『時雨西行』を書いた河竹黙阿弥は文化13年(1816年)に江戸日本橋に産声を上げる。本名は吉村芳三郎。次男なのになぜか三郎です。
父は越前屋勘兵衛(本名 吉村勘兵衛)。母はまち。父親は湯屋株を売買する商売をしていた。湯屋株というのは湯屋・・・つまり公衆浴場を営業するにあたっての営業株のことである。。この越前屋の次男として誕生する。若い頃から読書が大好き。ついでに、自ら歌舞伎の本を書いたり川柳をつくったり、ついでに豊かな親の経済力を利用して稼業のお手伝いそっちのけで遊蕩にふけっていたそうです。
1829年文政12年。とうとう親から勘当されてしまう。その後、まあ働かねばだったんでしようか、貸本屋好文堂の手代となる。読書大好きな彼。大好きな本に埋もれての毎日。幸せだったんでしょうね。
1834年、父親が死去する。そして弟が家督を相続する。その翌年、芳三郎は五代目鶴屋南北の門弟となり,初代勝諺蔵を名乗り狂言作家の見習い市村座に籍を置くようになる。
彼らしい人生がスタート。着々とキャリアを積んでいた。しかし、稼業を継いだ弟が死去。勘当されているから関係ないなんて言えないのでしょうね。当時、芳三郎は河原崎座に出勤していたが稼業を継ぐために退座する。
・・・が、このまま大人しく商人稼業をこの人がしているわけがない。同年には市川団十郎の勧進帳の芝居のプロンプターをつとめて、その才能を団十郎に認められちゃったり、河原崎座の要請で芝居を書いたりと狂言作家としての血がしょっちゅう騒いじゃって稼業どころではなかったようですね。
1843年天保14年。二代目河竹新七を襲名。河原崎座の立作家となる。
稼業はどうしていたんでしょうね。周りは諦めモードだったんですかね。名前だけでもお店の主人であってくれればいいという感じだったんでしょうか。
「芳三郎はもうどうでもいい。芳三郎に嫁を迎えて一日も早く跡継ぎを」と母親のまちが思ったかどうか分かりませんが、1846年の十一月に茶道具屋の娘を嫁に迎えるのですね。芳三郎30歳。きっとたぶんこの時代としては遅い結婚だったかもですね。
とにかく、結婚しても彼は劇作家の道を突き進んでいました。
書いた作品、なんと360作品もあるとか。
“三人吉三”“切られお富”“白波五人男”などなど、今も残る有名な作品をいっぱい残しています。
明治に入って、九代目市川団十郎は、新聞記者出身の福地桜痴などとともに演劇改良運動に取り組むようになる。古きものが置き去りになり「そんな古臭い」とか「時代遅れ」と言われるような風潮になってきた。芳三郎はそんな風潮に嫌気が差し、作家としての意欲が衰退する。「自分の意見に耳を貸す者がいのならもう黙っていよう」と引退を決意。そして名前も河竹黙阿弥に改名する。
まあ、結局はこの演劇改良運動というのは失敗に終わる。「黙っている」と臍を曲げたけれど、この人が残りの人生を黙って過ごせるわけがない。古河黙阿弥と改名。その後も活発に創作活動を行ったそうだ。そして喜寿を記念して本当の引退を宣言。翌年、78歳。脳溢血にてその生涯を終える。
才能豊かな日本の誇るべき芸術家であった人なんですね。
しかし、彼の人生。親不孝だしね・・・けっして一般的には褒められた人生じゃなかったと思う。
まあ、そういう世界が芸能界。
未だ、一般的には褒められたものじゃないけれど、その優れた才能に人々は魅了される。
時々に耳にするお話だ。
「芸能界なんてろくな世界じゃない」という人がいますが、きっとろくでもないからこそ、そこに芸が存在するのではないかと私は思う。