しです。日本を舞台に繰り広げられた源平の物語は、「私」という小さな個人の中の物語でもあります。

 

 

 平家を追い詰めた義経が、壇ノ浦の合戦を前に思い描いていたのは、戦法でもなく、自分の武勲でもなく、愛する一人の女性・静御前のことでした。

 

 ここ最後の大任だに果たしえたら。

 そして、世が泰平になったらば。

 静よ。

 おまえと二人で、花作りでもして暮らそうよ。

 位階勲爵、そんなものは、おまえも望んではいないだろう。

 家に、鼓があり、庭に花が作れるぐらいな坪さえあれば。

  (吉川英治、『新・平家物語(十四)』より)

 

 戦の中にありながら、内面には美しい思いが流れています。それは、今の私たちの思いとなんら変わるものではありません。

 平家物語の時代から約千年。争いを繰り返してしまう人間の弱さも人の世の常ならば、どんなときも人を思う心の美しさも人の世の常なのです。