軒端の松-その二- | 『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

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軒端の松を作曲した二世杵屋勝三郎。容姿がものすごい痘痕面で鬼のようだったとか。また住まいが馬喰町にあったらしく『馬場の鬼勝』と呼ばれていたらしい。

初代杵屋勝三郎の実子で1820年に誕生する。

初代杵屋勝三郎は常陸(今の茨城)土浦の藩主(土屋氏)に代々仕える武家に生まれた。けれど、幼少のうちから江戸に養子に出され、三味線の道に進んだ人らしい。勝派の元祖と言われる杵屋勝五郎の門弟。いくつかの作曲した曲があるらしいのですが「ある」だけで記録に残っていないらしい。

ただ、幽霊などが登場する時の効果音「ヒュードロドロドロ」。あの笛を寝鳥というのですが、あのメロディーを作ったのが初代杵屋勝三郎と言われている。

二代目は十一歳で市村座の見習いに入る。で、二十二歳で二世杵屋勝三郎を襲名。とにかく作曲の才能にすぐれていて、若年の頃より父親の作った新曲にアドバイスをしちゃうくらいだったらしい。

明治に入って勝三郎は後輩である三世杵屋正次郎ら市村座を任せ芝居を引退する。そして、当時、武家の崩壊によってパトロンを失い存続の危機にあった能楽の人たちと手を組んで、

『吾妻能狂言』という新興芸能を作り出す。内容は歌舞伎の伴奏で能や狂言を演じるというようなものだったらしい。『船弁慶』や『安達が原』が代表作品である。

明治三年に宝生流の日吉吉左衛門より依頼を受けて当時観世流の太鼓方を務めていたことのある藤舎芦船と相談して作ったのが長唄の『船弁慶』。以降、藤舎芦船は吾妻能狂言にて囃子主任をつとめたらしい。

(藤舎芦船は五世望月太左衛門に師事して江戸末期より能より歌舞伎に転向した人物である。この「藤舎」というお家は、のちのち東流二弦琴の家元となる。今の藤舎流は昭和の戦後になって二世望月太意次郎が鳴り物の家としての「藤舎流」を再興したものであるのだそうだ。関係あるといえば関係あるけれど、この当時の藤舎流と今の藤舎流は別物と考えた方が良いようだ。)

二世勝三郎には二男二女の子供がいた。けれど、長男は早くに亡くなりました。

次男は生まれつき身体が弱くて芸人になることを拒否していたらしい。それが故に長女に養子を取って跡継ぎにと考えた。でも、夫婦仲が悪くてあえなく離婚。結局、体の弱い次男が三代目となった。彼が三十一歳の時に東京座の囃子頭になるのですが、結核を患って鎌倉に天地療養。なんと三十八歳で没してしまう。


さて、この二世杵屋勝三郎いろいろな逸話をもつ方だったらしいです。

ある時、気ままに散歩していると自分の作曲した曲を稽古している家があり、じっと立ち止まって聴いていたらしい。二、三気になるところがあって、「すみません。この曲を作曲した勝三郎ですが」とその家に上がりこんで、間違いを正したというお話は有名。

三代目に名前を譲ったあとは、大薩摩東成を名乗り活躍。また勝作という名前で俳句を楽しんでいたようです。