写経屋の覚書-フェイト「前回の続きで、山口県の事件を見るんだよね」

写経屋の覚書-はやて「たしか小野田事件と下関騒擾事件いう事件やったね?」

写経屋の覚書-なのは「うん。じゃ今回も山口県警察史編さん委員会『山口県警察史 下巻』(山口県警察本部 1982)を見ていくよ」

写経屋の覚書-山口811
写経屋の覚書-山口812
写経屋の覚書-山口813
写経屋の覚書-山口814
写経屋の覚書-山口815

p811-815
下関騒擾事件の発生 昭和二十四年八月二十日午前二時三十分ごろ、下関市内の民団側朝鮮人部落を朝連側朝鮮人約二〇〇人が竹槍・こん棒を所持して襲撃し、民団員十数人に傷害を与え、さらに家屋一九戸を次々に破壊して金品を掠奪した。このため市内は一時大混乱となったので、警察は県下の国警・自警の警察官約一〇〇〇人を動員し、騒擾罪により十数日にわたって被疑者約二〇〇人を検挙して事態を鎮圧した。これがいわゆる「下関騒擾事件」である。
 当時、朝鮮人団体の中で最も強大な統制力を持っていたのは朝鮮人連盟で、在日朝鮮人六〇万人のうち四〇万人以上をその傘下におさめていた。山口県下でも民団側約一五〇〇人に対し、朝連側は約二万二〇〇〇人と圧倒的優勢を示し、両者の対立事件はしばしば発生して、その抗争は抜きがたいものとなっていた。そして昭和二十四年八月一日、韓国政府により在外韓国民登録令が施行され、民団側が「この登録を怠る者は朝鮮人としての資格を喪失する。無国籍人になることを望む以外の者は登録せよ」と宣伝したため、これに刺激された朝連側はその闘争方針を次第に露骨化して、民団抹殺の活動を活発に展開するに至ったという。
 八月十五日の朝鮮独立記念日に再び衝突事件を起こした。これが小野田事件で、当日朝連では記念行事として県下各地で式典・示威行進を行い、一方、民団は小野田・宇部支部から下関本部に団員を集めて式典を行い、トラック六台に団長以下二〇〇人が分乗して小野田市に向け祝賀行進に移った。その際、トラックの一台が大坪町で朝連側の記念アーチに触れてこれを破損したことから小紛争が起こり、その場に居合わせた朝連員が民団員に殴打された。憤慨した朝連側はさっそく小野田に連絡したのである。同日午後八時三十分、小野田市に向かって行進むの民団トラックに対し、朝連員約七〇人が小野田炭鉱付近で襲撃をかけ、投石・こん棒により集団暴行の挙に出た。民団側も対抗したが、その大半は婦女子で、団長以下四五人が負傷したので、小野田市警に急報して保護を求め、同署では直ちに非常招集を行うとともに、同署道場に保護して一泊させた。
 翌十六日正午、朝連側は共産党員を交じえて約六〇〇人が小野田市署に押しかけ、保護されていた民団員の身柄引き渡しを強要した。下関からも応援に駆けつけ、次第にその勢力を増したので、小野田市警では国警県本部に応援を要請し、県警察学校生徒一四二人の派遣を受け、保護していた民団員を下関市まで護送した。同日午後八時ごろ朝連側も一度は解散したが、その待ち伏せが予想されて民団員を直ちに分散帰宅させることぱ危険であったので、これを下関市西署に保護したところ、約六〇〇人の朝連員がその身柄の引き渡しと、アーチ破損の責任者の処分方を要求して同署を包囲し、解放歌を合唱して気勢をあげ不穏な空気をみせた。下関市警では要求を拒否して午後十一時ごろこれを解散させた。民団員は署内で一夜を明かし翌朝帰宅したが、この小野田事件において朝連側一三人、民団側四人を傷害ならびに暴カ行為等処罰に関する法律違反として検挙送致した。

写経屋の覚書-はやて「南北の衝突いうかヤクザの抗争同然やん。発端になった朝連の記念アーチ破損にしたかて、どっちかが因縁つけたようにしか見えへんよw」

写経屋の覚書-フェイト「民団側が劣勢なんだね。投石や棍棒ってよく使われるんだけど、やっぱり手に入れやすいからかな?」

写経屋の覚書-なのは「そうだろうね。で、この小野田事件から朝連と民団の抗争が激化してすぐに起こったのが下関騒擾事件ってことなの」

 この小野田事件以来、朝連と民団との対立は日増しに激化し■朝鮮人が密集した下関市大坪町を足場としてて、両者は互いに相手の非を攻撃し合っていた。朝連側は八月十七日ごろから宇部・小野田支部長も合流して民団幹部襲撃の計画を練り、十九日午後十一時ごろ市内東大坪町の朝連第二分会事務所前で開催された集会では竹槍・こん棒を持って一五〇余人が集まり、朝連県本部委員長の民団打倒の激烈なアジ演説によって全員気勢をあげた。この集会は午前二時ごろ打ち切ったが(後日判明)、そこから分散して大坪町付近の警戒に当たっていた一隊は、東大坪町刑務所前の路上で日本刀を忍ばせて連絡に回っていた民団員四人と遭遇して、乱闘となり、朝連員一人が斬られた。
 この報は直ちに警戒中の朝連員に伝えられ、八月二十日午前二時三十分過ぎ、市場前に招集された朝連員約二〇〇人はそれぞれ竹槍・こん棒等を所持して数班に分かれ、民団下関支部事務所を襲撃破壊したほか、同町内および付近民団員の家屋一九戸一二世帯を次々と破壊(損害約一〇三万円)し、多数の民団員に負傷させ、逃げ惑う老幼婦女子を尻目に被害家屋から金品を掠奪し、暴行を加えて逃走した。
 八月二十日午前三時、事件発生の届け出をうけた下関市西署は、直ちに東西両署員の非常招集を行い、待機していた武装警察官一五〇人を現場一帯に配置して緊急警備態勢をとるとともに、午前四時、国警県本部に対し、第二次派遣として警察官五〇〇人の応援を要請した。国警県本部では、直ちに本部ならびに県下各地区署・自治警署に非常招集を発令(連絡)し、県警察学校現任科生全員、地区署二分の一、自治警三分の一の応援出動を指示(連絡)したのである。
 これと同時に国警県本部の、原田警察隊長以下関係課長は現地に急行し、地元公安委員、下関市警の竹中警察長および検察庁と協議して警備対策を樹立するとともに、本事件には騒擾罪を適用して全員を検挙するとの最高方針を決定した。
 この二十日午後二時、県本部長・県警察学校現任科生一〇七人および県内各地の応援警察官計三五〇人の到着を待って、これに下関市署員を加えて五一五人の検索隊・現場警備隊を編成し、朝連下関小学校・朝連県本・同下関支部・民団本部の順で捜索逮捕に出動した。朝連小学校の捜索では三一人を騒擾罪容疑で逮捕し、引き揚げようとしたところ、同校児童および婦女子二〇数人がスクラムを組み、激励歌を高唱しながら警官隊のトラックに捜近し、付近の朝連員数十人とともに一斉に警備部隊に対し投石攻撃を加えた。このため警察官一四人が負傷する事案が発生し、数人を公務執行妨害罪で検挙した。
 この第一次検挙により、朝連県本部委員長以下七三人を逮捕し、日本刀一本、銃剣一本、北鮮国旗六本を押収した。なお、当日午後六時現在の警察官の集結状況は次のとおりであった。
   県本部    四〇名     乗用車   七台
   県警察学校 一〇七名     ジープ   三台
   地区警察署 一七〇名     トラック 三三台(借上二一)
   自警応援  三一七名     小型車  一二台
   自署    三〇五名      計   五五台
   合 計   九三九名
 翌八月二十一日、別表(次ページ)のとおり国警隊長および下関市警察長を本部長とする「下関事件合同警備本部」を設置して警備態勢を確立するとともに、午前五時三十分から第二次検挙を開始して、朝連幹邸宅の捜索・検挙を続行し、二十二日には犯行現場である市内大坪町一帯の実地検証を実施した。また同日、広島管区学校現任科部隊五七七人の到着により、下関駅・伊崎桟橋・下関桟橋・幡生駅・唐戸桟橋・長府駅および下関西署の七ヵ所に検問所(一〇人勤務)を設けて、被疑者の逃走や奪還防止に備えたほか、二〇人一組の巡察隊を編成して大坪町付近の警備に当たった。
 こうして、八月二十五日には下関市警に留置取調べ中の被疑者六二人のうち四六人を山口刑務所に押送移監し、以後も検挙を続行して八月三十一日の第一〇次検挙までに、騒擾罪一三一人、公務執行妨害並に傷害罪七七人、計二〇八人を検挙し、検察庁は民団員の殺人未遂罪のほか朝連側七五人を騒擾罪などで起訴した。なお押収品は日本刀一、竹槍三三、手カギ六、鉄棒二、こん棒八、包丁七、その他四の計六一点であった。

写経屋の覚書-はやて「朝連は竹槍で武装、民団は日本刀装備って江戸時代のヤクザのかちこみやんwww 手カギって『暴れん坊将軍』のめ組の連中が持っている火消しの鳶口みたいなやつやね」

写経屋の覚書-フェイト「っていうか、朝連のほうは民団の家屋を襲撃して略奪までしているよ。それに子供や女性まで警官隊に投石って(絶句)もう暴徒だよね」

写経屋の覚書-はやて「子供や女性をダシにしたり盾にする連中は思想信条に関係なくあかんよ」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。じゃ、今回はここまでにするね」

 大阿仁村事件        生田警察署襲撃事件    大滝事件
 富坂警察署襲撃事件    七条警察署事件      直江津事件
 坂町事件           新潟日報社襲撃事件    首相官邸デモ事件
 曽根崎警察署襲撃事件   長崎警察署襲撃事件    尾花沢派出所襲撃事件
 津別事件           大野事件           宮城県内の事件
 浜松事件           益田町警察署襲撃事件            宇部事件

 渋谷事件