新曲浦島-その一- | 『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

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fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
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年代
作曲
作詞
1905年
明治39年
十三世杵屋六左衛門

五世杵屋勘五郎
坪内逍遥


中学や高校の文学史の教科書に出ている坪内逍遥。

文学史のテストで必ずといっていいほど登場する作家だ。「次の作者の作品はなんですか」という設問に「小説神髄」。穴埋めで「坪内逍遥は○○主義・・・云々」⇒「写実主義」こんな問題も出ていたような気がします。

この逍遥は島村抱月などと組んで文芸協会などというものを作って、新劇運動の母体となった。

若かりし頃、新劇を志していた私。坪内逍遥というお方は明治時代、新劇という新しい芝居のジャンルに関わった人と思いこんでいました。芝居を引退して久しいのですが、長唄の世界でこの名と再び出会うなんて思ってもみませんでした。

坪内逍遥は、

この曲のほかに、『寒山拾得』とか、『桐一葉』とか、『お夏狂乱』と歌舞伎や舞踊の作品を難曲も残しているんですね。


文芸協会の第一回大会は1906年に歌舞伎座で開催。『桐一葉』『常闇』といった逍遥の書いたものや、逍遥が翻訳したシェークスピアの『ベニスの商人』が演じられた。

『桐一葉』は五代目中村芝翫や三代目片岡我當などが出演した。

『新曲浦島』は翌年の第二回大会で本郷座にて序曲(つまり長唄の新曲浦島)のみ発表された。その他のプログラムは逍遥翻訳のハムレットに夏目漱石の『三四郎』。杉谷代水の『大極殿』。

考えてみればすごいプログラムの組み合わせ。『ハムレット』に『新曲浦島』・・・うーんあり得ない組み合わせだ。

この文芸協会というのは文学・演劇・美術の革新を目指しての集まりだったのだそうですが、

素人の演芸会レベルのものらしく、多額な借金を残していったん幕引き。

逍遥らは俳優養成所なるものを作り役者を育て、演劇のみにクローズアップして1909に島村抱月らと再出発。後期は帝劇での第六回大会までつづいた。

彼らの活動は、現在の文学座とか俳優座とか新劇の基礎を築いた演劇史上とても意義のある活動。

その歴史の中に『新曲浦島』の名前が刻まれていて、そんなにすごい曲だったんですね。