年代 | 作曲 | 作詞 |
1840年 天保11年 |
四世 杵屋 六三郎 |
三代目 並木五瓶 |
謡曲の『安宅』を歌舞伎に。その歌舞伎で演奏される長唄。という事で、役者の台詞等が抜かれているので、この曲だけ聴いていてもお話のあらすじがよく分からない。江戸河原崎座で初演される。
初演の配役は、
武蔵坊弁慶が七世市川海老蔵、義経が八世市川団十郎、富樫が市川九蔵。
『助六』や『矢の根』などに並ぶ市川家がお家芸として継承する歌舞伎十八番の一つである。
そのため、この歌舞伎自体が有名。そのため切り身の集合体のこの長唄を聴いていてもお客さんは物語のストーリーを理解できるという仕掛けらしい。
さて、この『勧進帳』は能の『安宅』にかなり忠実に出来ているそうだ。
確かに、謡曲『安宅』の台本というのでしょうか、それを読んでいると長唄の歌詞にちょっと似ているなぁと思うところがいくつもある。
それまで、能を題材とした演目はあったようだが、ここまで忠実に能を歌舞伎化した作品は初めてだったようだ。これにはちょっとした七代目の目論みがあったようだ。諸説あるようだが、一つは十八世紀後半になるとさまざまなジャンルで家元制度というのができてきたのだそうです。「お家」という組織が確立した。
七代目は「歌舞伎十八番」を設定することで、市川家という江戸歌舞伎の家元になろうとしたのではないかと古い邦楽系の雑誌で論じている方がいた。とくに能を忠実に歌舞伎化した『勧進帳』は、歌舞伎より古くから確立されている能という芸能の伝統、そして、今まで歌舞伎にない松羽目もの歌舞伎という演目としての創造という両面を備えた芝居として意味があったようだ。
さて、この曲の誕生の前に、一中節に『安宅道行』・『安宅勧進帳』という作品があった。長唄の『勧進帳』の誕生に大きく影響したそうです。また、この長唄が大きく影響して出来たのが義太夫の『鳴響安宅新関』という曲があるそうだ。
邦楽というのは、影響を受けそして影響を与えつつ成長するものなのですね。
前にもご紹介した気がしますが、慶応三年に三世杵屋勘五郎が『勧進帳』に省かれている台詞や問答の部分にも節をつけて物語の筋を通すように作曲したものがある。新たに作曲した部分が『安宅の新関』。もともとあった『勧進帳』と繋げて『安宅勧進帳』として演奏すると約一時間の大曲。演奏する方も大変だが、お客さんも大変。近年では勧進帳の読み上げの部分と山伏問答の部分のみを入れた『問答入り勧進帳』として短縮版が演奏される事が多いそうです。それでも長いです・・・。
『勧進帳』というと、後半の“延年の舞”と“滝流し”の合方はカッコいい。この二つの合方は明治になって三世杵屋正次郎が付け加えたもので、九代目市川團十郎が演じた時入れたものだそうです。つまり、もともと無かったものなんですね。この二つの合方がないと、少し地味なイメージがあります。
こうして、『勧進帳』を勉強していくと、常に曲は成長し続けている感じがする。
最初に作曲した六三郎さんは、
「オレの曲に手を入れやがって」と怒っているでしようかね。
それとも、
「そういう手があったかい。曲を面白くしてくれてありがとうよ」と喜んでいるでしょうかね。
まあ、もともとはお芝居の地のものですから、公演のたびに手が加えられるだろうというのは承知の助の事と思いますので、怒ってしまう事はないでしょうね。