出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -7ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 讃岐屋島の合戦でも追い詰められた平家。頼みにしていた援軍にも裏切られ、源氏に囲まれて孤立する中、平教経はつぶやきます。

 

「おもしろい。おもしろいほど、事ごとに食い違ってくる。不運とは、こうしたものか。どこまで、人と運とがもつれあうか、もてあそばれて行くものか、あまんじて不運と闘ってみるのも愉しくないことはない。どうせ落ち目の運命ならば、この落日のように、荘厳でありたいものだ。」

 (吉川英治、『新・平家物語(十三)』より)

 

 

 昔、大学生の時、物理がちんぷんかんぷんで苦しんでいたことがありました。

 友達が、毎回、平然と講義を受けていたので、聞いてみたことがありました。

 

「講義の内容、分かるん?」

「全然。」

「でも、あんまり、あせってないよね。」

「分からないことを楽しむんよ。」

 

 「分からないことを楽しむ」…。分かったような分からないような、なんだか騙されたような受け答えをされましたが、もしかしたら、教経の「あまんじて不運と闘ってみるのも愉しくないことはない」に通じるところがあるのかもしれません。

 

 分からないことも、不運も、長い人生にはつきものです。それを楽しむような余裕をもちたいなあ。

「・・・行家殿は、いわゆる智者だが、智者は逆に、相手の智に、もてあそばれ、愚直な弁慶の方が、かえって、湛増(たんぞう)にも、頼もしき者と見えたのであろう。」

 (吉川英治、『新・平家物語(十二)』より)

 

 人の力を借りたいときに、策を弄して接近しようとする行家と、思いを率直に伝える弁慶。人は論ではなく情で動くとも言われますが、湛増は弁慶のあまりにも一途な思いに心動かされたのでしょう。

 

 話は大きくとびますが、愛を告白するときも、ポエムのような甘い言葉を並べるよりも、時に「すき」と一言、潤んだ瞳で言われると方が、心にぐっとくることがあります。

 私は言われたことも、言ったこともありませんが、きっとそうだろうな、という寂しき想像です。

 

 

 陣地の見張り番としてたむろしていた雑兵たちのところに、「あと八日のうちに、和平が訪れるらしい」という噂が届きます。沸き立つ雑兵たち。

 その中で、ずっと空を見ていた一人の老いた雑兵がつぶやきます。

 

「・・・ああ、嬶(かか)の顔が見とうなったわ。子どもらに会いとうなったぞい。あの鳶(とんび)を見い、鳶でさえ、夫婦で子連れや。八日の先が一足とびに来ぬものかのう」

 (吉川英治、『新・平家物語(十一)』より)

 

 ここに好んで戦っている者などいません。妻や子どもを思い、家族と過ごすことを一番の幸せとする人ばかりなのです。だから、平家物語は、戦いのおぞましさ、醜さよりも、人生の悲哀を感じさせます。

 まさしく、古典の冒頭の詞章が、物語を包んでいるようです。

 

 祇園精舍の鐘の声

   諸行無常の響きあり

     娑羅双樹の花の色

 

 

 敵の首をとり、名を上げ、天下を取る。戦の世に生きる男たちの願いです。

 しかし女性は、人を愛し、子どもを愛して生きました。彼女たちにとれば、なぜ男たちは争うのか、理解に苦しんだのではないでしょうか。

 

 木曽義仲に仕えた巴御前もその一人でした。自分の心が義仲に通じず、わが子義高とも別れて暮らさねばならぬ苦しみ。思わず口にしてしまいます。

 

「花の雌しべも、何かに結びつく風をを待つではございませぬか。巴には、結ぶものがありません。未来の何を見て死んだらよいかと」

 (吉川英治、『新・平家物語(十)』より)

 

 男は、自分の地位や名誉のために生きる。

 女は、ささやかな幸せやあたたかさを求める。

 戦国時代ではありませんが、この構図は今の社会にも当てはまるところがあるように思います。

 私の妻などは、「女性が総理大臣になったら、戦争なんてなくなるのに。」とよく言いますが、結構真理を突いているようにも思えます。

 

 

 清盛を亡くし、うろたえ、栄華の余命を支えようと焦心するばかりの平家一族。

 そのようなとき、平経正(つねまさ)は、阿部麻鳥(あべのあさとり)と再会します。麻鳥は、清盛の最後を見取った医師です。

 

 経正は、麻鳥ほどの医師が、貧しい町の片隅で、貧民の友として、貧しい暮らしをしていることを不思議に思います。そのことを問うと、麻鳥は答えました。

「わたくしはべつに貧しいことはございません」

 

 経正は、この男のなんともいえない気高さと、生の強さに心打たれます。

 

 この男に与える物、いつかの礼ぞといって、与えるような物を──自分は何も持ち合わせていないと知った。

 麻鳥は心の王者。自分は、心の貧者だった。

 (吉川英治、『新・平家物語(九)』より)

 

 私は、麻鳥の生き方も、もちろん素晴らしいと思いますが、傍若無人に振る舞っていたかのようなイメージのある平家人の中にも、経正のような心根の人がいたことに安心に似た感情を抱きました。