出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -9ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

「やっぱり、貧乏人の味は知ってるから、話はわから」

 (吉川英治、『平家物語(三)』より

 

 平清盛は、もとは貧しい地下人(じげびと)でした。だから庶民は、清盛を自分たちの仲間のように思っておりました。

 しかし、悲しい人間の性(さが)なのでしょうか。最初は、猛威を振るう貴族政治に反対し、地下人のための政治を興そうとしていた清盛も、力をもつにつれ、貴族の政治と同じように、自分の権力を守ることに躍起になっていくのです。

 

 たれの場合も、出発は正しくて美しい。晩年の太上入道清盛は、まるで別人みたいな存在になったが、壮年のかれには、そんな理想もあったのである。

 (同『平家物語(二)』より)

 

 人は第一印象が大事と言われます。しかし、得てして最初はよい所を見せようとするもの。それを持続できるかどうかが真価の問われるところです。第二印象、第三印象…、ずっと魅力的であり続けることが理想です。

 

 

 

 

 『新・平家物語』には、たびたび麻鳥(あさとり)という男が登場します。生家は宮中舞楽部、つまり音楽一家に生まれました。しかし、その身分を捨て、傀儡師(くぐつし=旅回りの芸人のようなもの)をするような人です。

 

 その麻鳥がいった言葉。

(同じ楽器を持って、人を楽しませるなら、もう、堂上人のすえただれた宴楽に侍して、浅ましい思いを忍んでいるよりは、青空の下で、貧しくても、心から歓んでくれるちまたの人びとの中で、笛も吹きたい、鉦や鼓も打ってみたい)

 (吉川英治、『新・平家物語(三)』より)

 

 映画「ショーシャンクの空に」の名場面を思い出しました。

 刑務所にモーツァルトのアリアが流れ、目に見えぬ音楽が見えるかのように、囚人たちが音楽の流れる空を見上げる場面。音楽は、格式ある場で、かしこまって聴くだけではない。本当にそれが必要な人のために、みんなの空の下に流れるものだ。そんなことを感じました。

 

 さて、麻鳥はこの後、要所要所で現れ、『新・平家物語』に色を添えます。

 また、折に触れ、紹介していきます。

 

 

保元の乱。皇室と皇室が戦い、叔父と甥が戦い、文字通り骨肉相食むの惨を演じた悪夢の一戦。

 

「子が父を疑い、父が子を信じられなくなり、兄弟も叔姪も、いつ仇敵となるか分からない。主従、友人の間さえ、心が許せないとなったら、もう弓矢で戦わなくても、世は、そのまま地獄よ。」

 (吉川英治、『新・平家物語(二)』より、僧・文覚の言葉)

 

 物語には、一人一人の胸の内にある父子の情、理性の悩みが描かれています。それなのに、憎み得ない相手を、強いて憎もうとし、そうしなければ自分が打たれるという修羅の世。

 

  祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

 

 霧のかかった風景のような、このもの悲しい一節は、人の情に溢れながらも、自らを滅ぼしていくしかなかった切なさ、はかなさを表しているように思えてきます。

 

 

 祇園精舍の鐘の声

 諸行無常の響きあり

 娑羅双樹の花の色

 盛者必衰の理をあらはす

 奢れる人も久しからず

 ただ春の夜の夢のごとし

 猛き者もつひにはほろびぬ

 ひとへに風の前の塵に同じ

 

 おそらく多くの人が、暗唱したことのある「平家物語」の冒頭の詞章。

 古典を読む自信のない私は、吉川英治さんの書いた「新・平家物語」で読んでみました。

 とは言っても、これも全16巻の超大作です。紹介したい言葉も山盛りでした。

 そこで、今日からしばらくの間、私のブログは「新・平家物語」一色になります。軍記物は苦手という方にも、なるべく軍記物っぽくないように紹介して参りますので、どうぞお目通しください。

 

 今日は第1巻から。

 

 若かりし頃の清盛。貧乏な暮らしを余儀なくされていましたが、それでも、後に一世を風靡する人間のでかさをうかがわせていました。

 

 ある時、神の名を借りて好き放題をする叡山に怒りを覚えた清盛は、叡山の象徴である日吉(ひえ)山王の神輿に弓矢を放ちます。「罰あたりめっ。」とわめく荒法師たちを尻目に、清盛は言い放ちます。

「およそ、神だろうが、仏だろうが、人を悩ませ、惑わせ、苦しませる神やある仏やある。」

 

 また別の時、自らの鎧の材料として、狐の生き皮を求めんと、清盛は山中に入ります。

 そこで幸運にも3匹もの狐を見つけた清盛は、弓を引き絞ります。

 しかし、それは幼い子どもを必死で守ろうとする親子狐でした。

 父狐は、死へ直面しながら、清盛のつがえた矢をにらみます。

 母狐は、かなしげな本能に、ふところ深く、子狐をかい抱きます。

 その姿を見た清盛は、つぶやきます。

「ああ、あわれ。…あわれや、立派だ。美しい家族だ。ヘタな人間よりは」

 日吉山王の神輿を射た矢も、ふと、この親子狐には、放つ勇気が出なかった。

 おれの鏃(やじり)は、いったい、何を求めようとして、この生き物を、追いつめているのだろう。

 そして、矢を空に向かって放ったのでした。

 

 人を苦しめる者は、神であっても、神ではない。

 子を守る強さとやさしさを持った者は、狐であっても恐れるに値する。

 教科書で習った「平家にあらずんば人にあらず」からイメージする横暴で非情な人物ではない、一人の人間としての清盛を見ました。

 

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「以前はねえ、邦楽のお家には、取り立てとか預かりとかいって、師匠は責任を以て弟子に芸を教え、伝え、弟子は、取り立てられる、預けられることに誇りをもって師の芸を修得するといういい関係がありましたもの。自由? 個性? 平等? マイペース? 何か勘違いしている人が多いんじゃないかしら」

 (竹西寛子、「船底の旅」(『五十鈴川の鴨』収録)より)

 

 古来、芸の道では、先人の技をまね、自分の中に取り込むことで、文化を創りあげてきました。そこには、「自分はこうしたい」という思いよりも、先人への尊敬、伝統への敬虔な気持ちがありました。

 

 一方で、視点を現在の国際社会に移すと、アメリカ、ロシア、中国、そしてトルコやサウジアラビアなどの地域大国が、自国中心主義に走ろうとしています。

 

 100年前、地球上には核兵器は存在せず、温暖化の兆しもなかった。人類はその後、四半世紀の混乱を経て、やっと協調の知恵を学んできたはずだった。

 いま、自国第一主義がこれ以上はびこれば、破局は必然となる。多国間の協調以外に道はないのだ。歴史からくみ取るべき教訓を見誤ってはならない。

 (朝日新聞「社説」(2020.1.3)より)

 

「今の子供たちの 65%は、大学卒業時に、今は存在していない職業に就く」

「今後 10~20 年で、雇用者の約 47%の仕事が自動化される」

 このような予測が社会を一層慌ただしいものにし、教育も社会も、変わろう、変わろうとしています。

 しかし、未来ばかりを見て、歴史に学ばないのであれば、先人の知恵を無にするという点で退化と言えるのではないでしょうか。それが、個人レベルでも、国家レベルでも進んでいるように見えます。

 人目をひかなくてもいい。真新しさがなくてもいい。引き継ぐべき本当に大切なことを守っていく地道さが、もっと見直されてもよいと思うのですが。