観応の擾乱に関して (概要) Ⅱ | ひさしのブログ

ひさしのブログ

ブログの説明を入力します。

前回は足利尊氏が謀反人として後醍醐天皇から朝敵とされ追討の対象となった経緯などを述べたが今回はその続きからです

中先代の乱を鎮圧した足利尊氏であったが、所領など独断で御家人たちに分け与えたため討伐の対象となった尊氏は当初は恭順の態度を示したが弟の直義が新田義貞の軍に攻められ窮地に陥ったことで、遂に軍を動かした

開戦当初は東海道各地で惨敗した足利軍であったが遂に箱根の竹之下の戦いにおいて新田義貞を主力とする建武新政軍を打ち負かした

それに対して後醍醐天皇は比叡山延暦寺に立てこもり足利軍に対峙した

これに対し足利軍は籠城する後醍醐天皇軍に激しい攻撃を仕掛けるが、陸奥から北畠親房の子の顕家が援軍に駆け付けると天皇軍が息を吹き返し足利軍は遂に惨敗して九州に敗走する

その後、息を吹き返した足利軍は摂津国の湊川の戦いにおいて天皇方の名将楠木正成を打ち取り、京都に入った足利軍はそこで後醍醐天皇と敵対関係にあった光厳上皇に接近して弟の豊仁親王を立て即位して光明天皇となった

ここに新たな「北朝」政権が誕生する

そして「北朝」政権を打ち立てた足利尊氏はその後、後醍醐天皇と和睦して、後醍醐天皇から光明天皇へ三種の神器が手渡され、「建武式目」という嘗ての「貞永式目」以来の武家法が制定され、ここに足利尊氏を初代将軍とする足利幕府が正式に誕生した

だがその後尊氏と反目し、吉野へと逃れた後醍醐天皇は自らの系統を正統と主張し、ここに後醍醐天皇を中心とした「南朝」が誕生し、その後「北朝」と長きに渡って争うようになった(南北朝の動乱)

「南朝」の誕生は新たに後醍醐天皇の息を吹き返させるように思えたが、頼みの綱であった新田義貞が藤島の戦いで討ち死にすると一気に勢力を失い、北朝では足利尊氏に対して正式に征夷大将軍の位が授けられることになる

だが尊氏は政治の世界から退き、弟の直義に政務をゆだねる

だが後に反目するようになり、ここに「観応の擾乱」の火ぶたが切られるのである