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『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
自己満足ブログですみませんm(_ _)m

年代
作詞
1859年安政六年 二世杵屋勝三郎
三世杵屋正次郎
江戸時代にも、CMソングというものがあったんですね。
この「菖蒲浴衣」はこの時代の新作浴衣発表に向けて作られたものと言われています。イメージガール(?)は芳沢あやめでありました。
たぶん、今で言う坂東玉三郎とかそんな感じの役者さんだったと思います。
長唄には、幾つかコマーシャルソングが存在します。
「軒端の松」はお酒でしょ。。。
「花の友」はお茶でしょ。。。
現在、コマーシャルというと30秒から一分くらいの単発ものですよね。
まあ、映画館でのコマーシャルはもうちょい長いか・・・
けれど、驚く無かれ。当時のコマーシャルはたっぷり十五分近く堪能できるのです。
きっと、当時この曲を聴いた流行先端を行く江戸の若い女性たちは、こぞって菖蒲柄の浴衣を仕立たのでしょうね。
そして、今と変わらず「本当に今時の若い子は・・・」とまゆをひそめるおばや様やおじ様がいたんでしょうね。
はははっ!想像すると可笑しいです。

さてさて、この曲は芳村伊十郎が五世芳村伊三郎を襲名披露として出された曲だそうです。
歌詞に「芳村」と入っていますね。
そうそう、「己が換名を市中の」という歌詞は伊十郎の襲名披露の意味を読み込ましたものと、淺川玉兎氏の本に書いてありました。
ほほう!無学の私は全然ピンと来ませんでした。
換名=改名という事なんでしょうね。
この曲はCMソングという事は以前から知っていましたが、五世芳村伊三郎襲名祝い曲も兼ねていたとは初めて知りました。
出合った曲の背景を勉強するって大切な曲ですね。
「島の千歳」ではありませんが、襲名の為に作られた曲というのは、そこのお家にとっては深い意味のある曲です。つまり、家宝というかその家にとって大切な曲なんですよね。
今では流派問わず、色々な方が演奏しますけれど、たぶん芳村流では特別な曲なんじゃないかしら?

作曲の勝三郎と正次郎はライバル同士。
そうそう、あの「勝連」「正連」を作った二人です。
そのライバルが仲間の祝いの為に作った曲なんでしょうね。
けっこう小曲ですけれど、考えてみたら凄い曲です。
当時人気の二人が作ったのですから!

この曲はとっても風流で粋な感じの曲です。
なんとなく演奏会などでは、Noお囃子で三味線と唄だけで演奏するイメージの曲です。
ですから、日舞の舞台とかのケースでなければお囃子はないものと思っていました。
ところが、ちゃんとお囃子が付いているんですね。
今まで、お囃子入りの菖蒲浴衣は聴いた事がなかったのですが、お囃子を勉強する事になって、はじめてお囃子入りバージョンの「菖蒲浴衣」を聴く事ができました。
もともと、この曲は唄が綺麗だし、前弾きが綺麗で好きな曲だったのですが、また違うイメージの「菖蒲浴衣」に出会う事ができました。

そういえば、こういった系の曲の冒頭のお囃子って「序の舞」が入る事が多いな。うーん。。。雰囲気ですものね。
序の舞というのは、お囃子の手組みの名前です。
邦楽専門の辞典で調べると、
能では、女・老人が静に舞う場面で使われる。
歌舞伎では、御殿風の場面の出入りに使われる。
と書いてありました。
つまり、「綺麗」で「静か」というイメージ。「しっとり」「透明」という言葉もイメージです。
ツクダとかが入っているので、けして御殿風景じゃないしなぁ。
たぶんイメージでこの手が付けられているんでしょうね。と勝手に判断しています。




ところで、この伊十郎と勝三郎は仲が悪かったそうで。で、気遣いの正次郎。

「そんなこと言わずに仲間同士仲良くね」と、伊十郎の唄で勝三郎の三味線で二人を競演させたいと正次郎がセッティングしたものという噂があるそうです。

正次郎さん。つくづくいい人だなぁと思いました。

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五月雨や傘につけたる小人形
晋子が吟もまのあたり、己が換名を市中の、四方の諸君へ売り弘む
拙き業を身に重き飾り兜の俤うつす
皐月の鏡曇りなき梛の二葉の床しさは今日の晴着に風薫る
菖蒲浴衣の白襲ね、表は縹紫に裏むらさきの朱奪ふ紅もまた重ねるとかや
それは端午の辻が花、五とこ紋のかげひなた
暑さにつくる雲の峰
散らして果は筑波根の遠山夕暮繁り枝を
脱いで着替の染浴衣、古代模様のよしながき
御所染千弥忍ぶ摺、小太夫鹿の子友禅の
おぼろに船の青簾河風肌にしみじみと
汗に濡れたる枕紙、鬢のほつれを簪の届かぬ愚痴も惚れた同士
命と腕に堀切の水に色ある花あやめ
弾く三味線の糸柳、縺れを結ぶ盃の行末広の菖蒲酒
是れ百薬の長なれやめぐる盃数々も
酌めや酌め酌め尽きしなき、酒の泉の芳村と
栄ふる家こそ目出度けれ

作曲者の三郎助の有力なスポンサーは当時の真田信濃守である。

当時の芸人はとにかくスポンサーなしでは生きていけない。いまでもそうです。スポンサーを獲得したタレントは強しです。

芸能界、今も昔も容姿は関係ありません。才能も関係ありません。単衣に人間関係。どんなスポンサーを得るかが生き残る道。確かに綺麗な人多いし、才能のある人が多い世界ですが、はっきり言ってスポンサーです。


真田信濃守は真田十勇士で有名な真田幸村の兄の真田信之の血統の方々です。

幸村の父の昌幸という人は、もともと幸村と仲が悪かったという説もありますが、真田家のお家存続のために、長男を豊臣家に、次男を徳川家にと二股をかけるという戦略をとりました。

見事にあたって、幸村は徳川軍をかなり脅かす存在になりましたし、信之はばっちり大名家となりました。

「二股なんて汚い手」という人もいますが、、、


さて、三郎助のパトロンは真田幸教という若い大名です。彼は幼い頃より病弱。とても、この不安定な時代に大きな家中を差配できる器ではありませんでした。

その前の当主の幸貫は、この青年のために佐久間象山という優秀なブレインを用意しました。でも、使いこなすことができず、象山は暗殺されてしまいます。

尊王と徳川揺れ動く時代に、松江藩内部も二派に分かれていたそうです。結局、象山の死によって尊王派に牛耳られちゃうそうです。


真田家はもともと武田信玄の重臣だったそうです。

「風林火山」。

「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。/其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵し掠めること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し」

孫子の「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」という言葉からきているうです。はあ。強そう!

武田の滅亡後、真田家は北条、上杉、豊臣、徳川と、その時々に主君を渡り歩き生き残ってきた。

天下分け目の戦い。豊臣と徳川の戦いの際、父と弟(真田信繁=幸村)は豊臣軍。信之は徳川軍と一族が分裂。徳川軍についた信之によって真田家の血は守られた。信濃上田藩の藩主を経て、信濃松代藩の藩主となった信之。彼の血統は明治以降も子爵・男爵といった地位を得て生き残っていく。

関ヶ原の時に一族が敵味方になっても家名を守り抜く選択が大当たりでしたね。


そうそう、びっくりしたのは真田家の華々しさ。

八代目の真田幸貫は寛政の改革を進めた松平定信の次男である。松平定信は八代将軍徳川吉宗の曾孫。彼の子供が真田幸良。九代藩主の幸教の父である。幸良は幸貫が真田の家に入る前にできた子供。真田家に入るにあたっての事情があったらしく父親の定信の末っ子として幕府に届けられる。後々、真田の家に引き取られるが家督を継ぐ前に父親よりも早く亡くなってしまう。という事で、幸良の子供である幸教が九代目藩主の家督を相続するんですね。

でも、この幸教は子どもの頃より体が弱かった。十七歳で当主となり、三十五の若さで他界。

幕末の混乱期。尊王だ幕軍だとか・・・

開港だ、鎖国継続だとか・・・

体力のない彼には厳しい時代だったのかもですね。


信濃松代藩の上屋敷にて『四季の花里』は発表されました。

松代藩の上屋敷は今の経済産業省別館あたりに存在していたらしいです。

桜田門外。新し橋に屋敷があったそうです。新し橋は今は無き汐留川上流に架かっていた橋です。

このあたりは大名の上屋敷がたくさん建っていたそうです。

『常盤の庭』や『秋の色種』で有名な南部公の上屋敷もご近所さんでした。


しかし、この当時の御大名。

「こんな曲が効きたいから作ってくれ」とか

「こんなうたを書いたから曲をつけてくれ」とか

風流ですね。

年代
作詞・作曲
1859年安政六年 五世杵屋三郎助

安政六年といえば、安政の大獄があった頃。江戸幕府末期。世の中物騒で騒然とした時代。
そんな時代背景を感じさせないですね。「まだまだ安泰でござる」という感じです。
何しろ、この曲も真田信濃守の上屋敷で催された席で初演。幕府・・・つまり会社が大変な時にのんびりと長唄鑑賞の席を設るなんぞ、今の時代だったら大変かも。しかし、この余裕が江戸時代の良いところかもしれません。

作詞・作曲を手がけた五世杵屋三郎助はのちの三世杵屋勘五郎。“根岸の勘五郎”と呼ばれていた方です。この曲は、彼の住んでいる根岸の四季を唄ったものだそうです。
この作曲者は十世杵屋六左衛門の子ども。初代杵屋栄蔵を名乗り、三世杵屋三郎助という名前を経て、十一世杵屋六左衛門の名跡を継ぐ。そして、その七年後に弟にその名前を譲り、三世杵屋勘五郎を名乗るようになったそうです。
『土蜘蛛』とか『望月』とか、有名どころの長唄を一杯残してくれたお方。凄いお方です。

「花里」なんていう題名がついていると、どうも田園風景を思い浮かべてしまう。しかし、江戸下町の風景なのですね。
とっても素晴らしい風景を唄いこんでいます。
この曲が誕生して、十年も経たない1868年にご維新の戌辰戦争が起こって、この上野辺りは戦場と化してしまうのだから世の中というのは分かりません。


さて、この根岸界隈には幾つかの名所があります。全てがこの曲に出てくるわけではありませんが。幾つかご紹介いたします。

・初音の里
鶯谷という地名があるだけに、この辺りは鶯の名所であったらしいです。しかし、この鶯の名所も人の手によって作られたものだそうです。
元禄の時代、寛永寺の住職の座についた公辨法親王(こうべんほっしんのう)が、都からこの地に来て「うぐいすの声が訛っている」と仰ったそうです。この辺りの鶯は遅鳴きで声質も悪かったらしい。この公辨法親王は後西天皇の第六皇子。雅なお方ですからね。私なんて、鶯がどんな鳴き方をしても気になりませんが、たぶんこういったお方は気になって仕方が無かったのでしょう。尾形乾山という人に命じて京から早鳴きで声の美しい鶯三千五百匹取り寄せて根岸の里に放したのだそうです。以降、この辺りは鶯の名所になったのだそうです。
このご住職は赤穂浪士切腹の判決のキーワードを握ったお方としても有名なのだそうです。この曲とは関係ないので、まあ雑学としてお伝えしておきます。

・梅屋敷
「梅に鶯」とも言いますが、根岸には梅の名所があったらしいです。梅屋敷は上根岸のあたりにあった梅の名所のようです。
うぐいすの声を競う“鳴き合わせ”という集いのようなことが今でも行われていますが、根岸のあたりにもそういったところがあったらしいです。初音里鴬之記という記念碑がある場所で最初は行われていたそうです。その後、鶯春亭という老舗の料亭に場所が移されたそうで、どちらもが梅の名所だったそうです。
下谷や根岸は大勢の噺家さんが住まわれていたそうです。“鶯春亭”でネット検索すると、“鶯春亭梅橋”という昔の落語家さんがヒットします。たぶん、このお名前はこの近辺が由来のお名前なんでしょうね。

・呉竹の里
根岸の里は、音無川の清流が流れ呉竹の里とも呼ばれていたそうです。
梅に鶯も似合いますが、竹藪に鶯というのも、また絵になる風景ですね。

・笹の雪
笹の雪というのは根岸の老舗お豆腐屋さんです。
笹乃雪初代玉屋忠兵衛という人は絹ごし豆腐を発明した人と言われています。元禄四年、公辨法親王のお供として京から江戸に下って来たのだそうです。公辨法親王は「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と主人の作った豆腐を大絶賛したそうです。
このお店、現在も続く老舗です。

・貝塚
太古の時代、上野のあたりまで海があったそうです。根岸というのは、上野の崖の下にあり、木の根のような岸辺がつながっていたというのが地名の由来なのだそうです。
谷中や上野あたりには古墳があり、貝塚もあるんですね。
景観もよく、ちょっとした観光地みたいな存在だったそうです。

・御行の松
根岸にある西蔵院というお寺にある松。広重の錦絵にも描かれている有名な松です。
「寛永寺門主輪王寺宮が上野山内の寺院や神社を巡拝された時に、 根岸の御隠殿からこの松の下にきて必す休まれたことから」、また一説には「松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したから」などと名前の由来には諸説あるのだそうです。
現在の御行の松は三代目なのだそうです。

・三島明神
このあたりには「三島さま」と呼ばれている神社が三つあるそうです。
寿四丁目の三島神社、下谷三丁目の三島神社、根岸一丁目の元三島神社の三つ。
もし、根岸の事を唄ったものなのなら、やっぱり元三島神社のことなのでしょうが・・・
しかし、江戸百景になっている「三島さん」は寿町の三島神社の事なのだそうです。へえ~???


さすが下町ですね。この辺りの名所を調べると山ほどでてきました。
でも、なんだかんだいって一番の名物は“鶯”なんですね。

現在の根岸あたりも丁度良いお散歩コース。
こうして色々と調べていると、下町散策に出たくなりました。

鶯の、初音の里の曙に
ほのぼのにほふ白梅や、しき紙たにざくみやびつつ
誰が枝に結ひし歌の謎、あれ春風がいたづらな
いつかほどいて深い中、道の行くての口ずさみ
取るや矢立の筆つばな、すみれ花咲くかき根岸
へだてぬものを堰(せき)といふ
水に蛙の言問へど、いはぬ色なる山吹の
はな色衣ぬしや誰れ
きつれてつれて摘草は ひなの遊びとをとめ子が
とりどり合わす 貝塚や迦陵?伽も馴れ馴れし
雲の上野の花盛り 日永が原もあかなくに
はや日暮しのいつしかも 春呉竹の里げしき
夏来にけりとみづえさす 木蔭に日ごと忍び音を
忍ぶが岡は大塚に 夢かと
たどる嬉しさは、ほとときすぎず
啼く声の 玉苗植えて新しき
田の面にうつる筑波根も、みどりすずしく三河島
さやけき月も秋ふけて 過ぎにし最中村雲に
数かく雁も 十三夜 琴柱に落つる声々に
拍子さそふる紙ぎぬた
 移りやすさよ人ごころ ねたしや袖にはらはらと
濡るる時雨がをがみても 合わぬ三ノ輪の恋の石
いなともうとも音無しの かはいと余所に鳴く鴉
あかすはいく夜笹の雪 積もる思ひもいつ解けて
祈る御行の松の色 千代万代もかはらじと
誓ふ三島の神まつり いさみ賑ふ諸人の
懸くる願ひもかなすぎに 眺めつきせぬ四つの村里


年代
作曲
1776年明和四年 二世杵屋六三郎

この曲の本名題は「春調娘七種(はるのしらべむすめななくさ)」という題名です。
なんか意外なのですが、この曲も曽我物です。

登場人物は、曽我十郎・五郎、そして、何故か静御前が登場します。
この三人が「怨敵退散、国土安泰、千秋楽々万歳」と願いをこめて、春の七草をたたくというもの。
つまり現在も一月七日に「七草粥」を食べる行事がありますが、あの行事が背景となっている物語(?)です。
何故かこの曲に何故か静御前が出てくると先ほど言いましたが、ご存知のように静御前の恋人は源義経で「曽我物」とは物語が違います。
ここに、十郎の恋人である虎御前や五郎の恋人である化粧坂の少将が出てくるなら納得なんですけれど。。。どうしてなんでしょうね。
時代的には、似たような時代背景です。
十郎・五郎の仇は工藤祐経という、源頼朝の家来です。詳しくは『勢い』ページを参照してください。
そして、静御前の恋人の源義経は頼朝の弟ですが、兄弟の仲違いで敵同士です。
つまり、頂点を辿って行くと頼朝にぶつかる。
まあ、曽我兄弟の仇は直接的には頼朝ではありませんが、大まかに言うと三人の「怨敵」というのは頼朝という事になります。

さて、「あら大胆な人じゃえ」で一段落終了して「若菜のご祝儀」までは鼓唄です。
三味線が付く事もありますが、三味線無しで小鼓の拍子で唄を唄う事もあります。
この部分で難しいなぁと思うのは、小鼓で鶯を表現する部分です。
鶯は小さくて可憐な鳥ですから。。。未熟な人が演奏すると、鶯ではなく烏になっちゃったり、酷い時はダチョウになってしまう事もあります。
この一調(「鼓唄」)が終了すると、出端越の段。あの部分が私はとっても好きです。
三味線の旋律がとってもしっとりしていて綺麗です。なんとなくフラットしたような旋律なんですよね。いかにも「和」を感じる部分です。
「出端」というのは、もともとは能のお囃子の手法で、神仏とか鬼畜など非人間的なものの登場に用いるものなのだそうですが、長唄系では人物の出に用いる手なのだそうです。
小鼓の一調とこの部分をやりたいが為に、この曲をお稽古したいなぁといつも思っています。けれど、これはお正月の曲で季節限定という雰囲気があるので。。。そうですね、来年のお正月くらいにリクエストしちゃおうかな?!

皆様、春の七草を全部言う事が出来ますか?
私は、この曲で七草の名前を覚えました。
歌詞に七草全部の名前が出てくるんですよね。
・菘(かぶ)
・蘿蔔(だいこん)
・芹
・薺
・御形
・田平子
・仏の座

よく七草粥の時期になると、スーパーで七草を売っていますが、どれもただの雑草にしか見えないですけれど。。。それぞれこんなに綺麗な名前が付いているんですね。
曲の後半に「七草の合方」があります。これは登場人物が七草を叩いているんですよね。
昔は七草をまな板に載せて「七草なずな、唐土の鳥が~♪」と言いながら、摺子木と包丁で叩くという行事があったそうです。すなわち、この場面ではこの行事をやっている風景なんですね。
そうそう、雑学的な事ですが「七草」の行事の起源は、宮中でお正月上子の日に七種類の若菜を内膳司から天子に奉るという慣わしがあってそれが起源となっているようです。へえ~ぇ(*^。^*)起源は宮中にあるのね。
な~んだ!お正月気分で食べ過ぎた胃腸を休める為に胃腸によい薬草を食べるという行事ではなかったのですね。いえいえ、一月七日に七草粥を食べるのは、疲れた胃腸を労わるためと昔聞いた事があるので。。。
この曲の後半はとっても賑やかでノリノリです。
前半はしっとり静にお正月という感じですけれど、後半はグッとイメージが変わって華やか!
このメリハリがこの曲の素晴らしさだと思います。

曽我物というと、「五郎」とか「勢い」とか「正札付け」とか威勢のよい曲をイメージします。
こういった女性っぽい華やかな曲もあるんですね。初めてこの曲が「曽我物」と知った時は超意外で吃驚しちゃいました。

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神と君との道すぐに、神と君との道すぐに
治まる国ぞ久しき。
若菜摘むとて、袖引き連れて、
思う友どち好い仲、良い仲
仲の好いのを脇から見れば、どれが姉やら妹やら
良く似たな、良く似た、さってもよく似た
しゃなしゃな行けば、振りもよし
今来るよねに見しょうずもの、袖引きひくな若き人
あら大胆な人じゃえ

春は梢も一様に、梅が花咲く殿造り
目指す仇は
いいやかたえに鶯の、ホウホウホウ
ほうほけきょう、ほうほけきょうと囀っても
餌ばみも知らぬくもけらけら、空うそふいて
はて
気を鎮めて打ち囃し、初若水の若菜のご祝儀
大和仮名文いつ書き習い
誓文一筆まいらせ候べく、かしくと留め袖
問うにゃ落ちいで語るに落ちる、
様は茨か私ゃ結いかねて、ともに居たさよいつとても
誓文一筆まいらせ候べく、かしくと留め袖
問うにゃ落ちいで語るに落ちる、
様は茨か私ゃ結いかねて、ともに居たさよいつとても

睦まじと、君は知らずや瑞籬(みずがき)の
久しき代々の例しには、引くや夜の鼓の
拍子を揃えて
七草薺(なずな)、御形田平子佛の座
菘(すずな)、蘿(すずしろ)芹(せり)薺
七種揃えて恵方へきっと直って
しったんしったん
どんがらりどんがらり
どんどんがらり、どんがらり
唐土の鳥が、日本の土地へ、渡らぬ先に

怨敵退散、国土安泰、千秋楽々万歳万歳
今を盛りの心の花も
開くる開くる運は天、天地地久万里が外も

打ち納めたる今日の七種

軒端の松を作曲した二世杵屋勝三郎。容姿がものすごい痘痕面で鬼のようだったとか。また住まいが馬喰町にあったらしく『馬場の鬼勝』と呼ばれていたらしい。

初代杵屋勝三郎の実子で1820年に誕生する。

初代杵屋勝三郎は常陸(今の茨城)土浦の藩主(土屋氏)に代々仕える武家に生まれた。けれど、幼少のうちから江戸に養子に出され、三味線の道に進んだ人らしい。勝派の元祖と言われる杵屋勝五郎の門弟。いくつかの作曲した曲があるらしいのですが「ある」だけで記録に残っていないらしい。

ただ、幽霊などが登場する時の効果音「ヒュードロドロドロ」。あの笛を寝鳥というのですが、あのメロディーを作ったのが初代杵屋勝三郎と言われている。

二代目は十一歳で市村座の見習いに入る。で、二十二歳で二世杵屋勝三郎を襲名。とにかく作曲の才能にすぐれていて、若年の頃より父親の作った新曲にアドバイスをしちゃうくらいだったらしい。

明治に入って勝三郎は後輩である三世杵屋正次郎ら市村座を任せ芝居を引退する。そして、当時、武家の崩壊によってパトロンを失い存続の危機にあった能楽の人たちと手を組んで、

『吾妻能狂言』という新興芸能を作り出す。内容は歌舞伎の伴奏で能や狂言を演じるというようなものだったらしい。『船弁慶』や『安達が原』が代表作品である。

明治三年に宝生流の日吉吉左衛門より依頼を受けて当時観世流の太鼓方を務めていたことのある藤舎芦船と相談して作ったのが長唄の『船弁慶』。以降、藤舎芦船は吾妻能狂言にて囃子主任をつとめたらしい。

(藤舎芦船は五世望月太左衛門に師事して江戸末期より能より歌舞伎に転向した人物である。この「藤舎」というお家は、のちのち東流二弦琴の家元となる。今の藤舎流は昭和の戦後になって二世望月太意次郎が鳴り物の家としての「藤舎流」を再興したものであるのだそうだ。関係あるといえば関係あるけれど、この当時の藤舎流と今の藤舎流は別物と考えた方が良いようだ。)

二世勝三郎には二男二女の子供がいた。けれど、長男は早くに亡くなりました。

次男は生まれつき身体が弱くて芸人になることを拒否していたらしい。それが故に長女に養子を取って跡継ぎにと考えた。でも、夫婦仲が悪くてあえなく離婚。結局、体の弱い次男が三代目となった。彼が三十一歳の時に東京座の囃子頭になるのですが、結核を患って鎌倉に天地療養。なんと三十八歳で没してしまう。


さて、この二世杵屋勝三郎いろいろな逸話をもつ方だったらしいです。

ある時、気ままに散歩していると自分の作曲した曲を稽古している家があり、じっと立ち止まって聴いていたらしい。二、三気になるところがあって、「すみません。この曲を作曲した勝三郎ですが」とその家に上がりこんで、間違いを正したというお話は有名。

三代目に名前を譲ったあとは、大薩摩東成を名乗り活躍。また勝作という名前で俳句を楽しんでいたようです。