勧進帳-その二- | 『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

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勧進帳のお話で気になるのは富樫氏のその後です。

今でもそうですが、指名手配の犯罪者を知っていて匿ったり逃がしたりするという事は重罪です。

この富樫氏は義経一行と知っていて彼らを逃がしています。かなりやばい行動です。

勧進帳はフィクションである。

なのに、富樫泰家というモデルがいて、彼は安宅関の一見について頼朝の怒りを買って職を解かれてしまう。彼は奥州を訪れて義経に再開する。しばらく平泉にとどまるが、石川県の野々市町に戻り人生を全うする。あの弁慶の舞った延年の舞の効果だったのでしょうか。かなり長生きだったらしいです。

富樫氏はこの石川県石川郡野々市町を領地とした家柄。今でも富樫館跡が残っている。

フィクションなはずなのに、あたかも安宅関の出来事があったかのような史実が残っているのが面白い。

しかし、よくよく考えれば、何だかで義経と接点があって頼朝の怒りをかったのであろう。もし、安宅の関で起った事で頼朝の怒りをかっていれば死罪とかそういった重罪に問われていると思いますもの。


さて、

見逃した義経一行を追いかけて、富樫氏は弁慶に酒を振る舞う。

そして弁慶は富樫氏に対して感謝をこめて「延年の舞」を舞う。

『延年の舞』は平安時代から室町時代まで寺院では延年を願う舞が流行したのだそうだ。はじめは下級僧侶や稚児らによる余興程度のものだったが、次第に芸に熟達した僧達が中心になり、遂には、延年を専門的に演じる僧が現れたのだそうだ。

ある資料に、弁慶は比叡山の延年を専門とした僧だったという記述があった。ちょっと吃驚。しかし、その資料以外にそういった記述のあるものはなく、何を根拠にそう書いてあったのか疑問です。しかし、あの豪傑・豪快が代名詞のような弁慶に芸能というのが似合わない。ですから、「もともとは比叡山の芸能僧」という記述を見て「絶対にウソだろう」と思ってしまう。ですから、なおさらその根拠が知りたくてたまらなかったのですが、資料に限界あるために諦めた。

現在、延年の舞と称して残っている寺院は、平泉の毛越寺と日光山の輪王寺の二つだそうだ。

輪王寺のホームページ で延年の舞の由来を発見。

延年舞は、慈覚大師 円仁が、唐から将来した秘舞曲で、寺伝によれば嘉祥元年(848)大師が日光山に来山された時、伝えられたものといわれており、千年以上の歴史と伝統があります。
天下泰平・国土安穏・延年長寿を希
って日光山の諸仏諸神に奉納される舞で、江戸時代からは、東照大権現の例大祭にさきがけて奉舞されるようになりました


「判官贔屓」という言葉がありますが、富樫泰家という人がひの元祖かもですね。

源義経という人は、優秀な家来を持ったおかげで危機を何度も救われている感じがします。

実際は体の小さい、どちらかというと不細工な男性だったようですが、イメージ的にはスマートで美少年というもの。

これも判官贔屓の作ったイメージ。弁慶のような優秀な家来を持つその人徳が見目麗しい美少年像を作り出しているのかもと思いました。