二つ巴 | 『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

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fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
自己満足ブログですみませんm(_ _)m

年代 作曲 作詞
1917年
大正六年
四世
杵屋佐吉
竹榮金作

この作品は歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』を題材としたもので、上下に二部作である。

上の巻は「遊興は花の夕」と題して七段目一力茶屋の場。下の巻は「本懐は雪の旦」と題して十二段目討ち入りの場を長唄化したものである。

大正六年十月二十三日に神田の青年会館にて開催された第十三回長唄芙蓉会にて発表された。

明治から大正・昭和にかけて、吉住小三郎と杵屋六四郎は研精会を立ち上げて、新しい長唄の分野を開拓してきた。また、この四世杵屋佐吉も大正初年から長唄の新分野開拓の功労者だと言われている。

さて、研精会にも『有喜大尽』という忠臣蔵を題材にした長唄がある。こちらの方は『仮名手本』の方ではなく、実録を取材としたものなのだそうです。


大石内蔵助といえば一力茶屋、一力といえば祇園ですね。
役者の衣裳から推察して、大石内蔵助は
芸者さんをあげての大騒ぎではなく、遊女などを含めての大騒ぎのように思います。
廓・・・つまり遊郭というのは、お国から厳しく取り締まられていて、
遊女のいるような色街というのは、公的には限られていたように思う。
江戸でいえば吉原。大阪は新町。長崎は丸山。
京都には、島原というところが公的な遊郭である。つまり、祇園ではないのですね。
祇園に何故遊女がいるのであろうか?
どうも、一力茶屋のモデルになった店は伏見にあったらしい。それが今の祇園に転居したらしい。
実は伏見夷町(撞木町)・伏見柳町と伏見にも遊郭があったそうです。また、大石が遊びふけっていたのは撞木町の「よろづや」というお店だったとか。ただ、撞木町じゃあ地味だからと設定を祇園にしたとかいう説もある。

しかし、祇園という町は、もともと八坂神社の参道にならぶお茶屋さんが発展した町という話を聞いた事がある。お茶を運ぶお給仕さんがいて、いろいろサービスをしてくれたのだそうです。
そういうのが、変化して今は格式の高い花街になっています。
今のような盛大な花街になったのは元禄より後の宝永とか正徳の時代。この当時の祇園は水茶屋が二、三軒あったくらいとか。つまり、本当は祇園じゃなくて伏見なんですよ。で、遊女がいてもちっとも可笑しくないという事ですね。

さて、そんなこんな調べていて、
江戸も京都も
最高位の太夫というのは、容姿だけでなく教養・芸事に秀でていなければならなかったようです。
江戸の太夫は大名等をお客としていたので、
例えば論語をスラスラ述べられるような知識を持っていなければならなかったようです。
子ども時代から売られて、そういった英才教育を受けるんですね。
京都の太夫は御所に参内するほど。そのために位も朝廷から頂いているというのだから吃驚です。
身分のきちっとしたお客様を相手にするという事は、本当に大変な事ですね。
ついつい、遊女というとさげすんでしまいがちですが、太夫と呼ばれる人たちは超エリートの存在だと思います。そのエリートががゆえにプライドが高く、伊達騒動に出てくる高尾太夫のような悲劇が起こっちゃうのでしょうね。
そうそう、江戸中期には吉原には太夫の存在がなくなっちゃうのですよ。
こういったエリートを大事に育ててきたのですが、お客さんの方が女性たちに負けちゃって、採算がとれなくなっちゃってきたのだそうです。
そうそう、だんだん大名は経済的に苦しくなって、こういうところで遊ぶお大尽は商人とかに変化。
時代の求める遊女像が変わったのでしょうね。