出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -8ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 これほどな人びとが、これほど心をいためても、一個の人間の死を、どうにもならぬ

 (吉川英治、『新・平家物語(六)』より)

 

 世の医師がさじを投げてしまった平清盛の容態。おびただしいほどの平家人が、その安否を案じ、見守っていても、それでも清盛一人の命を救うことができません。

 

 ディズニーのアニメ「アラジン」には、何でも願いを叶えてくれる魔法のランプの精が出てきますが、その力をもっても叶えられないことが3つあるそうです。

 ひとつは、「人を殺めること」。ひとつは「死んだ人を生き返らせること」。ひとつは「人の心を変えること」。

 どんな力をもってしても、人の生き死にを自由にはできない。言い換えれば、それほど命は崇高なものなのです。一世を風靡した平家ではあるけれども、人の力が絶対とはならない。これも、「おごれる者も久しからず」を表しているように思えます。

 

 

 五条大橋での義経と弁慶の出会い。有名な場面です。

 弁慶は、義経の首をねらう。しかし、義経はひらりと身をかわし、姿を消します。

 弁慶は、義経の隠れ家まで追いかけ、そこで、偶然、母・さめと再会します。

 義経は、独り身のさめをいたわり、面倒を見ていたのでした。

 

 さめは、我が息子が、自分があるじと慕っている義経を襲ったことを知り、弁慶の尻を、その手で何度も張りつけます。

 さめは、「いくつになっても、われは、そのばかが、直らぬかやい」と涙を流しながら。

 弁慶は、「アア、おふくろ、おらよりも、その手が痛かろ。ゆるせ、ゆるせ」と甘んじて尻を打たれながら。

 

その様子を見ていた義経は、思います。

 

「──うらやましい」

 九郎(※義経のこと)は、心の底から、そう思った。

 止めもせず、かれはさっきから、じっと、見ていた。

 さめの掌(て)には、どんな愛撫や抱擁にもまさる母親の愛が、こもっている。それがたとえ無智な盲愛の手であろうと、母以外にはない大きな愛の掌であるにはちがいないのだ。九郎も、同じもので、尻を打たれてみたい気がした。

 (吉川英治、『新・平家物語(六)』より)

 

 この後、義経と弁慶が主従のちかいを結んだのは言うまでもありません。

 人と人とを結ぶのは、武力ではなく、情であるということを、二人の歴史が教えてくれます。

 

 

 源義経が、とある深山の社寺を訪れたときのこと。

 当時、他の寺は大きな権力をもって栄えていたのに、なぜ、この寺はこれほどわびしいのかと疑問を口にする義経に対し、西住法師が答えました。

 

「自分も、同じいぶかりを抱きますが、しかし、平和というのは、この姿の中にあるものだと分かりました。その証拠には、この森には、なんの財宝もありませんから、盗賊は来ませんし、また、権力や名誉の府でもありませぬゆえ、戦(いくさ)の場(にわ)ともなりません。」

 (吉川英治、『平家物語(六)』より)

 

 財産をもっているから、それを守ろうと悩みが増える。なまじ権力があると、それを奪われることを恐れるようになる。心の中に大事なものをもっていればそれでよい。

 西住法師は、さらにこう言います。

 

「世のすべてが、ここの森みたいならよいなどという願いは、愚かな歌法師の祈りというほかはございますまい。」

 

 このような言葉との出会いが、今も多くの人に愛される義経という人をつくったのでしょう。それ故に、悲劇の運命をたどってしまうのが、なんとも悲しいことなのですが。

 

 

 ロミオとジュリエットにたがわず、源氏と平氏にも決して超えてはならない恋があったことは想像に難しくありません。

 

 平氏により流罪に処されている頼朝。そして彼に恋してしまった北条政子。政子の父・時政は穏やかではありません。平氏の敵対する者との恋は、家の存続にも関わる大問題となるからです。

 

 詰め寄る時政と、政子のやりとりから。

 

政子「六波羅殿(※平清盛のこと)と、わが家との、御政治上のかかわりなど、どうして、恋するものに、考えておられましょう。それと恋とはべつ物でございますのに」

時政「ばかっ。そんな恋は、月の世界へ行ってやれ。人の世でする恋ならば、人に禍せぬ恋をこそせよ。──恋はべつ物だなどという獣がましきわがままを、いや、あげつらいを、いったい、たれから教わった?」

政子「政子という人の子の、たましいが、そうわたくしに教えました」

(吉川英治、『新・平家物語(五)』から)

 

 戦国の世の中でも、私たちと同じように人は燃えるような恋をしました。

 そして、

「そんな恋は、月の世界へいってやれ。」

「政子という人の子の、たましいが、そうわたくしに教えました」

 まるで歌のようなこの言葉からも、決して殺伐としただけの世の中ではなかったと感じられます。

 それゆえに、人と人とが命を奪い合うことが、いっそうやるせなく感じられるのです。

 

 

 源義経は、子どもの頃、牛若と呼ばれ、かなりのきかん坊でした。周りの大人は皆、ずいぶんと手を焼かされました。そんな牛若が、人として成長する支えとなったのが、母・常磐への思いでした。

 

 母の髪の毛は子をつなぐという。──母を夢にみる子はいつも心の岐路では母に手をひかれている。──牛若が、そうであったのだ。

 (吉川英治、『新・源氏物語(四)』より)

 

 そして、母・常磐は、牛若の生涯に大きな影響を与える言葉を贈ります。

 

「武門に立っても、おん身は決して、驕(おご)る人とはならないでくださいね。人の非道を憎み、人の権力や栄花をたおしても、また己れが、前の権者に代って同じことを振る舞えば、さらに次の敵が起って、討ちたおそうとするでしょう。百年、千年、そんな修羅道を繰り返してゆく恐ろしさと愚かさを思うたがよい。馬上の将とはおなりになっても、どうぞ、世を守り人を愛して、よい君よと、慕われるようなお方になって下さい」

 (上掲書より)

 

 きかん坊でありながら、情に厚く、四季に対しても鋭敏な牛若は、それ故に、この争いの時代を生き抜くには不向きだったのかもしれません。『新・平家物語』のこれからを読んでいると、「平家物語」は「義経物語」ではないかとさえ思えてくるほど、彼の生涯のはかなさが際立ってくるのです。