1828年文政11年 | (後の十世杵屋六左衛門) |
1751年森田座で
壕越二三治作詞、宮崎忠五郎 作曲の一中節で『峰雲(おのえのくも)賤機帯』というものを、三郎助が長唄化したものです。能の『隅田川』『斑女』『桜川』を取材した曲。一中節の歌詞・曲を参考に日枝神社の山王祭の際に山車で奉納する舞踊として作られた長唄。本名代を『八重霞賤機帯』という。
能の『隅田川』のストーリーは、
ある日、隅田川の舟の渡し守が、客を待っていると、一人の狂女がやってきました。
女は、都の北白川からさらわれた子供を捜して、東の果ての隅田川に着いたという。
女は船頭に向こう岸に渡してくれと頼んだ。船頭は、意地悪く面白く狂わなければ舟には乗せないといいました。
狂女は心無い船頭の言葉を咎めました。
そこへ、白い鳥が川にやって来たのを見た付けた狂女。さらわれた子供を思い狂い始めたのでした。
狂女は「名にし負はばいざこと問はん都鳥 わが思う人はありやなしやと」と「伊勢物語」の業平の歌を用いて、改めて船頭に舟に乗せてくれように懇願した。船頭はその母の優しさに心打たれ舟に乗せて対岸へと向かいました。
そして、船上で去年あった事件を語り始めました。
ちょうど去年の今日、人攫いに連れられた梅若丸という子供が長い旅路に疲労衰弱しこの地に捨て置かれた。地元の人が看病したがその甲斐もなく息を引き取った。母を懐かしみ念仏を唱えて息を引き取った…。
まさに母親の探す子供のお話でした。
母親は船上で泣き崩れた。船頭は、そんな母親を哀れみました。そして、母親を子供のお墓である塚に連れて行きました。
母親は塚の前で我が子の為に気を取り直し念仏を唱え始めました。すると雑踏の中から梅若丸の声が聞こえたのです。そして、顔を上げると塚より梅若丸の姿が現れたのです。
母と子は久々の再開に手を取り合うが、すぐに梅若丸の姿は幻と消えてしまい、母の目の前には塚があるのみだった。
というお話です。
なんか可哀相なお話ですよね。
京都から東京の隅田川までの道のり。長かったでしょうね。
本当に、この曲を聴くたびに何か熱いものがこみ上げてきちゃいます。
長唄の場合、
船に乗せて欲しいという狂女に対して、船頭は
「この水面の櫻を全部すくったら乗せてあげよう」と言うのですね。
狂女は川に入り、水面に浮かぶ櫻の花びらをすくい始めるのですね。でも、なかなか上手くすくう事ができない。
その様がまるで、櫻の花びらと戯れて見える・・・
この下りの合方を「花すくいの合方」といいます。
穏やかで、楽しく・・・そんな雰囲気の合方で私は大好きです。
さて、この曲には一つの怪談体験があります。
ある演奏会でこの「賤機帯」の演目がありました。…誰の演奏だったかな…?
非常によいメンバーの演奏だったのは覚えています。
後々の自分の勉強用にテープにこの演奏を録音したんですよね。(…いいのかな?)
で、家に帰ってその曲を聴いたんですよ。
そうしたら、ちょうどクドキ部分かな?とっても唄の聞かせどころでしんみりしている場面に来たら…「お母さん」と一言見知らぬ男の子の声が入っていたのです。ゾォー(寒)何回か聞きなおしましたが聞き間違いでなく、「お母さん」と男の子の声が入っていました。
国立小劇場の演奏会。そんな場所でそんな声を出す人もいないし、周りに子供なんていた記憶はないし…あの声は何だったのでしょう?
今もそのテープは家にありますけれど、怖くて聞けません。いい演奏だったのですが…。
さて、お話変わって、亡くなった大皮の師匠から聞いた話をここで一つ。
この曲にお囃子に「翔り」と言う手が入ります。すごっく間が難しい手です。翔りが出てくる事って他にもありますが、この曲の翔りは難しい。
「翔り」というのは狂乱した人物の登場に使う手だそうです。
ある有名な方が狂乱とはどのような状態か。それを知るために都内の有名な精神病院の外来で一日座って、心を病んだ方々を観察してこの翔りのノリを研究したそうです。
本当にこだわり症の方っていらっしゃいますね。でも、なんか風景を想像するとすごっく怪しい(笑)。
その方は大変有名な方なんですけれど、その方の「賤機帯」の小鼓を聞くと「ああ、あそこの病院で研究した翔りだな」なんて思ってしまいます。