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『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
自己満足ブログですみませんm(_ _)m

年代
作曲
作詞
1904年明治37年 五世杵屋勘五郎
大槻如電


お囃子の流派に望月流という流派があります。お囃子の流派としては最大の流派。
四世望月長九郎が七世望月太左衛門を襲名した際に、襲名の披露曲として発表したのが『島の千歳』です。

さて、この曲の誕生の馴れ初めは・・・
この七世太左衛門と作詞の如電氏はお互いに仙台出身だったそうです。同県人のよしみという事で、太左衛門氏が如電氏に作詞の依頼をしたのだそうです。

京都の飛鳥井家に『雨の曲』という雨乞いのような曲があるのだそうです。
この曲を奏でると七日の間に雨が降るのだそうです。
その歌詞が書いてある扇を如電は所有していたらしいです。
その扇には、月の出る夜空の大海に小さな岩があって、丹頂鶴が舞い遊ぶといった絵が書いてあり、如電はその図をヒントにこの曲の歌詞を作成したのだそうです。
こういう方々の想像力というのは、本当に凄い。扇の絵からこんな文学的な言葉がつらつら出てくるなんて・・・。
凡人の私には、その思考回路が不思議でたまりません。

“島の千歳”とは白拍子の元祖と言われる人の名前だそうです。
曲の題名は“千歳”と書いて「せんざい」と読んでいますが、白拍子の名前は“千歳”で「ちとせ」なのだそうです。
何故、「ちとせ」ではなく「せんざい」なのか。
これは、三番叟ものに由来していまして、翁・千歳・三番叟の「せんざい」のイメージを重ね、より目出度さを強調したのだそうです。
目出度さの象徴の一つに“鶴亀”がありますが、鶴は千歳まで生きる目出度い鳥とされています。
つまり、扇に書いてあった鶴から、千年生きる目出度い鳥だ。そうそう、千年生きる、つまり千歳・・・三番叟の千歳だ。そういえば、白拍子の元祖は千歳だ・・・。こんな感じに如電氏の頭の中はクルクルと膨大スケールのイメージが次から次ぎと思い浮かんだのでしょうね。

白拍子というと、私はすぐに義経の愛人である静御前や平家物語に出てくる祇王・祇女がすぐに浮かぶ。
白拍子の舞は、原点は巫女の舞なのだそうです。よく神前結婚式で巫女さんが舞ってくれますが、あれが元祖らしいです。
巫女さんたちの行脚で、方々布教活動として舞を披露していたのだそうですが、次第に、宗教から離れ芸能へと発展。当時の遊女が舞うようになったのだそうです。
つまり、白拍子というのは遊女なんですね。
後白河天皇は超白拍子オタクだったそうです。
結局、もとを正せば遊女ですから、悲恋とか悲しいストーリーのヒロインなんですよね。
あまり、白拍子がヒロインのお話でハッピーエンドを知りませんよね。
静御前も結局は義経と別れ別れになっちゃうし、祇王・祇女も悲しいストーリーのヒロインですし、、、そうそう、娘道成寺のヒロインの花子さんも白拍子ですが、、、清姫の霊にのり移られて大蛇に変身しちゃうのですものね。決して、ハッピーではありませんね。

さて、この曲は七世望月太左衛門氏のための曲ですから、望月流の秘曲というべき曲だと思います。
というか、発表されて二十年以上ほとんど演奏されずお蔵入りのような曲だったそうです。ところが、大正十二年頃、八世望月太左衛門が「あまり演奏されていない曲」の発掘を杵屋栄ニ氏に依頼。同年の夏にこの曲が再び演奏されたのだそうです。
これが現在、『島の千歳』が比較的メジャーになった由縁だそうです。
私自身もそうですが、小鼓のお稽古をする人は「いつかこの曲を演奏できるようになりたい」という目標の曲だと思います。何しろ、長唄と三味線。お囃子は小鼓一人のワンマンショーですから、舞台面としてカッコいいです。
けれど、それだけに難儀な曲。
普通、お囃子というのは伴奏に追従する役割がありますが、この曲は小鼓の為に作られた曲ですので、小鼓がリーダーシップをとって長唄や三味線をリードしなければいけない曲なのだそうです。
長唄のチームリーダーは一般的にタテ三味線なんです。その責任は並大抵ではないようです。まあ、三味線に限らず複数の人をまとめるリーダーというのは大変な役割ですよね。どんな世界でもリーダーはまとめられる力量が求められます。
つまり、単に小鼓が上手とかそういったレベルでは本当の『島の千歳』の演奏はできないのでしょうね。
亡くなった大皮の師匠が
「『島の千歳』は“許しもの”と言って、容易く教えてもらう曲じゃないんだ。“そろそろ、この曲を演奏できる力量が付いたかな”という段階になって、師匠にいきなり“『島の千歳』を打ってごらん”と言われて、まず師匠にその力量を試され、力が認められなければ演奏できない曲なんだ」と仰っていた事を記憶しています。
難しい曲というのは数知れなくありますが、中でも『島の千歳』は特別な曲という観念が私にはあります。
ああ、いつか大舞台でこの曲を演奏したいのです。また、この曲をきちっと演奏できるレベルまで精進したいものです。

丹頂緑毛の色姿朝日うつろう和田津海
蓬莱が島の千才がうたう昔の今様も
変わらぬ御代の御宝鼓腹の声腹の声打よする
四方のしき波立つか返るかくるか立か
返す袂や立烏帽子 水のすぐれて覚ゆるは
西天竺のはくらう池 しんせうきよゆうに澄渡る
こんめいちの水の色行末久しく澄とかや
賢人の釣を垂しは げんりょうらいの川の水
月影流もるなる山田のかけいの水とかや
芦の下葉おとづるは三島入江の
氷水春立つ空の若水は
汲むとも汲むともつきもせじつきもせじ

ところで、肝心な喜撰という人はどういう人なのでしょうね。

正体不明。紀貫之の変名・・・つまりペンネームではないかという説もあるらしい。

紀貫之と喜撰は親戚だと言われている。

喜撰の父親は紀名虎の息子の紀有常であるという説がある。名虎は娘の種子を仁明天皇に、静子を文徳天皇に献上し権力を握るやり手さん。娘たちはそれぞ皇子は産むしね鼻高々。

けれど、静子の産んだ惟喬親王と藤原良房の孫である惟仁親王の間に立太子問題で争いごとが生じる。結局、藤原良房サイドの勝利。こんなドロドロした世界に生きていた有常。世を捨てて自由気ままな仙人暮らしを選択したのかもなぁと思う。

喜撰の由来は「紀氏出身の仙人(=紀仙)」だという説を唱えている人がいた。大きなお寺の中でも僧同士の権力争いがあったりしますものね。都から離れた山の中でひっそりと仙人暮らし。泥沼の中に生きていた有常ならそういう生き方を選びそうな気がするな。

さて、喜撰は

「わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり」

という有名な歌がありますが、この一首だけで六歌仙に選ばれたそうです。

え~~ェ!嘘ーォ!!!

紀貫之と親戚だから???


「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」

紀貫之の書いた『土佐日記』の冒頭である。彼は女性と偽って日記を記している。

そんな人ですから、もしかして「紀氏出身の仙人」を装って喜撰というペンネームを使っていたのではないかというのが、もしかしたら喜撰=紀貫之と仮定した方の根拠かも知れません。


『喜撰法師-その二-』にも出てきた小野小町。

待針は小町針がなまってつけられた名前と言われています。「アナがないから小町針」・・・

絶世の美女でプライドが高く、世の殿方を寄せ付けなかったと言われている小町。

しかし。。。もしかしたら、好きな殿方と睦みあう事ができないから殿方を突っぱねていたのかも知れない。

先天的な奇形で小町針状態で生まれてくる人がいるそうだ。

とろがですね、

「百人一首の小野小町は後ろ向きの絵であるのはなぜだろうか」という観点で小野小町を研究している方がいる。そういった説を唱えている人で、小町は男性だったと仮定する人がいた。

名虎の娘である静子が生んだ 惟喬親王はお野宮という邸宅に住んでいた。自らも「小野宮」と呼んでいたらしい。その彼が女性として和歌を詠んだりする際のペンネームが小野小町じゃないかですって。

なるほど・・・。素晴らしい仮説です。

確かに、坂東玉三郎もそうですが、男性が女性に変身すると女性以上に女らしく美しい人がいる。それも妖艶で女性にはない美しさを持っている。この仮説が本命かも知れませんね。

六歌仙の中で、のちのちになっても能や歌舞伎で取り上げられているのは小野小町ですね。

長唄にも、晩年の小野小町を取り上げている『関寺小町』(二世杵屋六三郎と唄方の冨士田吉次との合作)というのがある。

能には「草紙洗小町」「通小町」「鸚鵡小町」「関寺小町」「卒都婆小町」などがあります。

美しきなぞ多き女性は物語の主人公にしやすいですものね。

六歌仙を主人公とした歌舞伎の題材で有名なものがもう一つある。『積恋雪関扉』という作品である。

六歌仙の世界を舞台としたものなのだそうですが、登場人物は大友黒主・小野小町・僧正遍昭の三人である。

この作品。よく日本舞踊の会で目にするプログラムです。長唄好きな私としては残念なんですけれど、常磐津の演目です。

〈あらすじ〉

雪の降り積もる逢坂の関では、不思議に小町桜が咲いている。そのかたわらには良岑宗貞(後の僧正遍照)が隠棲していたが、元の恋人小野小町姫が通りかかり、その仲を関守の関兵衛が取持とうとする。しかし関兵衛はどこか怪しい。小町姫はそれを知らせに都へと走る(上巻)。じつは関兵衛こそは天下を狙う大伴黒主であった。これまでその機会をうかがっていたのだが、星占いの結果今がその時と知る。早速、野望の成就祈願に使う護摩木とするため、小町桜を切り倒そうとする。ところがそのとたんに五体がしびれて身動きが取れない。するとそこに薄墨と名乗る遊女が現れ、関兵衛をくどきはじめる。しかし実は薄墨こそ、小町桜の精であった。小町桜の精は傾城薄墨となって宗貞の弟である安貞と相愛の仲であったが、その安貞を黒主に殺されており、その恨みを晴らすため人の姿となって現れたのである。やがて二人は互いの正体を現し、激しく争うのだった(下巻)。

                                               -Wikipediaより-

小町と遍照は実際にも恋愛関係にあったという噂もある。絶世の美女とハンサムモテモテのプレイボーイのカップル。でもね、違う噂では小町は天下のプレイボーイ。日本中の女性の憧れのまとである在原業平の求愛を突っぱねたという伝説があり、実は男嫌いの潔癖女性だったのではないかという話もある。

まあ「自分はモテるんだ」とか「自分を袖にする女なんているわけがない」と自信たっぷりの業平タイプが嫌いだったのかもですがね。

遍照は桓武天皇の孫で大納言良岑朝臣安世の八番目の子供。美男でけっこうモテモテの男性だった。

寵愛を受けた仁明天皇の崩御によって出家したと言われている。

小町はクレオパトラ・楊貴妃に並ぶ世界三大美女の一人だ。出生や身分等謎だらけ。この当時の女性というのは家系図にも「女」としてしか記録されないので、多くの女性ってそんなものかも知れない。という事で、こんなにも美人で和歌の才能に恵まれ六歌仙として歴史に残っているというのに、誰の子でどこで生まれたのか確証がない。数々の求愛や求婚をかわして生涯を独身で貫いたとか、そういう伝説が数多く残っている。

小町に恋して99通の恋文を送った深草少将。深草少将=遍照という噂もある。まあ、深草少将は小町に「百日通えば」と言われて、その念願手前の九十九日で凍死しちゃうかわいそうな方なので、遍照と同一視は厳しい感じがしますが。

でもね、小町と遍照の仲はけっこうなものと予測できます。

遍照が出家後、清水寺にて小町に偶然遭遇するのですね。

寺で読経する僧の声を聞いた小町。「宗貞様??!」

小町はその僧に和歌を人を介して送る。

岩の上に 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を われにかさなん

(岩の上の寺に旅寝をしていると、大変寒いので、あなたの僧衣を貸して頂きたい)

そしたら、

世をそむく 苔の衣は ただ一重 かさねばつらし いざ二人寝ん

(世を捨てて出家した僧の衣は一枚以外に何もなく、そうかと言って貸さないのも悪いので、二人一緒に寝ませんか)

と歌が返ってきた。

半分以上がジョークなのでしょうけれど、けれど何気に二人の仲がうかがわれる歌だと私は思います。


『積恋雪関扉』は天明4年11月に江戸桐座十一月公演の顔見世狂言で『重重人重小町桜』(じゅうにひとえ こまち ざくら)の二番目に上演された。

作者は宝田寿来。作曲は常磐津の初代鳥羽屋里長と二世岸沢式佐。振り付けは初代西川扇蔵。

〈キャスト〉

大友黒主・・・初代中村仲蔵

良岑宗貞・・・二代目市川門之助

小野小町、傾城薄墨じつは小町桜の精・・・三代目瀬川菊之丞


ところで、現在の鳥羽屋里長という名前は長唄の方。この初代鳥羽屋里長さんは常磐津の方だったんですね。

初代鳥羽屋里長という方は、1738年に現在の千葉県である上総で誕生する。先天的か後天的なのか不明ですが、盲目の少年だったらしい。1754年初代鳥羽屋三右衛門に入門し三味線の修行に励む。1781年に里長の名前で富本節の三味線をつとめていたそうです。その後、常磐津に移籍。この『関の戸』などを生み出す。けれど、1791年に常磐津流との仲たがいがあって常磐津流の三味線方を退く。そして翌年に五代目都一中のために『傾城浅間岳』という作品をつくり中村座に出勤する。・・・が不評。その後、富本に戻るという経歴の持ち主。

この人のもともとの師匠の三右衛門はメリヤスや大薩摩などに貢献。豊後節を弾き始めた人といわれているそうです。歌舞伎ミュージックである長唄・清元・常磐津などなど、それぞれ流派が分かれているんですが、この鳥羽屋というご一門は流派を超越した特異な名前のようで、グローバルに言えば「歌舞伎ミュージック担当」のお家という事なのでしょうね。


何かを調べると、またまた何かに出会う。勉強って面白いですね。

年代
作曲
作詞
1831年天保二年 十世杵屋六左衛門
松本幸二

初演は江戸中村座にて二世中村芝翫のちの四世中村歌右衛門が『六歌仙容彩』という五変化舞踊の四番目の演目でした。
六歌仙とは、『古今和歌集』から選ばれた六人。
在原業平・僧正遍照・文屋康秀・大友黒主・喜撰法師・小野小町の事です。
あれ?五変化・・・。そうです。この演目は小野小町以外を早変わりで中村芝翫が演じたわけですね。
一世一代の美女の小野小町をめぐる六人の男性のお話。
どの時代も男性は美女に弱い。モテモテの小町ですが、小町だって好みがあるというか・・・。というか、彼女はどの男性の甘い言葉になびかない女性だったようですが、そういう女性は振った男性から逆恨みをかう恐れあり。
『六歌仙容彩』における悪役は大友黒主。
この大友黒主というお方は実際は悪人ではないのですが、『積恋雪関扉』という芝居では国家転覆を狙う大悪人として表現され、この舞踊劇でも小野小町に振られた腹いせに、小町の詠んだ歌は盗作(昔の人が作った歌)だと言い掛かりをつけちゃったりするんですね。そして、最後はやっぱり国家転覆を狙う大悪人という正体がばれて大立ち回りというラストシーンになるのですね。
さて、この大友黒主は六歌仙に選ばれているのですが、何故か百人一首に残っていないのですね。
大悪人だったとという記録はありませんが、
黒主の「黒」が悪いから悪人に仕立てられたという説がありますが、百人一首に選ばれなかった謎に由来があるかもです。

さて
『喜撰』は長唄と清元との掛け合いという仕立てです。という事で、上調子格の長唄は二上がり。
中棹の清元より、細棹の長唄は音が高いし・・・だから上調子なのでしょうか。
清元と長唄の掛け合い、ほかにもありますが皆そんな感じなんでしょうかね。今度、調べてみよう。

さて、『喜撰』には小野小町自身は出てきません。そのかわりお梶という美女が出てきます。しかし、お梶=小町です。お坊さんというのは仏様に仕えるお堅い商売の方というイメージありますが、女の子大好きな喜撰法師。お梶相手にほのぼのとお遊び。
舞台は祇園だそうです。なるほど。
現在、お茶屋さんが並ぶ祇園。もともとは八坂神社の参道に参拝の人たちをターゲットとしたお茶屋さんが並んでいて、お茶を提供していたそうです。それが、お給仕の綺麗な女の人がお茶をサービス。それが発展して現在の祇園になったそうです。という事はお梶は舞妓さんの前進(?)

長唄には清元・常磐津・俗曲・古曲など様々な三味線音楽や芸能が取り入れられています。
この曲
ちょうど中盤あたり、歌詞でいうと“やれ色の世界に出家を遂げる”以降、ちょぼくれと言われる節になります。大小鼓の手も「チョボクレ」という手を打ちます。
このちょぼくれというは、宝暦年間に、大阪で始めて行われて「ちょんがれ」と呼ばれ、江戸に移って「ちょぼくれ」に。街頭芸能の一つだそうです。小さな木魚を持って念仏調の節で世の中の風刺した内容を唄ったりしたのだそうです。
そして、「浪花江の、片葉の蘆の」からは住吉踊り。この住吉踊りは、御田植神事の中で踊られている田楽舞なのだそうです。神功皇后が三韓遠征から凱旋の際に、泉州七道浜の住民が傘を被って吉師舞(きしまい)を舞って祝ったのが起こりとされています。長柄の傘を持った音頭取がその絵を扇子(割り竹)で打ちながら調子をとり、傘のまわりを菅笠をかぶった四人の少女たちがが扇子を打ちながら「すみよしさーん、やーとこせ」と歌いながら踊り回るのだそうです。
長唄を通して色々な芸能に触れる事ができます。しかし、逆を返せば色々な芸能について知らなければどう表現したらよいかさっぱり分からないのが長唄かも知れませんね。
昔、三味線で『外記猿』の稽古をした時、「ここは外記節だから」と注意を受けたんですね。
でも、私、その頃中学生くらいで先生が何を仰りたいのかさっぱり分からなかったです。
「外記節って何?」状態です。
で、質問したのですが、あまり納得いく答えが得られなかった思い出が。たぶん、その先生も先生から「ここは外記節だから」と注意されたのでしょうね。でも、悲しいかな「外記節って何?」とは思わなかったのかも知れません。
常に疑問をもって答えを模索するという事は、自分自身の知識も深まるし、
長唄の本当のよさを後世に伝えるために必要な事だと思います。


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世辞で丸めて浮気でこねて 小町桜の眺めにあかね
きゃつにうっかり眉毛を読まれ 法師法師はきつつきの
素見ぞめきで帰らりょか わしは瓢箪浮く身じゃけれど
主は鯰の取りどころ ぬらりくらりと今日もまた、
浮かれ浮かれて来たりける。

もしやと御簾をよそながら 喜撰の花香茶の給仕
浪立つ胸を押し撫でて 締まりなけれど鉢巻を
いくたび締めて水馴れ棹 濡れてみたさに手を取って
小町の夕立縁しの時雨 化粧の窓の手を組んで
どう見直して胴ぶるい

今日の御見の初昔 悪性と聞いてこの胸が
朧の月や松の影 私ゃお前の政所
いつか果報も一森と 褒められたさの身の願い
いい過ぎるほど愚痴な気に 心の底の知られかねて
じれったいではないかいな なぜ迷わせたこれ姉え
うぬぼれ過ぎた悪洒落な 私もそんなら勢い肌
五十五貫でやろうなら 回りなんしえ
がらがら鉄棒に路次ゃ締まりやす。

長屋の姉えが鉄砲絞りの半襟か 花見の煙管じゃあるめえし
素敵に首にからんだは 廊下鳶が油揚さらい
お隣の花魁へ 知らねえ顔もすさまじい
何だか高い観音様の 鳩は五重や三重の
塔の九輪へ止まりやす 粋といわれて浮いた同士

やれ色の世界に出家を遂げる ヤレヤレヤレヤレ細かにちょぼくれ
愚僧が住家は 京の辰巳の世を宇治山とは 人はいうなり
ちゃちゃくちゃ茶園の はなす濃茶の、縁は橘姫
夕べの口舌の袖の移り香 花橘の、小島が崎より
一散走りに、走って戻れば 内のかかあが悋気の角文字
牛も涎を流るる川瀬の 口説けば内へ 我から焦がるる蛍を集めて
手管の学問 唐も日本も、廓の恋路 山吹流しの
水に照りそう朝日のお山 誰でも彼でも、二世の契りは
平等院とや、さりとはこれは うるせえこんだに
帰命頂礼銅鑼如来 衆生手だての歌念仏 釈迦牟尼仏のご説法
四十余年の意見真実 迷えば嘘も誠なり。
なんまいだなんまいだ なんまいだ なぜになぜに届かぬ我が思い
ほんにサ ここに極まる楽しさよ。

浪花江の、片葉の蘆の 結ぼれかかり アレワサ、コレワイサ
解けて、ほぐれて、合うことも 待つに甲斐ある ヤンレ夏の雨
やぁとこせ、よいやな ありゃありゃ これわいな、この何でもせ
住吉の、岸辺の茶屋に 腰うちかけて ヨイヤサ、コレワイサ、
松で釣ろやれ蛤を 逢うて嬉しき、ヤンレ夏の月 やぁとこせ、よいやな
ありゃりゃ、これわいな、この何でもせ。

姉さんおんじょかえ 島田金谷は川の間
旅籠はいつもお定まり お泊りならば泊らんせ
お風呂もどんどん沸いてある 障子もこのごろ張り替えた
畳みもこのごろ替えてある お酒の相手もまけにして
草鞋の紐の仇解けの 結んだ縁の一夜妻
あんまり憎うも、あるまいか
ても そうだろそうだろそうであろ 住吉様の岸の姫松めでたさよ
いさめのご祈祷 清めのご祈祷 天下泰平国土安泰めでたさよ。

来世は生を黒牡丹 己が庵へ 己が庵へ帰り行く。



『時雨西行』を書いた河竹黙阿弥は文化13年(1816年)に江戸日本橋に産声を上げる。本名は吉村芳三郎。次男なのになぜか三郎です。

父は越前屋勘兵衛(本名 吉村勘兵衛)。母はまち。父親は湯屋株を売買する商売をしていた。湯屋株というのは湯屋・・・つまり公衆浴場を営業するにあたっての営業株のことである。。この越前屋の次男として誕生する。若い頃から読書が大好き。ついでに、自ら歌舞伎の本を書いたり川柳をつくったり、ついでに豊かな親の経済力を利用して稼業のお手伝いそっちのけで遊蕩にふけっていたそうです。

1829年文政12年。とうとう親から勘当されてしまう。その後、まあ働かねばだったんでしようか、貸本屋好文堂の手代となる。読書大好きな彼。大好きな本に埋もれての毎日。幸せだったんでしょうね。

1834年、父親が死去する。そして弟が家督を相続する。その翌年、芳三郎は五代目鶴屋南北の門弟となり,初代勝諺蔵を名乗り狂言作家の見習い市村座に籍を置くようになる。

彼らしい人生がスタート。着々とキャリアを積んでいた。しかし、稼業を継いだ弟が死去。勘当されているから関係ないなんて言えないのでしょうね。当時、芳三郎は河原崎座に出勤していたが稼業を継ぐために退座する。

・・・が、このまま大人しく商人稼業をこの人がしているわけがない。同年には市川団十郎の勧進帳の芝居のプロンプターをつとめて、その才能を団十郎に認められちゃったり、河原崎座の要請で芝居を書いたりと狂言作家としての血がしょっちゅう騒いじゃって稼業どころではなかったようですね。

1843年天保14年。二代目河竹新七を襲名。河原崎座の立作家となる。

稼業はどうしていたんでしょうね。周りは諦めモードだったんですかね。名前だけでもお店の主人であってくれればいいという感じだったんでしょうか。

「芳三郎はもうどうでもいい。芳三郎に嫁を迎えて一日も早く跡継ぎを」と母親のまちが思ったかどうか分かりませんが、1846年の十一月に茶道具屋の娘を嫁に迎えるのですね。芳三郎30歳。きっとたぶんこの時代としては遅い結婚だったかもですね。

とにかく、結婚しても彼は劇作家の道を突き進んでいました。

書いた作品、なんと360作品もあるとか。

“三人吉三”“切られお富”“白波五人男”などなど、今も残る有名な作品をいっぱい残しています。

明治に入って、九代目市川団十郎は、新聞記者出身の福地桜痴などとともに演劇改良運動に取り組むようになる。古きものが置き去りになり「そんな古臭い」とか「時代遅れ」と言われるような風潮になってきた。芳三郎はそんな風潮に嫌気が差し、作家としての意欲が衰退する。「自分の意見に耳を貸す者がいのならもう黙っていよう」と引退を決意。そして名前も河竹黙阿弥に改名する。

まあ、結局はこの演劇改良運動というのは失敗に終わる。「黙っている」と臍を曲げたけれど、この人が残りの人生を黙って過ごせるわけがない。古河黙阿弥と改名。その後も活発に創作活動を行ったそうだ。そして喜寿を記念して本当の引退を宣言。翌年、78歳。脳溢血にてその生涯を終える。



才能豊かな日本の誇るべき芸術家であった人なんですね。

しかし、彼の人生。親不孝だしね・・・けっして一般的には褒められた人生じゃなかったと思う。

まあ、そういう世界が芸能界。

未だ、一般的には褒められたものじゃないけれど、その優れた才能に人々は魅了される。

時々に耳にするお話だ。

「芸能界なんてろくな世界じゃない」という人がいますが、きっとろくでもないからこそ、そこに芸が存在するのではないかと私は思う。

年代
作曲
作詞
1884年元治元年 二世杵屋勝三郎
河竹其水

                 ※河竹其水とは河竹黙阿弥の初期の頃のペンネーム


謡曲の『江口』を長唄化した作品なのだそうです。
西行法師が書いた『撰集抄』に摂津の江口の遊女である妙と西行の歌問答の話と、『十訓抄』の性空上人が遊里で普賢菩薩を拝んだという話をミックスして出来たのが、謡曲の『江口』です。

大阪市東淀川区南江口にあり、淀川の右岸に位置するのが江口です。平安京から山陽・西海・南海の三道を必ず通る所の宿場町だったのだそうです。繁栄した宿場には遊里ありなんでしょう。平安時代からこの地には遊里があったようです。


題材となっている『江口』という謡曲のストーリーは以下の様なものです。
『花のほかには』-fuyusun'sワールド- “旅僧が摂津の国江口の里で遊女江口の君の旧跡に立ち寄り、昔西行法師が宿を断られ「世の中を厭うまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな」と詠んだ和歌を口ずさむと一人の女が現れ「法師さまを遊女の里に泊められなかったので」と弁解し、自らが江口の君の幽霊と名のり姿を消す。
僧が夜更けに江口の君を弔っていると月夜の川面に屋形船に乗った江口の君が現れ昔の船遊びの様子や遊女の境涯を述べた舞を舞い、やがてその姿は普賢菩薩となって西の空へ消え去った。”

この“江口の君”というのは、
『新古今集』の中にある、西行法師と歌問答をした遊女の妙の事なのだそうです。
彼女は、平資盛の娘で没落してこの里の遊女に身をやつしてしまったのだそうです。
平資盛は、平家一門の武将。和歌に優れた人だったようです。
なるほど、そういう家に生まれた人だから、西行のような和歌の名人と歌問答なんか出来ちゃうのでしょうね。
この妙が築いた庵は寂光寺(右の写真)と呼ばれ今でもあるのだそうです。

西行法師の父は左衛門尉佐藤康清。母は源清経の娘。西行は通称俵藤太すなわち藤原秀郷の九代目の子孫だそうです。俵藤太・・・。聞いた事が、、、ああ、『二つ巴』を調べた時に大石内蔵助のルーツだ・・・。
という事は、西行と大石内蔵助は血縁関係にあるんですかね??!
俗名を佐藤義清という。文武に優れハンサムボーイだったらしい。そんなスーパー青年が二十二歳で出家してしまう。
出家の理由は
①に救済を求める心の強まり
②急死した友人から人生の無常を悟った
③皇位継承をめぐる政争への失望
④自身の性格のもろさを克服したい
⑤鳥羽院の妃・待賢門院(崇徳天皇の母)と一夜の契りを交わしたが、「逢い続ければ人の噂にのぼります」とフラレた。すなわち失恋。不倫の末の失恋かい。


この『時雨西行』という曲はとっても良い曲と思いう。
でもね、一つ首をかしげるのは、女の一人住まいに「一晩泊めてください」なんて、断られて当然なのに、、、
「チェッ!ケチ」と言いたいが如し、お坊さんの癖に嫌味の一首。このシーンはあまり好きではありません。
山の中の一軒なら・・・。いやいや、雲水の人だったら、普通はお寺の境内で雨露を凌げるところで野宿したりしますよね。
私は江口というところが、超ド田舎で人里離れた場所と思っていましたが、けっこう賑やかな宿場だったようですね。ならば、宿屋もあるだろうに。またまた、野宿に適した場所もありそうな感じがしますけれどね。

以前、ある舞踊会で、江口の君に宿を断られた西行が「チェッ!ケチ」と怒りを少し表現した演出で踊られた方がいまして、西行はお坊さんなのに俗っぽすぎと思いました。

今まで、この遊女は実は普賢菩薩だったんだと思いこんでいましたが、勘違いでした。
彼女の話を聞きながら、彼女の中にある普賢菩薩の心を感じたのですね。
宿を断られた西行は
世の中を厭うまでこそかたからめ、かりの宿りを惜しむ君かな」すなわち
「悩み多い世の中を嫌って出家するまでは貴方にとっては難しいでしょうが、一時の宿を貸すのも貴方は惜しむのですか」と宿を断った遊女をなじった気持ちを込めての歌を読む。
すると「世を厭う人とし聞けば仮の宿に、心とむなと思ふばかりぞ」と遊女は返歌した。
「あなたは悩み多い世の中を嫌って出家された方なのに、一時の宿に執着されるなと思うだけなのです」と返す。
素晴らしい。遊女妙にパチパチです。
出家するという事は俗世を捨てるという事。様々な欲を捨て、物事の執着も捨てる。それが出家する事。
西行のまだまだ未熟な心を諭すような歌。素晴らしいと言うより、カッコいいです。

さて、西行というと「桜」なのですが、この曲は珍しく秋なんですね。
西行ものとしては珍しい背景だと思います。


長唄全集(十七)時雨西行/橋弁/芳村伊十郎(七代目)
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行方定めぬ雲水の、行方定めぬ雲水の
月諸共に、西へ行く
西行法師は家を出て、一所不住の法の身に、吉野の花や更科の、月も心のまにまにに
三十一文字の歌修行、廻る旅路も長月の、秋も昨日と過ぎ行きて、都をあとに時雨月
淀の川船行末は、鵜殿の芦のほの見えし、松の煙りの波寄する
江口の里の黄昏に、迷ひの色は捨てしかど、濡るる時雨に忍びかね
賤の軒端にたたずみて、一夜の宿り乞ひければ
あるじと見えし遊女が、情なぎさの断りに、波に漂ふ捨小舟、何処へ取付く島もなく
「世の中を厭ふまでこそ難からめ、仮の宿り惜しむ君かな」と口ずさみて行き過ぐるを
なうなう暫し、呼び留め
「世を厭ふ、人として聞けば仮の宿に、心留むなと思ふばかりに、それ厭はずば此方へ」と
云うに嬉しき宿頼む、一樹の蔭の雨宿り
一河の流れの此の里に、お泊め申すも他生の縁、如何なる人の末なるかと、問はれて包むよしもなく
我も昔は弓取りの、俵藤太が九代の後葉、斉藤右兵衛尉憲清とて
鳥羽の帝の北面たりしが、飛花落葉の世を観じ、弓矢を捨てて、墨染に身を染めなして法の旅
あら羨まし我が身の上、父母さへも白浪の
寄する岸辺の川舟を、留めて逢瀬の波枕、世にも果敢なき流れの身
春のあしたに花咲いて、色なす山の粧ひも、ゆふべの風に誘はれて、秋の夕べに紅葉して
月によせ、雪によせ、問ひ来る人も川竹の、うきふし繁き契りゆゑ
是れも何時しか枯れ枯れに、人は更なり心無き、草木も哀れあるものを
或時は色に染み、貧着の思ひ浅からず
又或時は声を聞き、愛執の心いと深く、是れぞ迷ひの種なりや
実に実に是れは凡人ならじと、眼を閉ぢて心静め、見れば不思議や
今まで在りし遊女の姿忽に、普賢菩薩と顕じ給ひ
実相無漏の大海に、五塵六欲の風は吹かねども、随縁真如の波の立たぬ日もなし
眼を開ければ遊女にて
人は心を留めざれば、つらき浮世も色もなく、人も慕はじ待ちもせじ
又別れ路もあらし吹く、花より紅葉よ月雪の、ふりにしこともあらよしなや
眼を閉づれば菩薩にて、異香のかをり糸竹の調べ
六牙の象に打乗りて、光明四方に輝きて、拝まれ給ふぞ有難き、拝まれ給ふぞ有難き
西行法師が正身の、普賢菩薩を拝みたる、江口の里の雨宿り
空に時雨の故事を、ここに写して諷ふ一と節