松の翁-その二- | 『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

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fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
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この曲ができた明治10年というと。

歴史の教科書の紐を解くと、『西南戦争』という有名な事件が起きた年代だ。

上野の山で現在は東京の空を眺めている西郷さん。彼が中心となって起きた反乱である。

明治の初めころ、西郷さんたちは大陸を侵略していく計画を立て、その第一歩として朝鮮半島の征服を企てたそうです。当時の朝鮮は鎖国を行っていて、武力を持って開国させようという計画です。

しかし、同じ薩摩出身の大久保利通らの反対にあって、西郷さんは明治政府を去り薩摩へと帰郷した。

この西郷さんの征韓論は、元武士たちの政府に対する不平の目をそむけるための政策だったらしい。

当時の武士たちは、武士の魂ともいえる刀を捨てる事を求められるなど、明治政府に対して不平を唱える人たちが少なからずいたそうです。まだ、誕生したての明治政府ですから、そういった不平分子が反乱を起こせばひとたまりもないと西郷さんは考えたのかも知れません。

西郷さんは、帰郷後、薩摩の土地に学校を作る。そして、生徒たちを挙兵して、明治政府に対して反乱戦争を起こしたのが西南戦争です。最大級の内乱。そして、最後の士族の内乱と言われている。


さて、長い時代を作り上げた徳川幕府が倒れ明治という時代がやってきた。

明治時代は大久保利通を中心に薩長の勤王の志士たちによって新しい政府が作り上げられていた。

この薩長の討幕軍の人たちというのは、武士は武士であったが身分の低い武士たちが中心となっていた。

どちらかというと貧しい生活をしていた人たちである。

明治維新の際に、そういった彼らが江戸という土地に入ってきたんですね。徳川幕府の御膝元で生計を立てていた人々の目には、山猿のような人々というように映ったかも知れませんね。

さて、明治五年にその明治政府の東京府庁から歌舞伎関係者が呼ばれで、

「外国から来たゲストや上流社会の貴人たちが見るにふさわしいものを上演しなさい」などと命令される。

これが“演劇改良運動”の始まりですね。九代目市川団十郎などが精力的に新しい歌舞伎づくりを行ったようてすが、なかなかすんなりいかなかったようです。

大きな失敗もあれば、小さな成功もあってかも知れません。

現在の歌舞伎。ちょっとした高級感を感じる世界ですね。それは、この当時からの変革が作り上げた雰囲気なのかも知れません。


明治四年、新政府の外交の長に立っていた岩倉具視が欧米諸国の視察団を作り欧米に渡った。

近代化した各国の文化に触れて、岩倉は目玉が飛び出るほどのカルチャーショックを起こしたそうです。

「こりゃ日本も負けてはならない」と思ったかどうか分かりません。

帰国後、彼は文化の近代化を目指し力を尽くしたそうだ。

岩倉の功績の中の一つに、欧米諸国に負けない芸能を確立するというものがある。

彼は、オペラ座でのオペラを鑑賞して、オペラ同等の芸能を日本も持たなくてはならないと考えたらしい。

当時の歌舞伎はやや衰退気味で海外からの要人を案内するには今一つの芸能であったらしい。

やっぱり能か・・・。能は武士が主となって支えた格式ある芸能。また、密かに公家の中でも能楽を愛し支えた芸能。能は衰退気味であった。そこで岩倉が助成したらしい。

歌舞伎から脱した長唄と能楽のコラボレーション。当時の新しい芸能である吾妻狂言も岩倉具視の助成があったとかなかったとか。


明治に入って芸能も先進国の影響を受けて様々な変化が訪れる。

変革の時代。その中を生き抜くという事は大変なことですね。

ここで紹介している長唄も、多くはこの変革というものを乗り越えて今があるわけですね。

改めてすごいなと思います。