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『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
自己満足ブログですみませんm(_ _)m

年代
作曲
1845年弘化二年四月 二世杵屋勝三郎


悪評高い天保の改革をした水野忠邦。一度失脚したにも関わらず、弘化元年に老中筆頭に返り咲いた。

しかし、年齢的問題か昔の面影ゼロ。いやいや、土井利位や鳥居耀蔵らに裏切られての失脚。裏切られたものの心の傷は深い。御用部屋でボーとしている事が多い。でも恨みの二人にはしっかり報復。剛腕を望まれて再就任したのですが、本人にとってはそんな事はどうでもよくて、ただただ報復のみしかなかったのかもですね。

弘化二年三月に水野君は強制隠居。悪の根源が消えて江戸庶民は万々歳。



その昔、中央区新川あたりは多くの酒問屋で繁盛していたそうです。
摂州をはじめ様々なところで作られた新酒が船で運ばれ、各酒問屋は大茶船いうものを出して、競って瀬取して、それぞれ河岸に積み帰って、新酒○○と銘打って市中に売り出したそうです。
この曲はある問屋(歌詞から推察して「内田屋」という説もあるが実のところは不明)が『軒端松』という新酒を売り出した。その酒問屋の依頼により誕生した宣伝曲なのだそうです。

「軒端の松」と検索すると、百人一首を選定した場所と言われている二尊院にある松(軒端の松)がヒットします。
百人一首を選定に活躍した、藤原定家の「偲ばれむ物ともなしに小倉山 軒端の松ぞなれてひさしき」という有名な歌がある。当初はこの歌から『軒端松』と命名されたのかと思いました。
しかし、歌詞冒頭で
酒豪で、またまた詩人として有名な李白が、自宅の軒端に松を植えたという事から『軒端松』と銘を打たれたようです。定家かと思ったけれど、李白だったんですね。
李白という人は“詩仙”と呼ばれ、また“酒仙”とも呼ばれた人と言われています。

この曲は二世杵屋勝三郎が二十七歳の時に作ったものだそうです。それも処女作だったとか。
この同じ時代に三世杵屋正治郎、十一世杵屋六左衛門という天才がいました。三人合わせて明治の三傑と言っている人がいました。
二世勝三郎は「鬼勝」と呼ばれたそうです。巨躯長身の上、あばた面ということで容貌が恐ろしかったのだそで、芸の凄さとあわせてこう呼ばれたのだそうです。
歌舞伎の伴奏曲であった長唄を「新たな需要」として、こういったCMソングを作ったとか。
その他、『廓丹前』・『喜三の庭』のように花柳流のお浚い会用の曲を作ったり、『菖蒲浴衣』のような名披露目のための曲を作るなどしたお方だそうです。
そうそう、十一世六左衛門も大薩摩復興に力を入れるなど、脱歌舞伎の動きがあったとか。
時代が長唄に対して歌舞伎外の需要を求めていたのかもですね。またそれにあわせて、歌舞伎も何気に不景気な時代だったのかも知れないですね。

この曲には、当時の銘酒がたくさん読まれています。
『男山』・『剣菱』・『七ツ梅』・『白菊』・『花筏』
男山・剣菱・七ツ梅は内田屋の新酒だったそうです。花筏はどこのお酒か不明。白菊は白酒という事で、『軒端松』は内田屋のお酒ではないかと淺川玉兎氏は仰っていますが・・・どこのなんでしょうね。
『男山』は北海道のお酒ですが、その起源は兵庫県伊丹市。『剣菱』も現在は神戸のお酒ですが、当時は伊丹市に酒蔵があったようです。
面白いのが、どちらのお酒も「赤穂浪士の四十七士が蕎麦屋の二階で最後に酌み交わした酒」という言い伝えがあるそうです。実際、どちらのお酒を呑んだのかは不明。
まあ、どちらもそんな昔からあるお酒なんですね。どちらもとっても美味しいお酒です。
余談ですが、
高校生の時に郵便局でアルバイトをしていました。その時の初給料で「御屠蘇に」と両親にプレゼントしたお酒が剣菱でした。そして、今、一番好きなお酒は男山です。
・・・偶然ですね。
そうそう、呑んだことがありませんが『七ツ梅』も現在も残っているお酒だそうです。これも今は兵庫。当時は伊丹のお酒。ところで、白菊は岡山のお酒にあるんですが、創業が明治後半なんですね。ですから、この歌詞に出てくる白菊とは違うようです。
花筏は同じものか不明ですが伊賀の地酒に同じ名前のものがあります。
こうして調べると、それぞれお酒には歴史ありなんですね。
後半、「神酒と聞く~」と謡曲の『猩々』からも歌詞を引用。まあ、とにかくお酒尽くしの曲であります。

伝え聞く太白が、軒端の松の深緑
ここにうつして盃に、酌むや千歳の竹の露
実に面白き酒宴かな
盛りなる、花に酔うとは春の空
何時とも分かぬ若葉時
山時鳥待つ夜にも、淋しさ知らぬ酒機嫌
ささの一夜を七夕の、逢瀬嬉しき川浪に
濡れと言われて嬲られて、ああ恥かしの初紅葉
妻恋う鹿の鳴かぬ日も、
積れば積もる雪見酒
四季折々の楽しみは、離れぬ仲じゃないかいな,面白や

一筋な、女心を汲みもせで、ほんに浮気な男山
つい言うこともつとどなき、言葉に角の剣菱や
愛想もこそも、七つ梅
粋な心についたらされて、嘘と知りても真実に受けて
末は白菊花筏、よしや世の中、花ごころ
神酒と聞く、神酒と聞く
名もことわりや万代も、尽きせぬ宿に湧き出づる
泉絶えせじ養老の
滝の流れの濁りなき、例しをここに引く絲の
調べも共に永く栄えん

作曲の四世杵屋六三郎。本名長次郎。彼は板橋宿の旅籠「奈良屋」の次男に生まれた。当初、母親に三味線の手ほどきを受けるが、超人的な才能の持ち主。すぐに母親の教示ではもてあますようになり、初代杵屋正次郎に預けられる。

1798年中村座にて初舞台。1808年に杵屋六三郎を襲名する。七代目市川団十郎に評価され特に可愛がられたと言われている。32年間六三郎として活躍。その後も16年間もの間、杵屋六翁という名前で活躍。

旅館の次男坊として誕生した天才少年が、その才能を十分に活かした76年間の生涯。なかなか才能はあってもその才能を十分に活かした生涯を生きる事は今も昔も難しいことと思いますが、幸運な持ち主だったのですね。

そうそう、まず四世杵屋六三郎の才能を導き出してくれたのはお母様ですね。ちなみに、このお母様の傘寿のお祝いとして贈られたのが有名な長唄『老松』です。


六三郎というお家は、初代は長唄三味線の始祖と言われている杵屋宗家三代目勘五郎の三男吉之丞が元禄年間に名乗った名前とされているが、詳細不明の人物らしい。だいたい、言われているだけで吉之丞が名乗っていたかも不明らしい。ただ、寛永時代に山村座の囃子方に其の名が残っているらしい。

二世六三郎は初代の実子で、宝暦十年の森田座番付からタテ三味線として登場している。初代松島庄五郎や初代富士田吉次のタテ三味線として活躍。江戸長唄の基礎を気づいた人と言われている。

その門弟に初代杵屋正次郎がいる。

三世六三郎は二世が亡くなったあとに五年間ほど後年九世杵屋六左衛門を名乗った万吉という人が名乗っていた。万吉が九世杵屋六左衛門を襲名したのち十二年ほどこの名前は絶えていた。

そして、初代杵屋正次郎の門弟である長次郎が「六三郎」の名前を1808年文化五年に継承する。1840年天保11年息子に五代目を譲ると初代杵屋六翁を名乗る。


江戸時代の長唄というのは、歌舞伎の中にあった。つまり、芝居のための音楽だった。

この芝居のための音楽を担当していたのが囃子方で、それらの人が収容される部屋を『囃子部屋』と呼ばれていた。宝暦・天明の時代頃、この囃子方を請け負っていた人々は大名・旗本の次男など道楽で加わっていたものが多くいたと言われている。それが故に、囃子部屋には刀掛けが設けられていたらしい。

囃子部屋には『囃子頭』という組長がいて、その下に唄・三味線・鳴り物三部のタテ、そしてそれぞれの脇、三枚目・・・見習いといった組織図になっているようだ。

それぞれ所属の移動はあったものの、座の掛け持ちはすることがなかったらしい。

天保元年十一月の江戸三座の囃子方の分布を参考までに。。。

中村座

囃子頭    宝山左衛門

タテ唄    三世富士田新蔵

タテ三味線 十世杵屋六左衛門

タテ小鼓   宝山左衛門

タテ大鼓   福原門左衛門

タテ太鼓   福原百之助(のちの五世望月太左衛門)

タテ笛    菊川幸吉

市村座

囃子頭    二世杵屋佐吉

タテ唄    三世芳村伊三郎

タテ三味線 二世杵屋佐吉

タテ小鼓   二世田中佐十郎

タテ大鼓   五世田中伝左衛門

タテ太鼓   大西徳蔵

タテ笛    住田彦七

河原崎座

相囃子頭  四世杵屋六三郎・四世望月太左衛門

相タテ唄  二世松永宙五郎・二世岡安喜三郎

タテ三絃  四世杵屋六三郎

タテ小鼓  四世望月太左衛門

タテ大鼓  田中傳次郎

タテ太鼓  二世坂田重兵衛

タテ笛   住田勝次郎

                              ※町田嘉章著『はやく上達する長唄のうたひ方弾き方』より


年代
作曲
作詞
1827年文政10年 四世杵屋六三郎
二世桜田治助

江戸市村座の変化舞踊『月雪花蒔絵巵』の中の一つ。
『月の巻』(長唄)・『雪の巻(納豆売り)』(清元)・『花の巻』(長唄)。現在、残っているのは、この月の巻と納豆売りの二曲だけだそうです。

さて、冒頭に唄われているように、背景は野路の玉川。
野路の玉川・三島の玉川・井出の玉川・野田の玉川・調布の玉川・高野の玉川。これらを『六玉川』といって、歌の枕詞に使われる名所の“玉川”だそうです。そうそう、歌詞を良く読むと、これらの玉川・・・登場しています。
野路の玉川は滋賀県の草津というところに流れているそうです。萩が有名なところだそうで。
萩といえば月。ここは月の名所でもあるそうです。

登場人物は二人の仕丁と御殿女中。
仕丁というのは、御殿で雑用を任された下男の事です。御殿づとめにも色々なんですが、超身分の低い人たちです。
こんな地味の人たちが主人公。なかなか珍しい曲です。
仕丁という言葉は知らなくても、けっこう身近にその姿を知っているかもです。
実は、雛人形の五段目に、
泣き上戸・笑い上戸・怒り上戸と三人の男の人たちがいます。
持ち物は地方によって違うそうですが、関東では沓台(くつだい)、台傘、立傘を持っています。
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時代は十一代将軍徳川家斉の時代。文化・文政は化政文化が盛んになった時代です。
化政文化は江戸時代後期に江戸の町人たちの間で発展した文化のこと。
例えば、小林一茶のように社会風刺を唄った俳句などが流行ったり、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』のような江戸庶民の生活を面白おかしく書かれた小説が出回ったりした時代です。
江戸時代に栄えた文化に元禄時代というのがありますが、あの文化の発進源は上方だったのだそうです。けれど、この化政文化というのは江戸が発進源。その違いがあるようです。
また、文政の時代に入るとシーボルトという医学者が長崎で西洋の医学を伝えるなど日本に新しい風が入り始めた時代でもあります。
この曲を聴いていると、非常に元気なのですね。やはり時代背景があるんですかね。

この曲に関して、ある本に面白いエピソードが載っていました。
とある美声の持ち主の唄い手さんが、虫づくしのところを美声にまかせて節を回したそうで、作曲者の六三郎が「そんな節回しがあるかい」とかいって山台に上って怒鳴ったのだそうです。
ゲッ・・・山台って・・・もしかして本番中ですかね。

冒頭に俊頼という人が出てきますが。この方は千載和歌集にて「明日もこむ―萩こえて色なる波に月やどりけり」と野路の玉川を読んだ源俊頼の事です。
仲光という人は新拾遺集にて「さをしかのしからむ萩の秋見へて月も色なる野路の玉川」と詠んでいます。
浮世絵でも多く描かれているそうで、素敵なところだったのでしょうね。

曲を演奏するにあたって、登場人物がどのような人とか、どんな背景なのかとかそういった情報は大切だと思います。
ただ、情報がありすぎてそれを表現する事に懸命になると音楽が臭くなるよなぁ。イメージは大切だけれどその辺の加減って難しいです。自然にそのワールドに流れる音が表現できるといいのですがね。

野路の玉川萩越えて色なる波と読み人の
俊頼卿に引きかえて、いざよう月のしなものに
冴えた仕丁の出立ち栄え。
水の鏡に影宿る、姿をここに狩衣の
主やゆかしと振袖に、包む思いの解けしなく
結ぶの神へ願事を、掛け奉る白張に
烏帽子も気軽気さく者
今日のお出では紺屋の使い、とはどうでんす
色の事じゃと取っている
オオさてそんなら明後日か、ハテそうであろう
そうかいな、忍び詣での帰り路も
隈なき夜半に雁金の、薄墨に書く玉章と
誰が夕紅葉織り映えて、
秋野の錦いろいろの、
色を染めなす立田姫、姿もさぞな朝顔の
差す手引く手に小車の、花を巡らす舞扇
返す袂をちょっと男郎花、何を紫苑の仇心
萩の浮気につい招かれて
薄に露のこぼれ萩、うらやまし
千種結びにこちゃよい殿と
縁し定めて二世掛け香りの嬉しさに
長柄の蝶の妹背事、いつかいつかとその蜩を
待つに松虫やるせがのうて、もしや夢にも君こおろぎと
中で蛍の焦がれていなご、きりぎりす、寝もせで賤の遠砧
井出の山吹蛙がなぶる、サッサそっこでどうじゃない
回る津の国卯の花薫る、月が鳴いたか時鳥
武蔵が調布野路の萩、野田に千鳥よソレ高野じゃ
飲めぬ水
鎌倉見たが江戸見たか、江戸は見たけど
鎌倉名所はまだ見ない
派手な振袖ソレそっこが花じゃもの
エエそちらまで憎らしい
テモさっても和御寮は、誰の神のみたねにて
天冠かつらをしゃんと着て、踊る振りが見事え
吉野龍田の花よりも、紅葉よりも
恋しき君が殿造り
萩の枝折りをしるべにて、いざやとあるを止むる袖
ふりきり原の駒ならで、心の手綱一筋に
月の玉鉾、あとに本当こりゃどうじゃ
あいつ一人で取り持ちを、科戸の風に入船は
しかも常陸の鹿島浦、コレワイナ
今年や世がよい豊年で、米が十分色事も
ホウヤレホウ
穂に穂が咲くといな、オヤモサ、オヤモサ
ヤア対の定紋、どうしたひょうりの瓢箪で
ヨイヨイ、恋を知らざる
鐘撞く野暮めは西の海、ヤレコレそこらでこれわいな
可愛いがられた竹の子も、今は抜かれて剥かれて
桶のたがに掛けられて〆られた
〆ろやれ、ヤレコレそこらでこれわいな、面白や
その戯れに興増して、また明日も来ん名所の
眺めにあかぬ風情かや
この曲は、坪内逍遥が作った
舞踊劇「新曲浦島」の序曲です。
舞踊劇「新曲浦島」は
序の幕:澄の江の浦
中の幕:海底、海神殿
詰めの幕:網神社境内、澄の江の浦
の三部作となっているそうです。

坪内逍遥はこの大作の作詞を行い、序曲の部分を長唄にしたそうです。

坪内逍遥というとシェークスピアの翻訳で有名な人です。
演劇学校に行くと
エチュードといって、有名な芝居のワンシーンを学習課題として取り組んで行くんですけれど
必ず、そのエチュードの中にシェークスピアの芝居が入っています。
「ロミオとジュリエット」のバルコニーの愛の語らいあの部分なんてよく使います。
翻訳は誰というとこの坪内逍遥。役者修行した私には非常に縁を感じさせる方なんですよね。
坪内逍遥というと、文学史にも必ず出てくるお方。
小説「神髄」の作者です。
文学的著名人としてこの坪内逍遥は大変身近な人なんですけれど、この人が長唄の作詞なんて知らなかったです。
そうそう、芝居関係で(芝居と言っても歌舞伎とかそういうのじゃなくて新劇ですよ)
そういった関係で著名人で長唄の作詞を行っている人が他にもいます。
私の知っている人で久保田万太郎、彼は「都風流」という有名な曲の作詞を手がけています。
新劇というと西洋カブレのイメージがありますけれど、そういった関係者でも昔は古典に通じている人が大勢いたんだなとなんかすごっく嬉しい感じです。
久保田万太郎は、樋口一葉の作品を多く劇化している人です。
さてさて、だいぶ本題から離れてしまいました。
この曲は、舞踊劇「新曲浦島」の舞台である澄の江の浦の情景を唄ったものだそうです。
前半はとっても穏やかな感じ、後半は海の激しさがよく表現されている曲だと思います。
作曲にあたってのエピソードとしては、この曲を作曲した時、すごい嵐だったようです。
後半、本当に激しい曲想なのですが、この激しさ・・・
もしかしたら、その時の台風の激しさなのかも知れません。
この曲の半ばから後半あたりに、お囃子の「竜神」という手を打つところがあります。
この竜神という手はここの場合は、海底で眠る竜神の寝息を現しているそうです。
私は、この部分がとっても好きです。
竜神が気持ち良さそうに寝ている姿をイメージして小鼓を打つんですけれど、まだまだ初心者の私にはうまく表現できません。
なんかかったるいようなそんな音が欲しいのですが、腕前が悪いとどうもそういった音の表現ができないものです。

そうそう、後半に「舟唄」という唄の聞かせどころがあります。
ここの部分、何度聞いても美空ひばり唄の「リンゴ追分の唄」の「スッチャカチャチャンチャカ」というあのリズム部分を思い出します。
そして、ついつい「りんごーの花びらがー」なんて唄いたくなっちゃいます。
こんなの人に話したら変なやつと思われちゃいますね。

この曲、すごっく素敵な曲で好きな曲なんです。
別の私にとっては、とてもイメージの悪い曲です。
あるお浚い会で初めてこの曲を耳にしました。
幕が開く前
「浦島さんの童話が題材になっている曲だ」と私は勝手に思い込んでいました。
ほら、例えば「鞍馬山」なんか
鞍馬山で幼い牛若丸が一生懸命に修行するお話そのもの童話の牛若丸が長唄になっているわけじゃないですか。
「綱館」も、一条戻り橋で鬼女の腕を取って、そしてまんまと鬼に騙されてその腕を奪われてしまう「御伽草紙」のお話そのものが長唄になっています。
そんなノリだったんですよね。

それなのに、いざ幕が開いても浦島さんは出てこないし
亀も竜宮城の乙姫様も出てこないし
鯛や平目の舞い踊りもないし
玉手箱も出てこない。
すっかり題名に騙されたと思いました。まるで大人にまんまと騙された詐欺にあった気持ちを今でも思い出します。

曲は大変好きなんですけれど「新曲浦島」と聞くとなんか、どこか拒否反応があるんですよね。
「騙された」そんな気持ちがこの題名に感じちゃうのでしょうね。

作曲の十三世杵屋六左衛門と、五世杵屋勘五郎は十二世杵屋六左衛門の実子で兄弟である。

十二世杵屋六左衛門の時代は植木店派全盛期の時代を気づく大物である。

「植木店派」というのは杵屋六左衛門の一門の流派のことである。

昔はその人の住んでいた町の名前でその人を呼ぶことがありました。いやいや、今でもあるかもです。

以前、ある歌舞伎役者の方が現在の中村芝翫丈のことを「神谷町のおじさん」と呼んでいました。

植木店派・・・どうも、九世六左衛門の頃からそう呼ばれていたらしいです。

「植木店町」ってどこにあったのでしょうね。今の東京の地図にはこの名前はなさそうです。

植木屋さんが多かったから・・・新宿の荒木町とか、

麻布の方にも植木坂というのがあるらしいです。

うーん、でも麻布・・・違う気がするな。

じっくり調べたら、昔、蔵前三丁目から二丁目のあたりに植木町というのがあったらしい。

長唄関係者のお住まい・・・

根岸=三代目勘五郎、池之端=四世杵屋六三郎、瀬戸物町(日本橋室町)=三世杵屋正次郎、日本橋馬喰町(馬場)=二世杵屋勝三郎・・・などなど。

現在はあちらこちらにお住まいですが、昔はだいたい下町あたりにお住まいの模様。

出勤場所を考えてもやっぱり下町。きっとたぶん、この蔵前のあたりと勝手に納得しています。

いやいや、本当はどこなのかご存知の方、教えて下さい。

明治に入り、世の中はガラッと変わった。歌舞伎も客寄せのために

まあ色々とエログロイこともやっていたみたいですよ。はちやめちゃ。

巷では、

「歌舞伎なんか近代文明に似つかわしくない演劇だ」と言われちゃったりして・・・。とうとう、おかみから、外人や貴族が感激してもよい品のある筋立てを上演しなさいと指導される。(演劇改良運動)

歌舞伎に将来はあるのか・・・

きっとたぶん、内にいる人たちはちょっと不安な時代だったかもです。

で、十二世六左衛門は、長男は跡継ぎで仕方がないけれど、次男はサラリーマンになってもらおうと方向づけたらしい。しかし、皮肉なものですね。だいたい、他の道に進めようとした方が才能があったりしちゃう。という事で五代目杵屋勘五郎を襲名。親の願いむなしく長唄が専門職になっちゃいましたね。

さて、四世杵屋勘五郎は稀音家浄観氏。彼は歌舞伎から長唄を独立させて、一つの音楽としての長唄を目指していた方です。当時の長唄関係者としては新しい生き方をした方ですね。

浄観氏のように新しい長唄の生き方を開拓する人もいれば、「かえるの子はかえる」が当たり前だった時代に、親の職業とはぜんぜん違う職業の世界を開拓させようと思ったのに、その才能が故に親の世界から飛び出しそこなってしまった青年もいた。人生いろいろ。皮肉もあれば冒険もあるもの。

明治39年。

アテネでオリンピックが開催され、イタリアのミラノで万博が開催された時です。

そうそう、クリーニングの白洋舎が創立された年でもあるそうです。老舗のクリーニング屋さんですが、そんな古くからある会社なんですね。すごい。

年代
作曲
作詞
1905年
明治39年
十三世杵屋六左衛門

五世杵屋勘五郎
坪内逍遥


中学や高校の文学史の教科書に出ている坪内逍遥。

文学史のテストで必ずといっていいほど登場する作家だ。「次の作者の作品はなんですか」という設問に「小説神髄」。穴埋めで「坪内逍遥は○○主義・・・云々」⇒「写実主義」こんな問題も出ていたような気がします。

この逍遥は島村抱月などと組んで文芸協会などというものを作って、新劇運動の母体となった。

若かりし頃、新劇を志していた私。坪内逍遥というお方は明治時代、新劇という新しい芝居のジャンルに関わった人と思いこんでいました。芝居を引退して久しいのですが、長唄の世界でこの名と再び出会うなんて思ってもみませんでした。

坪内逍遥は、

この曲のほかに、『寒山拾得』とか、『桐一葉』とか、『お夏狂乱』と歌舞伎や舞踊の作品を難曲も残しているんですね。


文芸協会の第一回大会は1906年に歌舞伎座で開催。『桐一葉』『常闇』といった逍遥の書いたものや、逍遥が翻訳したシェークスピアの『ベニスの商人』が演じられた。

『桐一葉』は五代目中村芝翫や三代目片岡我當などが出演した。

『新曲浦島』は翌年の第二回大会で本郷座にて序曲(つまり長唄の新曲浦島)のみ発表された。その他のプログラムは逍遥翻訳のハムレットに夏目漱石の『三四郎』。杉谷代水の『大極殿』。

考えてみればすごいプログラムの組み合わせ。『ハムレット』に『新曲浦島』・・・うーんあり得ない組み合わせだ。

この文芸協会というのは文学・演劇・美術の革新を目指しての集まりだったのだそうですが、

素人の演芸会レベルのものらしく、多額な借金を残していったん幕引き。

逍遥らは俳優養成所なるものを作り役者を育て、演劇のみにクローズアップして1909に島村抱月らと再出発。後期は帝劇での第六回大会までつづいた。

彼らの活動は、現在の文学座とか俳優座とか新劇の基礎を築いた演劇史上とても意義のある活動。

その歴史の中に『新曲浦島』の名前が刻まれていて、そんなにすごい曲だったんですね。





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寄せ返る神代ながらの波の音
塵の世遠き調べかな
それ渤海の東幾億万里に際涯も知らぬ
壑あるを名づけて帰墟と言うとかや
八紘九野の水づくし 空に溢るる天の河 流れの限り注げとも
無増無減と唐土の聖人が
たとえ今ここに見る目はるけき和田の原
北を望めば渺々と水や空なる沖津なみ
煙る緑の蒼茫と霞むを見れば
三つ五つ溶けて消えゆく片帆影
それかあらぬか帆影にあらぬ沖の鴎の
むらむらぱっと立つ水煙 寄せては返る波頭
その八重汐の遠方や
にも不老の神人は棲むてう三つの島根かもさて西岸は名にし負ふ
夕日が浦に秋寂びて磯辺に寄する
とどろ波岩に砕けて 裂けて散る水の行方のゆうゆうと
旦に洗ふ高麗の岸 夕陽もそこに夜のとの
錦秋の帳暮れゆく中空に誰が釣舟の玻璃の灯火しろじろと
裾の紫 色褪せて又染め変る空模様 
あれいつの間に一つ星雲の真袖の綻び見せてむら曇り変るは秋の空の癖しづ心無き空雲や蜑の小舟のとりどりに帰りを急ぐ艪拍子に
雨よ降れ降れ 風なら吹くな 家のおやじは 舟のりじや
風が物言ひや言伝てしようもの風は諸国を吹き廻る
舟唄かがる 雁がねの 声も乱れて 浦の戸に
岩波騒ぐ 夕嵐 凄まじかりける 風情なり

年代
作曲
作詞
1810年文化七年年 九世杵屋六左衛門
二世瀬川如皐


またまた、変化ものお得意の如皐の作品です。もちろん期待通りでこの作品も変化ものの一つです。

『大原女』。別名『黒木売』といわれているそうです。

京都は昔の都。でも、京都全部が町という訳ではありません。
そう、東京の高尾とか奥多摩とか、そんなような地域が京都の大原です。
京都の大原は三千院とかがあって、けっこう観光地として有名。
舞妓姿の変身とか、観光客相手に、その姿に変身してスナップなど撮るというのが流行っていますが、「大原女」バージョンなんかあるところもあります。
そんな風物姿となっている大原女が主人公の長唄です。
大原女というのは、室町時代ころから続く、京都の女性の職業の一つです。
野菜を売る“畑の姥”(はたのおば)、花売りの白川女、飴売りの桂女などの行商の女性がいたそうです。
大原女は、黒木を商いとしていたのが始まりのようです。
大原というところは、薪炭を平安京に供給する土地だったようです。という事で、炭を売り歩いていたのですね。筒袖の絣の着物に帯を前で結び、脛巾にわらじ姿。頭に手ぬぐいをかぶり、荷を頭にのせて行商。これが大原女です。
『花のほかには』-fuyusun'sワールド--大原女 この曲は早代わりもので、前半が娘が主人公で、後半が奴さんに変身するという面白い趣向の長唄です。
もともとは、江戸中村座で上演された「道中娘菅笠」という狂言の最初の大切所作事として、「奉掛色浮世図鑑(かけまつるいろのうきよえ)」という題名で演じられたものらしいです。
室町時代の絵描きの「曽我蛇足の世界」を描いたものらしく、武内大臣→大原女→平継茂→神功皇后→禿→戸隠山の鬼女などなど次々と変身して踊るという忙しい演目らしいです。
早代わりもの大好きな江戸庶民に非常に喜ばれて大好評だったらしいですよ。
曲のストーリーは…よく分かんない。
この曲は、その姿やその役の心情を表現しているので起承転結のあるストーリーは存在しません。
歌舞伎によくある、「可愛い娘○○は実は豪傑な武将○○であった」というどんでん返しのストーリーではないのは確かです。
三味線の聞かせどころで「虫の合い方」というのがあります。
「虫の合い方」という名前が付いているものって、他にもあったな。
「秋の色種」、「四季の山姥」などなど。どれも美しいメロディーです。


ちなみに、曽我蛇足について調べてみました。

室町時代後期の画家で曽我派の祖と言われている人です。

大徳寺真珠庵の襖絵『四季山水図・四季花鳥図・溌墨(はつぼく)山水図』を描いたとされている。

また、達磨の半身像の絵も有名だそうです。

もともと、越前の朝倉家に仕えていた武将。その後、一休和尚のもとで禅修行。一休和尚に絵の教授をしたとかしないとか。

曽我というと、五郎・十郎を思い出しますが、美術関係の巨匠に曽我を名乗る方がいらっしゃったのですね。

また一つ、知識が広がりました。


ところで大原というとしば漬け♪

源平の戦いで壇ノ浦で身を投げて助かってしまった建礼門院は大原に庵を構えひっそりと仏に仕えたそうです。

慰めに地元の民が、野菜等を庵に届けたそうで、彼女はそれを紫葉とともに漬け込んで漬物を作ったそうです。これがしば漬けの由来だそうです。

脱線エピソードです。