月の巻-その二- | 『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

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fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
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作曲の四世杵屋六三郎。本名長次郎。彼は板橋宿の旅籠「奈良屋」の次男に生まれた。当初、母親に三味線の手ほどきを受けるが、超人的な才能の持ち主。すぐに母親の教示ではもてあますようになり、初代杵屋正次郎に預けられる。

1798年中村座にて初舞台。1808年に杵屋六三郎を襲名する。七代目市川団十郎に評価され特に可愛がられたと言われている。32年間六三郎として活躍。その後も16年間もの間、杵屋六翁という名前で活躍。

旅館の次男坊として誕生した天才少年が、その才能を十分に活かした76年間の生涯。なかなか才能はあってもその才能を十分に活かした生涯を生きる事は今も昔も難しいことと思いますが、幸運な持ち主だったのですね。

そうそう、まず四世杵屋六三郎の才能を導き出してくれたのはお母様ですね。ちなみに、このお母様の傘寿のお祝いとして贈られたのが有名な長唄『老松』です。


六三郎というお家は、初代は長唄三味線の始祖と言われている杵屋宗家三代目勘五郎の三男吉之丞が元禄年間に名乗った名前とされているが、詳細不明の人物らしい。だいたい、言われているだけで吉之丞が名乗っていたかも不明らしい。ただ、寛永時代に山村座の囃子方に其の名が残っているらしい。

二世六三郎は初代の実子で、宝暦十年の森田座番付からタテ三味線として登場している。初代松島庄五郎や初代富士田吉次のタテ三味線として活躍。江戸長唄の基礎を気づいた人と言われている。

その門弟に初代杵屋正次郎がいる。

三世六三郎は二世が亡くなったあとに五年間ほど後年九世杵屋六左衛門を名乗った万吉という人が名乗っていた。万吉が九世杵屋六左衛門を襲名したのち十二年ほどこの名前は絶えていた。

そして、初代杵屋正次郎の門弟である長次郎が「六三郎」の名前を1808年文化五年に継承する。1840年天保11年息子に五代目を譲ると初代杵屋六翁を名乗る。


江戸時代の長唄というのは、歌舞伎の中にあった。つまり、芝居のための音楽だった。

この芝居のための音楽を担当していたのが囃子方で、それらの人が収容される部屋を『囃子部屋』と呼ばれていた。宝暦・天明の時代頃、この囃子方を請け負っていた人々は大名・旗本の次男など道楽で加わっていたものが多くいたと言われている。それが故に、囃子部屋には刀掛けが設けられていたらしい。

囃子部屋には『囃子頭』という組長がいて、その下に唄・三味線・鳴り物三部のタテ、そしてそれぞれの脇、三枚目・・・見習いといった組織図になっているようだ。

それぞれ所属の移動はあったものの、座の掛け持ちはすることがなかったらしい。

天保元年十一月の江戸三座の囃子方の分布を参考までに。。。

中村座

囃子頭    宝山左衛門

タテ唄    三世富士田新蔵

タテ三味線 十世杵屋六左衛門

タテ小鼓   宝山左衛門

タテ大鼓   福原門左衛門

タテ太鼓   福原百之助(のちの五世望月太左衛門)

タテ笛    菊川幸吉

市村座

囃子頭    二世杵屋佐吉

タテ唄    三世芳村伊三郎

タテ三味線 二世杵屋佐吉

タテ小鼓   二世田中佐十郎

タテ大鼓   五世田中伝左衛門

タテ太鼓   大西徳蔵

タテ笛    住田彦七

河原崎座

相囃子頭  四世杵屋六三郎・四世望月太左衛門

相タテ唄  二世松永宙五郎・二世岡安喜三郎

タテ三絃  四世杵屋六三郎

タテ小鼓  四世望月太左衛門

タテ大鼓  田中傳次郎

タテ太鼓  二世坂田重兵衛

タテ笛   住田勝次郎

                              ※町田嘉章著『はやく上達する長唄のうたひ方弾き方』より