芳沢あやめ(1673年~1729年)は、元禄期の歌舞伎を代表とする上方歌舞伎の女形である。
紀伊国の中津村。現在の和歌山県日高川町に生まれる。早くに父親を亡くし、道頓堀の芝居小屋の色子として抱えられる。
色子というのは・・・
江戸時代の歌舞伎の修行中の役者は売春を兼業させられるものが多かった。女性を相手にすることもあれば、女形の場合は女性に近い存在ということから男性に春を売る事もあったとか・・・。余談です。
はじめは三味線を仕込まれたようですが、丹波亀山の橘屋五郎左衛門が贔屓となり、彼の強い勧めで女形となる。
五代目まで続いているが・・・現在、この名前を名乗っている方はいらっしゃいません。
初代芳沢あやめは写実的に女形を演じてきている。
完璧主義。彼の女形としての心得的な芸談として『あやめ草』という本が残されている。
ある女形があやめに「女形の心得を教えてください」と聞いた。
「女は傾城(遊女)さえよくできれば、他の役はみな簡単にできる。その訳は元が男であるために、きりっとしたところは生まれ付いて持っている。男の身で、傾城のあどめもなく(無邪気な)、ぼんじゃり(愛らしくゆったり)とした様子は、よくよく心がけないとできない。だから傾城についての稽古を、第一にしなさい」
なるほど。傾城をきちっと演じられることが女形のスタートラインなのですね。
さらにあやめは言った。
「女形の仕様は、形をいたずらに(みだらに、色気のあるように)、心を貞女にしなければならない。ただし、武士の妻だといって、ぎこちない(無愛想な)のは見苦しい。きりりとした女の様子を演じるときは、心をやわらかにすべきである」
女形に限らず、女優の方々にも通ずる芸談のように思います。
あやめは普段の生活も女性を意識して生活をしていたそうだ。
人前で食べる姿を見せない。ほかの役者と離れた場所で食事をしたそうです。
食べている最中に男になってしまって、共演者がそれを見てどう思うか。そこまで考えて生活しなければならないと言ったそうです。
名門の出身ではありませんが、一世を風靡した人気絶頂の女形。
現在の坂東玉三郎のような存在だったのかしら?