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『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
自己満足ブログですみませんm(_ _)m

凡そ生けるを放つこと、人皇四十四代の帝、光正天皇の御宇かとよ、養老四年の末の秋、

宇佐八幡の託宣にて、諸国に始まる放生会。

浮寝の鳥にあらねども、今も恋しき一人住み、小夜の枕に片思い、可愛い心と組みもせで、

なんじゃやら憎らしい。


その手で深みへ浜千鳥、通い馴れたる土手八丁、口八丁に乗せられて、沖の鷗の、二挺立ち、三挺立ち、

素見ぞめきは椋鳥の、群れつつ啄木鳥格子先、叩く水鶏の口まめ鳥に、

孔雀ぞめきて目白押し、見世清搔のてんてつとん、さっき押せ押せ、ええ。


馴れし廓の袖の香に、見ぬようで見るようで、客は扇の垣根より、初心可愛ゆく前渡り、

さあ来たまた来た障りじゃないか、またお障りか、お腰の物も合点か、編笠もそこに置け、

二階座敷は右か左か、奥座敷でござりやす、はや盃持ってきた、とこえ静かにおいでなさんしたかえ、

という声にぞっした、しんぞ貴様は寝ても覚めても忘られぬ、笑止気の毒またかけさんす、何な、かけるもんだえ。


そうした黄菊と白菊の、同じ勤めのその中に、ほかの客衆は捨て小舟、流れもあえぬ紅葉ばの、

目立つ芙蓉の分け隔て、ただ撫子と神かけて、いつか廓を離れて紫苑、そうした心の鬼百合と、思えば万年青、

気も石竹になるわいな、未は姫百合男郎花、その楽しみも薄紅葉、さりとはつれない胴欲と、

垣根にまとう朝顔の、離れ難なき風情なり。


一薫きくゆる仲人の、その接ぎ木こそ縁のはし、そっちのしようが憎いゆえ、

隣り座敷の三味線に、合わす悪洒落まさなごと。


女郎の誠と玉子の四角、あれば晦日に月も出る、しょんがいな、玉子のよいほい、ほい、よいほい玉子の四角、

あれば晦日に月も出る、しょんがいな、一薫きはお客かえ、

君の寝姿窓から見れば、牡丹芍薬百合の花、しょんがいな、芍薬よいほい、ほい、よいほい、ほい、

よいほい芍薬牡丹、牡丹芍薬百合の花、しょんがいな、つけ差しは、


濃茶かえ、ええ腹が立つやら、憎いやら、どうしょうこうしょう、憎む鳥鐘、暁の明星が、

西へちろり東へつろり、ちろりちろりとする時は、内の首尾は不首尾となって、親父は渋面嚊は御免、

渋面御免に睨みつけられ、去のうよ戻ろうよと、いうては小腰に取りついて、ならぬぞ、去なしゃんせぬ、

この頃のしなし振り、憎いおさんがあるわいな。


文の便りになあ、今宵ごんすとその噂、いつの紋日も主さんの、野暮な事じゃが比翼紋、

離れぬ仲じゃとしょんがえ、染まる縁しの面白や。


げに花ならば初桜、月ならば十三夜、いづれ劣らぬ粋同士の、あなたへいい抜けこなたの伊達、

いづれ丸かれ候かしく。



〈八月〉

・八朔

一日は農家の台風よけ、豊作祈願に八朔という行事がある。

遊女たちは全員白無垢姿となる。

白無垢の由来は

高橋という遊女が病に臥せっている時に馴染みの客が。高橋は当時の御寝巻きだった白無垢姿で客を迎えた。それが清楚で良かったと言われたから

とか

八朔御祝儀の祝い事には白帷子で登城するという武家社会の習慣。

とか

八月の冷え込んだ日にたまたま白小袖を着ていた遊女が際だっていたから。

などと言われています。


・俄

俄というのは、宴席等で即興的に行われた狂言。

今でも、京都の花街で「おばけ」というものが節分に行われていますが、あれと似た行事ではないかと想像します。


・月見

十四日から十六日。十五夜のお月見です。

えっ?九月じゃないの???と思われるでしょうが当時は旧暦。今の九月くらいですね。


〈九月〉

・重陽

九月九日。農村での収穫を祝うお祭り。衣更え。

菊のお節句で、もともとは宮中の行事で、菊酒などを呑み長寿を祈るお祭り。


・月見

十二~十四日。十五夜のお月見とワンセットであと見の月。十三夜の事です。

十五夜を見たのに、十三夜を見ないというのは「片見月」と言われ縁起が悪い言われた。

で、しっかり十五夜の時に「十三夜も一緒に眺めましょうね」と遊女は客に約束を取り交わしたそうです。


・神田明神祭礼

十五日。今は五月のお祭りですが、江戸時代においては秋のお祭りだったそうです。


〈十月〉

・亥の子=玄猪

十月最初の亥の日にお持ちを食べて無病息災をお祈りする。また、この日より見世に火鉢が出される。

もともと、宮中の行事。

吉原だけでなく、江戸城においても玄猪のお祭りは行われていた。

10月朔日より囲炉裏を開いて、炉で鍋を焼き、火鉢で火を盛る習慣があった。また幕府では大名・諸役人に対して、10月朔日七ツ半(午後5時)に江戸城への登城を命じ、将軍から白・赤・黄・胡麻・萌黄の5色の鳥の子餅を拝領して、戌の刻(午後7~9時)に退出する。 玄猪の祝いに参加する人たちは熨斗目長裃と規定されている。

けっこうきちっとしたお祭りなのですね。


・夷講

二十日。一月に行われる夷講の秋バージョンです。


〈十一月〉

・ほたけ=火焼

八日。稲荷祭りがおこなわれ防災祈願を行う。庭に蜜柑を蒔き禿に拾わせるといった行事。

一般的にも「火焼」という行事はあったらしい。どこかの地域では雪合戦のごとく蜜柑をぶつけ合って防災祈願のお祭りをするところもあるらしい。


〈十二月〉

・事始め

八日が事始め。二月の事納めの説明にも書きましたが、この日より正月行事もろもろが始まりますという意味だそうです。


・煤掃き

十三日は大掃除。平安時代からある行事。ということで、もともとは宮中の行事だったようです。

吉原では、この日に嫌われもののやり手を胴上げするといった変な風習もあったとか。


・餅つき

二十日は箕輪金杉から餅つき要員の応援がきお正月のお持ちの準備をします。

この行事も一般的な行事です。


ちなみに二十五日に見世の周囲が片づけられて松飾が飾られます。

そして、あっというまに大晦日。新年を迎えるという感じでしょうか。


まあ、しょっちゅうお祭りという印象がありますが、

毎月一日、十五日、十七、十八日、二十八日は行事がなくても「紋日」と定められていたそうです。

紋日は何かが高いわけで、できれば安い平日に遊びたいのが人情。

けれど、ケチな男とは思われたくないという男心も持ち合わせているわけですね。そういった男心を刺激して各行事のある日や紋日に廓に足を向かせる手練手管が遊女には求められていたのでしょう。



日本には多くの年中行事がある。正月とか雛祭りとかは年中行事の一つです。

もともとは宮中で行われていた儀式や行事が民間に浸透したものが多いようです。


吉原という江戸最大の遊郭にも多くの年中行事があります。民間と共通した行事もあれば、吉原独特な行事もあるようです。「俄」も八月に行われる吉原独特な行事です。

さて、男性諸君の夢の娯楽街。華やかな吉原にはいったいどんな行事があったのか調べてみました。


〈一月〉

・仕着日

正月元旦・二日は遊女屋から新しい小袖が送られ、遊女たちはそれを来て正月のあいさつ回りに出るとか。基本的にこの二日間は有給休暇だったらしい。

・大黒舞

大黒舞というのは、鳥追いや様々な大道芸を行う芸人。つまり、江戸の被差別階級の人々が担った芸能の一つ。「正月六日からおおよそ二月初めまでの期間、大黒舞ということで非人たちが吉原(江戸吉原)に来て、いろいろの物真似をする。大黒舞というのは形ばかりで、多くは芝居狂言の真似である」と『嬉遊笑覧』(喜多村信節著)に記されている。吉原独特の行事の一つ。(もともとは、大阪や京都・江戸で被差別階級の人々が大黒天を思わせる格好をして新春を祝う門付芸だったらしい)

・七草粥

これは吉原に限らずの行事ですね。今でも正月七日の行事ですね。

・蔵開き

十一日。蔵を開けて新年の空気を入れた。蕎麦切りなどをして祝ったそうだ。

・小正月・藪入り

十四日から十八日が紋日。紋日というのは節句など特別な日と定められている日で、遊女たちは必ず客を取らなければならず、また客は通常料金プラス特別料金プラス特別チップをはずむというのが決まりらしい。

しかし、十六日は藪入りという有給休暇。もともと奉公人が暇をもらって実家などに帰る行事のことを藪入りというようだけれど、遊女は大門を出られなかったので単に有給休暇なのでしょうね。

・夷講

二十日。商売繁盛を祈願し、夷棚を飾り、親類や知人を呼んで宴席を設けるなどしたそうです。

十月にも夷講はあります。



〈二月〉

・事納め

八日に行われる。新年始まったばかりなのに「事納め」なんて・・・。しかし、十二月八日は暮なのに「事始め」だ。

これは正月を中心とした考え方で、正月行事の始まりだから十二月八日が「事始め」。で反対にもう正月行事はおしまいの二月八日が「事納め」という考え方らしい。

・初午

最初の午の日。江戸・京では遊女の名前を記した大提灯をつるしたそうです。

吉原の守り神である九郎助稲荷をこの日はお祀りしたそうです。


〈三月〉

・ひなまつり

箕輪あたりから桜の木を持ってきて植えたとか。で花が散ったら撤去・・・。贅沢ですね。

ひなまつりというと桃の花をイメージしますが、旧暦ですから、この季節は桜の季節。お花見期間。

お花見期間はずっと紋日。そりゃそうですね。桜をどこからか持ってきて吉原内でお花を楽しむ贅沢をするのですものね。


〈四月〉

・衣更え
一日は、袷から単衣の着物に衣更え。

・灌仏会

八日はお釈迦様のお誕生日。いわゆる花祭りのことです。


〈五月〉

・端午の節句

五日・六日は菖蒲のお節句です。廓内は花菖蒲で飾り立てられ、お互いを菖蒲の葉でたたき合って邪気を払う菖蒲打ちを行います。

子どもは立ち入り禁止。菖蒲打ちの儀式で小さな禿が怪我をしたことがきっかけとか。


〈六月〉

・富士権現祭礼

一日は通常の紋日でしたが、この日は富士権現のお祭りがあって、吉原もにぎわったのだそうです。


〈七月〉

・玉菊灯篭

若死した玉菊という売れっ子花魁の追善供養のために、一日から十二日、仲の町の茶屋の軒先に揃いの灯篭を飾ったとか。しかし、一説では玉菊花魁が生きていた時代からこの行事はあったとか。

・七夕

笹を立て、短冊や酸漿を飾ったとか。今とほとんど一緒です。

・四万六千日

十日。浅草観音の行事で、おかげ様をもって吉原も大繁盛。紋日ではないという説と、紋日だったという説がある。
・草市

十二日。お盆に備えてお盆に必要な草花を売る市が開催されたそうだ。

・髪洗い日

七月十三日はどこの店も休業。当時、だいたい遊女たちは月に一回の洗髪をしていたそうだ。でも日程なんて決まっていない。ただ、七月十三日だけは邪気を払うという意味でみんながいっせいに洗髪をしたそうだ。

・盆

十五日・十六日はお盆。大紋日で公休日。

また、仕着日で、店主が遊女のために薄着の着物を送ったとか。今でいうボーナスであろうか?!

・玉菊灯篭

十三日から十六日にかけて、それまで飾ってあった灯篭をはずし、そけぞれのお店が趣向凝らした灯篭を飾ったそうです。



さてさて、長くなったので八月からは明日に書きます。


年代 作曲 作詞
1834年天保5年 四世
杵屋六三郎
不明
(作曲者自身?)

まずは“俄”ってなんでしょうね。さっそくネット検索してみました。
「江戸時代から明治時代にかけて、宴席や路上などで行われた即興の芝居。仁輪加仁和歌二和加などと表記する場合もある。内容は歌舞伎の内容を再現したものや、滑稽な話を演じるものがあったようである。路上で突然始まり、衆目を集めたために、『俄かに始まる』という意味で、俄と呼ばれたとされる。遊郭などで、多くは職業的芸人でない素人によって演じられた」と載っていました。

廓の行事の『俄』というのは、三月の夜桜、七月の灯篭といった行事があったようですが、それに並ぶ重要な行事の一つで八月に行われた行事なのだそうです。(おおっ!とかだ勘違いをしていました。そうそう、季節です。私は、ずっとこの曲は廓のお正月と思っていました)
八月に行われるようになったのは、享保・・・つまり徳川吉宗の時代。その前までは春と秋に行われていたそうです。
この曲は天保五年(1834年)ですから、もう夏の行事になってからですね。
今でも、祇園などの花柳界に“おばけ”という行事があるじゃないですか。
あれと似たような行事。遊女に仮装させたり、などなど、一番賑わった行事のようです。
この行事、明治中期まで続いた行事なのだそうですよ。一発芸的な感じで一鎖演じたらお終いだというのに、振り付け等は一流の振り付け師に注文したとか。
さすが、江戸の吉原。派手でございます。
今のように、週刊誌があった訳でもなし、テレビがあった訳でもなし・・・ましてや、ネットなど無い時代。
当時の流行の先端は、こういった吉原とか花柳界、あとはお芝居とか。
という事で、明治頃では、この翌年の舞踊界の流行はこの“俄”にあったそうです。


この俄獅子というのは、この吉原の“俄”という行事の情景を描いた長唄です。
杵屋六三郎が、元来あった『相生獅子』の歌詞をもじって作曲したのだそうです。
もともと、この曲は素の演奏用として作曲されたものなのだそうです。

どうも、噂による六三郎さん・・・廓にはまって、居続けしながらこの曲を作ったとか・・・。
歌詞に「抓ったあとのゆかりの色は~」なんちゅうのがありますが、もしかして、お馴染みの姉さんにギューと抓られてしまったのは六三郎さんかもしれません。
この曲の歌詞。とっても粋で艶っぽい感じです。
でも、ぜんぜんいやらしくないのが不思議です。こういった表現能力。江戸時代の人は本当にお洒落だなぁと思います。
とっても華やかな曲で、その賑やかで眩しいくらいの情景が目に浮かぶ感じ。そして、そこに存在する人々の命を感ずるような素敵な曲なんですよ。

さて、この曲のお囃子です。
私はお囃子大好き人間なので、ついついお囃子メインになってしまいます。
この曲のちょうどクドキの部分にあたるところがあります。(人目忍ぶは~あたり)
出端越の段という手組みがそこには入るのですが、今はほとんど打ち物は入らなくて、笛のみが入ります。
普通、クドキというところは、唄の聴かせ処なので笛以外の鳴り物って普通は入りません。
しかし、何故かこの曲にはお囃子の手組みが入っているんですよね。
出端というのは、登場人物の出に使われる手組みなんですが、越の段の場合はもっとくだけたもので、花見踊りの最後の方にも出てくるし、娘七草の中盤にも出てきます。
調べたところによると、大皮があしらう手の越す手というのは頻繁に使うから“越の手”というとか書いてある文献がありましたが・・・そうなのかな?
私は、大皮をお稽古した時にここの手組みを教えて頂いたのですが、ここは本当に難しいところです。
唄がメインのところですから、絶対に邪魔になってはいけないのですよ。
曲想でやっぱり何がメインというのはありますものね。
打楽器はインパクトが強いから、あしらっているつもりでもけっこう煩くて、曲を壊しちゃう事ってありますものね。
何時の頃か、手組みはあるけれど、ここは曲想的にクドキに値するところだから、鳴り物が入るのはあまり好ましくないのではという事で、打たなくなってしまったそうです。
ある演奏家さんは、今でも、この部分を太鼓だけ打ったりされる事があるのですが、超ピアニシモ。
柔らかく、かすかという感じで打たれています。
そうか、もしここを打つのならこういった感じで打たなければならないのかと大変勉強になった覚えがあります。
なんでも「デケデケ」と無神経にしか打てない私には、超難しい芸当です。
でも、三味線の旋律聴いていると、うーん入れたくなる雰囲気のメロディーだなぁといつも思いながら聴いています。

お囃子ついでに、
この曲の締め太鼓。幾つか、お祭っぽい手が入ります。
長唄には長唄独自なお囃子もありますが、お能やお祭のお囃子から頂戴しているものがけっこうあります。
このお祭っぽいお囃子はまさしくお祭のお囃子の手を頂戴しています。
これが難しいのよね。軽快に粋に打つってこれほど難しい事はないように思います。

花と見つ、五町驚かぬ人もなし。

汝も迷うやさまざまに、四季折々の戯れは、紋日物日のかけ言葉、蝶や胡蝶の、かむろ俄の浮かれ獅子、

見返れば、花の屋台に、身えつ隠れつ色々の、姿やさしき仲の町。

心尽くしのナ、その玉章も、いつか渡さん袖の内、心ひとつに思い草、

よしや世の中、狂い乱るる女獅子男獅子の、あなたへひらり、こなたへひらり、ひらひらひら、

忍ぶの峰か重ね夜具、枕の岩間滝津瀬の、酒に乱れて足もたまらず、よその見る目も白浪や。

やあ、秋の最中の月は竹村、更けて逢うのが間夫の客、よいよい、

辻占みごと繰り返し、なぜこのように忘られぬ、恥ずかしいほど愚痴になる、

というちゃ無理酒に、なんでもそっちの待ち人、恋のな、恋の山屋が豆腐にかすがい、

締りのないので、ぬらくらふらつく嘘ばかり、よいよいよいやな。

宵から待たせて、また行こうとは、ええあんまりなと膝立て直し、

〆ろやれ、たんだ打てや打て、打つは太鼓が取り持ち顔か、拗ねて裏向く水道尻に、

お神楽蕎麦なら、少し延びたと囃されて、ちんちん鴨の床の内、たんたん狸の空寝入り、

抓った跡のゆかりの色に、うって代わった仲直り、あれわさ、これわさ、

よい声かけや、よいやな、しどもなや。

人目忍ぶは裏茶屋に、ためになるのを振り捨てて、深く沈みし恋の酒、心がなる身の憂さは、

いっそ辛いじゃないかいな、逢わせぬ昔が懐かしや。

獅子に添いてや戯れ遊ぶ、浮き立つ色の群がりて、夕日花咲く廓の景色、目前と貴賤うつつなり。

しばらく待たせ給えや、宵の約束今行くほどに、夜も更けじ。

獅子団乱旋の舞楽もかくや、勇む末社の、花に戯れ酒に伏し、大金散らす君たちの、

打てや大門全盛の、高金の奇特あらわれて、靡かぬ草木もなき時なれや、

千秋万歳万万歳と、豊かに祝す獅子頭。

『春秋』の作詞は如蓮居士という方らしい。

さてさて、この如蓮居士と言う人はどういう人なのだろうか?


いつの時代の方かは分かりませんが、この名前で検索を掛けると、

中国の隋の建国から、唐の玄宗皇帝の時代までを描く『説唐演義』の作者としてヒットする。

うーん、、、この人と同一とはあまり考えられないのですが・・・。

どなたかご存知の方がいらっしゃったら、ぜひぜひご教授下さいませ。


日本人の五感はとても繊細で優れていると私は思う。

「虫の声」を感ずるのは日本人だけのようです。

「あら、鈴虫の声・・・優雅だわ」

「あら、コオロギがないている」などなど。

西洋人は、虫の種類なんぞ無視。ぜんぶ一緒に聞こえるようですね。

テレビもラジオも何もない時代。日本人は虫の合唱を楽しみ、風や雨や雪など自然のものを眺めて楽しむという文化があります。きっと西洋の文化にはそういった習慣がないのでしょうね。だから、そういった能力が発達しなかったのだと思います。



 
春一番:春になって初めて吹く強い南風のことで、春の嵐。
貝寄風:貝を浜辺に吹き寄せる南の春風。
穀風:穀物の成長に働きかける東からの風。
・花信風:初春の風。花の咲く時節の到来を告げる風。
・光風:春の晴れた日に吹く、ここちよい風。雨上がりに、光をおびた草木を吹き渡る爽やかな風。
・東風:春に東の方向から吹く暖かい風。梅の花が咲く季節には「梅東風」、桜の季節は「桜東風」など呼び方が変わります。
・梅風:梅の花は春を告げる花とされています。梅の花の香りをとどけるような風。
・彼岸西風:釈迦涅槃会の頃に吹く柔らかな西風のことで、西方浄土から吹くと言われます。
・春嵐:春先に吹く強い風。
・まつぼり風:阿蘇山の西に外輪山の切れ目があり、この切れ目一帯でしばしば強風が吹きます。阿蘇山の火口原にたまった冷たい空気が吹き出すもので春や秋に吹きます。
この強風は「まつぼり風」と呼ばれ、農作物や農業施設に被害をもたらします。
 
春の代表的な風の名称です。ただ、ビュービュー吹いている風なのに、日本人はこうして色々な名前を付けています。

雨もまた同じです。

季節によって、その降り方によって色々な名前がついています。

とらえ方によっては、ただ恨めしいばかりの自然現象ですが、昔の人は一つ一つの自然現象に趣を感じて日々を楽しんでいたかもしれませんね。



春には佐保姫、秋には立田姫が登場する。さてさて、この二人のお姫様の正体は何なのでしょう。

春は佐保姫。春を司る女神様なのだそうです。平城京の東に位置する佐保山に住まわれている神様なのだそうです。
秋は竜田姫。秋を司る女神様なのだそうです。平城京西に位置する竜田山に住む神様なのだそうです。竜田姫は、「たつ」→「裁つ」という事から裁縫の神様ともされているそうです。

夏には、筒姫
冬には、白姫・・・一説では宇津田姫、黒姫とも言われている。
とその季節を司る女神様がいらっしゃいました。

さて、中国では
春は青帝、夏は炎帝、秋は白帝、冬は黒帝と男神様なのだそうです。
春は東、夏は南、秋は西、冬は北。
そうそう、風水によって京都の御所は幻獣によって守られています。
東は青龍(青い龍)、南は朱雀(火の鳥)、西は白虎(白い虎)、冬は玄武(緑の亀)
玄武の事を緑と表現しましたが、実は黒の事。昔、日本人は緑は黒を表現する事があります。
つややかな黒を表現する言葉で、例えば真っ黒でつややかな髪の毛を“緑の髪”とか表現しています。
この四方を守る幻獣の色からも分かるように、中国の四季の神様の色から来ているんだなぁ。

四季の女神様は、この色分けにはあまり関係ない感じがしますね。 しかし、四季を東西南北に分けてというのは同じですね。

古事記や日本書紀に佐保姫のお話しが出てくるのだそうですが、この人は別人なのだそうです。
古事記では“沙本毘売命”、日本書紀では“狭穂姫命”と言う名前で登場してきます。
この人は垂仁天皇の皇后で、兄の狭穂彦王が起こした「狭穂毘古の叛乱」に巻き込まれた、かわいそうなヒロインなのだそうです。

年代 作曲 作詞
明治36年 五世
杵屋勘五郎
如蓬 居士

約十三分くらいの大変短い曲ですが、三味線の手がお洒落でとても素敵な曲です。
先日、お囃子のお稽古で「春秋」をやる事になりまして、「・・・えっ?お囃子あったの?」という感じなのですが、だいたい長唄の演奏会ではお囃子が入らずに演奏される事が多いように思います。

長唄にも色々な流派がありますが、「杵屋」という名前が多いです。
同じ杵屋でも色々あるんですけれど、「杵屋」の宗家は杵屋六左衛門という名前です。宗家というのは、一番もとの家柄という事ですね。
この杵屋勘五郎。初代は杵屋の始祖と呼ばれた方なんですって。
で、その初代杵屋勘五郎の子どもが初代杵屋六左衛門となったそうで、杵屋勘五郎という名前は杵屋宗家一門の大切な名前のようです。

この五世杵屋勘五郎という人も十二世杵屋六左衛門の子で、十四世杵屋六左衛門の弟さんなんですって。

この曲は、前半が「春」後半が秋という二部構成となっています。
「桜花の巻」は風の曲、「紅葉の巻」は雨の曲となっています。
春の風・・・
「春一番」を代表して、そういえば風が強い季節ですね。
けれど、春の風は花粉を飛ばして目をカユカユにしてくれるし、家の中を砂だらけしてくれちゃったり、折角の満開の桜を散らしてくれちゃったり、あまりよいイメージがないので、情緒的には感じないのですが、こういったものを情緒としてとらえて、音楽を作っちゃうなんて凄いです。
この「桜花の巻」には一下がりという、微妙な音階の三味線の調子で弾かれるところがあります。
三味線の基本調子には「本調子」「二上がり」「三下がり」があります。
この一下がりは「本調子」の一の糸(一番太い糸)の音階が長二度低い音です。あまり西洋音階で三味線の音を表現したくありませんが、「シ・ミ・シ」なら「ラ・ミ・シ」という感じになって、心地よくないような心地よいような微妙な調子です。
この一下がりの部分は風の合い方もあって、つまり春風を表現しているところだと私は解釈しています。
お囃子の手で、川の流れとか海の怒涛とか。。。こういった流れのようなものを表現する時に「甲流し○○クサリ、乙流し○○クサリ」という感じに表現したりする事があります。
この一下がりのところにも「甲流し、乙流し」があります。
この手が入ると「水」をイメージしちゃうけれど、ここでは風の流れのイメージなんだと思います。
水と風では違うわけで、水の流れのつもりで打っちゃいけないんだなぁ。なんて、当たり前だけれど改めて思っちゃったりしました。
「桜花の巻」の最後は小鼓の打ち合せです。
御花満開の季節といえば「蝶」です。
私の幼少時代の家の近くには、大きなキャベツ畑がありました。
子どもの頃、よく友達と昆虫採集なんかしていたのですが、蝶々はこのキャベツ畑でよく採取したんですよね。
で、蝶々ヒラヒラというような場面というと、私は何故かキャベツにヒラヒラと舞う蝶のイメージがすぐに連想されちゃいます。
ついでに臭いまで想像しちゃったりして。。。。
ダメダメ、もっと綺麗な菜の花とかすみれとか、そういった御花畑に舞う美しい蝶じゃなくちゃ。
はあー。。。キャベツ臭い環境に背景はキャベツ。。。
こんなんじゃ、この曲の打ち合せは上手くできないなぁ。


秋は雨ですか・・・。
「秋の長雨」とかいうけれど。。。
確かに、秋の景色の雨は風情があるように思います。
一雨一雨、秋が深まっていって、そしてやがて寒い冬になっちゃうのですよね。
日本には様々な雨がありますね。
その降り方によっても名前が付いていますし、その季節、はたまたその日限定というのもあります。
「五月雨」というのは、梅雨期の雨。
五月なんですけれど、旧暦ですから今で言う六月頃なんですよね。
夏は「白雨」・「電雨」など
秋は「村雨」、冬は「冬雨」・「凍雨」など、初冬に降る「風花」とか色々あります。
この一つの「雨」に対しても、色々な名前を付けてくれちゃう日本人の情緒は世界一だと私は思っています。

この曲の「雨」は「時雨」です。「時雨」は晩秋から初冬に降る雨で、降ったり止んだり落ち着かない雨の事だそうです。
雨粒が糸のように細くて、サラサラと降るそんな情景が目に浮かびます。
「ザアー」という音ではなくて「サアー」というような静かな音がイメージされます。
つまり、この「紅葉の巻」の表現は時雨である事を常に念頭に演奏しなくちゃいけないのでしょうね。
けっこう綺麗な曲というのは細かい手が付いています。細かい手はついつい一生懸命に演奏しちゃうから、人の耳にはバンバンとかバシバシと荒っぽく聴こえちゃうのですよね。
手は細かいけれど、一生懸命に力んでしまわないように。。。
きっとこの曲では、そういった上級なテクニックが求められているのだと思います。

『櫻花の巻は風の曲』

弥生半ばの空麗らかに、野辺も山路も時めきて、げにのどかなる春の色。

佐保姫が、霞かけたる薄衣は、空さえ花に酔い心、尽きぬ眺めに分け行けば、

木の間に遊ぶ百千鳥、春の小唄や唄うらん。

折しもさっと吹く風に、水なき空へ立つ波の、また吹き下す雪の庭。

蝶も戯れてひらひらひら、ともに浮かれつ立ち舞える、

手ごとにかざす花の枝、茜色なる春のたそがれ。


『紅葉の巻は雨の曲』

薗生の垣に香をとむる、菊の葉露もいつしかに、自ずからなる秋の色、

手染めの糸の立田姫、織りだす錦くさぐさに、人の心のなびくまで、

見ゆる姿の優しさも、旗手の雲のいと早く、

時雨降るなりさらさらさら、濡れて色増す紅葉ばの、

数は八汐か九重の、十二単衣の紅と、数え数えて幾汐か、

雨に風情もいと深き、秋の名残を眺むならまし。

この曲ができた明治10年というと。

歴史の教科書の紐を解くと、『西南戦争』という有名な事件が起きた年代だ。

上野の山で現在は東京の空を眺めている西郷さん。彼が中心となって起きた反乱である。

明治の初めころ、西郷さんたちは大陸を侵略していく計画を立て、その第一歩として朝鮮半島の征服を企てたそうです。当時の朝鮮は鎖国を行っていて、武力を持って開国させようという計画です。

しかし、同じ薩摩出身の大久保利通らの反対にあって、西郷さんは明治政府を去り薩摩へと帰郷した。

この西郷さんの征韓論は、元武士たちの政府に対する不平の目をそむけるための政策だったらしい。

当時の武士たちは、武士の魂ともいえる刀を捨てる事を求められるなど、明治政府に対して不平を唱える人たちが少なからずいたそうです。まだ、誕生したての明治政府ですから、そういった不平分子が反乱を起こせばひとたまりもないと西郷さんは考えたのかも知れません。

西郷さんは、帰郷後、薩摩の土地に学校を作る。そして、生徒たちを挙兵して、明治政府に対して反乱戦争を起こしたのが西南戦争です。最大級の内乱。そして、最後の士族の内乱と言われている。


さて、長い時代を作り上げた徳川幕府が倒れ明治という時代がやってきた。

明治時代は大久保利通を中心に薩長の勤王の志士たちによって新しい政府が作り上げられていた。

この薩長の討幕軍の人たちというのは、武士は武士であったが身分の低い武士たちが中心となっていた。

どちらかというと貧しい生活をしていた人たちである。

明治維新の際に、そういった彼らが江戸という土地に入ってきたんですね。徳川幕府の御膝元で生計を立てていた人々の目には、山猿のような人々というように映ったかも知れませんね。

さて、明治五年にその明治政府の東京府庁から歌舞伎関係者が呼ばれで、

「外国から来たゲストや上流社会の貴人たちが見るにふさわしいものを上演しなさい」などと命令される。

これが“演劇改良運動”の始まりですね。九代目市川団十郎などが精力的に新しい歌舞伎づくりを行ったようてすが、なかなかすんなりいかなかったようです。

大きな失敗もあれば、小さな成功もあってかも知れません。

現在の歌舞伎。ちょっとした高級感を感じる世界ですね。それは、この当時からの変革が作り上げた雰囲気なのかも知れません。


明治四年、新政府の外交の長に立っていた岩倉具視が欧米諸国の視察団を作り欧米に渡った。

近代化した各国の文化に触れて、岩倉は目玉が飛び出るほどのカルチャーショックを起こしたそうです。

「こりゃ日本も負けてはならない」と思ったかどうか分かりません。

帰国後、彼は文化の近代化を目指し力を尽くしたそうだ。

岩倉の功績の中の一つに、欧米諸国に負けない芸能を確立するというものがある。

彼は、オペラ座でのオペラを鑑賞して、オペラ同等の芸能を日本も持たなくてはならないと考えたらしい。

当時の歌舞伎はやや衰退気味で海外からの要人を案内するには今一つの芸能であったらしい。

やっぱり能か・・・。能は武士が主となって支えた格式ある芸能。また、密かに公家の中でも能楽を愛し支えた芸能。能は衰退気味であった。そこで岩倉が助成したらしい。

歌舞伎から脱した長唄と能楽のコラボレーション。当時の新しい芸能である吾妻狂言も岩倉具視の助成があったとかなかったとか。


明治に入って芸能も先進国の影響を受けて様々な変化が訪れる。

変革の時代。その中を生き抜くという事は大変なことですね。

ここで紹介している長唄も、多くはこの変革というものを乗り越えて今があるわけですね。

改めてすごいなと思います。