- 長唄全集(十七)時雨西行/橋弁/芳村伊十郎(七代目)
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行方定めぬ雲水の、行方定めぬ雲水の
月諸共に、西へ行く
西行法師は家を出て、一所不住の法の身に、吉野の花や更科の、月も心のまにまにに
三十一文字の歌修行、廻る旅路も長月の、秋も昨日と過ぎ行きて、都をあとに時雨月
淀の川船行末は、鵜殿の芦のほの見えし、松の煙りの波寄する
江口の里の黄昏に、迷ひの色は捨てしかど、濡るる時雨に忍びかね
賤の軒端にたたずみて、一夜の宿り乞ひければ
あるじと見えし遊女が、情なぎさの断りに、波に漂ふ捨小舟、何処へ取付く島もなく
「世の中を厭ふまでこそ難からめ、仮の宿り惜しむ君かな」と口ずさみて行き過ぐるを
なうなう暫し、呼び留め
「世を厭ふ、人として聞けば仮の宿に、心留むなと思ふばかりに、それ厭はずば此方へ」と
云うに嬉しき宿頼む、一樹の蔭の雨宿り
一河の流れの此の里に、お泊め申すも他生の縁、如何なる人の末なるかと、問はれて包むよしもなく
我も昔は弓取りの、俵藤太が九代の後葉、斉藤右兵衛尉憲清とて
鳥羽の帝の北面たりしが、飛花落葉の世を観じ、弓矢を捨てて、墨染に身を染めなして法の旅
あら羨まし我が身の上、父母さへも白浪の
寄する岸辺の川舟を、留めて逢瀬の波枕、世にも果敢なき流れの身
春のあしたに花咲いて、色なす山の粧ひも、ゆふべの風に誘はれて、秋の夕べに紅葉して
月によせ、雪によせ、問ひ来る人も川竹の、うきふし繁き契りゆゑ
是れも何時しか枯れ枯れに、人は更なり心無き、草木も哀れあるものを
或時は色に染み、貧着の思ひ浅からず
又或時は声を聞き、愛執の心いと深く、是れぞ迷ひの種なりや
実に実に是れは凡人ならじと、眼を閉ぢて心静め、見れば不思議や
今まで在りし遊女の姿忽に、普賢菩薩と顕じ給ひ
実相無漏の大海に、五塵六欲の風は吹かねども、随縁真如の波の立たぬ日もなし
眼を開ければ遊女にて
人は心を留めざれば、つらき浮世も色もなく、人も慕はじ待ちもせじ
又別れ路もあらし吹く、花より紅葉よ月雪の、ふりにしこともあらよしなや
眼を閉づれば菩薩にて、異香のかをり糸竹の調べ
六牙の象に打乗りて、光明四方に輝きて、拝まれ給ふぞ有難き、拝まれ給ふぞ有難き
西行法師が正身の、普賢菩薩を拝みたる、江口の里の雨宿り
空に時雨の故事を、ここに写して諷ふ一と節