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出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 『のだめカンタービレ』の“のだめ”。『蜜蜂と遠雷』の“風間塵”。漫画や小説の中には、時に個性で他を圧倒する魅力を発するピアニストがいます。

 それを実在の人物に当てれば、こういう人なのでしょうか。野田あすかさん。発達障害のあるピアニスト。本の帯に載せられている写真が、“のだめ”を彷彿とさせます。

 

 野田さんは、自分の気持ちがすぐに音に出てしまうので、「その曲の音」を出さなければならないコンクールでは、いい結果を残せなかったそうです。それに悩んだ野田さんは、ピアノの先生に尋ねました。

 

「自分の気持ちがそのまま音に出てしまうというのは、いいことなんですか、だめなことなんですか?」

 すると先生はこう言ってくれたのです。

「いいことか、だめなことかは、先生にはわかりません。その場、その場で違うと思います。でも、そんなあすかさんの音を、先生はきらいではありません」

 (野田あすか・福徳・恭子、『発達障害のピアニストからの手紙』より)

 

 自分の音を自分の音として認めてくれたことが、野田さんの大きな支えになったそうです。

 

 文学も、音楽も、作品自体に客観的に決められたよさがあるのではなくて、読んだ人、聴いた人が感じたことの中によさがあるのだと思います。「自分の音が好きだな」「本を読んで自分の感じたことを大切にしたいな」という思いが、本や音楽を楽しむ基盤になるのでしょう。

 

 

 重松清さんの『その日のまえに』を読みました。

 「その日」とは、「僕」が最愛の妻・和美を失ってしまう日のことです。

 

 和美は、二人の子どもを残して、ガンで亡くなってしまいました。

 お別れの病室で、義父が「僕」に語りかける場面が印象的でした。

 

「雨になったのう・・・」

 神様は最後の最後まで、和美には意地悪のしどおしだった。

 そうですか、とうなずくと、義父は見る間に目に涙を浮かべながら、つづけた。

「・・・じょうぶな子に産んでやれんで、すまんかった」

 神様よりも人間のほうが、ずっと優しい。

 神様は涙を流すのだろうか。

 涙を流してしまう人間の気持ちを、神様はほんとうにわかってくれているのだろうか。

 (重松清、『その日の前に』より)

 

 私も時には神に祈ります。物事が偶然のようにうまく運び、神様に感謝したくなるようなこともあります。

 でも、苦しいときに、とても解決のしようもないのだけれど、同じように苦しみながら心を届けてくれるのは、やっぱりすぐ近くにいる人間だと思います。

 

 

 去年のクリスマス(Last Christmas)は、こんなクリスマスでした。

 そして、今年、娘がリクエストしたクリスマス・プレゼントは、目指す大学の赤本3冊。

 本屋さんで、赤本3冊を「ラッピングして下さい」とお願いするのも、なんだか教育パパみたいで気が引けたのですが、「いやね。娘が、これがいいって言うもんだから・・・」などと言い訳がましく言うのもなんだしな・・・と思いながら、そそくさと買って本屋を出ました。

 

 家に帰って部屋にこもり、まず、こんなメッセージを書き、

本を隠すなら本棚とばかり、私の本の中に紛れ込ませておきました。

 今日の朝、娘が起きる前に、枕元にこのメッセージを置き、今日1日、これを見つけ出そうとしている娘の姿を想像しながら、仕事をしていました。

 

 

 長男はすでに県外で一人暮らし。この長女ももしかすると4月から県外の大学へ。そうなると、子どもたちが小さい頃からずっと繰り返してきた我が家のクリスマス恒例行事も、これが最後(Last Christmas)になってしまいます。

 幼い頃は、この手紙を見て、子どもたちは「サンタが来た!」と大喜びで、プレゼントのありかを探して家じゅうをあさっていました。その風景を見るのが楽しみでした。

 中学、高校と進むにつれ、あからさまに喜びを表現しなくなりましたが、それでも「サンタさんは、お父さん」とは分かっていても口にせず、クリスマスの気分を家族で味わっていました。

 もう10年もしたら、長男、長女も子どもをもっているのでしょうか。その時に、幸せなクリスマスを演出してほしい。そして、おじいちゃん、おばあちゃんになった私たち夫婦に、同じように幸せな気分を味わわせてほしい、そう願っています。

 石川丈山は、安土桃山時代から江戸時代に生きた漢詩人です。

 京都の静閑な山荘、詩仙堂で一人過ごした丈山。

 丈山は、平凡な日常の小さな歓びを、人生でいちばん貴重なものと考えていました。

 

 『三題噺』の一話、「詩仙堂志」の中で、ある老人が丈山について語る場面があります。

「丈山のたのしみは詩をつくることそのことのなかにあった、できあがった詩はどうでもよかった、誰がよんでもよまなくてもよかった、読者は要らない・・・」

 

 丈山の日常については─。

「みずから茶をたててみずから飲む、みずから詩をつくりみずから読む、みずから庭を掃いてみずから眺める。」

 (加藤周一、『三題噺』より)

 

 極限の孤独の中で、まるで自然の一部と化してしまったような日常。邪念など浮かぶ余地もない澄んだ空間と時間。

 丈山のようにはとてもなれませんが、京都の詩仙堂を訪れ、その極地の一端でも味わえれば・・・と思わされた物語でした。

 昨日のブログで「個性」を話題にしました。

 別の本から、再度「個性」を考えてみました。

 

 文章には、個性が現れるはずです。

 しかし、ただ、先般話題になった大学入試共通テストの記述式問題のように、文章が一定の基準によって評価されるとしたら・・・。そして、その評価の基準にしたがって、書き手が表現するとしたら・・・。

 もはや、それは、記号で答える選択式問題と大差ないように思われます。

 

 「考える力」を図るはずの記述式問題が、採点しやすいように正解が一つしかない出題になれば、「記述」の意味がなくなるのと同じです。

 (鳥飼玖美子、苅谷夏子、苅谷剛彦、『ことばの教育を問いなおす』より)

 

 ブログも同じでしょう。

 もし、「だれでも『いいね』が100個つくブログの書き方」なるものがあって、みんながそれにならって書くようになったとしたら、きっとそれぞれの個性はなくなってしまうように思います。

 格調高い文章もあれば、散文調もあり、写真が魅力的なものもあれば、イラストが個性的なものもある。それでいいのではないのでしょうか。