出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -12ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 自分探しの旅だとか、自分の考えをもてだとか、世の中は、「個性的たれ」の声一色です。

 でも、「個性」って、いったい何なのでしょうか。

 

 脳科学で有名な養老孟司さんは、次のように言っています。

 

 会社でもどこでも組織に入れば徹底的に「共通理解」を求められるにもかかわらず、口では「個性を発揮しろ」と言われる。どうすりゃいいんだ、と思うのも無理のない話。

 要するに「求められる個性」を発揮しろという矛盾した要求が出されているのです。

 (養老孟司、『バカの壁』より)

 

 考えてみれば、人に「個性的であれ」と言われた時点で、人の望むものになるよう求められているわけで、それは、そもそも非個性的なのではないか・・・と考えさせられてしまいました。

 だれかに言われなくても、人はそれぞれみんな違っているわけで、ごくたまに、「○○さんにそっくりの人を見かけた!」などと、ドッペルゲンガーのようなこともあるらしいけれど、まず、人を識別できないなんてことはない。だから、「個性的であれ」なんてことは、無意味に感じるのです。

 

 

 あかり文庫さんが、読んでみたという『生き物の死にざま』という本を私も読んでみました。あかり文庫さんは、朝日新聞の書評を見て、読んでみたくなり、私は、あかり文庫さんのレビューを見て、読んでみたくなりました。読書はつながります。

 

 筆者・稲垣栄洋さんは、生態学者らしい観察眼と知識をもって、様々な生き物の生き様を描いていますが、一方でそれを叙情豊かに表現しているところも魅力的な本です。

 

 例えば、おなじみの、セミ。

 昆虫は硬直すると足が縮まり関節が曲がるため、地面に体を支えていることができなくなるため、必ずひっくり返って、上を向いて死ぬそうです。

 稲垣さんは、死期を迎えようとしているセミを見て、こう言います。

 

 仰向けになりながら、死を待つセミ。彼らはいったい、何を思うのだろうか。

 彼らの目に映るものは何だろう。

 澄み切った空だろうか。夏の終わりの入道雲だろうか。それとも、木々から漏れる太陽の光だろうか。

 ただ、仰向けとは言っても、セミの目は体の背中側についているから、空を見ているわけではない。昆虫の目は小さな目が集まってできた複眼で広い範囲を見渡すことができるが、仰向けになれば彼らの視野の多くは地面の方を向くことになる。

 もっとも、彼らにとっては、その地面こそが幼少期を過ごしたなつかしい場所でもある。

 (稲垣栄洋、『生き物の死にざま』より)

 

 セミの生態をよく知っているから、それを踏まえてセミの気持ちに思いを馳せることができるのでしょう。

 物事を知るということは、その心を感じるための行為かもしれません。

 

 

 ミケランジェロの残した彫刻〈ピエタ〉。十字架から降ろされたイエスのなきがらを、母マリアが膝に抱き、悲しみをたたえた表情で見つめています。〈ピエタ〉は、イタリア語で“敬虔な心、慈悲”を表すそうですが、この作品の陰翳が、マリアの悲しいほどの敬虔な祈りと慈悲を表しているように感じます。

 

 ところが、阿刀田さんは、マリアがわが子の遺体を抱くことができた可能性は極めて小さい、と言います。その上で、この作品を次のように評しています。

 

 母マリアがその腕にイエスの遺体を抱くチャンスはなかっただろう。もろもろの〈ピエタ〉は、その意味で実相ではないけれど、もし抱けたならば、マリアの胸中には、深い悲しみと深いいとおしさが文字通りとめどなく溢れたことだろう。なかったことではあるけれど、ありうべき現実を描写することも芸術の役割である。ミケランジェロの〈ピエタ〉はみごとに、そんな役割を果たしているように私には見えたのである。

 (阿刀田高、『新約聖書を知っていますか』より)

 

 文学はフィクションではあるけれども、現実以上に人の心の真実を伝えてくれる、それと同じことなのでしょう。

 

 

 創世記では、神が人間の本質を決定し、定義を与えています。つまり、「人間とは、○○なものである」と神様はおっしゃったのでしょう。

 それに異を唱えたのがサルトルでした。サルトルは、「もともとどうだってことが、いかんのだ」という考えの持ち主でした。かっこよく言えば、「実存が本質に先立つ」ということです。

 

 そう言えば、学生の頃、友達と、人間はもともと「善」なのか、「悪」なのかについて語り合ったことがありました。生まれたときは天使のように純粋なのに、世の中の塵芥にまみれながら、しだいに黒くなっていくのか。それとも、生まれたときは、まだ人として十分でないものが、教育により人の道を学んでいくのか。

 

 これも、サルトルに言わせれば「もともとどうだってことがいかんのだ」ということになるのでしょう。善になるのも、悪になるのも、人間が選ぶべきこと。いわば自己責任。だからよけいに、人間は、悩み迷い、時には神にすがりながら、歩んでいくのでしょう。どうなるか分からない人生だからこそ、神に祈ることも多いような気がします。

 

 『旧約聖書を知っていますか』。題名は少々堅苦しそうな本ですが、中身は阿刀田さんの筆力により、イスラエルの民の物語を楽しめるものになっています。ぽっと出の流行り物ではない、堂々たる超ロングセラー「旧約聖書」を手軽に味わいたい方は、ぜひどうぞ。

 

 

先日の記事に、なおりんさんからコメントをいただいて、

銀色夏生さんの話題になって、

そうしたら無性になつかしくなって、

本棚の一角から大好きだった詩を探しました。

もう30年も前の本たち。

どの本にあの詩があったのかも覚えてなく、それでもやっと見つけました。

 

 

「いつもいつも次に来る季節が好きだ」

 

好きな色は何、と聞かれて返事に困った。

行きたい場所はどこ、と聞かれて、わからなかった。

すぐに返事ができないことが多くて、優柔不断だと落ち込んだ。

でも、好きな色がないのではなくて、好きな色という質問が、うまく理解できなかったのだ。

好きな空の色ならうすい青だし、好きな服の色なら白。好きな地面の色は草原の緑。

好きな水の色は透明。嫌いな色があるのではなく、嫌いな組み合わせがあるだけ。

行きたいのは、国ならアイルランド。夕方なら海。星ならオリオン座。夢なら恋人。

なりたいのは、考古学者。なりたいのは、やさしい人。なりたいのは、テニスの試合でアドバンテージをとれる人。なりたいのは、海の近くに住む人。なりたいのは・・・・・・。

 

いつも、次の角を曲がったところで、もっと素晴らしい出来事に会えるような気がしてる。

明日になれば。次の休みは。これから出会う友だちは。来週は。こんど買う服は。この次の試験は。次の恋は。

だから、

季節といえばいつもいつも、次に来る季節がいちばん好きだ。

 (銀色夏生、『Balance』より)