知る=心を感じること ─『生き物の死にざま』(稲垣栄洋)─ | 出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

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「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 あかり文庫さんが、読んでみたという『生き物の死にざま』という本を私も読んでみました。あかり文庫さんは、朝日新聞の書評を見て、読んでみたくなり、私は、あかり文庫さんのレビューを見て、読んでみたくなりました。読書はつながります。

 

 筆者・稲垣栄洋さんは、生態学者らしい観察眼と知識をもって、様々な生き物の生き様を描いていますが、一方でそれを叙情豊かに表現しているところも魅力的な本です。

 

 例えば、おなじみの、セミ。

 昆虫は硬直すると足が縮まり関節が曲がるため、地面に体を支えていることができなくなるため、必ずひっくり返って、上を向いて死ぬそうです。

 稲垣さんは、死期を迎えようとしているセミを見て、こう言います。

 

 仰向けになりながら、死を待つセミ。彼らはいったい、何を思うのだろうか。

 彼らの目に映るものは何だろう。

 澄み切った空だろうか。夏の終わりの入道雲だろうか。それとも、木々から漏れる太陽の光だろうか。

 ただ、仰向けとは言っても、セミの目は体の背中側についているから、空を見ているわけではない。昆虫の目は小さな目が集まってできた複眼で広い範囲を見渡すことができるが、仰向けになれば彼らの視野の多くは地面の方を向くことになる。

 もっとも、彼らにとっては、その地面こそが幼少期を過ごしたなつかしい場所でもある。

 (稲垣栄洋、『生き物の死にざま』より)

 

 セミの生態をよく知っているから、それを踏まえてセミの気持ちに思いを馳せることができるのでしょう。

 物事を知るということは、その心を感じるための行為かもしれません。