新聞小説「ドリトル先生 ガラパゴスを救う」(10)特別篇 作 :福岡伸一 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「ドリトル先生 ガラパゴスを救う」(10)

特別篇 3/16(257)~3/31(267) 作:福岡伸一 絵:岩渕真理

本編は終わったがスタンピンズ君のナビゲートで、ドリトル先生の半生についての語りが始まった。

感想
これは有名な「ドリトル先生航海記」に並行した物語を書いた事への贖罪的な意味で、ドリトル先生についての詳細を記したものだろう。
作者 福岡伸一の「ドリトル先生航海記」の原作者であるヒュー・ロフティングへの思いか。

医師にはなったものの、子供の頃からのナチュラリストへの夢にあらがえず医院を閉じた。ある意味エゴではあるが潔い。
まあ本編は突っ込みたくなる時もままあったが、微笑ましい挿絵と共に楽しくもあった。
このあと2回分ほど読者の感想があったが、それは割愛。

あらすじ
特別篇 ドリトル先生の原点(257~263)
私の人生の師であるドリトル先生の履歴書を記して行きます。
先生はグロスタシャー州コッツウォルズの生まれで、家はいわゆるジェントリの一員。ジェントルマンの語源となる、貴族直下の富裕層。

地主の地位により判事等の公務員を無償で引き受け、地域貢献する立場です。
恵まれた環境に生まれ、生き物に興味を持つ様になりました。

中でも好きになったのは蝶やカミキリムシなどの昆虫。


その生き物好きの少年はそれらの観察や勉強を始め、ダーハム大学の医学校に進学。当時の生物学は標本の分類程度であり、自然の秘密を知るためには医学の方が近道でした。
名門校であり場所はロンドンとエジンバラの中間点。そこを優秀な成績で卒業して医師の資格を得て、実家近くにクリニックを開きます。
昼は人気のお医者さん、夜は顕微鏡で細胞を観察する毎日。


そのうちに先生は難題を抱える様になりました。

一日中患者の応対に明け暮れ、ようやく片付けて遅い夕食を摂ると、研究の時間は持てない。
そんな生活を続けるうち、自分が医者に向いていないのに気付きます。また人間関係にも負担を感じます。

女性患者の中には勘違いで手紙を書いたり。

女性が苦手なドリトル先生は、その女性に居留守を使う様に。

それに大学の閉鎖的な世界。

上下関係が厳しく、教授へのごますり、忖度などなど・・・

そして自分が教授になった頃には学問に対する情熱は擦り切れています。そんな事が重なり、ドリトル先生は医者としての道を考え直す様になりました。

少年の日々での思い。

センス・オブ・ワンダーの感覚を取り戻す。
週末、クリニックを休んで丘陵に散策へ出掛けた時に感じた、草や土の匂い。夕方の雨上がりに、全ての自然が輝いています。

胸いっぱいに深呼吸。自分が求めていたのはこれだ!

その時近くの鳥が話しかけて来ました。


「こんにちは、ドリトル先生。なんて世界は美しいことでしょう」
もちろん鳥が人の言葉を話す筈はないですが、はっきり鳥の言葉として聞き取れました。生命にある、生きようとする主体性。

虫、植物、菌類・・・世界を認識するための言葉。
それを知り、調べ、そのささやきに耳を傾けたい。先生は次の日からクリニックを休み、研究に打ち込み始めました。

鳥たち、犬たちの行動、飛び方や走り方。

そして彼らに固有の言葉、世界観があるとの確信を深めました。

患者らは休診に驚き、先生が病気だと見舞いに押しかけました。

だが先生の心は決まっています。

ナチュラリストとして自然と生命の研究に人生を捧げたい。
幸い親の代から受け継いだ財産があり、郊外に隠れ家を見つけてこっそり引っ越しました。そこには森林公園と呼べる程の広い庭と池が付いていました。それがバドルビーのお家。
先生は一人で研究に打ち込みましたが何の支障もなく、楽しい動物の家族が増えて行きました。動物の言葉もどんどん習得、生物の世界にもドリトル先生の名が知られるように。
私が先生にお会いしたのもそんな頃。

スタンピンズ君のあとがき(264~267)
以上が「ドリトル先生 ガラパゴスを救う」の物語です。
ガラパゴス諸島がどこの領土にも、植民地にもならなかったのは先生のおかげ。この物語を読んでくださった中には熱心なドリトル先生ファンがいるでしょう。
また「ドリトル先生航海記」を再読された方もおられるかも。
そこには先生が我が家を訪れて私の父とフルート演奏をした事も書かれています。父はその事に心から感激して、後年我が家の家の扉に記念プレートを嵌め込んだほどです。
「ジョン・ドリトル 著名なるナチュラリスト 1939年、この家にてフルートを演奏される」

この箇所を「何か変だぞ」と思うでしょう。私と先生が旅に出たのは1831年。そしてガラパゴスにビーグル号が着いたのは1935年。

その後4年後に書かれた「航海記」には私と先生との出会いから書き始められている・・・
この話はドリトル先生との約束で50年間封印されていたものです。

それでは謎かけを。
一つ目の仮説は、父がプレートを作った時がかなり後年で年や場所を間違えていた。
二つ目の仮説はこうです。「ドリトル先生 ガラパゴスを救う」のあとに「ドリトル先生航海記」の物語」があります。

しかし先生との約束で私は「ドリトル先生航海記」の執筆を先に始めました。だからガラパゴスの事を匂わせる様な事は出来ません。

当時ガラパゴスは政情不安でしたし。
それで私は「航海記」の時に先生と出会ったことにしたのです。
文責は私にあります。

最後の提案です。そもそもドリトル先生の物語は、私がバドルビーの岸辺で船を見ながら、世界中を旅できたらどんなに楽しいだろう、思ったところから始まりました。
全ては私のイマジネーションの産物。

そしてそれを楽しむのも皆さんの力。

さて、これでこの物語はほんとうにおしまいです。

この一年間ありがとうございました。
続きはあるのですか? という質問にドリトル先生の返事です。
「終わることから始まることもあるよ」 ぜひ、ご期待ください。

 

 

福岡伸一のドリトル的平衡(3/29)
ドリトル先生は、Dr.Dolittle。さしずめおさぼりの意味。これに「ドリトル」の名を充てた井伏鱒二の功績。私も小学校の頃、この人の訳による「ドリトル先生航海記」に引き込まれました。
先生は常に公平な人として描かれますが、特に感情移入したのはスタンピンズ君。子供の学びと成長。つまり一種の教養小説。
もう一度新しい形の教養小説を書きたいと思い執筆しました。
いかがでしたでしょうか。数多くの読者に感謝申し上げます。

 

 

 

 

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