(4)IT会社を辞めて、塩の会社を起業した理由 | 橋本三奈子のSalt Revolution(わじまの塩に魅せられて)

(4)IT会社を辞めて、塩の会社を起業した理由

私が、IT企業を辞めて、塩の会社を起業した理由をご紹介しています。


(1) は、父が膀胱炎になり、抗がん剤を受けずに退院した話でした。

(2) は、手術で肝炎になり、18年後に肝臓癌になって、肝硬変で入院した話でした。


(3) は、病院に付き添って泊まり込んだ日に、「病気にならない生き方」と「食品の裏側」を読んだという話。よく娘のお弁当に入れていたミートボールが、くず肉を化学調味料でごまかしていたものだと知り、衝撃を受けた、という話でした。この続きです。


でも、うちの娘たちは、おかげさまで健康で、アトピーやぜんそくも花粉症もありません。


なんでだろう、と考えたとき、それは、なりより、母体の私が健康だったからだろう、と思い至りました。


結婚するまで私は実家にいて、母の手料理を食べていて、結婚してすぐに長女を授かりました。長女が生まれたあとは、仕事を続けるために、実家のそばに引っ越して、平日は母の手料理を食べさせてもらいました。そこで授かったのが次女。


母は昔ながらの人間だし、サラリーマン家庭で、食費の節約もしなければならなかったので、冷凍食品はもちろん、レトルトパックや、なんとかのタレというのもほとんど使っていませんでした。


母は、肉は肉屋さんで、魚は魚屋さんで、野菜は八百屋さんで買っていました。だから、私は、ある意味、ごく普通で、きっと健康的なものを食べていたのです。


そして、ほとんど風邪もひかないような健康な私の母体から、健康な娘たちが生まれたのだろう、と思いました。


そして、私の食事担当は、お弁当と土日の食事。朝、お弁当の支度をするのは大変で、お肉を焼いたり、緑の野菜を入れたりはしましたが、味付けは、何種類も揃えていたナントカのタレで。そして、品数を揃えるため、冷凍食品やレトルトパックに、とても、とても、お世話になっていました。レトルトのミートボールもその一つです。


そう考えたとき、娘たちが、子供を生むとき、その子が健康かどうかは、母である私の責任だ、と思いました。


そう考えたら、自分が娘たちに食べさせてきたものが、恐ろしくて、背筋が冷たくなりました。


暗い病室、唸る父のそばで、私は、食品について、食事について、いい加減にしていてはいけないな、と真剣に思ったのです。


父は入院して2週間で亡くなりました。84歳。膀胱癌の手術をした年に生まれた長女が20歳。でも、もし、あの時、抗がん剤を受けていたら、ここまで長く生きられなかったかもしれない、長生きできてよかったね、という思いがありました。


でも、肝臓については、民間療法とも言われる食事療法などを、もっと早くにいろいろ調べていれば、西洋医学の薬ではない方法で、もしかしたら直すこともできたかもしれない、という悔いも残りました。


父の死をきっかけに、西洋医学の薬では治せない病気を食事で直せることもあること。そして、私は、娘の未来の子供たちへの責任を負っているのだということを強く強く感じました。

これが、IT業界から食の業界に転身することになった、大きな大きな精神的なきっかけとなったわけなんです。


ここから、なぜ、塩に、という話は、また次回に書きますね。




人気ブログランキング

ブログランキングにご協力ください。