作曲者の三郎助の有力なスポンサーは当時の真田信濃守である。
当時の芸人はとにかくスポンサーなしでは生きていけない。いまでもそうです。スポンサーを獲得したタレントは強しです。
芸能界、今も昔も容姿は関係ありません。才能も関係ありません。単衣に人間関係。どんなスポンサーを得るかが生き残る道。確かに綺麗な人多いし、才能のある人が多い世界ですが、はっきり言ってスポンサーです。
真田信濃守は真田十勇士で有名な真田幸村の兄の真田信之の血統の方々です。
幸村の父の昌幸という人は、もともと幸村と仲が悪かったという説もありますが、真田家のお家存続のために、長男を豊臣家に、次男を徳川家にと二股をかけるという戦略をとりました。
見事にあたって、幸村は徳川軍をかなり脅かす存在になりましたし、信之はばっちり大名家となりました。
「二股なんて汚い手」という人もいますが、、、
さて、三郎助のパトロンは真田幸教という若い大名です。彼は幼い頃より病弱。とても、この不安定な時代に大きな家中を差配できる器ではありませんでした。
その前の当主の幸貫は、この青年のために佐久間象山という優秀なブレインを用意しました。でも、使いこなすことができず、象山は暗殺されてしまいます。
尊王と徳川揺れ動く時代に、松江藩内部も二派に分かれていたそうです。結局、象山の死によって尊王派に牛耳られちゃうそうです。
真田家はもともと武田信玄の重臣だったそうです。
「風林火山」。
「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。/其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵し掠めること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し」
孫子の「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」という言葉からきているうです。はあ。強そう!
武田の滅亡後、真田家は北条、上杉、豊臣、徳川と、その時々に主君を渡り歩き生き残ってきた。
天下分け目の戦い。豊臣と徳川の戦いの際、父と弟(真田信繁=幸村)は豊臣軍。信之は徳川軍と一族が分裂。徳川軍についた信之によって真田家の血は守られた。信濃上田藩の藩主を経て、信濃松代藩の藩主となった信之。彼の血統は明治以降も子爵・男爵といった地位を得て生き残っていく。
関ヶ原の時に一族が敵味方になっても家名を守り抜く選択が大当たりでしたね。
そうそう、びっくりしたのは真田家の華々しさ。
八代目の真田幸貫は寛政の改革を進めた松平定信の次男である。松平定信は八代将軍徳川吉宗の曾孫。彼の子供が真田幸良。九代藩主の幸教の父である。幸良は幸貫が真田の家に入る前にできた子供。真田家に入るにあたっての事情があったらしく父親の定信の末っ子として幕府に届けられる。後々、真田の家に引き取られるが家督を継ぐ前に父親よりも早く亡くなってしまう。という事で、幸良の子供である幸教が九代目藩主の家督を相続するんですね。
でも、この幸教は子どもの頃より体が弱かった。十七歳で当主となり、三十五の若さで他界。
幕末の混乱期。尊王だ幕軍だとか・・・
開港だ、鎖国継続だとか・・・
体力のない彼には厳しい時代だったのかもですね。
信濃松代藩の上屋敷にて『四季の花里』は発表されました。
松代藩の上屋敷は今の経済産業省別館あたりに存在していたらしいです。
桜田門外。新し橋に屋敷があったそうです。新し橋は今は無き汐留川上流に架かっていた橋です。
このあたりは大名の上屋敷がたくさん建っていたそうです。
『常盤の庭』や『秋の色種』で有名な南部公の上屋敷もご近所さんでした。
しかし、この当時の御大名。
「こんな曲が効きたいから作ってくれ」とか
「こんなうたを書いたから曲をつけてくれ」とか
風流ですね。