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『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
自己満足ブログですみませんm(_ _)m

花に遊ばば祇園あたりの色揃ひ、東方南方北方西方、

弥陀の浄土へひつかりひかひか、光輝く花揃ひ、わいわいわいとな。

浮世とは、浮いた騒ぎに浮かれて暮らす。

夜を昼なる全盛は、軒の燈火闇路も明く、花の街に土地一力の、広間につづく長廊下、

手の鳴る方とさんざめく、声にそやされうろうろと、酒にめんない千鳥足。

出会頭に手を取って。

「それ酒ぢゃ酒ぢゃ」

目隠しとって、これは失礼人違ひ、御免御免とたわいなき、体ぞ仲居も末社ども、手持無沙汰のきょろきょろ目、

酒はさめねど興さまし、こそこそ逃げて行く影を、ぢっと見送り侍達。

「大星氏、お頭お眼覚まされませう」

揺り起こされても心は空。

「東の出立はいつ頃でござるな」

「これは又きつい野暮、我等の相手は天の美禄」

(小唄)そもや神代の昔を今に、お神酒捧げぬ神はない

ちょっと銚つけとさし出すを、全く本心放埓と、袖振りきっておもて口、畳蹴立てて出でて行く。

更けて廓の粧見れば、閨の燈火うちそむき、浮き寝の床の夢の花。

散らす嵐の誘ひ来て、そっと呼び出す連れ人男の子、余所のさらばもなほ哀れにて

「是ぞ我等が虎の巻、大義であった」

うちも中戸を明けの鐘の音。

君に逢ふとて小簾戸に立てば。

月も推して雲がくれ、首尾はよいよいササよいやさ。

辛気辛気の胸の内、それと心もつくづくと、余所の恋路も羨ましうて、後ろへしょんぼり立ち姿。

「オオかるか、身の上の大事とこそはなりにけり」

と押し隠せば、繋ぎ染めたる色糸の、恋や浮気といふやうな。

ういた心の水色に、緑も浅黄の一夜妻、ただの馴染かなぞのやう、包むほどなや勝る、

胸の炎の萌木色、うち紫の女郎花、その模様さへ秋草と、いふもどうやら気がかりと、

卿ち涙に紅の、袖に露置くなまめきし、仇な姿にひとしほの、風情ぞまさる床の花。

いや疑ふな此中は、しんぞ命も打ち込んだ、そもじの姿夜昼を、丹精こめて描かせて、

君傾城の十二時、肱をまくらの転寝にも、肌身放さぬ絵巻物と、開けばひらく笑の眉。

門に小者が小提灯。

旦那のお迎ひうき様の、迎ひと叫ぶ声の下。

それお立ちぢゃと、家中が、下駄直すやら土下座やら、槌で庭掃く追従を、跡にのこして長縄手、

明日のうはさや京四つの、駕篭にゆられて。


頃も師走中旬とて、劔の風に打ちまざり、白き矢玉にさも似たる、巴とめぐる六の花、暮れてはいとど小止みなく。

銀延べし道もせに、更くるを待って亥の刻過ぎ、四十有余の人々は、皆一様の装束に、

手に手にえものいかめしく、忠義に神も余るなる、高の邸の裏表、門際近く詰め寄せて。

頭領大星良包が、やがて打ち出す山鹿流、川と答へる合言葉、

名に大鷲が大力の、かけやに砕く大扉、一度にどっと入り込みしは、勇ましくもまたすさまじい。

すはや夜討と宿直の武士、出会へ出会へと走り違ふ。

良包采を打ちふりて、逃ぐるを追わず只一と筋、師直一人目がけよと、踏み込む向ふへ小林が、両刀提げ仁王立ち。

され共人々鉄石と堅めし太刀先少しもひるまず、南の隅の雑部屋に、目指すお敵を仕留めしは、

雪の旦のしののめに、昇る旭と諸共に、名は末世まで高輪へ、苔なめらかに残す碑。


新富座は江戸三座の一つである守田座の前進である。経営者は十二代目守田勘弥。

(五代目坂東玉三郎の養父は十四代目守田勘弥。その人にとっておじいさんということですね)

明治五年に猿若町から新富町に移動。明治八年に新富座と改名。しかし、翌年に火事で焼失する。

で、明治十一年にガス灯などを設置した近代劇場をつくり華々しく開場する。演劇改良運動の場となり洋風な演劇等も上演したそうです。杮落しの記念として作られたのが『元禄花見踊』だったのですね。

明治四十三年に経営は松竹に変わる。大正十二年関東大震災にてまたまた焼失。以降新富座という劇場はなくなってしまったそうです。

『花のほかには』-fuyusun'sワールド- 歌詞の中にある「斧琴菊」・・・これは、

そもそも「斧琴菊」は文政年間に三世尾上菊五郎が世に広めた判じ物。「良いことを聞く」という意味。

「春夏冬 二升五合」

「春夏冬」=「秋がない」=「商い」

「二升」=「升が二つ」=「ますます」

「五合」=「一升の半分」=はんしょう・・・繁昌♪

つまり「商いますます繁昌」

とか、、、

まあまあ、こういった粋な遊びをお江戸の皆さんはしていたわけです。


後半に出て来る「蝙蝠羽織」ってどんな羽織か興味あったので調べてみた。

元禄頃に流行った羽織らしい。丈が腰あたりという短い羽織。なのに袖が長いのですって。

で後ろから見ると蝙蝠に似ているから「蝙蝠羽織」ですって。

なんか、アンバランスでカッコ悪い感じするんですが、そんなのが流行っていたんですね。


先日、ある演奏会で

「ひんだ鹿の子」を「ひんだがのこ」と「が」を濁音で発音しているので吃驚した。

ここの部分、

「ひんだかのこ」と唄う人もいれば、

「ひんだがのこ」と唄う人もいる。

また「ひったかのこ」と唄う人もいれば

「ひったがのこ」と唄う人もいるらしい。

「ひった」=「ひんだ」、「ひった」が訛って「ひんだ」なんですって。

「ひった」であろうと「ひんだ」であってもどうでもよいのですが、この「がのこ」の「が」は鼻濁音だと思います。

濁音だと超汚いものがイメージされてしまう。驚きというより、すごく嫌な感じがした。


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さて「ひった鹿の子」とは「疋田鹿の子」の事。

そうそう、『京鹿子娘道成寺』の「京鹿の子」は京都を産地とする疋田鹿の子の総称という説明書きを目にしたことがある。

何気に聞き流したりしているが、意外に「何?」というものがたくさんあるものです。

ちなみに「京鹿の子」=「きょうがのこ」の「が」はたぶん濁音だと思う。

この濁音と鼻濁音の区別はやや難しいといえば難しいですね。




年代 作曲 作詞
明治11年 杵屋正次郎 竹柴瓢助

江戸時代で一番文化が栄え人々が生き生きと活気溢れ華やかな時代。
私は、元禄時代かなと思います。
元禄時代は五代将軍綱吉の時代。「お犬様」とか「忠臣蔵」とか歴史を良く知らない私でも、ぱっと思い浮かびます。

しかし、この曲は明治に作られたもので元禄に作られたものではありません。

遥か昔、女優の卵ちゃんをやっていた頃。ある時代劇のお仕事で、芝居小屋の舞台のシーンでこの曲のバックダンサーをやったことがあります。まあ時代劇はフィクションだし、時代考証が適当なんでしょうね。

そんな華やかな時代のお花見の風景を唄った曲です。
曲自体も派手だし、踊りが入るともう眩しいくらいです。
この曲は新富座という劇場の新築落成の開場式の為に作られた曲だそうです。
どうりで賑々しい曲だと思いました。
明治時代というと、色々な西洋文化が日本に入ってきた時代です。
音楽も色々と西洋のものが入った来ました。
長唄というのは基本的に二拍子の音楽です。
ですから、ワルツ…三拍子なんて有り得ないのですけれど、この曲の一部に三拍子の部分があるんです。
きっと杵屋正次郎という人が西洋から入ってきた新しい音楽に触れて、長唄にも入れようと思ったんでしょうね。
私はこの長唄らしくない三拍子の部分が大好きです。

たぶんこの曲の一部、聞いた事ある人いっぱいいらっしゃると思います。
ちょっと前、テレビのCMで人気の市川海老蔵さんがお茶の宣伝でこの曲に合わせて踊っていました。
けっこう長い曲ですけれどメリハリがあって華やかな曲なので飽きちゃう事はありません。
私は、元気になりたい時、この曲を鑑賞するんです。

お花見っていいですよね。特に夜桜って幻想的で素敵だなと思います。今の明るい夜の時代でも、その怪しげな夜桜の美しさに酔いしれちゃうのに。きっと電気文化のない江戸時代の夜桜って本当に綺麗だったんでしょうね。
今の時代は、ビニールのピクニックシートに皆が寄り集まり缶ビールで乾杯という感じだけれど、当時はどんなんだったんでしょう。
この曲を聞いてもこの辺のところは分かりませんです。
でも、今も昔も上野の山の花見名所は、桜の季節は人がいっぱいなんですよね。
そうそう、この曲の舞台は上野の山だそうです。

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(三味線のみ)
吾妻路を、都の春に志賀山の、縫箔も華美をかまはぬ伊達染や、斧琴菊の判じ物、思ひ思ひの出立栄。
連れて連れて行く袖も、たんだ振れ振れ六尺袖の、しかも鹿の子の岡崎女郎衆、袖に八つ橋染めても見たが、
ヤンレほんまにそうかいな、そさま紫色も濃い、ヤンレそれはそうじゃいな、

手先き揃へてざざんざの、音は浜松よんやさ。

花と月とは、どれが都の眺めやら。

かつぎ眼深に北嵯峨御室、二条通の百足屋が、辛気こらした真紅の紐を、袖へ通して、

繋げや桜、ひんだ鹿の子の小袖幕、目にも綾ある小袖の主の、顔を見たならなほよかろう、ヤンレそんれはへ。

花見するとて、熊谷笠よ飲むも熊谷、武蔵野でござれ、月に兎は和田酒盛の黒い盃闇でも嬉し、

腰に瓢箪、毛巾着、酔うて踊るがよいよいよいよいよいやさ。

武蔵名物月のよい晩は、をかた鉢巻蝙蝠羽織、無反角鍔角内連れて、

ととは手細に伏編笠で、踊れ踊れや布搗く杵も、小町踊の伊達道具、

よいよいよいよいよいやさ、面白や。

入来る入来る桜時、永当東叡人の山、弥が上野の花盛、皆清水の新舞台、賑はしかりける次第なり

『小鍛冶』の主人公である三条宗近は平安時代の刀鍛冶の一人である。

現在の京都市東山区粟田口鍛冶町にある、仏光寺本廟あたりに宗近の住まいがあったらしい。

三条に住む小鍛冶だから「三条小鍛冶」。本当は橘宗近というお名前だったらしい。

彼の打った刀で最も有名な刀は

『三日月宗近』という刀である。天下五剣一つので、その中でも最も美しい刀と言われ、現在国宝として東京国立博物館に納められている。

三日月宗近は徳川家の家宝とされた刀であった。

もともとは足利将軍家秘蔵の刀として伝えられたものであったが、永禄の変(1565年に三好長逸・三好政康・岩成友通等が二条城に攻め込んで足利義輝将軍を殺害した事件)の際に戦利品として三好政康の手元に渡った。そして、三好政康の手から豊臣秀吉に献上。その後、秀吉の正室高台院が所持。そして、遺品として徳川秀忠の手に渡る。

永禄の変の際に足利義輝はこの三日月宗近を振るって奮戦したと言われています。それを知ると何気に怖い感じがします。

また、宗近の作った刀で有名なものがもう一つ。祇園祭で使われている長刀鉾。宗近の娘の病気治癒を感謝して八坂神社に奉納した刀だそうです。


さて、天下五剣という文字に興味が・・・

・大典太光世(オオデンタミツヨ)

平安時代後期1070年頃の筑後の刀工、三池典太光世の打った刀。

この刀も足利将軍家のものだったらしいですが、のちのち豊臣秀吉の手に渡り前田利家に与えられ現在に至っているそうだ。

・童子切安綱

源頼光が大江山の酒呑童子を斬った刀と言われています。伯耆国(ほうきのくに)の刀鍛冶である安綱の作だそうです。

・鬼丸国綱(オニマルクニツナ)

鎌倉時代初期。山城国の京粟田口派の刀工で粟田口六兄弟の末っ子である国綱によって作られた。

北条家の家宝だったが、北条高時自刃ののち新田義貞の手に。新田義貞がのちに足利尊氏軍に討たれた際に義貞の首とともに献上され足利家の家宝となった。色々な説があるがこののちに秀吉経由で本阿弥光徳の手に渡り、その手から徳川秀忠に渡ったようだ。

明治維新後、後水尾天皇に献上されたものであるが、徳川家を通じて本阿弥家に預けたものだという事で明治天皇のもとに取り寄せられた。現在は宮内庁に所蔵されている。

・数珠丸恒次(ジュズマルツネツグ)

平安時代に青江恒次によって作られた。

日蓮の所持していた刀だそうだ。日蓮没後、身延山久遠寺に保管されていたが、いつしか行方不明になる。

大正時代になって、宮内省の刀剣御用掛の杉原祥造が再発見。華族の所蔵品の競売に掛けられていたところを発見したと言われている。その後、久遠寺に返納しようと手続をとったがうまくいかず。尼崎市の本興寺に寄進。今もここに保存されている。


ちょっと話がずれましたが、、、

『小鍛冶』つながりで刀の事を調べてしまいました。

謡曲や長唄でお馴染みの『小鍛冶』。
帝の勅命を受けて、三条小鍛冶宗近は稲荷大明神の力を借りて『子狐丸(小狐丸)』を打つ。
この時に宗近を助けたお稲荷さんは三条通神宮道東にある合槌稲荷のお遣いだったとか。
今もひっそりとあるお稲荷さん。
油断していると通り過ぎてしまうような場所にあるとか。

京都は街を歩けば伝説にあたるような場所。
『小鍛冶』は昔から縁のある曲なんですよ。ですから、いつか機会あったら行ってみたいものです。


『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

年代 作曲 作詞
1832年
天保三年
二代目
杵屋勝五郎

二代目

劇神仙人

さてさてこの曲もお能ベースの長唄です。
本来のお能のストーリーはこんな感じです。

刀作りで有名な三条ノ小鍛冶宗近は勅命を受けて刀を打つ事になりました。
けれど、刀作りというのは一人ではできないのです。
刀を打つ時には相槌を打ってくれるもう一人が必要なのです。
しかし、宗近は優れた相槌を打ってくれる人がいなくて途方に暮れてしまいました。
そこへ、童子が現れて、宗近に日本武尊の草薙の剣の話しなどを聞かせ
神通力によって力を貸すので、ちゃんと準備をして待っていろと言って稲荷山の方に消えていきました。
宗近は神を祭り準備を整え祝詞を唱え相槌の出現を待ちました。
すると、そこへ稲荷明神の使いの狐が出現し狐が相槌となって「子狐丸」という名刀を作り上げたというお話です。

ちなみに、子狐丸は一条天皇(六十六代天皇)の宝刀と言われているそうです。

長唄はダイジェスト版みたいな感じ。
結局、後半のお稲荷様の使いのものを待ち
一緒に「子狐丸」を打つというところが
表現されています。
長唄としては短い曲ですが、「相槌の合い方」など三味線の見せ所もあるし厳かではあるんですが、大変軽快でリズミカルだし、メリハリはあるし大変まとまった曲という印象です。

以前、聞いたお話では三条ノ小鍛冶宗近は、京都の祇園祭の長刀鉾の鉾頭の長刀を打った人という説があるそうです。
ふーん、実際いらした方なんですね。

この小鍛冶に「来序」というお囃子の手が入ります。
確か「来序」は、神様とかそういったものが出てくる場面に使われると聞いた事があるようなないような。
とまああやふやなんですけれど…
この「来序」の事を「ヒーテン」とも言うみたいです。
お笛が「ヒーィ」というと太鼓が「テーン」とやって来るからだと思います。
「ヒーテン」は来序を指す言葉でもあるんですけれど、楽屋言葉としては稲荷ずしを「ヒーテン」というみたいです。
「今日もお弁当はヒーテンだ」とか使うみたいです。
つまり、来序は歌舞伎とか踊りなどでお稲荷様が登場する時に使うものなんでしょうね。
でもね、「鶴亀」という曲でも「来序」使っているんだけれど、あれはお稲荷様じゃないし何でだろう・・・と以前から疑問に思っているのですが、なかなか聞けないな(-_-;)
さて、面白い話を聞いたことがある。

「夫れは夜寒の麻衣」この後に笛が“ヒー”と来て来序になるんですがね・・・

唄はけっして笛の“ヒー”に掛ってはいけないのだそうです。お稲荷さんの登場に道を汚してはいけないから・・・なんですって。でもね、けっこうヒーにみんな掛っていますよね。本当か嘘かのお話です。
曲は能掛り(能の謡のように唄う)の唄から始まって、次に「セリの合い方」になります。
セリとは、あの舞台とか花道に穴が開いていてエレベータみたいになっていてその穴から登場人物が出てくるという演出方法があるんです。

「セリの合い方」は、そのセリから登場人物が登場してくるのに合わせたノリで演奏するんですけれど
以前、お三味線を習った時、「出てくるぞ。ほらほらほらっ!出てくるぞ」
そんな感じに弾きなさいと習った事があります。
いえね、メロディーをご紹介できないのですが、そのメロディーに合わせてこの言葉を師匠が言われたものだから思わず笑っちゃいました。
そして以来、ここの部分を聞くと頭の中で「出てくるぞ…」とか唄っちゃうのです。
本当はここは「合い方」なので唄は入っていないのですが。
楽しい思い出です。

稲荷山三つの燈火明らかに、心を磨く鍛冶の道、小狐丸と末の代に、残す其の名ぞ著るき。

其唐土に伝え聞く、竜泉太阿はいざ知らず、我日の本のかな工、天国天の座神息が、国家鎮護の剣にも、

優りはするとも劣らじと、神の力の合槌を、打つや丁々、しつていころり、余所に聞くさへ勇ましき。

打つと云ふ、夫れは夜寒の麻衣、をちの砧も音添へて、打てやうつつの宇津の山、鄙も都も秋更けて、

降るや時雨の初紅葉、焦がるる色を金床に。

火加減湯加減秘密の大事、焼刃渡しは陰陽和合、露にも濡れて薄もみぢ、染めて色増す金色は、

霜夜の月と澄みまさる、手柄の程ぞ類ひなき、清光凛々うるわしき、若手の業物切れ物と四方に其の名は響きけり。

更新しなくちゃと思いつつ充電中。

もう出来上がっているレポートもあるんですが・・・

何気にもうちょっと深くなんて欲をかいている。馬鹿な私だ。

今月の25日は、とある内輪の会で小鼓を打つ。11月の末にも一舞台。

やや、切羽詰っているため落ち着かない。


そうそう、小鼓を習っている方のブログに最近たどりついた。それも長唄の・・・。

「音が出ない」でだいぶ悩んでいる方だった。

「師匠のような柔らかい音を出したい」と夢を語っていた。

「板をたたくような音」と自分の腕前を表現されていた。

自らの未熟さを仰っていたが・・・

私が思うに楽器だなぁと思いました。

例えば、新調の小鼓。あれから柔らかな深みのある音なんて、どんな優れた技術を持っている人でも無理だと思う。

小鼓という楽器。腕前以上に楽器の良しあしが重要かもです。

私の楽器も、頑張ってくれているけれど・・・

胴かな???・・・皮のバランスかな・・・

この世の中には「下手なし」という小鼓が存在するらしい。

もちろんそういう楽器は大変高価なんですが、いやいや、ただ高価な楽器であればいいわけじゃない。

自分の手にあった楽器に出会うのは運とお金どちらも重要だ。

お金がなくても、たまたま運で手に入ってしまう事もあるので、運の方が大事かな。

私は今のところどちらも持ち合わせていない。

今あるものを使って、今あるものの能力を最大限に出してあげる努力が必要だ。

それでも、「下手なし」の楽器には絶対に月とスッポン・・・負けてしまうだろう。

そう思うと悔しいね。でも、それも私の運命。

私の小鼓は最大限に自分の力を出して頑張っている。ありがたいことだ。

運も経済力も実力のうちです。あるもので頑張ろう。

年代 作曲 作詞
明和五年
(1768年)
富士田吉治
杵屋作十郎
初代
桜田治助

舞台は桜満開の吉原。しかし、登場人物は遊女ではありません。何故か、鳥売りの男女です。
この男女。夫婦ではありません。(ずっと夫婦と私は勘違いしていました)

この曲についての解説。色々出逢いましたが、中でも面白い解説がありました。
この主人公の男性は、鳥売り小笹左次兵衛に化けた八幡太郎義家。この人は源義家という平安後期の武将です。豪傑で有名な人。「八幡太郎義家」という名前を聞くと、どんな極悪な賊も逃げ出しちゃう・・・いやいや腰を抜かすかな?!悪人どころか、どんな悪霊物の怪でも退散しちゃうというのですから、すごい人です。
女性は安倍宗任の妻の善知鳥。
安倍宗任は陸奥国の豪族。安倍貞任の弟。前九年の役を起こし源義家に討伐されてしまいます。
貞任は戦死しますが、宗任は生き残り、後々、大宰府に流刑されるそうです。
この登場人物のお二人は、つまり敵同士という事ですね。

この舞踊では、吉原を背景に互いの正体を探りあいながら踊る拍子舞なのだそうです。
今のような形式の舞踊になったのは後年になってから、もともとは、善知鳥は出羽国の国平賀の鷹の精霊が、子を慕う余りに人間に姿を変えて現れたとかいう設定だったそうで・・・。
「実は何々」。歌舞伎等でお得意の演出方法ですね。
また、この平安後期の吉原が、良くテレビに出てくる江戸時代の吉原のように華々しかったかは疑問。
あそこに廓が出来たのは、その時代からだいぶ経ってからですもの。
時代考証適当、フィクションですから!こういうのがお得意なのです。
何せ、歌舞伎は庶民の娯楽ですからね。

「互いの正体を探りながら・・・」なんて、スリルとサスペンスですが、曲自体はそんな事を感じさせないルンルン気分になる、華やかで楽しい曲想です。

さて、この曲の楽しみは、三味線やお囃子の見せ所のタマです。
まあ、舞踊の地方の場合は、あんまり凝った事をすると踊れなくなっちゃうので「凄い♪」というものは入らないようですが、演奏会の場合、聴きどころの一つです。
このタマというのは、そもそも三味線もお囃子もアドリブ的要素の強い部分で、同じ人が弾いても似ていて非なる感じになるようなものです。
だいたいのベースは決まっているようなんですが。
という事で、「今日のタマはどんな感じ」とワクワクします。
この曲の三味線は本当に見せ所多いです。
スガガキもそうだし、追廻のようなつなぎの合方も入ったりしますしね。追廻は娘道成寺でお馴染みの合方。立ち方さんのお着替えタイムに使われるつなぎの合方です。

さてさて、主人公は鳥売りなのですから、当然、鳥籠に鳥を入れて持っています。
遊女にとって、廓は赤い格子で囲まれた鳥籠の鳥のようなものですね。
つまり、鳥籠の中の鳥って遊女を象徴しているのかしら?深読みしすぎかしら?