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『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
自己満足ブログですみませんm(_ _)m

年代
作曲
作詞
1877年明治10年 三世杵屋正次郎
三世杵屋正次郎

この曲は
駿河の国。。。つまり静岡県の富士山麓の加島郷平垣というところの
松永さんという富豪のお庭の見事さを唄った曲だそうです。
松永さんのお庭は
千樹万木珍花奇草を集めた
それはそれは見事なお庭だったそうです。
翁。。。つまり松永さんのご主人の事
しかし、松永さんは明治十五年に五十五歳で亡くなられたのですが
この曲が作られた頃は五十歳でしょ。
翁というとおじいさんという感じ
今の感覚で言うと、八十とか九十歳というイメージがありますが
当時は五十歳でも充分おじいさんだったのでしょうね。
このお宅も昭和五、六年くらいまであったそうですが
その頃には見る影もなく朽ち果ててしまっていたそうです。

翁というと「三番叟」
曲としては、「三番叟」に似た雰囲気があり
格調高い透明感のある曲という感想があります。
まさか、
いくら富豪のお宅とは故
日本の松永さんのお宅のお話だなんて夢にも思いませんでした。
中国の○○殿とか
天界の××殿とか
そういったファンタテジーなイメージでした。
なんか、題名や歌詞で、すごい格式のある曲という印象を持っていた私ですが、そういえば、曲の感じは格式というよりは、綺麗さ、ファンタジーの世界とは違う現実の澄んだ空気を感じます。
あらためて「ふーんなるほどやっぱりそういう訳だったのか」と妙に納得しました。

私的感覚ですが、「翁」=「三番叟もの」というイメージで演奏しちゃったら、この曲は壊れちゃうのでしょうね。
この曲での「翁」は、つまり松永さんのご主人であって、三番叟に出てくるような、住吉神社の三つの神様の一人である「翁」ではないのですもの。
唄われている風景は、それはそれは豪華で美しいものなんですけれど、けしてファンタジーの世界ではないのですよね。
この辺を間違えて演奏しちゃったりすると、きっとこの曲の綺麗さ・透明感が壊れちゃうそんな感じがします。



言の葉に
祝せめ松の深緑
翁の友となるぞ久しき
凡千年の鶴は園生の松樹に巣籠り
また
亀の歳を万樹の主に比ぶれば
歳も若木の花の笑み
雨露の恵みに時を得て
倭唐土各国の
千草万木おしなべて
皇国も開化の花盛り

四季の眺めも時知らぬ
雪は芙蓉の峰つづき
行合う旅の人毎に
聞伝へ来つ名に愛でて
見れば珍花に家路を忘れ
筆も尽きせじ庭の絶景
世にも佳境と閑楽と
心残して帰るさの
土産にせよ園の一と節

寒山はもしかしたら仙人の一種かも知れません。

中国にはとても多くの仙人がいらっしゃいます。

さてさて、仙人ってどんな人なんでしょうね。うん?霞を食べて生きる人???

不老不死の術を会得して、俗世を捨て山の奥深くに居住する。そして、空を自由自在に飛び歩くことのできる理想な人物像。漢民族の古くからの理想の人間像なのだそうです。

生あるものが、老化なく死もないなどとはあろうはずがない。また、日本の八百比丘尼ではありませんが、とてつもなく長生きするというのは苦痛以外なんでもないと思いますが。そんなものに憧れるんですね。

紀元前三世紀頃に山東半島を中心に発生した神仙説や、その後、陰陽家の説を取り入れた方士によって発展。さらに道教の思想によって創造された存在のようです。

渤海湾中に・・・つまり海中に蓬莱山・方丈山・瀛洲(えいしゅう)山といった三つの山があり、そこには仙人が住み、不老不死の神薬があると言われた。秦の始皇帝や漢の武帝などが、その秘薬を取りに使者を送ったと言われる。

仙人とは結局、世俗を捨て修行を積み昇天した人の事をいうらしい。・・・なんだ不老不死ではなく、すでに人間としての存在を失っている人のことなのですね。


仙人というと男性をイメージしますが、女性もいるんですね。

崑崙山には西王母という美しい仙女がいたという。不老不死の桃を育てていたとか。その桃を食べちゃったのが『西遊記』の孫悟空ですね。

また、18、9歳くらいの姿で鳥のような長い爪を持っている麻姑という仙女もいる。

背中を掻く道具として「孫の手」というものがありますが、その語源となった仙女。三国時代に蔡経という人が麻姑の長い爪を見て「この爪で背中の痒いところをこの爪で掻いたら気持ちいいだろうな」と思ったらしいです。その気持ち分かります。しかし、相手は仙女。彼女を前にそんな事を思ったらヤバいでしょう。蔡経は彼女の怒りをかったとか。恐ろしいです。でも、蔡経は平民出身なのに仙人になった唯一の人なのだそうです。


そうそう、日本にも仙人は存在します。

天平時代に大伴仙人・久米仙人・安曇仙人という三人の仙人がいたという伝声があるそうです。

また大江匡房の『本町神仙伝』では、空海・沙門・日蔵・慈覚・円仁などが記録されているそうです。


長唄関連の調べものをしていると、たまに仙人と呼ばれる方々に出会います。

中国の古代の伝説にも触れられる長唄。長唄の作詞をした方々の博識に脱帽です。

年代
作曲
作詞
1911年明治33年
四世吉住小三郎
三世杵屋六四郎
坪内逍遥
唐の時代(七世紀頃)、寒山という人がいた。風狂の化け物と称される。カバの皮を着衣し、大きな木靴を履いていたと言われる。カバ・・・動物のカバですかね???中国にカバがいたのですかね。いやいや、カバ(樺)という樹木の皮を着ていたのでは???
寒山は普段は寒厳の洞窟に住んでいたそうですが、たびたび国清寺に訪れていたそうです。寺に来ては奇声を上げたり、奇異な行動をとって寺のもの困らせていた。しかし、追い払おうとすると彼の口から出る言葉はその一言一句が悉く道理にかなっているのだ。よく考えてみると、その心には道心が深く隠されている。その言葉には、玄妙なる奥義がはっきりと示されていた。
さて、寺の給仕係りをしていた拾得とは仲良しで、いつも寺の僧たちの残版を竹の筒につめて寒山に持たせて帰らせたそうな。(ある解説書には、実はこの二人は七代も昔からの仇同士だったのだそうですが・・・)
寒山と拾得を導いたのは豊干という国清寺の僧。
豊干は、二人について「見ようと思えばわからなくなり、わからなくなったと思うと見えるようになる。ゆえに、ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはなるまい。心の目で見るのだよ。寒山は文殊菩薩で、国清寺に隠れている。拾得は普賢菩薩。二人の様子は乞食のようであり、また風狂のようでもある。寺へ出入りしているが、国清寺の庫裡の厨では、使い走りをし、竈たきをしている」と言ったという。
「寒山拾得」というのはこの二人の伝説の事なんですね。

寒山と拾得の二人は、のちのち墨絵の題材となり多くの画家が絵を残しています。
日本の有名な画家たちも「寒山拾得図」を書いています。
この長唄の『寒山拾得』は雪舟の絵がイメージとか。墨絵の素朴枯淡な世界を描いているのだそうです。


『花のほかには』-fuyusun'sワールド-ちなみに「雪舟・寒山拾得」で検索するとこの絵がヒットした。

長野県飯田市の元善光寺 の宝物殿にある絵だそうだ。

『寒山拾得』というと研精会の代表的な長唄という印象がある。実際に研精会の五本の指に入るほどの曲らしい。
さて、この曲と『お七吉三』はセットで演奏される事が多い。その理由を調べたら意外な事を発見しました。二曲セットで坪内逍遥の舞踊劇なのだそうです。
『寒山拾得』が墨絵ワールドなら、『お七吉三』は極彩色豊かな浮世絵ワールドなのだそうです。
絵の中から主人公が出てきて踊るという趣向の作品らしいです。
坪内逍遥と島村抱月が作った文芸協会。その文芸協会の公演で発表されたそうです。
プログラム見て吃驚ですよ。
『人形の家』
『寒山拾得』・『お七吉三』
『ベニスの商人』
現代では考えられない組み合わせの番組編成です。
余談ですが、このイプセンの『人形の家』は島村抱月が翻訳をした作品。主演の松井須磨子の演技が好評で当時話題になったのだそうです。日本にはない新しい女性像に芝居をみた人々は拍手喝采だったのだそうですよ。


若かりし頃の私にとって坪内逍遥はシェークスピアの翻訳をした人として印象深い。なので『新曲浦島』を調べて彼の名前に接した時には本当に吃驚しました。
島村抱月は松井須磨子とコンビを組んで、西洋の作品を翻訳しそれを上演する事によって演劇改革を実現していたんでしょうね。
かたや坪内逍遥は西洋演劇の影響を受け、その良さを日本の古典演劇に組み込んで新しい演劇を作ろうとしていたのではないでしょうかね。・・・勝手な想像ですが。
宮本研の作品で『美しきものの伝説』というお芝居にこれらの方々が登場。ああ、この頃は本当に活気があっていいなぁと思います。まあ、世の中としては軍国主義であまり良い時代ではありませんが。
今の人たちよりも、ずっとずっと大きな夢があって、抑圧されながらもその夢の実現に向かって走っているという感じですね。この文芸協会のプログラムも、今の私の目には奇異に感じるけれど、当時としては素晴らしい発想だったのかもしれません。

森鴎外の小説にも『寒山拾得』ある。
仏教を題材にした作品というのは、その物語の真意を理解するのに大変時間がかかります。
はっきり言って、私もさっぱりわかりません。
ただ、人は外見で判断してはいけないということなんでしょうかね。
えっ???もっと深い意味があるんですかね。

ここに寒巌に居して既に経たる幾何年、棲遅して観自在なり。時に歌曲を口ずさんで、世のうきふしは白雲の、

寂々たるたたずまい。石を枕に芝草を、いつも敷き寝のつれづれは、古き仏の書を友、暦なけれど花に知る、

春は籃に早わらびを、秋は果実をとりどりの、この山間の楽しみよ、我が身ながらに羨まし。

聞けよ君、泉が撫ずる伯が琴、子期ならなくに我ならで、誰わきまえんこの調べ、面白の楽の音や、

いざ酌まん、泉に湧ける甘い酒、瓢に酌みて飲もうよ。

大海の、水にほとりはなきものを、寄り来る魚の千万が、同じ餌食にうち群れて、

相食噉(あいしょくかん)す癡肉団(ちにくだん)、悟らねばこそ妄執の、雲間にかすむ月の影。

出たわ出たわ、お月どのが出たわ、万年昔の山々は、今も見る山々、万年昔の渓々は、今も見る渓々、

万年昔の月影は、今も見る月影。

お婆おぬしはどこからここへ、父は何者母は誰、父は鎌、母はかっちり火打ち石、飛んだ火花が、

主か、おれじゃ、おれじゃ、主じゃ。

お爺おぬしはいくつになりゃる、おけは虚空と同い年、なんの虚空は死にゃろとままよ。

山河大地をわが子に持てば、こちは変わらでいつまでも。

浄躶々赤酒酒(じょうらせきしゃしゃ)、浄躶々赤酒酒(じょうらせきしゃしゃ)、浄躶々赤酒酒(じょうらせきしゃしゃ)、

山深く月澄みて、颯々(さつさつ)たる松の風、水音清き岩陰に、鶴の翅(つばさ)をやすめける。

長唄の賤機帯は、謡曲の『隅田川』と『桜川』と『班女』がミックスされたものと言われています。

この三つの作品の共通点は狂女が主人公だということ。ただし、『隅田川』と『桜川』は子供を失った悲しみによるもの。けれど、『班女』は恋しい男性を失った悲しみによるもの。


『狂う』という言葉の語源由来は「気が転じることから、また、神がかりになって激しく動き回ることから回転する様の『クルクル』を活用した語と思われる。漢字の『狂』は、犬に音符の『王』からなる字で、大げさに走り回る犬を表し、枠から外れて広がるといった意味を含んでいる」。

この賤機帯の船長も女に向かって「面白く狂ってみろ」というが、この「狂う」という意味は何か芸を見せて見ろと言う事のようだ。つまり常識という枠から外れるほどの芸を女に求めているという事のようだ。


『桜川』にしろ、『班女』にしろ物語は、探し求めていたものに再開しハッピーエンドの物語である。探し求めたものに出会い主人公は正気を取り戻す。

が、『隅田川』は、探し求めている子供はすでに死んでいて悲しいまま物語が終わってしまう。

これらの主人公たちが、もし今の心療内科なり精神科なりに受診すると、

外傷後ストレス障害(PTSD)とか混合性不安抑うつ反応(適応障害)というような診断名がつき、カウンセリングや内服薬の治療が施される事でしょう。

ある文献で、この『隅田川』の狂女を用いて、西洋と日本の“狂ったもの”に対する社会の受け止め方の違いを書いている人がいた。

西洋は魔女狩りと称して、社会から逸脱する「狂女」を魔女と称して処刑してしまっていた。

日本は、それに比べるとかなり狂女に対して寛容な社会である。

この『隅田川』でも、船長が「面白く狂ってみろ」とからかうが、子どもを思う母の心に打たれて船に乗せてやる。

この当時は人さらいとか、人身売買などなどは日常茶飯事の出来事。かなり物騒な世の中である。と言う事で、この女が体験したことは、もしかしたら明日のわが身かもしれないという思いが、この当時の女たちには誰でもあったようだ。それが故に、子どもを失ったショックで狂乱する女に対して社会は寛容なのかもしれない。

しかし、西洋は逸脱するものは排除するんですね。はっきりしているなぁ。「yes」か「no」、「白」か「黒」とはっきりしている文化ですものね。


能の『桜川』や『班女』は失ったものの再会。つまりストレスの除去によって正気を取り戻す。

「よかったね、よかったね」と観客は明るく拍手を送る事ができますね。

しかし、『隅田川』は子供の死を知り、正気を取り戻すことなく「狂ったまま」の状態で幕となる。

その「狂ったまま」に美を求めたものと言われますが、ズシーンと心に響くというか、悲しいままで席を立つのが憚れますよね。

もともと一中節として作詞した壕越二三治は、「ああ、真っ暗やな・・・どないしまひょ」と思ったかわかりませんが、ハッピーエンドの物語の要素も加えて、最後の残酷さを和らげたのではないでしょうか。

年代
作曲
作詞
1828年文政11年
四世杵屋三郎助
(後の十世杵屋六左衛門)
(壕越二三治)

1751年森田座で

壕越二三治作詞、宮崎忠五郎 作曲の一中節で『峰雲(おのえのくも)賤機帯』というものを、三郎助が長唄化したものです。能の『隅田川』『斑女』『桜川』を取材した曲。一中節の歌詞・曲を参考に日枝神社の山王祭の際に山車で奉納する舞踊として作られた長唄。本名代を『八重霞賤機帯』という。

能の『隅田川』のストーリーは、
ある日、隅田川の舟の渡し守が、客を待っていると、一人の狂女がやってきました。
女は、都の北白川からさらわれた子供を捜して、東の果ての隅田川に着いたという。
女は船頭に向こう岸に渡してくれと頼んだ。船頭は、意地悪く面白く狂わなければ舟には乗せないといいました。
狂女は心無い船頭の言葉を咎めました。
そこへ、白い鳥が川にやって来たのを見た付けた狂女。さらわれた子供を思い狂い始めたのでした。
狂女は「名にし負はばいざこと問はん都鳥 わが思う人はありやなしやと」と「伊勢物語」の業平の歌を用いて、改めて船頭に舟に乗せてくれように懇願した。船頭はその母の優しさに心打たれ舟に乗せて対岸へと向かいました。
そして、船上で去年あった事件を語り始めました。

ちょうど去年の今日、人攫いに連れられた梅若丸という子供が長い旅路に疲労衰弱しこの地に捨て置かれた。地元の人が看病したがその甲斐もなく息を引き取った。母を懐かしみ念仏を唱えて息を引き取った…。

まさに母親の探す子供のお話でした。
母親は船上で泣き崩れた。船頭は、そんな母親を哀れみました。そして、母親を子供のお墓である塚に連れて行きました。
母親は塚の前で我が子の為に気を取り直し念仏を唱え始めました。すると雑踏の中から梅若丸の声が聞こえたのです。そして、顔を上げると塚より梅若丸の姿が現れたのです。
母と子は久々の再開に手を取り合うが、すぐに梅若丸の姿は幻と消えてしまい、母の目の前には塚があるのみだった。
というお話です。

なんか可哀相なお話ですよね。
京都から東京の隅田川までの道のり。長かったでしょうね。
本当に、この曲を聴くたびに何か熱いものがこみ上げてきちゃいます。

長唄の場合、
船に乗せて欲しいという狂女に対して、船頭は
「この水面の櫻を全部すくったら乗せてあげよう」と言うのですね。
狂女は川に入り、水面に浮かぶ櫻の花びらをすくい始めるのですね。でも、なかなか上手くすくう事ができない。
その様がまるで、櫻の花びらと戯れて見える・・・
この下りの合方を「花すくいの合方」といいます。
穏やかで、楽しく・・・そんな雰囲気の合方で私は大好きです。

さて、この曲には一つの怪談体験があります。
ある演奏会でこの「賤機帯」の演目がありました。…誰の演奏だったかな…?
非常によいメンバーの演奏だったのは覚えています。
後々の自分の勉強用にテープにこの演奏を録音したんですよね。(…いいのかな?)
で、家に帰ってその曲を聴いたんですよ。
そうしたら、ちょうどクドキ部分かな?とっても唄の聞かせどころでしんみりしている場面に来たら…「お母さん」と一言見知らぬ男の子の声が入っていたのです。ゾォー(寒)何回か聞きなおしましたが聞き間違いでなく、「お母さん」と男の子の声が入っていました。
国立小劇場の演奏会。そんな場所でそんな声を出す人もいないし、周りに子供なんていた記憶はないし…あの声は何だったのでしょう?
今もそのテープは家にありますけれど、怖くて聞けません。いい演奏だったのですが…。

さて、お話変わって、亡くなった大皮の師匠から聞いた話をここで一つ。
この曲にお囃子に「翔り」と言う手が入ります。すごっく間が難しい手です。翔りが出てくる事って他にもありますが、この曲の翔りは難しい。
「翔り」というのは狂乱した人物の登場に使う手だそうです。
ある有名な方が狂乱とはどのような状態か。それを知るために都内の有名な精神病院の外来で一日座って、心を病んだ方々を観察してこの翔りのノリを研究したそうです。
本当にこだわり症の方っていらっしゃいますね。でも、なんか風景を想像するとすごっく怪しい(笑)。
その方は大変有名な方なんですけれど、その方の「賤機帯」の小鼓を聞くと「ああ、あそこの病院で研究した翔りだな」なんて思ってしまいます。

名にし吾妻の角田川。その武蔵野と下総の、眺め隔てぬ春の色、桜に浮かぶ富士の雪、

柳に沈む筑波山、紫匂ふ八重霞、錦をここに都鳥、古跡の渡なるらん。

春も来る、空も霞の滝の糸、乱れて名をや流すらん。

笹の小笹の風厭ひ、花と愛でたる垂髫子が、人商人にさそはれて、行方いづくと白木綿の、神に祈りの道たづね。

浮きてただよふ根岸の船の、これがこれがていざ言問はん、我が思ひ子の。

有りや無しやと狂乱の、正体なきこそあやなけれ

「船人是を見るよりも、好い慰みと戯れの、気違ひよ、気ちがひよと、手を打ちたたき囃すにぞ」

「狂女は聞いて振返り、ああ気違ひとは曲もや」

物に狂ふは我ばかりかは、鐘に桜の物狂ひ、嵐に波の物ぐるひ、菜種に蝶の物ぐるひ。

三つの模様を縫ひにして、いとし我子に着せばやな、子を綾瀬川名にも似ず、心関屋の里ばなれ。

縁の橋場の土手伝ひ、往きつ戻りつ此処彼此処、尋ねる我子はいづ。くぞや、教えてたべと夕汐に。

「船主なほも拍子にかかり。それ其の持つたるすくひ網に、面白う花を掬ひなば、恋しと思う其人の、在処を教え参らせん」

「なに、面白う花をすくへとか。いでいで花を掬はん」

あら心なの川風やな、人の思ひも白浪に、散り浮く花を、掬ひ集めん、心してふけ、川風。

沖のかもめの、ちりやちりちり、むらむらぱっと、ぱっと乱るる、黒髪も、取りあげて結ふ人もなし。

「船長今は気の毒さ、何がなしほにと立ち上がり」

そもさても、和御寮は、誰人の子なれば。何程の子なれば。尋ねさまよふ其の姿、見る目も憂しと、諫むれば。

音頭音頭と戯れの、鼓の調べ引締めて、鞨鼓を打って見せうよ。

面白の春の景色や、筆にもいかで尽さん、霞の間には樺桜、雲と見えしは三吉野の、吉野の川り滝津瀬や。

風に乱るる糸桜、いとし可愛の児桜、したひ重ねし八重桜、一重桜の花の宴、いとしらし。

千里も薫る梅若や、恵みを仰ぐ神風は、今日ぞ日吉の祭御神楽、君が代を、久しかれとぞ祝ふ氏人

年代
作曲
作詞
1825年文政八年 二世杵屋正次郎
二世桜田春治助

汐汲は、能の「松風」がベースとなっている曲です。
ストーリーはこんな感じです。

昔(平安朝時代)、都に在原行平という人がいて、ある咎で須磨の芦の屋に流されました。そこで、汐汲み女の松風・村雨という二人の姉妹に出会いました。
二人は行平の世話をするようになり、そして定番の恋物語に。
えーっ、二股???まあ、お堅いこと抜きで。昔の恋愛は非常に穏やかというか、今の感覚とはちと違うのですから。
けれど、昔からこういうパターンには別れが付き物と申しましょうか、三年の月日が経ち
行平は罪を許され、都に帰る事になったのです。
行平は二人が浜に出ている間に、出会いの浜辺にある松の枝に形見の品として、烏帽子と狩衣を掛け姿を消したのです。
二人の姉妹は、また何時か行平に会えると信じて過ごしていたのですが、風の便りに、都で行平が亡くなったという事を知り、形見となった二品を眺めつつ儚く生涯を終えたのだそうです。
そして、それから長い年月が経ったある日。旅の僧がこの浜辺を通りかかりました。僧はそこで二人の汐汲み女に出会います。
二人は僧に「我々は松風、村雨と申して、この世の者ではありません」と僧に明かし始めました。
二人は死しても恋の未練によってこの世に留まり続けていたのです。是非、僧の回向によって妄執を払い我々の苦痛を取り除いてくれと頼むのでした。
松風は形見の烏帽子と狩衣を身にまとい、行平を求め舞いはじめました。
そして、時は経ち朝日が上りはじめると、僧の目の前から二人の姿は消えたというようなお話です。
…という事は僧は二人の魂を回向してあげなかったのかな?
まあ深くは考えない。二人の魂が朝日と共に消えちゃったでいいでしょう。
…すごっくいい加減…
長唄の「汐汲み」は、松風・村雨が亡くなってからの後日談の方のストーリーで、この松風が行平を思い舞っているという所を表現されています。
ですから、日本舞踊の場合では村雨は舞台に出てきません。
あの烏帽子を被って、汐汲みスタイルで出てくる汐汲み女は松風です。烏帽子と狩衣は行平が残していった形見の二品。

さてこの長唄も七変化の一つです。
「越後獅子」なんかと同年代。…越後獅子の記事を読んで下されば分かりますが、当時、江戸の歌舞伎は市村座と中村座がライバル同士でした。
市村座は「汐汲」「女三ノ宮」「梶原源太」「願人坊主」「関羽」「猿回し」「老女」の七変化を出していて、それに対抗して中村座は「越後獅子」等七演目の七変化を当てていました。
この勝負、後組みの中村座の勝利だったみたいです。
という事で「汐汲」の初演は七変化の一つとして、三代目坂東三津五郎が演じました。
なんか、歌舞伎とか古典のものはお堅いイメージありますけれど、当時は庶民の娯楽そのもので生き生きしていたんだな。

けっこうこの曲、踊りの会などで出る演目で、もう何度も「汐汲」の舞踊を観ているんですけれど、あの主人公が亡霊だったなんて、勉強するまで知りませんでした。
それに、能の「松風」がベースというのは知っていましたが、その物語が悲恋物だった。その上、リアルタイムの二人の恋物語じゃなくて二人が亡くなった後の後物語りがベースになっているという事を今回初めて知りました。
ただ、以前ある踊りの会に行って、主人公が花道のすっぽんから登場したのを観て「あらっ?」と思ったことがあります。あのすっぽんから出てくる登場人物って、大概この世のものではないもの(幽霊とか化身とか妖怪とか)。幽霊と知らなかった私はとても不思議でなりませんでした。演出によっては花道から桶を担いで登場など色々なので不思議に一応は思いましたが、そういう演出だろうと片づけていました。

やっぱり幽霊だったのですね。

明治から昭和にかけてご活躍だったお囃子さんの書いた文献に、

あの主人公は狐の化身だという吃驚な説が書いてありました。

その根拠は何でしょうね。

ある方から、

「七代目尾上梅幸丈が汐汲を踊るとき、スッポンから“来序”で登場する」というお話を教えていただきました。

『来序』は狐とか狐の化身等が登場する際に用いられるお囃子の手組です。

また早来序という来序のお仲間の手があります。実は、この汐汲の「傘尽くし」の下りで早来序まがいの手がついていますが、これも「狐の化身」というお話の根拠になるのですかね。

舞台の須磨には関守稲荷神社があります。百人一首にある源兼昌の歌に「淡路島 通う千鳥の鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守」に由来して「関守」と名付けられたそうだ。いつの時代からあるかは分かりませんが、このあたりにあった須磨の関の守護神なのだそうです。もしかして、このお稲荷さんが関わっている??!

須磨のお稲荷さんは私の推測で何の根拠もありません。

ただ、来序ですっぽんから登場するという事はきつねの化身という設定演出というのがあるようです。


うーん、古典って奥が深いですね。
綺麗、綺麗でしかこの曲を観ていなかったけれど、味わいがちょっと変わってきました。

松一と木、変らぬ色の印とて、今も栄えて在原や、形見の烏帽子狩衣、

着つつ馴れにし俤を、うつし絵島の浦風に

床しきつても白浪の、寄する渚に世を送る

いかにこの身が蜑(あま)じゃと云うて、辛気々々に袖濡れ濡れて

いつか嬉しき逢瀬もと、君にや誰かつげの櫛、さし来る汐を汲まうよ、汲み分けて

見れば月こそ桶にあり。これにも月の入りたるや

月は一つ、影は二つみつ

見られつも雲の上、此処は鳴尾の松蔭に、月を荷うて

やすらひぬ。見渡せば面白や、馴れても須磨の夕まぐれ、漁る舟のやつしつし

浪を蹴立てて友呼び交はす、はんま千鳥のちりやちりちり、ちりやちりちりちりちりぱつと塩屋の煙さへ

立つ名厭はで三歳はここに、須磨の浦曲の松の行平、立帰り来ば、

我も小蔭にいざ立寄りて、磯馴松の懐かしや

かたみこそ今は仇なれ見初めてそめて。

逢うた其時やつい転び寝の、帯も解かいでそれなりに、

二人が裾へ狩衣を、掛けてぞ頼む睦事に

可愛い鴉のエエ何じゃやら、泣いて別りよか笑うて待とか、

待たばこんとの約束を、忘るる隙は、無いわいな、

それから深う言ひかはしまの、水も洩らさぬなかなかに

濡れによる身は傘さしてござんせ、人目せき笠いつ青傘と

ほんに指折り其の日傘、待つに長柄のしんきらし、それえそれえ。

気をもみぢ傘白張の、殿御に操立傘も、相合傘の末かけて

誓文真実爪折傘と云はれたら、思ひも開く花傘

しほらしや

暇申して帰る波の音の、須磨の浦かけて、村雨と聞きしも今朝見れば、

松風ばかりや、残るらん、松風の松風の噂は世々に残るらん