前回は後醍醐天皇の建武政権の崩壊によって足利尊氏によって「建武式目」が発布され室町幕府が誕生したものの後醍醐天皇がそれに対抗して吉野にこもり新たに「南朝」を樹立し、ついに火ぶたが切られて南北朝の動乱を招いたことまで述べたが、今回はその続きからです
そもそも注目すべきは「観応の擾乱」が南北朝の争いの最中に勃発したこと
これにより結果として南北朝の争いが長期化したこと、そしてそれらの動乱にそれらの立場で参戦した地方武士団たちが著しく領土を広げ新たに「守護大名」としてのちに台頭するようになったこと
など色々と総合的に考えてみても、これらの争いが室町幕府に与えた影響は大きいと思う
まずもし南北朝の争いの間に観応の擾乱が勃発していなかったら、新田義貞や楠正成、北畠顕家などの有力な武将達を失っていた南朝政権は早々と北朝政権にうち滅ぼされていただろうと思えるのである
「観応の擾乱」の注目すべき点はそれが足利氏の政権の中枢を担う尊氏と直義の兄弟間での争いで、それに足利氏一門が夫々分裂して組したこと
それにより両者にとって「南朝」と同盟関係を結ぶことで優位に戦況を動かそうとしたことも伺えるのである
即ち南朝政権は両者にとって必要な存在であったのだ
そしてこれを利用した南朝政権もその存在を堅固なものとすることもできたのである
ところで、以前「観応の擾乱」に関して、高家の存在の大きさも述べたが、高師直は尊氏と直義の「家宰」を務めており南朝の北畠顕家を打ち取った功績が認められて次第に頭角を現してくる
もともと尊氏と直義は仲の良い兄弟であり互いに協力して政務もこなしていたが、この師直の台頭によって兄弟間でも軋轢が生じてきたともいえるだろう
さらに直義を慕う直冬(尊氏の子)と尊氏との対立も大きく影響を与えた
ところで、この頃の地方武士団の状況に目を向けると、彼らが一族を存続させ更に繁栄させるためにも、夫々が南朝或いは直義派や尊氏派に組して戦うのは当然の事であった
つまり戦に参戦し武勲を上げたり最終的に勝利者側についていれば、多大な恩賞や領地を期待できたのである
一方でもし戦死したり敗軍側にいれば領地は没収され一族郎党滅亡の危機に瀕することになる
加えてこの時代、戦の高みの見物も許されず中立の立場をとれば即ち敵とみなされたのである
これらの事から戦で戦うことは地方武士団にとっての一世一代の大勝負でもあったのだ
細川氏、山名氏の台頭
ところで、この観応の擾乱を挟んだ南北朝の動乱期に著しく勢力を伸ばしてくる氏族があった
それが今川氏や細川氏、更に山名氏などである
今川氏は九州を拠点に大友氏や島津氏などと競いながら領地を広げ台頭してきた
また細川氏は観応の擾乱に於いて高師直の軍に組することで台頭してきた
更に山名氏は当初師直軍に組していたが後に離反して直義軍に組して戦うことになる
更に他には上杉氏なども直義軍について台頭してくる
余談になるが有名な「上杉謙信」は上杉氏ではなく家臣の長尾氏の出である
謙信が台頭する背景には主人格の上杉氏の分裂も大きく影響するが、のちの「応仁の乱」の影響で上杉氏は扇谷上杉氏と山内上杉に分裂するがこれが上杉謙信が「戦国大名」として台頭できるような背景も作った
話は戻るが、観応の擾乱を挟んだ南北朝の動乱期に於いて有力氏族が台頭してきた
観応の擾乱は以前も述べたが結局は尊氏派の勝利となり、直義は戦死し直冬は九州に逃亡して終息したがこれで足利一族の内紛は終わらずそれは尊氏派が京都を奪回するまで続いた
この動乱に乗じて成長してきた細川氏は「三管領」として斯波氏や畠山氏とともに足利幕府の政務をつかさどり山名氏は「四職」として赤松氏や京極氏などとともに政務をつかさどることになる
そしてこの両氏族は互いに対立しながらも幕府の政務に口出ししたり火種の原因ともなったりするのである
例えば細川氏に関してはのちに細川政元などが将軍の継嗣問題にからんで日野富子と結託した畠山政長に対抗して候補であった義材を排して義高を立てようとクーデターを起こし政長を自殺に追い込んだ(明応の政変)などを起こしている
山名氏も山名氏清などが「六分の一殿」などと呼ばれるように勢力を伸ばしこれを討った足利義満がのちに南北朝も統一してここに室町幕府は実質ともに堅固になる