作曲の十三世杵屋六左衛門と、五世杵屋勘五郎は十二世杵屋六左衛門の実子で兄弟である。
十二世杵屋六左衛門の時代は植木店派全盛期の時代を気づく大物である。
「植木店派」というのは杵屋六左衛門の一門の流派のことである。
昔はその人の住んでいた町の名前でその人を呼ぶことがありました。いやいや、今でもあるかもです。
以前、ある歌舞伎役者の方が現在の中村芝翫丈のことを「神谷町のおじさん」と呼んでいました。
植木店派・・・どうも、九世六左衛門の頃からそう呼ばれていたらしいです。
「植木店町」ってどこにあったのでしょうね。今の東京の地図にはこの名前はなさそうです。
植木屋さんが多かったから・・・新宿の荒木町とか、
麻布の方にも植木坂というのがあるらしいです。
うーん、でも麻布・・・違う気がするな。
じっくり調べたら、昔、蔵前三丁目から二丁目のあたりに植木町というのがあったらしい。
長唄関係者のお住まい・・・
根岸=三代目勘五郎、池之端=四世杵屋六三郎、瀬戸物町(日本橋室町)=三世杵屋正次郎、日本橋馬喰町(馬場)=二世杵屋勝三郎・・・などなど。
現在はあちらこちらにお住まいですが、昔はだいたい下町あたりにお住まいの模様。
出勤場所を考えてもやっぱり下町。きっとたぶん、この蔵前のあたりと勝手に納得しています。
いやいや、本当はどこなのかご存知の方、教えて下さい。
明治に入り、世の中はガラッと変わった。歌舞伎も客寄せのために
まあ色々とエログロイこともやっていたみたいですよ。はちやめちゃ。
巷では、
「歌舞伎なんか近代文明に似つかわしくない演劇だ」と言われちゃったりして・・・。とうとう、おかみから、外人や貴族が感激してもよい品のある筋立てを上演しなさいと指導される。(演劇改良運動)
歌舞伎に将来はあるのか・・・
きっとたぶん、内にいる人たちはちょっと不安な時代だったかもです。
で、十二世六左衛門は、長男は跡継ぎで仕方がないけれど、次男はサラリーマンになってもらおうと方向づけたらしい。しかし、皮肉なものですね。だいたい、他の道に進めようとした方が才能があったりしちゃう。という事で五代目杵屋勘五郎を襲名。親の願いむなしく長唄が専門職になっちゃいましたね。
さて、四世杵屋勘五郎は稀音家浄観氏。彼は歌舞伎から長唄を独立させて、一つの音楽としての長唄を目指していた方です。当時の長唄関係者としては新しい生き方をした方ですね。
浄観氏のように新しい長唄の生き方を開拓する人もいれば、「かえるの子はかえる」が当たり前だった時代に、親の職業とはぜんぜん違う職業の世界を開拓させようと思ったのに、その才能が故に親の世界から飛び出しそこなってしまった青年もいた。人生いろいろ。皮肉もあれば冒険もあるもの。
明治39年。
アテネでオリンピックが開催され、イタリアのミラノで万博が開催された時です。
そうそう、クリーニングの白洋舎が創立された年でもあるそうです。老舗のクリーニング屋さんですが、そんな古くからある会社なんですね。すごい。