前回は観応の擾乱の終結から南北朝の争い、更に義満の登場による南北朝の統一までを述べ、並行して細川氏や山名氏などの有力守護の台頭までを述べたが今回はその続きからです
足利氏が開いた幕府が何故「室町幕府」と呼ばれ加えてこの時代が何故「室町時代」と呼ばれるかに関しては、全てが三代将軍「足利義満」に縁がある
即ち義満の時代に京都に幕府の新たな御所として「室町殿」が建造されそれは「花の御所」ともよばれた
そして義満はここを拠点に政務をとっていた
そしてこの義満の時代が足利幕府の最も安定した全盛期であったともいえる
義満はまず貴族層に接近して貴族達と主従関係を結び結束を堅固なものにした
そして装束や生活に至るまで貴族化を進め、貴族の学問である詩歌管弦や有職故実などを学び「公家」としての教養を身につけた
この事はそれ以前の尊氏や鎌倉幕府の皇族や貴族たちと反目したり敵対していた政策とは対照的だ
「牛車」などの貴族の乗り物を愛用していたのも義満の公家化の象徴であったかもしれない
だが一方で、この時代に台頭してきた有力な「守護大名」の粛清にもあたっている
まず美濃に本拠地を構える土岐氏、土岐氏は鎌倉時代からの由緒ある御家人の家柄で尊氏の信頼も厚かった
だが土岐頼康の代になると更に美濃から尾張や伊勢にまで勢力を広げてきたので義満にとっての脅威となった
そこで義満は頼康死後の土岐氏の跡目争いを利用して土岐康行を追放し一気に領土を奪いとってしまった
更に義満は他の脅威となる「守護大名」もどんどん粛清していく
以前述べたが、山名氏も義満の粛清の対象となった
山名氏は南北朝の動乱から観応の擾乱にかけて尊氏に敵対する直冬についてよく戦い、勢力範囲を山陰に広げ、山名氏清の時代には山陰のほかに和泉や紀伊にまで領地を広げ氏清は「六分の一殿」と呼ばれるまでになり義満にとっての脅威となった
そこで義満は明徳元年に山名氏一族の間で内紛が起こるとこれを利用して氏清を挑発して挙兵させ京都に攻め込んでくる機会を狙って畠山氏や大内氏などをそそのかして氏清を打ち取った(明徳の乱)
更に義満は四国に勢力を広げてきた今川氏を粛清し残る標的は中国地方に勢力を張り忠実であった大内氏だけになった
大内氏は明徳の乱でも活躍し数々の戦で足利幕府の先鋒として功績をあげていた
だから幕府に忠実な大内氏を粛清するのは義満にとって困難であった
そこで大内義弘が独自に朝鮮と海上ルートを使って交易してることに目を付けた義満はそのことに言いがかりをつけ義弘を挑発する
だが義弘はそれに応じなかったので止む無く京都に上洛するように命じた
だが義弘がそれを拒み城に籠城したので一気に大内氏の領土に攻めjこんだ
大内氏はそれに対して頑強に抵抗したがついに義弘は戦死して義満は大内の領土を手に入れた
こうして義満にとって脅威となる「守護大名」は悉く粛清され室町幕府は義満の時代には安定期を迎える