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『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
自己満足ブログですみませんm(_ _)m

年代 作曲 作詞
文政三年
(1820年)
四世
杵屋六三郎
四世
杵屋六三郎(?)

この曲は謡曲の「老松」を長唄化した曲。芝居用長唄ではなくて観賞用長唄として誕生した曲です。
作曲者の四世杵屋六三郎のお母様の「ます」を「まつ」に例えて、八十歳のお誕生日を祝ってこの曲を作ったそうです。
まあ、とにかく目出度い尽くし、この曲をプレゼントされたますさんは嬉しかった事でしょうね。
けれど、ちょっと祝い過ぎのようにも。。。きっと六三郎氏はお母様が大好きだったのでしょうね。
現在は八十歳はそう珍しい年頃ではありませんが、当時としては八十まで健在というのはすごっく珍しい事だと思います。ですから、これくらい大袈裟にお祝いをしても可笑しくないのかも知れません。

さすがに、謡曲を題材にしているだけあって、とってもしっとりと威厳のある曲です。
似たような曲に「鶴亀」という曲がありますが、「鶴亀」は眩い天上の美しさを感じますが、この曲はどちらかというと、静けさや威厳、燐としたものを感じます。

さて、この曲の終盤に「松風の合方」という三味線の見せ場があります。
この部分は、実は六三郎の作曲ではないようです。後になって十世杵屋六左衛門が六三郎の了承を得て合方を入れたそうです。
けっこうこの合方は聴き応えがあります。
演奏者によって色々な替え手が入るのですけれど、どれもとっても素敵です。

とっても構成がしっかりしていて、どの部分もとっても素敵です。
「松という、文字変われど~」あたりに笛の聴かせ処があります。
とっても素敵な旋律で、曲に引き込まれるという感じです。
私は、けっこうお笛の聴かせ処の部分はどの曲も好きです。
篠笛(竹笛)ってとても心の涙腺を緩めてくれるそんな音色がしますよね。

さて、涙腺が弛んで目頭が何故か熱くなるのもつかの間、次は神舞の二段目・三段目が入ります。
神舞というお囃子の手は色々な曲に使われています。「竹生島」とか「君が代松竹梅」とか。。。そうそう「常磐の庭」にもあったし。。。まだまだ考えればいっぱい入っていますよね。
どうも、この部分は天女が舞っているというイメージが強いです。
この曲も松の精が舞っているそんなイメージなんですよね。
実際は分かりませんけれど、個人的なイメージです。

この神舞が終わると、いよいよ大好きな太鼓地です。
「松の太夫~」の部分から曲の感じがガラッと変わって、とっても明るく甘く、可愛らしい感じに変化します。
そうそう、ちょっと暗めの照明から、パッと明るくなるそんなイメージです。
ここの部分の唄がとても好きで、お囃子をやりながらもついつい口づさんでしまいます。けれど、けっこうこの部分は忙しいのですよね。
太鼓と大小鼓の掛け合いですからね。。。唄に気を取られていると大変な事になってしまいます。


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げに治まれる四方の国、げに治まれる四方の国
関の戸ささで通わん。
これは老い木の、千代に八千代にさざれ石の
巌となりて苔のむすまで、松の葉色も時めきて
十返り深き緑のち、眠れる夢のはや覚めて
色香にふけし花も過ぎ
月にうそふき身はつながるる
糸竹のひかれて、うつらうつらと長生の
泉を汲める心地せり。
まず社壇の方を見てあれば
北に峨々たる青山に、彩る雲のたなびきて
風にひらり、ひらめきわたるこなたには
翠帳紅閨(すいちょうこうけい)の粧い
昔を忘れず、右に古寺の旧跡あり
晨鐘夕梵(しんしょうせきぼん)の響き
絶ゆることなき眺めさえ、赤間硯の筆ずさみ
ここに司をしるしけり。
松という、文字変われど待つ言の葉の
その甲斐ありて積む年に寿祝う常磐木の
調べぞ続く高砂の、名あるほとりに住吉の
松の老い木も若さを語る恥ずかしさ
ただ変わらじと深緑、嬉しき代々に相生の
いく世の思い限り知られず
喜びもことわりぞかし、いつまでも
清きいさめの神かぐら、舞楽を備うるこの家に
声も満ちたつ、ありがたさ。

松の太夫のうちかけは
蔦の模様に藤色の、いとし可愛いも
みんなみんな男は偽りじゃもの
拗ねて見せてもそのままよそへ
ある夜ひそかにつきあいの
雲のまがきの掛け言葉
エエ憎らしい木隠れに、晴れて逢う日を松の色。
ゆかたに遊ぶ鶴亀の、齢を授くるこの君の
行く末守れと我が神託の、告げを知らする松風
富貴自在の繁栄も、久しき宿こそめでたけれ。

時代 作曲 作詞
明治四十四年十月 四世 吉住小三郎
三世 杵屋六四郎
幸堂得知


四世吉住小三郎はのちのちの吉住慈恭氏。そして、三世杵屋六四郎はのちのちの稀音家浄
観氏の事です。このお二人が作ったのが、研精会。この研精会の100回記念の演奏会で発表された長唄です。
作詞の幸堂得知氏は『歌舞伎新報』という雑誌で劇評を連載したりしていた演劇評論家。また、『曽我の対面』の脚本を書いたり、小説『大通世界』という小説を書いたりと、戯曲家・小説家としても活躍していた人だそうです。この曲はこの幸堂氏の注文で作曲したものだそうです。
「山車と附け祭の囃子を取入れるの・・・」
これが主たるテーゼだっようです。

さて、現在の神田祭というと五月のお祭りで、初夏の訪れを感ずる行事のように思いますが、本来は九月に開催されていたようです。という事で、“菊”とかちょっと秋っぽい歌詞が聞かれます。
このお祭りは、祇園の祇園祭・大阪の天神祭と並んで日本の三大祭りとされています。
1300年くらいの歴史があるそうです。また、江戸の祭りというと神輿という印象が強いですが、そもそもこのお祭りは山車が出るお祭りだったそうです。
明治以降、文明が進み路面電車などの登場において、交通の邪魔であること、また、関東大震災で多くの山車を焼失してしまったことが原因で、今のようにお神輿中心のお祭りになったのだそうです。
ですから、歌詞からのイメージと現在のお祭りのイメージと食い違いがありますが、当時と今とではお祭りの感じが違うわけですね。

この曲のお囃子の中の多くは、お神楽系のお囃子が一杯でてきます。
そうそう、この曲はお祭りのお囃子を網羅するテーゼがあるから当たり前ですね。

さて、この曲は『百夜草』下ノ巻。上ノ巻は半井桃水が作詞の菊の由来を説いた長唄なのだそうですが、現在、どんな曲だったか残っていないのだそうです。
百夜草というのは菊の事なのだそうです。
という事で、この曲にも幾つか菊が出てきます。
九月九日は菊の節句。つまり、九月というと菊なのですね。
ところで、九月から五月になったのはいつ、どうしてなのでしょうか。
九月というと台風の季節ですね。また、この季節は疫病などが流行ったのだそうです。という事で、こういった時期を外しましょうよという事で、明治25年から五月十五日にお祭りが開催されたのだそうです。
あれ?
この曲ができた時は既に五月開催なのに・・・
まあ、夏祭りになって十九年じゃ・・・それ以前のはるか長い歴史がありますから、作者にとっては秋祭りなのでしょうね。

さて余談ですが、神田祭は神田明神のお祭りです。730年創建だそうで、東京で一番古い神社だそうです。もともとは大手町あたりにあったそうですが、天慶の乱で破れた、平将門公の首が付近に葬られ、天変地異の怪異が続き住民が窮したところ、時宗の真教上人が祟りを鎮め、1309年には将門公が神田明神の祭神として祀られましたのだそうです。
つまり、菅原道真の怨念を鎮めるために天神様として祀ったのと同じですね。
そして、江戸時代となって、
徳川家康は、江戸城の鬼門を守るという意味で、今の場所に神田明神を移したのだそうです。
五色のお不動さん。そして、鬼門は神田明神とい感じで江戸の街は守られていたのです。

神田祭を待つ宵の
神酒所に活けた女夫と花 誰が手ずさびか白菊と
黄菊の露も新しく
飾る名家の金屏風 行文繁き辻々に
重ね言葉も聞きなれた
御祭礼お祭り番付
八つ八通りに変わる文福茶釜
七つの鐘はいつついたやら
ほのぼのと 白み渡りて東天紅
一番鶏は泰平の御代を祝って苔むす諌鼓
二番の鉾は 馬れき神
まさる目出度き装束烏帽子
ドンドンカッカ ドンカッカ
続く三番式として翁の楽車は 神田丸
五番十番つぎつぎに
町年番の附祭り 住吉をどり
大神楽 屋台囃子は吉住と
杵屋が待ちの菊がさね
所望所望に手古舞の達衆がおおの声につれ
渡り拍子を打ち上げて
昔より恋といふ字は誰が書き初めて
迷ひの種を蒔きぬらん 忍ぶ夜は風も吹き候
雨も降り候 憎や咎むる里の犬
まがきに寄ってほどほどと叩けば菊に置きあまる
露はぱらりとみな散りぬれど
同じ思ひに待ちわびし 姫は扉に立出て
いざこなたへと伴へり
夜風に御身も冷えぬらん心ばかりに侍れども
妾がまうけの菊の酒 きらしめせやと盃の
数重なればうち解けて愛と愛との相生連理
余所の見る目も羨まし
後の所望は 會釈なく 数番の花車に
追はれ追はれて
オーンヤーリヨーイ
黄金花咲く豊かな御代にソレ締めそれ中綱
エーンヤーリョーイ
伊達と喧嘩も江戸の花
その花笠の咲きそろう桜の馬場へどうどうと
寄せ来る人の波間より
光りまばゆく昇る日の影

勧進帳のお話で気になるのは富樫氏のその後です。

今でもそうですが、指名手配の犯罪者を知っていて匿ったり逃がしたりするという事は重罪です。

この富樫氏は義経一行と知っていて彼らを逃がしています。かなりやばい行動です。

勧進帳はフィクションである。

なのに、富樫泰家というモデルがいて、彼は安宅関の一見について頼朝の怒りを買って職を解かれてしまう。彼は奥州を訪れて義経に再開する。しばらく平泉にとどまるが、石川県の野々市町に戻り人生を全うする。あの弁慶の舞った延年の舞の効果だったのでしょうか。かなり長生きだったらしいです。

富樫氏はこの石川県石川郡野々市町を領地とした家柄。今でも富樫館跡が残っている。

フィクションなはずなのに、あたかも安宅関の出来事があったかのような史実が残っているのが面白い。

しかし、よくよく考えれば、何だかで義経と接点があって頼朝の怒りをかったのであろう。もし、安宅の関で起った事で頼朝の怒りをかっていれば死罪とかそういった重罪に問われていると思いますもの。


さて、

見逃した義経一行を追いかけて、富樫氏は弁慶に酒を振る舞う。

そして弁慶は富樫氏に対して感謝をこめて「延年の舞」を舞う。

『延年の舞』は平安時代から室町時代まで寺院では延年を願う舞が流行したのだそうだ。はじめは下級僧侶や稚児らによる余興程度のものだったが、次第に芸に熟達した僧達が中心になり、遂には、延年を専門的に演じる僧が現れたのだそうだ。

ある資料に、弁慶は比叡山の延年を専門とした僧だったという記述があった。ちょっと吃驚。しかし、その資料以外にそういった記述のあるものはなく、何を根拠にそう書いてあったのか疑問です。しかし、あの豪傑・豪快が代名詞のような弁慶に芸能というのが似合わない。ですから、「もともとは比叡山の芸能僧」という記述を見て「絶対にウソだろう」と思ってしまう。ですから、なおさらその根拠が知りたくてたまらなかったのですが、資料に限界あるために諦めた。

現在、延年の舞と称して残っている寺院は、平泉の毛越寺と日光山の輪王寺の二つだそうだ。

輪王寺のホームページ で延年の舞の由来を発見。

延年舞は、慈覚大師 円仁が、唐から将来した秘舞曲で、寺伝によれば嘉祥元年(848)大師が日光山に来山された時、伝えられたものといわれており、千年以上の歴史と伝統があります。
天下泰平・国土安穏・延年長寿を希
って日光山の諸仏諸神に奉納される舞で、江戸時代からは、東照大権現の例大祭にさきがけて奉舞されるようになりました


「判官贔屓」という言葉がありますが、富樫泰家という人がひの元祖かもですね。

源義経という人は、優秀な家来を持ったおかげで危機を何度も救われている感じがします。

実際は体の小さい、どちらかというと不細工な男性だったようですが、イメージ的にはスマートで美少年というもの。

これも判官贔屓の作ったイメージ。弁慶のような優秀な家来を持つその人徳が見目麗しい美少年像を作り出しているのかもと思いました。

年代 作曲 作詞
1840年
天保11年
四世
杵屋 六三郎
三代目
並木五瓶


謡曲の『安宅』を歌舞伎に。その歌舞伎で演奏される長唄。という事で、役者の台詞等が抜かれているので、この曲だけ聴いていてもお話のあらすじがよく分からない。江戸河原崎座で初演される。

初演の配役は、

武蔵坊弁慶が七世市川海老蔵、義経が八世市川団十郎、富樫が市川九蔵。

『助六』や『矢の根』などに並ぶ市川家がお家芸として継承する歌舞伎十八番の一つである。

そのため、この歌舞伎自体が有名。そのため切り身の集合体のこの長唄を聴いていてもお客さんは物語のストーリーを理解できるという仕掛けらしい。

さて、この『勧進帳』は能の『安宅』にかなり忠実に出来ているそうだ。

確かに、謡曲『安宅』の台本というのでしょうか、それを読んでいると長唄の歌詞にちょっと似ているなぁと思うところがいくつもある。

それまで、能を題材とした演目はあったようだが、ここまで忠実に能を歌舞伎化した作品は初めてだったようだ。これにはちょっとした七代目の目論みがあったようだ。諸説あるようだが、一つは十八世紀後半になるとさまざまなジャンルで家元制度というのができてきたのだそうです。「お家」という組織が確立した。

七代目は「歌舞伎十八番」を設定することで、市川家という江戸歌舞伎の家元になろうとしたのではないかと古い邦楽系の雑誌で論じている方がいた。とくに能を忠実に歌舞伎化した『勧進帳』は、歌舞伎より古くから確立されている能という芸能の伝統、そして、今まで歌舞伎にない松羽目もの歌舞伎という演目としての創造という両面を備えた芝居として意味があったようだ。


さて、この曲の誕生の前に、一中節に『安宅道行』・『安宅勧進帳』という作品があった。長唄の『勧進帳』の誕生に大きく影響したそうです。また、この長唄が大きく影響して出来たのが義太夫の『鳴響安宅新関』という曲があるそうだ。

邦楽というのは、影響を受けそして影響を与えつつ成長するものなのですね。

前にもご紹介した気がしますが、慶応三年に三世杵屋勘五郎が『勧進帳』に省かれている台詞や問答の部分にも節をつけて物語の筋を通すように作曲したものがある。新たに作曲した部分が『安宅の新関』。もともとあった『勧進帳』と繋げて『安宅勧進帳』として演奏すると約一時間の大曲。演奏する方も大変だが、お客さんも大変。近年では勧進帳の読み上げの部分と山伏問答の部分のみを入れた『問答入り勧進帳』として短縮版が演奏される事が多いそうです。それでも長いです・・・。


『勧進帳』というと、後半の“延年の舞”と“滝流し”の合方はカッコいい。この二つの合方は明治になって三世杵屋正次郎が付け加えたもので、九代目市川團十郎が演じた時入れたものだそうです。つまり、もともと無かったものなんですね。この二つの合方がないと、少し地味なイメージがあります。

こうして、『勧進帳』を勉強していくと、常に曲は成長し続けている感じがする。

最初に作曲した六三郎さんは、

「オレの曲に手を入れやがって」と怒っているでしようかね。

それとも、

「そういう手があったかい。曲を面白くしてくれてありがとうよ」と喜んでいるでしょうかね。

まあ、もともとはお芝居の地のものですから、公演のたびに手が加えられるだろうというのは承知の助の事と思いますので、怒ってしまう事はないでしょうね。

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旅の衣は篠懸の 旅の衣は篠懸の 露けき袖やしおるらん
時しも頃は 如月の 十日の夜 月の都をたちいでて
これやこの 往くも還るも別れては知るも知らぬも逢坂の山
霞ぞ春はゆかしける波路遥に往く船の 海津の浦に着きにけり 
いざ通らんと旅衣 関のこなたにたちかかる
それ山伏と云っぱ 役の優婆塞の行儀を受け
即身即物の本体を ここにて討ちとめたまはんこと
明王の照覧はかりがたう 熊野権現の御罰あたらんこと
立所に於て疑あるべからず オンアビラウンケンと
数珠さらさらと押し揉んだり 
元より勧進帳のあらばこそ 笈の内より往来の巻物一巻取りいだし 
勧進帳と名付けつつ 高らかにこそ読み上げけれ
士卒が運ぶ広台に白綾袴一重ね加賀衣あまた取り揃え 御前へこそは直しけれ 
こは嬉しやと山伏も しづしづ立って歩まれけり 
すはや我が君あやしむるは 一期の浮沈ここなりと 各々後へたち帰る 
金剛杖をおっ取ってさんざんに打擲す 通れとこそは罵りぬ 
方々は何ゆえにかほど卑しき強力に 太刀かたなを抜きたまふは目たれ顔の振る舞い 
臆病のいたりかと 皆山伏は打ち刀抜きかけて 勇みかかれる有様は 
いかなる天魔鬼神も 怖れつべうぞ見えにける
士卒を引き連れ 関守は門のうちへぞ入りにける
つひに泣かぬ 弁慶も一期の涙ぞ殊勝なる 
判官御手を取りたまひ 鎧にそひし袖枕かたしく暇も波の上 
或る時は船に浮かび風波に身を任せ また或る時は山脊の 
馬蹄も見えぬ雪のなかに 海少しあり 夕浪の たちくる音や 須磨明石 
とかく三年の程もなくなく 痛はしやと萎れかかりし鬼莇 霜に露置くばかりなり 
たがひに袖を引き連れて いざさせたまへの折柄に 
実に実にこれも心得たり 人の情の杯を受けて心をとどむとかや 
今は昔の語り草 荒はづかしの我が心一度見えしをんなさへ 
迷ひの道の関越えて 今またここに越かぬる 人目の関のやるせなや 
ああ 悟られぬこそ 浮世なれ 
おもしろや山水に おもしろや山水に 
杯を浮かべては 流にひかるる曲水の
手まづ遮る袖ふれて いざや舞を舞はうよ 
元より弁慶は三塔の遊僧 舞延年の時の和歌 
これなる山水の落ちて巌に響くこそ 鳴るは滝の水 鳴るは滝の水 
鳴るは滝の水 日は照るとも絶えずたうたり 
とくとく立てや 手束弓の心許すな 関守の人々
暇申してさらばよとて 笈をおっ取り肩に打ちかけ 
虎の尾を踏み毒蛇の口を逃れたる心地して 陸奥の国へぞ 下りける

忠臣蔵というと、敵役は吉良上野介。憎まれ役のモデルのような憎々しいおじいさんとして演じられる。

しかし、実際のところはどうだったのだろうか。

吉良という一族は、三河吉良一族。奥州吉良一族。土佐吉良一族とあるらしい。清和源氏の血族である。三河と奥州は室町幕府を統一していた足利氏と同一の一族なのだそうだ。また、土佐の方は鎌倉幕府の源頼朝などと同一の一族でちょっと違うらしい。

三河の吉良一族は三河国碧海群吉良荘を領地としていた。高家筆頭である。

吉良義安という人が少年の頃、彼は今川義元のところに人質に入っていた。そこで松平竹千代(つまり徳川家康)に出会う。義安が留守の間、一族内は勢力争いでゴタゴタしていた。義安はそれを統一する。また三河松平家とも縁戚関係にある事から高家筆頭という格の高い地位を付与された。高家というのは、幕府内の儀典を取り仕切る家柄のことである。


高家には

有馬家・一色家・今川家・上杉家・大沢家・大友家・織田家・京極家・三河吉良家・奥州(武蔵)吉良家・品川家・武田家・長澤家などなどがある。

へえ・・・けっこういっぱいあるんですね。名門の家柄ばかり。その中の筆頭なのですからプライドが高くて当然のことですね。


しかし、この吉良上野介という人は、プライドが高くて陰険で・・・。そういう方ではなかったようです。

領地では名君として領民から親しまれたお殿様だったらしいです。

今も伝わる民芸玩具で「吉良の赤馬」というものがあるらしい。(写真はこの玩具をモデルにした携帯ストラップです)


『花のほかには』-fuyusun'sワールド- その昔、吉良義央(吉良上野介のこと)が赤馬にのって領地を度々視察していたのだそうです。

領民にやさしく、親しまれたお殿様だったのだそうだ。


三河吉良家は、義央が赤穂浪士に討たれたのちに改易となりお家断絶となる。

「蒔田」という名前に改名していたが、三河吉良が断絶した事によって「吉良」を再び名乗るようになったそうです。


あの事件があってから、

赤穂のお殿様だけじゃなくて、他の人に対してもいじわるをしていたなど、数々の「いじわる」なイメージを作るエピソードが伝えられているようだけれど、どうもドラマの影響を受けての風評被害のようですね。なんかちょっぴり気の毒な気がします。


前回では吉良と浅野の思想の違いによる喧嘩という説を紹介しましたが、

赤穂も立派な塩田をもち豊だったし、吉良も同じく塩田を持っていた。特に吉良の塩は質が良くて徳川家の台所に使われていたお塩だったそうです。

この塩の利権争いとか、幕府が二つの塩の利権が欲しかったとか・・・。実は幕府の陰謀だったという話も聞いた事があります。

「二つ巴」とは忠臣蔵の主人公の大石内蔵助の家紋である。
大石内蔵助のルーツは、平安時代の武将藤原秀郷。通称、俵藤太という人だそうです。
俵藤太とは平将門の乱を平定した人。琵琶湖の竜神の娘に頼まれ、彼女を苦しめる百足を退治したという説話がある。つまり、平安時代の豪傑ですね。
吃驚な人の子孫なのですね。この『二つ巴』をやらなきゃ、そんな事知らなかったです。

さて、長唄『二つ巴』の歌詞にも出て来る「山鹿流」。これはいったい何のご流儀なのでしょうか?

山鹿流というのは山鹿泰行という人が説いた兵法です。

この方は会津生まれ。幼少の頃に江戸に出て様々な学問を学ぶ。そして、山鹿流という兵法および古学派(儒教の一派)の祖と呼ばれた人である。

ある時、朱子学について批判。その為に赤穂に流された。赤穂に流された泰行はそこで山鹿流を赤穂藩士たちに教える。大石もその門弟の一人である。山鹿流という中身・・・不勉強のためによく分からないのですが、「皇室尊崇」の思想の学問だったようです。後々、長州の吉田松陰などに影響を与えた学問なのだそうです。

さて、忠臣蔵で「山鹿流の陣太鼓」というのが有名。しかし山鹿流には陣太鼓など存在せず、あれはフィクションなのだそうです。

この吉良と赤穂藩の対立は思想の違いに発端したものという説がある。

幕府第一の吉良。皇室第一の赤穂。例えば、誰が上座に座るか。吉良は「もちろんお上である将軍様」という。赤穂サイドは「皇室の遣いである勅使様」と答える。これじゃ喧嘩が起きても仕方がない事です。

真実はよく分かりませんが、そういったことが原因となってもうなづける事です。


年代 作曲 作詞
1917年
大正六年
四世
杵屋佐吉
竹榮金作

この作品は歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』を題材としたもので、上下に二部作である。

上の巻は「遊興は花の夕」と題して七段目一力茶屋の場。下の巻は「本懐は雪の旦」と題して十二段目討ち入りの場を長唄化したものである。

大正六年十月二十三日に神田の青年会館にて開催された第十三回長唄芙蓉会にて発表された。

明治から大正・昭和にかけて、吉住小三郎と杵屋六四郎は研精会を立ち上げて、新しい長唄の分野を開拓してきた。また、この四世杵屋佐吉も大正初年から長唄の新分野開拓の功労者だと言われている。

さて、研精会にも『有喜大尽』という忠臣蔵を題材にした長唄がある。こちらの方は『仮名手本』の方ではなく、実録を取材としたものなのだそうです。


大石内蔵助といえば一力茶屋、一力といえば祇園ですね。
役者の衣裳から推察して、大石内蔵助は
芸者さんをあげての大騒ぎではなく、遊女などを含めての大騒ぎのように思います。
廓・・・つまり遊郭というのは、お国から厳しく取り締まられていて、
遊女のいるような色街というのは、公的には限られていたように思う。
江戸でいえば吉原。大阪は新町。長崎は丸山。
京都には、島原というところが公的な遊郭である。つまり、祇園ではないのですね。
祇園に何故遊女がいるのであろうか?
どうも、一力茶屋のモデルになった店は伏見にあったらしい。それが今の祇園に転居したらしい。
実は伏見夷町(撞木町)・伏見柳町と伏見にも遊郭があったそうです。また、大石が遊びふけっていたのは撞木町の「よろづや」というお店だったとか。ただ、撞木町じゃあ地味だからと設定を祇園にしたとかいう説もある。

しかし、祇園という町は、もともと八坂神社の参道にならぶお茶屋さんが発展した町という話を聞いた事がある。お茶を運ぶお給仕さんがいて、いろいろサービスをしてくれたのだそうです。
そういうのが、変化して今は格式の高い花街になっています。
今のような盛大な花街になったのは元禄より後の宝永とか正徳の時代。この当時の祇園は水茶屋が二、三軒あったくらいとか。つまり、本当は祇園じゃなくて伏見なんですよ。で、遊女がいてもちっとも可笑しくないという事ですね。

さて、そんなこんな調べていて、
江戸も京都も
最高位の太夫というのは、容姿だけでなく教養・芸事に秀でていなければならなかったようです。
江戸の太夫は大名等をお客としていたので、
例えば論語をスラスラ述べられるような知識を持っていなければならなかったようです。
子ども時代から売られて、そういった英才教育を受けるんですね。
京都の太夫は御所に参内するほど。そのために位も朝廷から頂いているというのだから吃驚です。
身分のきちっとしたお客様を相手にするという事は、本当に大変な事ですね。
ついつい、遊女というとさげすんでしまいがちですが、太夫と呼ばれる人たちは超エリートの存在だと思います。そのエリートががゆえにプライドが高く、伊達騒動に出てくる高尾太夫のような悲劇が起こっちゃうのでしょうね。
そうそう、江戸中期には吉原には太夫の存在がなくなっちゃうのですよ。
こういったエリートを大事に育ててきたのですが、お客さんの方が女性たちに負けちゃって、採算がとれなくなっちゃってきたのだそうです。
そうそう、だんだん大名は経済的に苦しくなって、こういうところで遊ぶお大尽は商人とかに変化。
時代の求める遊女像が変わったのでしょうね。