長唄の賤機帯は、謡曲の『隅田川』と『桜川』と『班女』がミックスされたものと言われています。
この三つの作品の共通点は狂女が主人公だということ。ただし、『隅田川』と『桜川』は子供を失った悲しみによるもの。けれど、『班女』は恋しい男性を失った悲しみによるもの。
『狂う』という言葉の語源由来は「気が転じることから、また、神がかりになって激しく動き回ることから回転する様の『クルクル』を活用した語と思われる。漢字の『狂』は、犬に音符の『王』からなる字で、大げさに走り回る犬を表し、枠から外れて広がるといった意味を含んでいる」。
この賤機帯の船長も女に向かって「面白く狂ってみろ」というが、この「狂う」という意味は何か芸を見せて見ろと言う事のようだ。つまり常識という枠から外れるほどの芸を女に求めているという事のようだ。
『桜川』にしろ、『班女』にしろ物語は、探し求めていたものに再開しハッピーエンドの物語である。探し求めたものに出会い主人公は正気を取り戻す。
が、『隅田川』は、探し求めている子供はすでに死んでいて悲しいまま物語が終わってしまう。
これらの主人公たちが、もし今の心療内科なり精神科なりに受診すると、
外傷後ストレス障害(PTSD)とか混合性不安抑うつ反応(適応障害)というような診断名がつき、カウンセリングや内服薬の治療が施される事でしょう。
ある文献で、この『隅田川』の狂女を用いて、西洋と日本の“狂ったもの”に対する社会の受け止め方の違いを書いている人がいた。
西洋は魔女狩りと称して、社会から逸脱する「狂女」を魔女と称して処刑してしまっていた。
日本は、それに比べるとかなり狂女に対して寛容な社会である。
この『隅田川』でも、船長が「面白く狂ってみろ」とからかうが、子どもを思う母の心に打たれて船に乗せてやる。
この当時は人さらいとか、人身売買などなどは日常茶飯事の出来事。かなり物騒な世の中である。と言う事で、この女が体験したことは、もしかしたら明日のわが身かもしれないという思いが、この当時の女たちには誰でもあったようだ。それが故に、子どもを失ったショックで狂乱する女に対して社会は寛容なのかもしれない。
しかし、西洋は逸脱するものは排除するんですね。はっきりしているなぁ。「yes」か「no」、「白」か「黒」とはっきりしている文化ですものね。
能の『桜川』や『班女』は失ったものの再会。つまりストレスの除去によって正気を取り戻す。
「よかったね、よかったね」と観客は明るく拍手を送る事ができますね。
しかし、『隅田川』は子供の死を知り、正気を取り戻すことなく「狂ったまま」の状態で幕となる。
その「狂ったまま」に美を求めたものと言われますが、ズシーンと心に響くというか、悲しいままで席を立つのが憚れますよね。
もともと一中節として作詞した壕越二三治は、「ああ、真っ暗やな・・・どないしまひょ」と思ったかわかりませんが、ハッピーエンドの物語の要素も加えて、最後の残酷さを和らげたのではないでしょうか。