住野よる 著 「君の膵臓を食べたい」に関して | ひさしのブログ

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最近、以前に住野さんが書かれた処女作「君の膵臓が食べたい」の映画が凄い人気になっている

住野さんといえば「また同じ夢をみていた」とかはストーリーの流れも面白くて印象に残っているけど、この処女作はそれ程印象に残ってなかった

でも実際に映画で見てみるとストーリーの展開が高校時代の僕や桜良と桜良の死後に教師になった僕との互いに交差するような感じで進む展開が面白くて、桜良と僕とのやり取りにおいて、現実的に死が迫っていてにもかかわらず、前向きに生きようとする桜良と無神経を装いながらも心配している僕、二人の仲に割ってはいる恭子や委員長との兼ね合いなど、映画で時に応じて一番重苦しいシーンで流れる切ないメロディーにも心動かされて感涙が耐えなかった、やっぱ音楽というものの映画に更に花を添えるような役割は大きいものでもしメロディ自体がなかったら、果たして感涙できるだろうかなど色々詮索してうちに場面は知らぬ間にホテルで一夜を共にする場面に変わっていた、ここでの真実か挑戦かの二人のバトルにまた引き込まれてしまった、ここでの二人のバトルも桜良が確実に死ぬということが柱になっているので、バトルがドンドンエスカレートするにつれて再び感涙に襲われてしまった

それに加えて病院に見舞いに行ったときの二人のやり取りや後々になって話を恭子が聞いていた設定になっているのもよく考えられていると思った

また桜良に借りた本を隠したのが委員長であり、彼もまた桜良に思いを寄せていて、善人を装いながら実は影で僕を憎らしく思っていて、桜良の家まで尾行してついに切れて暴行に至ったシーンも見ごたえがあった

そして僕の唯一の親友ともいうべきガムをくれる生徒がのちに恭子と婚約するという設定も面白かった

だが桜良が膵臓が悪化して死ぬのではなくて、全く無関係な、このストーリーに何の役割も果たしてないような殺人鬼に殺害されたのは意外だった、このあたりから、では小説では桜良は何故死に至ったのか気になったので、早速読んでみると、映画のストーリーと同じく無関係な殺人鬼によって殺害されている 違いは即死ではなく、既に手遅れで息を引き取ったぐらいの相違でそれ程変わらないだろうと思えた

だが小説の展開は、映画と比較してみると更に衝撃的な事実が次々に浮かび上がっていった

桜良が自分の死に直面して秘かに書いている「共病文庫」という手書きの本を病院で偶然僕が見つけ、それがきっかけで桜良に興味を持ち交流するうちに翻弄されたり、図書館での出来事やホルモンを食べながら生きることに関して語りあったり、遠方まで旅行に出かけてホテルで一夜をともにしたりするシーンなども映画も小説も同じだが、根本的に違っていたのは、僕が教師になって桜良が生きていたことを回想したり、恭子が成長して花屋になって回想するシーンなどは小説には全く存在しない、ガムをくれる生徒と恭子の結婚も存在しないし、もっといえば桜良の死後の時間軸は学生時代のまま平行線をたどり、未来の出来事は小説には存在しないのだ これらのストーリーは脚本家が想像し創造したものだろうが、小説には存在しなくてもこのストーリーに組み入れたのは面白かった

まあ確かに小説にも教師は存在する その教師は桜良や僕の将来を心配する優しい教師として描かれている

だから脚本家がこの教師というものの存在も疎かにしなかったのだろうか

ところで、ここまでストリーの展開に違いがあればもちろんラストシーンも変わってくる、小説では桜良が書き残した桜良を取り巻く親や友達、僕や恭子に対する暖かい思いが、やがて反目していた恭子と僕が互いに理解し合い、果ては結ばれるという結末をたどる

映画で桜良の死後再び独り身となる僕か、小説のラストで桜良の思いを強く感じて結ばれる僕と恭子、さてどちらの結末が相応しいか、色々試行錯誤しているうちに、以前よりもこのストーリーの展開に興味がわいてきた

そういえば映画化された小説と原本とは脚本家と著者のウェイトをおく部分も変わるので、大きく変わることがあるが、読者の側も映画を見る側も自由な感想を持ってもいいと思う 

個人的には、全くストーリーの中では重要ではないような箇所に興味を持ってしまった

桜良と僕とのホテルでの真実か挑戦かのバトルで、桜良が僕にクラスで一番なのは?の質問で僕が一押ししたヒナ、それに対して桜良が「あの子八分の一ドイツ人なんだよ」、そしてその後続く 有名人で尊敬する人は?の質問に桜良があげたユダヤ人にビザを出した「杉原千畝」、この関係に作者が思うところの思想的な思いはなかったのだろうか、太宰治の登場なども気になるところではある

迫り来る死に対して前向きに生きようとする桜良と対照的に死や人間の存在について後ろ向きに考える太宰を対極の存在として持ち出したのか

想像しても限がないことではある