藤娘とは直接関係ないが、藤音頭の作詞者である岡鬼太郎から懐かしい名詞に再開した。
「演劇革新運動」
明治時代に入って、西洋の文化が入ってくる。シェークスピアとかそういった西洋の演劇も入ってくる。
歌舞伎の世界にも、そんな新しい風が吹き込む。
「こんな古臭いもの」
そう思う歌舞伎役者もいたようだ。新派が生まれたり、西洋の思想に基づいた新劇が誕生したりした。
この岡喜八郎は二代目市川左団次と共に演劇革新運動で活躍した人なのだそうだ。
岡喜八郎。もともと福沢諭吉が創刊した時事新報の記者であったが、演劇の脚本を書いたり劇評を書いたりという顔も持っていた。
初代市川左団次は明治26年に明治座を買収。座元となる。明治37年に亡くなり、明治39年一人息子が二代目を継承。また明治座の座元も継承した。
この襲名興行が大当たりして、その儲けでヨーロッパに演劇修行に行ったという説もあるが、
実は、明治座の財政困窮。芝居への苦悩などなど・・・。松居松葉の後見のもとヨーロッパに演劇修行に出たという説もある。
ヨーロッパにて、ヨーロッパの演劇に出会い、多くの刺激を受けて帰国。経験や見聞したことを取り入れ、明治座を改良しようとした。松居松葉・岡鬼太郎というブレーンを迎え入れ明治40年十一月に起死回生の明治座で歌舞伎改良の演劇を試みたが、旧勢力の人々の反発を食らって失敗に終わってしまう。
その後、小山内薫と出会い自由劇場を創立する。小山内薫は文学座の故杉村春子の代表作の『女の一生』の作者である。
明治41年11月に有楽座にて第一回公演が行われた。森鴎外翻訳でイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』という芝居で、主役のボルクマンを左団次が演じた。
自由劇場はそれより十年、九回の公演を行い解散となるが、坪内逍遥の文芸協会とともに新劇運動に大きく貢献したものであった。
さて岡鬼太郎は興業失敗を立て直そうと、新派の川上音二郎と提携をする。岡本綺堂の書いた『修善寺物語』を演出し大ヒットなどなどで窮地を救う。
この新派の川上音二郎は福沢諭吉の書生出身。政治活動もしていたそうだ。でも、やっぱり川上音二郎というとその世情を風刺した『オッペケヘー節』ですね。
そうそう、この人は1900年のパリ万博で興業をしたりしている。うちにその時録音したといわれるレコードを復元したCDがある。(ただし、川上音二郎本人の声は入っていない)
音二郎のエピソード。1895年歌舞伎座にて「威海衛陥落」という芝居を上演。ところが素人出身の役者が歌舞伎座の舞台に上がるなんて前代未聞の時代だったのですね。九代目市川団十郎がこの事を激怒。檜舞台をすべて削りなおさせたと言われているそうだ。
1912年。左団次は明治座を売却。岡鬼太郎らを引き連れ松竹専属となる。
1928年、ソ連にて史上初の歌舞伎公演をしちゃうという偉業を!
この当時の演劇界は元気溌剌。
江戸時代から続く芸人やら、新しい演劇を志すものたちとか。とにかく色々な人が入り乱れていた時代ですね。
ちょっと幅が広くなりすぎて、まとまりのないレポートになってしまった。
もうちょっと勉強が必要かな。がんばります。