出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -10ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 表題作「五十鈴川の鴨」他9編が収録された、竹西寛子さんの短篇集です。

 派手さはありません。静かに、人の心のやわらかいところにそっと入ってきます。

 

 例えば、「挨拶」という話に次のような場面があります。

 

 もう何代も続いてきた屋敷がありました。しかし、栄華が続かないのは、はかない人の世の常。この家も取り壊されることになりました。

 主を失った家を最後まで見届けたのは、その家でかつて働いていた執事でした。

 明日、取り壊されるという日、彼は、酒屋から届けられた一升瓶を手に、庭に立ちます。

 

 さあ、飲んでくれ。別れだ。

 老人は、骨にすぐ皮のついているような腕を力いっぱい振って、惜し気もなく庭木や下草に酒を注いだ。

 ありがとう。どんどんやってくれ。

 西陽を受けて撒かれる酒は、老人の目に、散る花とも、霧とも、吹雪ともうつった。ありがとう。勘弁しておくれ。ありがとう。ありがとうよ。さあ、もっと、もっと・・・

 

 間もなく消えていくさだめのものに対して、ひとかたならぬ思いを込める老人の姿に心打たれます。

 

 通り慣れた道を車で走っていると、つい最近までそこにあった家が壊され、更地になっていることがあります。見逃してしまいがちなのですが、そこには、住んでいた人、一人一人の思い出があったはずです。

 『五十鈴川の鴨』は、そのような大切にしたい人の心に気付かせてくれる短篇集です。

 

 

 年末に実家を訪れた時に、父が「言葉がきれいだから」と言いながら、竹西寛子さんの本、『蘭』を薦めてくれました。父の言葉の通り、情景が、そして心情が、精緻に美しく描かれた本でした。

 

 この本には11の短篇が収録されていますが、その中に表題作にもなっている「蘭」という短篇があります。

 

(あらすじ)

 満員電車の中で、ひさし少年は歯の痛みをこらえられなくなる。なす術のない状況で、父親は、祖父の形見の、蘭の絵が描かれた扇子を引き裂く。そして、その薄い骨の一本を楊枝代わりにしてひさし少年に差し出す。

 

 この話を読んで、どこかで読んだことがあったような気がしました。もしかしたら、自分がよく似た経験をしたことを思い出したのかもしれません。このような懐かしさに出会えることを楽しみに、また、出会ったことのない言葉に出会うことを楽しみに、今年も、ゆっくりと「出会った言葉たち」を綴っていこうと思います。

 

 本年もどうぞよろしくお願いします。

 

 今月末までの、TSUTAYA旧作1本無料券があったので、このぎりぎりの時期にビデオを借りてくることにしました。

 家族に「何か観たいの、ある?」と聞くと、大学生の息子が、「『シザーハンズ』が観たい」と。

 この映画は、私が大学生の時(およそ四半世紀前)にビデオで観たもの。おそるべきDNAと思いながら、どんな話だったかもよく覚えてはいないので、借りてみることにしました。

 

 「シザーハンズ」 ─ はさみの手と、繊細で優しい心をもつ人造人間エドワードのお話。エドワードは、鋭利な自分の手で、図らずも周囲の人を傷つけてしまいます。奇異な外見も重なり、彼の居場所はしだいに失われていきます。結局、彼が抱いた、少女への純真な恋も、結ばれることはありませんでした。

 

 人はだれも、どこかで周りの人を傷つけながら生きています。また、理不尽にいわれのないことで傷つけられてしまうこともあります。それでも、それらをすべて受け入れ、静かに一人の人を恋する気持ちの貴さに、自分が大学生の時は、気づけていなかったように思います。今、大学生の息子は、どんなことを考えながら、私の隣でこの映画を観ていたのでしょう。

 

 映画の脚本を手がけたキャロライン・トンプソンさんが言っていました。

“寓話とは信じはしないが共感はできるもの”だ。

映画の寓話も信じはしないと思う。

それでも共感できるのは

あらゆる感情が描かれているからよ。

自分にない感情や持ってみたい気持ち

持つべき感情や決してない感情などが

伝わるの。

 

 山上のお城に、手がはさみになっている一人の男が住んでいるなんて、私も信じません。

 それでも、彼が人を恋う気持ち、周囲に誤解され孤独な世界へと帰っていくせつなさに共感します。

 

 私の今年のブログも、これで結びとします。

 「もう今日はブログを書かずに寝よう」と思ったときに、フォローして下さったり、コメントを下さったりした方がいて、何とか頑張ることができました。また、これまでの自分だったらおそらく出会うことのなかった本を紹介していただき、自分の世界も広がりました。

 1年間、ありがとうございました。

 どうぞよいお年を。

 

 コペル君は、友達が上級生にからまれているときに、知らんぷりをしてしまいました。コペル君は、そのことをずっと悔やんでいます。

 ある日、そんなコペル君に、お母さんは、自分が子どもの頃の話を語り始めます。

 荷物を持って石段を登るおばあさんに、声をかけようかどうか迷ったこと。

 何度もそのチャンスがあったにもかかわらず、結局声をかけることができなかったこと。

 そして、人生で出会う一つ一つの出来事は一回限りのもので、二度とやり直せないこと。

 でも、それは、決して無駄な経験ではないということ─。

 

「その事だけを考えれば、そりゃ取りかえしがつかないけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心に沁みとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりした深みのあるものになるんです。」

 (吉野源三郎、『君たちはどう生きるか』より)

 

 自分の勇気のなさ、ふがいなさをしっかりと見つめることで、そんな自分を乗り越えようと、次は何か自分を変えることができるかもしれません。もしかしたら、同じように自己嫌悪に陥っている友達の気持ちも、より深く分かる人になれるかもしれません。

 

 時代は戦争へと向かう1937年に世に出たこの本が、今、再び脚光を浴びているのは、乱れた世の中にあっても、未来を創る子どもたちに、人としての大切な生き方を知っておいてほしいという願いからではないかと思っています。

 

 

 生まれる言葉、消えていく言葉について、先日の朝日新聞「天声人語」に書かれていました。

 「ONE TEAM」が流行語大賞になったこと。一方で、ICカード世代の若者にとって「切符」という言葉が死語になりつつあること。これからは、もしかしたら「電話」「紙幣」「印鑑」という言葉が消えていくのではないかということ─。

 言葉は生活と密接につながっています。生活が変われば言葉が変わる。だから、生活が貧弱になれば、言葉も貧弱になる。読解力の低下がよく話題になっていますが、それも言葉だけの問題ではなく、生活が影響しているのかもしれません。

 

 日本語が本来持っている動詞が衰えている根本的な理由は、実体験が減っているからではないかと考える。

 時間に追われることで、道草を食う、ことがなくなった。

 スマートフォンばかりを見ているため、空を仰ぐ、ことがなくなった。

 最愛の人といつでも連絡が取れるので、やきもきする、ことがなくなった。

 

 こうした体験の減少とともに、動詞は姿を消し、語彙力の衰退を起こしている。

 (梅田悟司、『「言葉にできる」は武器になる。』から抜粋)

 

 便利な世の中が、生活を単純にし、言葉も単純になっている。そんな気がします。