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『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
自己満足ブログですみませんm(_ _)m

丹前風呂に通う殿方は、独特な風体をしていたそうです。

それを歌舞伎的に表現したのが“丹前振り”というものだそうえです。

“丹前振り”・・・???

独特って何よ???!

独特な衣装に独特な歩き方。ここまでは分かった。

しかし、物事調べていて「独特な○×」という説明で終わってしまうのはなんて不親切。

仕方がないので、もっともっと調べてみましたよ。


『花のほかには』-fuyusun'sワールド-
衣装については、よく温泉旅館に行くと浴衣と一緒に、浴衣の上に羽織る『丹前』というのが置いてあるじゃないですか。たぶん、ああいったものを羽織ってというのがこの『丹前もの』に出てくる独特な衣装かと・・・。『丹前もの』の舞踊の写真や絵を見るとやっぱり、あの丹前のようなものを劇色化して派手にはしていますけれど着ています。

つまり和製ガウンのことですね。

はい。これで、衣装の謎は解明。

こんどは、歩き方・・・つまり、丹前振りの謎です。

いなせに肩でで風を切るように歩く。それも右肩を前に出したら右足を出す。左肩が前に出たら左足をだす。
…文では表現しにくいですが、つまり『ナンバ歩き』。
私たちの普通の歩き方は、右手が前に出ると左足が出ますよね。でもナンバ歩きは右手が前に出ると右足が出る歩き方です。
『丹前振り』とはこの『ナンバ歩き』を粋に気取った感じに歩く振りの事だったのです。
この、ナンバ…じゃなかった。『丹前振り』の時にお囃子は必ず締め太鼓で「豊後下り端・くせ」という手を打つそうです。太鼓の附けを確認。あったあった有りました!
そう言えば同じような手が「供奴」や「元禄花見踊」にもあったけど…。「供奴」に言ったってはその下りの歌詞がたしか『丹前好み~♪』という歌詞だったな?!

さて、この『丹前振り』でまた新たな発見が。
江戸時代までの人々の歩き方は、実は「ナンバ歩き」が普通だったというお話を発見。
日本の武道の動きで『ナンバ歩き』の形があるそうです。
ある武道家の方のサイトで、この『ナンバ歩き』は日本武道の独特の型ではなくて、日本伝統の文化と言っていました。
その方のお話では、日本人が今の歩き方が一般化したのは明治以降のお話で、西洋から軍事教育が導入されてそれが一般に浸透して今のような歩き方が一般化されたそうです。
つまり、行進の時に「右手を出したら左足を出す」という歩き方が教育された。それが一般に浸透したという訳らしいです。

「丹前もの」からこんな事まで分かっちゃった。
邦楽のお勉強ってけっこう楽しいですね。

年代
作曲
作詞
1785年天明五年 初代杵屋正次郎
初代瀬川如皐


正式な題名は「女夫松高砂丹前」という曲です。
能の「高砂」が素となって作られた長唄です。
けれど、完全に能の「高砂」が長唄化したものではなく、
この曲にははっきりしたストーリーはありません

ねえねえ、能の「高砂」ってどんなの?
…そうでしたね。まずはそちらから説明しないと。
肥後の国の阿蘇の宮の神主の友成は京見物の旅に出ました。途中、播州高砂の浦に立ち寄り休憩していました。そこへ、年老いた夫婦がやってきて、そこにあった松の周りを掃除しはじめました。
友成はその老人に
「有名な高砂の松というのはどれか」と訪ねました。
老人は「この松が高砂の松だ」と言いました。
また、友成は
「これが高砂の松か…。高砂の松と住吉の松は、ずいぶん離れた場所にあるものだが、なぜ相生の松と呼ばれるのだろうか」と老人に尋ねました。
「例え所を隔てていても、夫婦の仲というのは心が通うものだ」と説明した。
自分たちも、おばあさんはこの土地の者であるが
自分は住吉のものだと話し始め、様々な故事を用いて松の目出度さを説明し始める。
そして、実は私たちは相生の松の精であると正体を明かすのでした。
「住吉であなたのおいでをお待ちしている」と告げて小船に乗って消えて行きました。
友成は言われたとおりに住吉に向かいました。住吉に辿り着くと、そこに住吉明神が出現し千秋万歳の楽を奏して、君が代を祝い奉る。
そんなお話です。
さて、この「高砂丹前」はこの能の「高砂」に出てくるおじいさんとおばあさんの所作を題材としたものです。
おじいさんは、花槍を持った奴さん。おばあさんは、腰元に置き換えられています。
特に曲自体にストーリーはありません。
この奴さんに「丹前振り」を取り入れて仕上げられている事から「高砂丹前」と題名が付けられたのではないでしょうか。

ところで、「丹前物」とは何?
はいはい、十七世紀半ば、神田の堀丹後守の屋敷前に風呂屋が出来たそうです。
当時お風呂屋さんには、湯女と言われる風俗系の女性が抱えられていたそうです。つまり当時のお風呂屋さんは、風俗系の要素が強かったのですね。
そのお風呂屋さんは、丹後守の屋敷前にあるという事で皆から「丹前風呂」と呼ばれたそうです。
綺麗な湯女を目当てに通う男性たちは、特殊な格好をしていたそうで、その風俗・振る舞い(歩き方)を「丹前振り」と呼んで、それが美化・演劇化されて歌舞伎に取り入れられたそうです。
特殊ってどんなんだろう?と思うのですが、そこまで調べる事ができませんでした。
でも、よく温泉旅館に行くと浴衣の上に着る「丹前」というのが置いてありますよね。
たぶん、ああいったものを着ていそいそと美女を求めて歩く姿が

さて、最初は「次第」から始まるんですけれど、やっぱ「奴」をイメージした次第なのかな?
それとも、能の「高砂」に出てくるお年よりかな?はたまた…。
いやいや、丹前ものですから・・・
うーん、こういう曲は難しいです。


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今を始の旅衣 今を始の旅衣
日も行末ぞ久しき
高砂や木の下蔭の尉と姥
松諸供に我見ても
久しくなるぬ住吉の
此の浦船に打乗りて
月諸供に出で潮や 是は目出度き世のためし
老木の姿引きかえて 妹背わりなき目夫松
葉色は同じ深緑 見れども思いの尽きせぬは
誠なりけり恋衣 実に恋は曲者
たとえ万里は隔つとも
慕う心はそりゃ云わんすな
朝な夕なに空吹く風も 落葉衣の袖引きまとう
思う殿御はつれなの身にし 塒に残る仇枕
扨も見事になアア振って振り込む花槍は
雪かあらぬかちらちらちらと白鳥毛
振れさ ふれさ 袖は ひらひら
台傘立傘恋風に靡かんせ ずんと伸ばして
しゃんと受けたる柳腰
しゃなりふりゃり流し目は
可愛らしさの色の宿入り
松の名所は様々に あれ三保の松羽衣の
松にかけたる尾上の鐘よ 逢いに相生夫婦松
中に緑のいとしらしさの姫小松
二かい三蓋五葉の松 いく代重ねん千代見草
しおらしや
西の海 青木が原の波間より現れ出でし神松に
降り積む雪の朝かんがた玉藻刈るなる岸蔭の
松根に倚って腰を摩れば
千年の緑手に満てり 指す腕には悪魔を払い
おさむる手には寿福を抱き
入り来る 入り来る 花の顔見せ貴賎の袂袖を
連ねてさつさつの 声ぞ楽しむいさごよや

藤娘とは直接関係ないが、藤音頭の作詞者である岡鬼太郎から懐かしい名詞に再開した。

「演劇革新運動」

明治時代に入って、西洋の文化が入ってくる。シェークスピアとかそういった西洋の演劇も入ってくる。

歌舞伎の世界にも、そんな新しい風が吹き込む。

「こんな古臭いもの」

そう思う歌舞伎役者もいたようだ。新派が生まれたり、西洋の思想に基づいた新劇が誕生したりした。


この岡喜八郎は二代目市川左団次と共に演劇革新運動で活躍した人なのだそうだ。

岡喜八郎。もともと福沢諭吉が創刊した時事新報の記者であったが、演劇の脚本を書いたり劇評を書いたりという顔も持っていた。

初代市川左団次は明治26年に明治座を買収。座元となる。明治37年に亡くなり、明治39年一人息子が二代目を継承。また明治座の座元も継承した。

この襲名興行が大当たりして、その儲けでヨーロッパに演劇修行に行ったという説もあるが、

実は、明治座の財政困窮。芝居への苦悩などなど・・・。松居松葉の後見のもとヨーロッパに演劇修行に出たという説もある。

ヨーロッパにて、ヨーロッパの演劇に出会い、多くの刺激を受けて帰国。経験や見聞したことを取り入れ、明治座を改良しようとした。松居松葉・岡鬼太郎というブレーンを迎え入れ明治40年十一月に起死回生の明治座で歌舞伎改良の演劇を試みたが、旧勢力の人々の反発を食らって失敗に終わってしまう。

その後、小山内薫と出会い自由劇場を創立する。小山内薫は文学座の故杉村春子の代表作の『女の一生』の作者である。

明治41年11月に有楽座にて第一回公演が行われた。森鴎外翻訳でイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』という芝居で、主役のボルクマンを左団次が演じた。

自由劇場はそれより十年、九回の公演を行い解散となるが、坪内逍遥の文芸協会とともに新劇運動に大きく貢献したものであった。

さて岡鬼太郎は興業失敗を立て直そうと、新派の川上音二郎と提携をする。岡本綺堂の書いた『修善寺物語』を演出し大ヒットなどなどで窮地を救う。

この新派の川上音二郎は福沢諭吉の書生出身。政治活動もしていたそうだ。でも、やっぱり川上音二郎というとその世情を風刺した『オッペケヘー節』ですね。

そうそう、この人は1900年のパリ万博で興業をしたりしている。うちにその時録音したといわれるレコードを復元したCDがある。(ただし、川上音二郎本人の声は入っていない)

音二郎のエピソード。1895年歌舞伎座にて「威海衛陥落」という芝居を上演。ところが素人出身の役者が歌舞伎座の舞台に上がるなんて前代未聞の時代だったのですね。九代目市川団十郎がこの事を激怒。檜舞台をすべて削りなおさせたと言われているそうだ。

1912年。左団次は明治座を売却。岡鬼太郎らを引き連れ松竹専属となる。

1928年、ソ連にて史上初の歌舞伎公演をしちゃうという偉業を!


この当時の演劇界は元気溌剌。

江戸時代から続く芸人やら、新しい演劇を志すものたちとか。とにかく色々な人が入り乱れていた時代ですね。


ちょっと幅が広くなりすぎて、まとまりのないレポートになってしまった。

もうちょっと勉強が必要かな。がんばります。

年代
作曲
作詞
1826年文政9年 四世杵屋六三郎
藤井源八


中村座にて藤井源八・三升屋二三治作『歌えすがえす余波大津絵(かえすがえすおなごりおおつえ)』の一コマとして初演。近江の志賀の里。狩野四郎次郎館の奥庭。悪者山名宗全の手下たちが四郎次郎の妻銀杏の前を掠奪するために忍び込んで来る。その悪者たちを吃の又平が描いた大津絵の精たちが次々と現れて彼らを翻弄させる。「藤娘」「座頭」「天神」「奴」「船頭」といった五変化もの。



大津絵というのは、元禄時代に近江の国大津の三井寺あたりで旅人に売られた土産絵だそうで、いまの絵葉書みたいなものでしょうね。
当時、京の都のお金持ちの若奥様や娘たちが派手に着飾って近郊の寺院などに物見遊山に出かけるのが流行したそうです。一目に立つことを競い合って豪華な衣装でのお出かけ。目的はナンパ(驚)

また、遊女たちがそんな素人の女性たちの姿を真似て物見遊山に出かけたのだそうだ。そんな女たちの新しい風俗を風刺しての絵が藤娘のモデルとなっている「藤かつぎ娘」なのだそうだ。



『花のほかには』-fuyusun'sワールド--藤娘 振袖の片袖を脱いで大きな藤の枝を担ぐ姿は物狂いの姿を現したものだそうです。

この大津絵の『藤かつぎ娘』を初めて舞踊化したのは、九代目市村羽左衛門ら立役の役者たちで、当初は“娘”という設定ではなくて、遊女(おやま)たちが素人風を装って若奥様や娘の振りをしてみせる面白さがあったのだそうです。


『歌えすがえす余波大津絵』の初演で藤娘を踊ったのは二代目関三十郎という役者である。和実を得意とする役者で女形ではなかったようです。その後、三代目中村仲蔵、六代目尾上菊五郎と伝承されていったそうだ。

現在、一幕ものとして『藤娘』が出されるようになって、本来の曲の途中に『潮来』や『藤音頭』が挿入されるむようになった。

当初、この曲には今のクドキのほかに「娘、娘とたくさんそうに・・・云々」というクドキがあったそうです。けれど、五変化ものの盛り沢山の内容だったことからカットされてしまった。

この一コマを一幕物にしようとすると物足りない。という事で、『潮来』や『藤音頭』を挿入されるようになったそうです。


『潮来』は三代目中村仲蔵が『連方便自茲大津絵(つれをたよりここにおおつえ)』という演目の中で『藤娘』を踊った際に入れたとされている。

鷹匠の若衆と娘との二人立ち。仲蔵は振付師の志賀山せいの子供。その時の振り付けが今も志賀山流には残されていると文献に書いてありました。

『藤音頭』は昭和十二年に六代目尾上菊五郎が『藤娘』を踊った際、藤の精が松の大木にからむという設定で演出変更。真っ暗な中で鼓唄。チョンと柝がなるとパッと照明がついて美しい藤の娘が立っていると今はお馴染みの演出。岡鬼太郎作詞の『藤音頭』を挿入する。


日本舞踊のお浚い会に行くと、この『藤娘』はよく出ます。

きっと長唄を習っている人が、いつか『勧進帳』をお浚いに出せるようになりたいなぁ、とか

お囃子を習っている人が、いつか『二人椀久』をお浚いで出せるようになったらいいなぁとか、

そういう、目標になる定番の曲なのでしょうね。

さて、この舞踊をそういった定番の名曲に仕立て上げたのは『藤音頭』を挿入して踊った名優六代目尾上菊五郎だそうです。前述しましたが、大津絵から飛び出した美少女ではなくて、藤の精と役柄設定した踊りです。前半を生娘、後半を非生娘という演出で踊り分けたそうで、「ふーん、すごいなぁ」という感じです。
その前半と後半、どう同じ娘が変化するのか見所なのかも知れませんね。


長唄の『藤娘』。曲的には特にここが凄いとか、素敵という印象が私には無い曲です。
素の演奏で聞いても、耳を通り過ぎていってしまうような印象を持っています。
でも、そんな曲も舞踊が入るとすごっく素敵な曲に変身しちゃうのですよね。
視覚が加わる事で、感想が変わってしまう曲の代表だと私は思います。
これは私的な意見で、「藤娘」は素でも素敵と思う方も沢山いらっしゃると思います。
つまり好みの問題です。

桜の季節が過ぎて、新緑の眩しい季節に移ると藤の季節になりますよね。
藤は、桜とはまた別な華やかさがあって私は大好きです。
桜を見ると「元禄花見踊り」の曲が頭を駆け巡るように、満開の藤の下を歩くと、頭の中に「藤音頭」が頭の中を駆け巡って、とっても楽しい気分になります。
別にどうでもいいと言いつつ、口ずさんじゃうなんて…。


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津の国の、浪花の春は夢なれや、早や二十年の月花を、眺めし筆の色どりも、書き尽くされぬ数々に山も錦の折りを得て、故郷へ飾る袖袂

若紫に十返りの、花を現す松の藤浪

一目堰き笠塗笠しやんと、振りかたげる一枝は、紫深き水道の水に

染めて嬉しき由縁の色の、愛としと書いて藤の花

ええ、しょんがいな、裾もほらほらしどけなく

鑑山、人のしがよりこの身のしがを、かへりみるめの汐なき海に、藤姿の恥ずかしや

男心の憎いのは、外の女子に神かけて、粟津の三井の予言も、堅い誓ひの石山に、身は空蝉の唐崎や、

待つ夜を他所に比良の雪、解けて逢瀬のあた妬ましい、ようもの瀬田にわしや乗せられて、文も堅田の片便り

心矢橋のかこち言

(『潮来』または『藤音頭』が一般的に挿入される)

松を植えよなら、有馬の里へ植えさんせ、いつまでも、変わらぬ契り、かい取り褄で

よれつもつれつまだ寝が足らぬ、宵寝枕のまだ寝が足らぬ、藤に巻かれて寝とうござる

ああ、なんとしようかどしようかいな、わしが小枕お手枕

空も霞の夕照に、名残おしみて帰る雁がね



『潮来』

潮来出島の 真菰の中に、あやめ咲くとはしおらしや サアよんやさ サアよんやさ

宇治(富士)の柴船 早瀬を渡る 私や君ゆえのぼり船 サアよんやさ サアよんやさ

花はいろいろ 五色に咲けど ぬしに見かえる花はない サアよんやさ サアよんやさ

花を人もと わすれてきたが あとで咲くやらひらくやら サアよんやさ サアよんやさ

しなもよや 花に浮かれて ひとおどり


『藤音頭』

藤の花房 色よく長く 可愛がろとて酒買うて のませたら うちの男松 

からんで〆て てもさても 十返りという名のにくや かえるというは忌み言葉

花もの言わぬ ためしでも 知らぬそぶりは奈良の京 杉にすがるも 好きずき

松にまとうも 好きずき 好いて好かれて はなれぬ仲は ときわ木の

たちも帰らで きみとわれとか おお嬉し おおうれし 

『浅妻船』の作曲者は二代目の杵屋佐吉。

う~ん♪杵屋佐吉♪

杵屋佐吉と聞くと、私は四代目杵屋佐吉をすぐに思い浮かべる。

低音のセロ三味線とか、大きな大きな三味線=豪弦、電気三味線(咸絃)などを考案。芙蓉曲なるものを創始した人物です。

豪弦は写真のような大きな三味線。

http://www.colare.jp/rareko/koten/vol35.html

よりお借りした写真です。
『花のほかには』-fuyusun'sワールド-
こんな変わった事をする人。

長唄の業界では地味な方だったんだろうなぁ・・・

なんて思っていました。

ところが合点。失礼いたしました。

長唄の業界でも、大変に偉い方だったのですね。

四代目杵屋佐吉は明治17年に生まれた。今の七代目杵屋佐吉氏のおじい様である。

三代目杵屋勝三郎・杵屋六三郎・芳村伊三郎に師事。1904年に祖父三代目杵屋佐吉の名前を継承。同時にタテ三味線に昇格。その語、現在の松竹の長唄部長に。また1907年。明治座の囃子頭になる。1925年大正14年に長唄協会の設立メンバー。昭和13年三代目会長となる。『二つ巴』『黒塚』などなど作曲する。

芙蓉曲は三味線小曲。残念ながら拝聴したことがない。でも、名前から綺麗な音楽を聞かせてくれそう。


初代杵屋佐吉は、二代目杵屋六三郎の門弟。明和五年ごろから番付に名前が認められ、安永末頃にタテ三味線に昇格する。『蜘蛛の拍子舞』などを作曲する。浅吉という子供がいた。やはりこの方も業界人だったのですが、なぜか父親の名前を継承せず阿佐吉という名前で活躍する。で、初代佐吉の門弟の和吉のまた更に門弟の和助が二代目を襲名する。二代目佐吉の門弟の和市が二代目阿佐吉を継承したのち三代目佐吉を継承。

ここのご一族の家系図を読んでいると頭がクルクルしてしまう。

そして、三代目からやっと血族で継承の図式になって今に続くんですね。


作曲者の杵屋佐吉からちょっと寄り道してしまいました。


年代
作曲
作詞
1820年文政三年 二世杵屋佐吉
二世桜田治助

浅妻というのは土地の名前です。現在の滋賀県、琵琶湖の東岸に息長川のそそぐ河口に開けた港町です。
井原西鶴の処女作『好色一代男』において、「本朝遊女の始まりは、江州の朝妻、幡州の室津」と言われたほどに繁盛した、色町で知られたところだったそうです。
浅妻船というのは、舟に遊女を乗せて夜泊の客に媚を売って商売をしていたそうで、その舟の事なのだそうです。

この曲の舞踊は烏帽子水干の舞姿。
これは、元禄の時代に多賀潮湖(英一蝶)という画家が、烏帽子水干の舞姿で船中で鞨鼓を打っている遊女の姿を書き、「百人上臈」(美人百態)のうちの一つとして売り出した。
これ以来、“浅妻船”と題され、有名な画題ともなったのだそうです。
実は、もともとこの絵は、美人一人の絵ではなく、気高い美男の殿様が自ら小船に棹をさしており、美女が綾の袂を翻し小鼓を打っている図柄だったそうです。
美男の殿様は五代将軍綱吉、美女は愛妾のお伝の方。将軍の恥溺生活を風刺したものといわれ、島流しなんぞに罰せられたのだそうです。後々、五代将軍が死去し恩赦を受けて再び絵を描くようになったというエピソードがあるのだそうです。

この曲は、綱吉とお伝を風刺した絵ではなくて、江頭の柳かげに浮かんだ船の中に烏帽子水干をつけた遊女が乗っているという絵からヒントを得て作られたものです。
夜毎かわる梶枕。遊女の哀れを唄ったものです。(梶枕というのは、舵を枕にして・・・らしいです)
この曲は、文政三年九月に中村座で三代目坂東三津五郎が初演したものです。
『月雪花名残文台』という七変化ものの冒頭で踊ったものだそうです。
本名題を『浪枕月浅妻』。
この『月雪花名残文台』の中には、この『浅妻船』の他に、長唄の『寒行雪姿見(まかしょ)』や清元の『玉兎月影勝(玉兎)』が含まれています。
この三代目坂東三津五郎は初代坂東三津五郎の実子。この『浅妻船』をはじめ『汐汲』『傀儡師』などを初演。三代目中村歌右衛門と競う名優です。
彼の女門弟が町の師匠となり、その流れを受け継ぐ人たちが集まって現在の坂東流が出来たと言われており、坂東流の流祖と言われているそうです。

さてさて、この曲なんですがね。
滅多に長唄の演奏会では出ない曲。お目に掛かるのは舞踊会ばかりですね。
踊りの会に行くと、視覚の印象が強すぎて、音楽の印象が薄いのであります。
何度か聴いた事があるはずなのですが、お囃子のお稽古でやる事になって、初めて音楽を聴いた感じがします。
印象薄い曲ですが、じっくり聴くと良い曲です。

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小々波や八十の湊に吹く風の身に泌み
初むる比叡颪千船百船艫をたてて
入るや岸根の柳影
この寝るる
浅妻船の浅からぬ契りの昔驪山宮
抑羯鼓始まりは
靺鞨国より伝え来て
唐の明皇愛で給い
そりゃ言わいでも済もうぞえ
済まぬ口舌の言いがゝり
背中合わせの床の山
こちら向かせて引き寄せて
抓つて見ても漕ぐ船の
仇し仇波浮気づら
誰に契りを交わして色を
かえて日影に朝顔の花の桂に寝乱れし
枕恥かし
辛気でならぬえ
筑摩祭りの神さんも
何故に男はそれなりに
沖津島山よる波の
寄せては返す袖の上
露散る芦の花心
月待つと其約束の宵の月
高くなるまで
待たせておいて
独り袂の移り香を
片割月と頼めても
水の月影流れ行く
末は雲間に三日の月
恋は曲者忍ぶ夜の
軒の月影隠れても
余る思いの色見せて
秋の虫の音冴え渡り
閨の月さえ枕に通う
鈴もりんりん振りつゞみ
しおらしや
弓の影かと驚きし
鳥は池辺の木に宿し
魚は月下の波に臥す
其秋の夜も今は早
鐘も聞こえて明け方の
入るさの月の影
惜しき月の名残や惜しむらん



芳沢あやめ(1673年~1729年)は、元禄期の歌舞伎を代表とする上方歌舞伎の女形である。

紀伊国の中津村。現在の和歌山県日高川町に生まれる。早くに父親を亡くし、道頓堀の芝居小屋の色子として抱えられる。

色子というのは・・・

江戸時代の歌舞伎の修行中の役者は売春を兼業させられるものが多かった。女性を相手にすることもあれば、女形の場合は女性に近い存在ということから男性に春を売る事もあったとか・・・。余談です。

はじめは三味線を仕込まれたようですが、丹波亀山の橘屋五郎左衛門が贔屓となり、彼の強い勧めで女形となる。

五代目まで続いているが・・・現在、この名前を名乗っている方はいらっしゃいません。


初代芳沢あやめは写実的に女形を演じてきている。

完璧主義。彼の女形としての心得的な芸談として『あやめ草』という本が残されている。

ある女形があやめに「女形の心得を教えてください」と聞いた。

「女は傾城(遊女)さえよくできれば、他の役はみな簡単にできる。その訳は元が男であるために、きりっとしたところは生まれ付いて持っている。男の身で、傾城のあどめもなく(無邪気な)、ぼんじゃり(愛らしくゆったり)とした様子は、よくよく心がけないとできない。だから傾城についての稽古を、第一にしなさい」
なるほど。傾城をきちっと演じられることが女形のスタートラインなのですね。

さらにあやめは言った。

「女形の仕様は、形をいたずらに(みだらに、色気のあるように)、心を貞女にしなければならない。ただし、武士の妻だといって、ぎこちない(無愛想な)のは見苦しい。きりりとした女の様子を演じるときは、心をやわらかにすべきである」

女形に限らず、女優の方々にも通ずる芸談のように思います。


あやめは普段の生活も女性を意識して生活をしていたそうだ。

人前で食べる姿を見せない。ほかの役者と離れた場所で食事をしたそうです。

食べている最中に男になってしまって、共演者がそれを見てどう思うか。そこまで考えて生活しなければならないと言ったそうです。



名門の出身ではありませんが、一世を風靡した人気絶頂の女形。

現在の坂東玉三郎のような存在だったのかしら?