1826年文政9年 | 四世杵屋六三郎 |
中村座にて藤井源八・三升屋二三治作『歌えすがえす余波大津絵(かえすがえすおなごりおおつえ)』の一コマとして初演。近江の志賀の里。狩野四郎次郎館の奥庭。悪者山名宗全の手下たちが四郎次郎の妻銀杏の前を掠奪するために忍び込んで来る。その悪者たちを吃の又平が描いた大津絵の精たちが次々と現れて彼らを翻弄させる。「藤娘」「座頭」「天神」「奴」「船頭」といった五変化もの。
大津絵というのは、元禄時代に近江の国大津の三井寺あたりで旅人に売られた土産絵だそうで、いまの絵葉書みたいなものでしょうね。
当時、京の都のお金持ちの若奥様や娘たちが派手に着飾って近郊の寺院などに物見遊山に出かけるのが流行したそうです。一目に立つことを競い合って豪華な衣装でのお出かけ。目的はナンパ(驚)
また、遊女たちがそんな素人の女性たちの姿を真似て物見遊山に出かけたのだそうだ。そんな女たちの新しい風俗を風刺しての絵が藤娘のモデルとなっている「藤かつぎ娘」なのだそうだ。
振袖の片袖を脱いで大きな藤の枝を担ぐ姿は物狂いの姿を現したものだそうです。
この大津絵の『藤かつぎ娘』を初めて舞踊化したのは、九代目市村羽左衛門ら立役の役者たちで、当初は“娘”という設定ではなくて、遊女(おやま)たちが素人風を装って若奥様や娘の振りをしてみせる面白さがあったのだそうです。
『歌えすがえす余波大津絵』の初演で藤娘を踊ったのは二代目関三十郎という役者である。和実を得意とする役者で女形ではなかったようです。その後、三代目中村仲蔵、六代目尾上菊五郎と伝承されていったそうだ。
現在、一幕ものとして『藤娘』が出されるようになって、本来の曲の途中に『潮来』や『藤音頭』が挿入されるむようになった。
当初、この曲には今のクドキのほかに「娘、娘とたくさんそうに・・・云々」というクドキがあったそうです。けれど、五変化ものの盛り沢山の内容だったことからカットされてしまった。
この一コマを一幕物にしようとすると物足りない。という事で、『潮来』や『藤音頭』を挿入されるようになったそうです。
『潮来』は三代目中村仲蔵が『連方便自茲大津絵(つれをたよりここにおおつえ)』という演目の中で『藤娘』を踊った際に入れたとされている。
鷹匠の若衆と娘との二人立ち。仲蔵は振付師の志賀山せいの子供。その時の振り付けが今も志賀山流には残されていると文献に書いてありました。
『藤音頭』は昭和十二年に六代目尾上菊五郎が『藤娘』を踊った際、藤の精が松の大木にからむという設定で演出変更。真っ暗な中で鼓唄。チョンと柝がなるとパッと照明がついて美しい藤の娘が立っていると今はお馴染みの演出。岡鬼太郎作詞の『藤音頭』を挿入する。
日本舞踊のお浚い会に行くと、この『藤娘』はよく出ます。
きっと長唄を習っている人が、いつか『勧進帳』をお浚いに出せるようになりたいなぁ、とか
お囃子を習っている人が、いつか『二人椀久』をお浚いで出せるようになったらいいなぁとか、
そういう、目標になる定番の曲なのでしょうね。
さて、この舞踊をそういった定番の名曲に仕立て上げたのは『藤音頭』を挿入して踊った名優六代目尾上菊五郎だそうです。前述しましたが、大津絵から飛び出した美少女ではなくて、藤の精と役柄設定した踊りです。前半を生娘、後半を非生娘という演出で踊り分けたそうで、「ふーん、すごいなぁ」という感じです。
その前半と後半、どう同じ娘が変化するのか見所なのかも知れませんね。
長唄の『藤娘』。曲的には特にここが凄いとか、素敵という印象が私には無い曲です。
素の演奏で聞いても、耳を通り過ぎていってしまうような印象を持っています。
でも、そんな曲も舞踊が入るとすごっく素敵な曲に変身しちゃうのですよね。
視覚が加わる事で、感想が変わってしまう曲の代表だと私は思います。
これは私的な意見で、「藤娘」は素でも素敵と思う方も沢山いらっしゃると思います。
つまり好みの問題です。
桜の季節が過ぎて、新緑の眩しい季節に移ると藤の季節になりますよね。
藤は、桜とはまた別な華やかさがあって私は大好きです。
桜を見ると「元禄花見踊り」の曲が頭を駆け巡るように、満開の藤の下を歩くと、頭の中に「藤音頭」が頭の中を駆け巡って、とっても楽しい気分になります。
別にどうでもいいと言いつつ、口ずさんじゃうなんて…。