(5)IT会社を辞めて、塩の会社を起業した理由
私が、IT企業を辞めて、塩の会社を起業した理由をご紹介しています。
(3) は、病院に付き添って泊まり込んだ日に、「病気にならない生き方」と「食品の裏側」を読んだという話。よく娘のお弁当に入れていたミートボールが、くず肉を化学調味料でごまかしていたものだと知り、衝撃を受けた、という話でした。
(4) は、娘の未来の子供達の健康は、娘たちの食事を作る私に責任があるのだと思った、という話でした。この続きです。
さて、この「病気にならない生き方」と「食品の裏側」という本をくれたのが、父が入院する4か月前に出会った方、今、顧問をしてもらっている瀬川昌威(当時64歳)でした。
瀬川は、中・高・大とサッカーをしていて、教育大付属高校サッカー部時代の同級生が、日本クラブユースサッカー連盟の会長の佐藤修氏。1つ下の後輩に、日本サッカー協会会長の犬飼基昭氏がいます。
会社の後輩が瀬川と知り合い、私は、次女が小学校2年生からサッカーをしているので、「高校1年の娘がサッカー留学したいって言っているんですけど・・・」というようなサッカーのご縁で紹介してもらいました。
そのときに、昭和電工時代の脱水シート「ピチット」の開発物語、定年の挨拶回りに能登で出会った輪島の塩の話などを伺い、お土産にお塩をいくつかいただきました。(輪島の塩士・中道肇の作っている塩でしたが、当時は、違う銘柄でした。)
その後、瀬川からは、塩化ナトリウムだけの塩に由来する様々な問題を聞きました。当時、カルシウムや鉄や亜鉛というミネラルについては、よくテレビで特集も組まれていたりしましたので、微量ミネラルの大切さは、すぐに理解できました。
また、瀬川の属していた昭和電工が1980年代後半に、化学の力で製造した必須アミノ酸の健康食品「トリプトファン」が、アメリカで大規模な健康被害事件を引き起こした話も聞きました。ピチットは、そのときの反省から生まれた商品であることも聞きました。
瀬川の持論は、「人間が工場で作られるようにならないうちは、人間が食べる食品を化学工場で作ってはいけない」というものでした。
さらに続きます。

雑誌「サライ」に三國シェフの「初鰹と舳倉島海水ジュレ」が紹介されました
三國清三シェフの店・四谷の「オテルドミクニ」に行き、食事の後、三國シェフにご挨拶したら、「これ見て」と、今、発売されている雑誌「サライ」(小学館・2010年6月号)を渡されました。
付箋がついているページを開けてみたら、「初鰹と四人の料理人」という特集ページで、三國シェフが初鰹を使ったメニューを紹介なさっていました。
読んでみたら、なんと、「初鰹のマリネ、能登舳倉島(へぐらじま)天然海水ジュレと茗荷(みょうが)・大葉・生姜・長葱和え」と載っているではありませんか。えっ?舳倉島(の海水?!
『サライ』には、商品名は出ていませんでしたが、「能登半島の塩を使った料理だ。初鰹の持ち味が、海水ジュレと香草に寄り巧みにひきだされている」と書かれていました。
「三國の決め塩」として販売されている輪島沖・舳倉島の塩を溶かして泡々のジュレにして鰹の上にかけたものだそうです。
このメニュー、5月31日まで、「サライ」読者のための特別メニューとして、3日前までに予約のうえ、「オテルドミク
ニ」で食べられるそうですよ!!
いろいろ写真を取っていたら、「何?ブログやっているの?」と聞かれ、「そうなんです」と答えたら、「じゃあ、一緒に撮らなくていいの?」とおっしゃってくださり、お店の前で、記念撮影をしてくださいました。
「オテル・ドゥ・ミクニ」のプロフィール:
住所:東京都新宿区若葉1-18
最寄駅:JR線・地下鉄丸の内線・南北線 「四谷駅」赤坂口より徒歩7分
電話:03-3351-3810
営業時間:ランチ:12:00~14:30(L・O)
ディナー:18:00~21:30(L・O)
定休日:日曜日の夜、月曜日
URL: http://www.oui-mikuni.co.jp/

宮崎県、口蹄疫の現状について
日本の食は世界トップ。その食のトップ日本が誇る一つに和牛があります。
日本の霜降り肉は、世界の他のどこの地域にもマネができないものです。一朝一夕で育てられるものではないからです。いい子牛を産むいい種牛を育てるには10年かかるそうです。
さて、霜降り肉と言えば松坂牛がブランドですが、その松坂牛の子牛のお父さん(精子)は、宮崎県の種牛なのだそうです。
宮崎県、口蹄疫が広まっています。被害を抑えるため、健康な牛でも殺処分する必要があるそうです。5月16日までの累計で口蹄疫101例、殺処分対象は82,411頭。
とうとう、このトップクラスの種牛のいる家畜改良事業団(高鍋町)まで口蹄疫が拡大してしまったそうです。
事業団にいる種牛49頭と肉用牛259頭は殺処分決定。エース級6頭だけは、既に分離管理されているそうですが・・・、6頭だけです。
殺処分するには、後の補償のための一頭一頭の算定評価をしなければならない。でも、その人手が足りない。
殺処分するにも専門家(獣医師)が必要。でも、その専門家が不足している。
処分したものは埋めなければならない。でも、土地の借用・購入、地主や近隣住民・農家等の同意、また、地下水や岩盤等の調査が必要で、土地が足りない。
そんな状況で、町じゅうが消毒のための石灰で真っ白にされ通行止めだらけ、防護服姿や自衛隊だらけ。人の出入りが多い所は感染の可能性が高いので、買い物にすら行けないということになっているそうです。
風評被害を防ぐため、全国ネットのマスコミには、かん口令が敷かれているようです。
私としても、一般に広まることで、牛肉を扱う飲食店の方にご迷惑をおかけすることにならないか?宮崎県産のものが不要に敬遠されてしまわないか?善意のボランティアが手伝いに行くことでウィルスが他県に拡大してしまわないか?観光に影響を与えないか?・・・正直、とても心配です。
ところが、豚舎を経営の家のお子様が家計を助けるために学校をやめて働くことにした、いう記事を読んで、悩みぬいた末に、読者の皆様の良識を信じて書くことにしました。
市販の牛肉は大丈夫です。そのために、宮崎県の方ががんばっていらっしゃいます。
ぜひ、宮崎県の方の生の声をお読みください。義援金を募っています。
東国原知事のブログ:
http://ameblo.jp/higashi-blog/
ひまたんさんのブログ:
http://ameblo.jp/nanairo-hmjth/
むっちー牧場さんのブログ:
http://green.ap.teacup.com/mutuo/
【口蹄疫】宮崎がんばれ!![畜産・酪農・養豚]さんへのリンク:義援金についての情報も出ています
http://ameblo.jp/aphtae-epizooticae/
(4)IT会社を辞めて、塩の会社を起業した理由
私が、IT企業を辞めて、塩の会社を起業した理由をご紹介しています。
(1) は、父が膀胱炎になり、抗がん剤を受けずに退院した話でした。
(2) は、手術で肝炎になり、18年後に肝臓癌になって、肝硬変で入院した話でした。
(3) は、病院に付き添って泊まり込んだ日に、「病気にならない生き方」と「食品の裏側」を読んだという話。よく娘のお弁当に入れていたミートボールが、くず肉を化学調味料でごまかしていたものだと知り、衝撃を受けた、という話でした。この続きです。
でも、うちの娘たちは、おかげさまで健康で、アトピーやぜんそくも花粉症もありません。
なんでだろう、と考えたとき、それは、なりより、母体の私が健康だったからだろう、と思い至りました。
結婚するまで私は実家にいて、母の手料理を食べていて、結婚してすぐに長女を授かりました。長女が生まれたあとは、仕事を続けるために、実家のそばに引っ越して、平日は母の手料理を食べさせてもらいました。そこで授かったのが次女。
母は昔ながらの人間だし、サラリーマン家庭で、食費の節約もしなければならなかったので、冷凍食品はもちろん、レトルトパックや、なんとかのタレというのもほとんど使っていませんでした。
母は、肉は肉屋さんで、魚は魚屋さんで、野菜は八百屋さんで買っていました。だから、私は、ある意味、ごく普通で、きっと健康的なものを食べていたのです。
そして、ほとんど風邪もひかないような健康な私の母体から、健康な娘たちが生まれたのだろう、と思いました。
そして、私の食事担当は、お弁当と土日の食事。朝、お弁当の支度をするのは大変で、お肉を焼いたり、緑の野菜を入れたりはしましたが、味付けは、何種類も揃えていたナントカのタレで。そして、品数を揃えるため、冷凍食品やレトルトパックに、とても、とても、お世話になっていました。レトルトのミートボールもその一つです。
そう考えたとき、娘たちが、子供を生むとき、その子が健康かどうかは、母である私の責任だ、と思いました。
そう考えたら、自分が娘たちに食べさせてきたものが、恐ろしくて、背筋が冷たくなりました。
暗い病室、唸る父のそばで、私は、食品について、食事について、いい加減にしていてはいけないな、と真剣に思ったのです。
父は入院して2週間で亡くなりました。84歳。膀胱癌の手術をした年に生まれた長女が20歳。でも、もし、あの時、抗がん剤を受けていたら、ここまで長く生きられなかったかもしれない、長生きできてよかったね、という思いがありました。
でも、肝臓については、民間療法とも言われる食事療法などを、もっと早くにいろいろ調べていれば、西洋医学の薬ではない方法で、もしかしたら直すこともできたかもしれない、という悔いも残りました。
父の死をきっかけに、西洋医学の薬では治せない病気を食事で直せることもあること。そして、私は、娘の未来の子供たちへの責任を負っているのだということを強く強く感じました。
これが、IT業界から食の業界に転身することになった、大きな大きな精神的なきっかけとなったわけなんです。
ここから、なぜ、塩に、という話は、また次回に書きますね。

三國清三シェフの四谷「オテル・ドゥ・ミクニ」のランチ
三國清三シェフに、お塩についての最新の話を報告するため、四谷「オテル・ドゥ・ミクニ」のランチに行きました。
圧倒的に女性客がたくさん、満席でした。では、お料理の紹介をしま~す。
前菜の前のメニューに載っていないアミューズ。洋風茶碗蒸しとキッシュの間のようなもの。
江戸東京野菜のウドと東京野菜のコンポート、東京・トマトと東京・胡瓜のクーリ、茨城産アイスプラントと千葉八街・食用バラ、青森産五種のトマト添え。地産地消で、東京野菜を多く使っています。
山口萩沖・イサキのグリエ、ワイルドライスと秋田大潟村・有機秋田小町100%発芽玄米のリゾット、奈良・丸茄子と東京・筍添え、木の芽の香り、ペッパーソルトと赤ワイン風味。
ハンガリーの国宝・マンガリッツァ豚のロティ、紫芋のピュレとビゴール産白インゲン豆と東京・椎茸、オリーブのジャムとニンニクのマリネ、スペイン産三種のシェリーヴィネガー添え、バスク地方のエスプレット(唐辛子)和え。
北海道小樽・乳酸菌たっぷりのフロマージュブラン、東京小笠原産パッションフルーツ風味。
愛知産無花果(いちじく)のスープ仕立て、その無花果の北海道増毛街・特別純米酒“國稀”風味コンポート、島根産緑茶の泡とシャーベットとテュイル添え。日本酒と緑茶のデザート!!
エキゾチックムース、バナナとショコラのナッツ和え、パイナップル添え。
コーヒーと三種の小菓子。
ふぅ~。お腹いっぱい。女性客が多いのも、うなずけますね。
メニューに、こういうふうに産地を入れるようにしたのは、日本では三國シェフが最初だったそうですよ。中国・上海に、フランス料理の店を開店する計画もあるそうです。
「オテル・ドゥ・ミクニ」のプロフィール:
住所:東京都新宿区若葉1-18
最寄駅:JR線・地下鉄丸の内線・南北線 「四谷駅」赤坂口より徒歩7分
電話:03-3351-3810
営業時間:ランチ:12:00~14:30(L・O)
ディナー:18:00~21:30(L・O)
定休日:日曜日の夜、月曜日
(3)IT会社を辞めて、塩の会社を起業した理由
私が、なぜIT企業を辞めて、塩の会社を起業したのか、という理由をご紹介しています。
(1) では、父が肝臓癌になり、手術をして、抗がん剤を受けずに退院した話。
(2) では、その手術でC型肝炎にかかった父が、18年後、肝臓癌になり、肝硬変で入院した話。
続きです。
私が泊まり込みだった日に、もらったまま、読んでいなかった本を2冊持っていきました。
1冊が「病気にならない生き方」(新谷弘美・2005年・サンマーク出版)と、もう1冊が「食品の裏側―みんな大好きな食品添加物」(安部司・2005年・東洋経済新報社)」でした。
それまで、私は、健康のことも、食品のことも、ほとんど考えたことがなかったような人間だったのです。こういう系統の本を読んだことは初めてでした。ストーリーを追うようなものより、気軽に読めるかな、というぐらいな感じで選びました。
「病気にならない生き方」は、30万例以上の胃腸を見てきた胃腸内視鏡外科医が書いた本です。
この本には、酵素の重要性が書かれていました。抗がん剤は、酵素を浪費し、人間の体には猛毒になること、新谷食事健康法で免疫力を高めてガン再発率0%ということが書かれていました。
「食品の裏側」は食品添加物の元トップセールスマンの書いた暴露本ともいえるものです。この本は衝撃でした。お読みになった方、いらっしゃいますか?
スーパーで売られているミートボール。これは廃棄寸前のクズ肉を30種類の「白い粉」で、おいしいミートボールにしてしまうという話。
著者は、これを自分の子供にだけは食べさせたくないと思い、食品添加物の会社をやめたということでした。
商品名は出ていませんでしたが、スーパーで売られているミートボール・・・・、ケチャップ味で、柔らかく、娘たちが好きで、温めるだけで済むものなので、私は、娘たちのお弁当にしょっちゅう入れていたのです。
廃棄寸前のクズ肉を使った食品添加物の塊だったとは・・・。背筋が寒くなりました。
続きます。
市ヶ谷「サンゾー」は体にやさしい、社会にやさしい店を目指します
ぐるっぽ「飲食維新会」のお仲間、「一生青春!マスター 」さんの店・市ヶ谷の「イタリアンバール・サンゾー」さん。「わじまの水塩」のご注文をいただき、納品に行ってきました。
「わじまの水塩」をカルパッチョやピザの生地に使うということです。先日、このブログで「わじまの水塩」で作ったパンを紹介しましたが、ピザの生地、どうなるか、とても楽しみです。
お店の前には、熊谷にある埼玉福興のソーシャルファームの玉ねぎ・梨葱が紹介されていました。障がいのある方のために、仕事を生み出し、自立を支援するための農園・「自立支援を農業で切りひらく埼玉の社長
」さんが経営する会社で収獲された、無農薬の、甘い玉ねぎです。
「イタリアンバール・サンゾー」さんでは、これから、そのファームで収穫されるイタリア野菜なども使っていくそうです。、「一生青春!マスター 」さんは、体にやさしい、社会にやさしい、SANZOを目指すそうです!
「イタリアンバル サンゾー」のプロフィール:
住所:東京都千代田区九段北4-2-15 市ヶ谷プラザビル2F
最寄駅:JR・メトロ 市ヶ谷駅 徒歩1分
TEL:03-6272-6864
営業時間: 17:00~24:00(L.O.23:30)
定休日:無休
URL:http://r.gnavi.co.jp/e858300/

(2)IT会社を辞めて、塩の会社を起業した理由
私が、ⅠT会社を辞めて、塩の会社を起業した理由。
前回(1) は、父が膀胱癌の手術をして抗がん剤を受けずに退院したところまで、でした。その続きです。
父は膀胱癌の手術の際、輸血を受けました。その輸血で、肝炎にかかってしまいました。それが、当時はまだ発見・認知されていなかったC型肝炎だとわかったのは後のことでした。
肝炎のため、その後、2回入院はしましたが、肝臓の薬を飲みながら、家で過ごし、近所に住む孫(私の娘達)の保育園の送り迎えをしたり、母と買い物やバス旅行に行ったり、晩酌もしたりして、老後の生活を暮らしていました。
膀胱癌の手術から18年後、定期健診で肝臓にガンが見つかったと言われました。開腹手術ではなく、太ももから内視鏡を入れる方法で手術をしました。1週間ほどの簡単な入院でした。
その後、父の体はずいぶん弱り、ほとんど寝てテレビを見ているというような生活になってしまいました。そんな手術をもう1回しました。
私は、仕事がとても忙しく、父については、母に任せきりで、父の病気の状態について、ネットで調べたり本を読んだりすることもせず、民間療法なども知らず、病院に通っていれば大丈夫だろう、というぐらいな具合でした。
4年前、その2度目の手術の半年後、父の具合が急変しました。知らせを聞いて、病院にかけつけたときには、父の顔は、すっかり変わってしまっていて、これが「死相」というものか、というような顔になっていました。でも、意識はあり、言葉も通じました。
1か月前の定期検診では、肝臓の値は正常だったということなのですが、検査の結果、肝硬変の末期と言われました。
肝臓は沈黙の臓器と呼ばれるほど強い臓器で、4分の3がダメになっても、まだ働き続け、急変したときには、もう手遅れ、というものなのだそうです。
入院して数日、テレビを見ながら会話ができるほど回復しましたが、医者には、「尿が出なくなったら毒素が体に回ってしまい終わりです」と言われていました。
そこで、毎日、母と私と姉と長女が交代で、病室に入れてもらったソファーに泊まりこみました。
続きます。
新橋の割烹「ほそ川」の「ほそ川コース」
「IT企業を辞めて塩の会社を起業した理由」の連載を始めたところではありますが、父の病気の話が続くと辛気臭くなるので、お料理の話も入れていきますね。
ゆうべは、元いた会社の女性BOSSと新橋の割烹「ほそ川」へ。新橋あたりで、ゆっくり・しっかり話をしながら、おいしい和食を食べたいというようなときには、こちらのお店、お勧めです。
野菜は長野県飯田市より直送、魚はご自身で築地に行って仕入れている、というお若い店主・細川料理長、2月の展示会に来てくださり、それ以来、「わじまの海塩」と「わじまの水塩」を使っていただいているお店です。
まず、前菜2品。右は桜エビとワカメやサヤインゲンなど。左はホタルイカとカニと山菜いろいろの酢の物。

お造り、「わじまの海塩」で。
お椀は、しめじと小松菜とシジミ。魚で出汁をとり、塩で整えた、というもの。
口直しの「やーこん」。やーこんを生で切っただけというもの。シャキシャキしていて甘くて、野菜というより果物。
若鮎の塩焼きと焼き野菜。
竹の子とふきの炊いたもの。
ちりめん山椒のご飯となめこの赤だし。お新香の糠を洗ってしまわずに出していました。
最後に、ブルーベリーと黒酢の入ったバニラのアイスクリームでした。(写真を取り忘れました)
野菜も豊富で、女性客のリピーターさんが多いということでした。
塩と出汁を基本とした優しい味付け。醤油味は一つもなし。でも、どれも違う味。それは、素材の味がそのまま生きているからです。素材の数だけ、違う種類の味が楽しめる・・・。「これ、お塩を使っているんですか?」といちいち確認する必要があるぐらい、お塩は隠し味のように、素材の味の引きたて役になっていました。
細川さん、「最初は、お塩の値段がちょっと高いかな、と思ったけど、塩を大事に使うようになったし、日々の食材の仕入れに比べたら、それほどではありません」ということでした。
塩焼きなどをすると、ときどき塩の粒がそのまま残っていることがあるけれど、それがしょっぱくなく美味しいので、よくお客様に「どこの塩を使っているの?」と聞かれるそうです。
それから、「バニラアイスを作るときに、『わじまの水塩』を使うと、甘味が広がらず、引き締まる感じがします。塩を溶かした塩水では、そうはならないので、面白いですね」ということでした。
「新橋・ほそ川」のプロフィール:
住所:東京都港区新橋2-12-2 hk新橋ビル5階
最寄駅:JR・メトロ 新橋駅 日比谷口 SL広場徒歩5分
電話:03-3581-8886
営業時間:17:00~21:30(L,O)
定休日:日曜・祭日
URL:http://hosokawa-hk5.sakura.ne.jp/
完全禁煙。

(1)IT会社を辞めて、塩の会社を起業した理由
先日、パン教室のママ友のところに行ったときに、「どうして、橋本さんは、富士通で管理職にまでなっていたのに、会社を辞めて、塩の会社を?」と聞かれました。
「あれ、話していなかったっけ?」ときっかけについて話をしたのですが、このブログでも、きちんと書いていなかったので、一度、書いておこうと思います。
長くなりますので、連載で。よろしくお願いします。
まず、亡き父のことを話さなければなりません。
私は、就職して2年目で結婚し、仕事を続け、翌年、長女を出産しました。24年前のことです。(歳がばれますね)
そのとき父は65才。膀胱癌になりました。膀胱は転移が少ない場所ということで、そっくり膀胱を切除してしまえば大丈夫でしょう、といわれ、切除し、人工膀胱をつけました。本人にはガンの告知はしませんでした。
病院からは、手術後、念のための抗がん剤を勧められました。「抗がん剤を受ければ、あと5年、70歳までは生きられるでしょう、受けなければ、余命はわかりません」と言われました。
ところが、同じ病室には、抗がん剤を受けている方がいたのですが、みなさん、抗がん剤の副作用で苦しみ、父の入院中にも、抗がん剤を受けながら、病室で亡くなっていく方が何人もいました。(24年前の抗がん剤のことです)
父は、そういうところを見ていたので、自分はガンだと思っていなかったこともあり、抗がん剤を受けるのは恐いから嫌だといい、退院してしまいました。
結果として、父は、その後約20年、結局84歳まで生きたんです。
続きは明日に。
