『貧困の経済学 上』 マーティン・ラヴァリオン著 柳原透監訳 (2018年9月20日第1刷)

 

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 貧困の測定と評価 ◇

 

 

 

第3章 厚生の測定④ (第3章は①から⑤まで)

 

 

厚生の測定①

厚生の測定②

厚生の測定③ のつづき

 

 

 

*   3・3  代替指標の理論と適用 からのつづき1

 

 

■ 食料シェア

予算に占める食料の割合は実質総消費支出が増えるにつれて減少する傾向がある。この観察に基づき、食料予算シェアを生活水準の逆の指標として用いることがしばしば正当化されてきた。しかし、食料シェアを厚生指標として用いることにはいくつかの懸念もある。

 

食料予算シェアと1人当たり総消費との関係は一般に世帯間で異なる。そのような不均一さを生む要因としては、相対価格、ある種の財へのアクセス (娯楽や外食は都市部のほうがはるかに簡単である)、世帯構成、仕事の種類 (どの程度のカロリーを消費するか)、天候 (寒冷地では食料シェアが下がるかもしれない)、選好、の相違など数多く存在する。

 

これらの相違があるため、価格指数の設定での援用の場合も含めて、食料シェアを実質消費の指標として用いることは、妥当とは考えられない。同一の総支出額の下で食料支出額が地域により異なるとき、それが(生計費指数の設定において求められるように)価格水準の違いのみを反映していると結論付けることは明らかに不適切である。また、貧困世帯の食料需要の所得弾力性は1に極めて近いかもしれず、そうだとすれば食料シェアはかなり不安定な指標といえる。

 

予算シェア(食料シェアを含む)の慎重な分析が、厚生分析にとってまったく役に立たないというわけではない。異なる種類の世帯を比較するとき、需要行動のみから厚生指標を導出する上での識別問題が大きく立ちはだかる。これに対処する1つのアプローチは、同一の種類の世帯について需要分析を行い厚生指標を導出することである。異なる種類の世帯の間での比較は(とりわけ健康や栄養といった)ファンクショニングの達成などの外部情報、あるいは厚生の自己評価に関する観察、を基にする必要があろう。注意深く用いることで、予算データは生活水準を見る上で役に立ちうるのである。

 

 

■   栄養指標

通常の理解では、低栄養と貧困は別個の概念であり、それぞれ違った厚生指標が対応する。低栄養については栄養摂取量(主に食料エネルギーであるが微量栄養素も含まれる)であり、貧困については消費全体(栄養価値以外の食料の性質や食料以外の消費も含まれる)である。したがって、いささかぎこちない言い方ではあるが、低栄養を 「食料エネルギー貧困」 と見て同様の方法で測定することができる。

 

栄養摂取量を厚生の指標として用いることには賛否両論ある。食料シェアと同様に、インフレ率が高い国や適切な価格データがない国では、実際上の強みがある。食料エネルギー摂取量の分布とデータはインフレーションを調整する必要がない。しかし、その反面、栄養は厚生の1つの側面にすぎない。低所得国でさえ、主食の消費が高いウェイトを占めるとしても、そのウェイトは決して1にはならない。

 

消費行動は厚生指標にとって不完全な指針でしかない、という主張がありうる。人々が栄養摂取に与えるウェイトは、 「自身にとっての価値よりも低い」 と考えられるかもしれない。しかし、人々が常に自身の厚生に対し最も良い判断を下すと仮定する厚生主義の主張を時として疑いうるのと同様に、消費者行動を無視するどのような生活水準の指標に対しても疑いの目を向けるべきである。

 

この問題に関して不確実さがあるのは明らかであり、それを前提とすると、唯一の賢明な解決策は、低栄養のような非厚生主義の指標と厚生主義の指標の両方をモニターすることのようである。貧困比較に際してこれら2種類の指標が異なる判断を導くときにのみ、問題をさらに探求する必要がある。そのような必要があれば、顕示された選好が厚生に反する理由について、非厚生主義の立場からの説得力のある見解が示されることを期待する。

 

例えば、等価尺度との関係で先に論じた世帯内の不平等といった消費行動が、厚生を反映しない理由はあるのであろうか。それは不完全情報の問題であろうか (そうであれば、教育政策への示唆を提起しうる)。もしくは、非合理さ(例えば認知の不協和のため)や合理選択をする能力がないこと(自身にとって何が良いことなのかわからない年少者に代わって健全な選択をする人がいない場合など)といった、より根本の問題なのであろうか。

 

このコメントは、子どもの年齢に対する体重(weight-for-age)もしくは 「身長に対する体重」(weight-for-height)といった身体測定指標にも妥当する。これらの指標は個人の栄養必要量の設定の不確実さを避けることができるが、同様の不確実さは身体測定指標の基準値の設定に際しても見られる。また、これらの指標は、世帯内での生活状況を明らかにすることができるという強みを持つ。

 

しかし、これらの指標についてさらにもう一点指摘がある。栄養学者を含む一連の見解によれば、広い厚生の概念を踏まえると、栄養必要量を示すために子どもの身体測定指標を用いることには疑念の余地がある。例えば、子どもたちの一見適切な身体成長率の維持が、遊ばないことで低い食物エネルギー摂取量の水準で起こることが時としてある、ことが見出されている。明らかにこれは、どのような子どもにとっても食料に関連する深刻な欠乏である。ここでもまた、貧困比較をするときに、個人の 「厚生」 の概念をあまり狭く捉えないように注意しなければならない。

 

 

■   定性方法と混合方法

定性と定量の方法の違いは、場合によっては、求めるデータの種類の違いを反映する。例えば(ほとんど無関係な)個人を対象とした標本調査は、人々の間の社会関係の研究に用いるには明らかに限界があるだろう。目的に合わせて選ばれた小規模標本を用いる定性研究は、村などについて地元で一般に知られている事実を明らかにするには非常に有効でありうるが、貧困や不平等を測定するためには不適切であることは明らかである。 「純粋な」 定性方法と定量方法の間に出現したどちらとも言えない領域があり、その中には、両方の手法をしばしば独自に組み合わせるさまざまな混合方法がある。

 

拠って立つ方法論上の立場にも違いがある。 「因果関係」 の概念は定量貧困分析の伝統の基礎であり、政策ないし社会経済変化の厚生と貧困への影響を(第Ⅲ部でさらに論じられる)定量化する数えきれない試みに、そのことは明らかである。この違いも実際にはそれほど明確ではなく、貧困の定性研究で因果帰属が試みられることは普通に見られる。その際に直面する問題は、定量と定性のどちらの研究方法を用いるかで異なることはないようである。納得がいくように因果関係を特定するためには、定性研究であっても、定量研究に適用されるのと同じ水準の厳密な推論がなされねばならない。さもなければ、知識の進歩は幻影に終わるかもしれない。

 

時として語られるもう1つの違いがある。それは、社会科学研究の目的に関するものである。定性研究の中には、参加者のエンパワーメントに貢献しようとするものがある。そのような伝統は定量研究にはないが、定量方法が同様のアドボカシーの役割を果たすことはある。第Ⅰ部で見たように、当初から、世帯調査は貧困との戦いに世論を動員するために用いられてきた。このことは、分析の質と、分析が果たす何らかの政策上のないし実践上の役割と、両者の間のトレードオフがあるかどうか、という重要な問題を提起する。そのようなトレードオフの存在を、アドボカシーの役割を務めようとする定量分析に、時として見られることがある。

 

このように、定性と定量の2つの間の隔たりは、方法論上の論争から受ける印象ほどに大きなものではない。現在の最も優れた実践では、賢明な選択がなされ、しばしば異なる方法が組み合わされて用いられる。それでも、いくつかの重要な違いには注意すべきである。調査に基づく客観貧困評価と定性研究に基づく現場での知見(当事者による自己評価であれ、訓練を受けた観察者による評価であれ)との間に食い違いがあることが、しばしば報告されている。

 

当事者評価の例を1つ挙げよう。ロシアの全国標本調査において、成人のおよそ30%が自分自身を主観による 「厚生のはしご」 の最も低い2つの段に置く一方で、これらの人々の約半分のみが、貧困線未満の所得を持つ世帯に属する30%の成人の中にいた。自身を 「貧しい」 と思うかどうかは従来の貧困統計では捉えられないし、逆もまた真である。

 

次に、訓練を受けた観察者による評価の例を1つ挙げよう。北インドの村における貧困についての、1年間在住した調査社の観察に基づく主観評価を用いた研究がある。そこでは、1年間の観察と村民との議論に基づいて、研究者たちは、彼らの調査対象村で、土地なし農業労働者のほぼすべて(99%)が上記の人類学調査法で 「貧しい」 ほうに分類される、ことを見いだした。しかし、25年にわたる4回のインタビューから得られたその時々の所得の平均に基づく恒常所得の指標を用いたときには、54%のみがそのように分類された。研究者たちの貧困に対する認識が、所得データが示すよりもはるかに強く土地なしであることと結びつけられている、ことは明白である。

 

研究者たちは、貧困についての特定の特徴づけに囚われているかもしれない。例えば、インドの村の貧しい人々は、土地を持たず、不完全就業である、という想定が広く抱かれている。しかし、そのような想定は現実にはそれほど適合しないかもしれない。

 

定性データには、人々の厚生に関して通常の定量データでは見つけることができない手がかりが含まれることもある。経済学者(そして、他の社会科学者の一部)は、伝統として主観データを用いないできたが、重要な例外もあった。

 

初期の例としては、所得評価質問(Income Evaluation Question:IEQ)がある。IEQでは、回答者に、所得額を 「とても悪い」 「悪い」 「よくない」 「悪くない」 「よい」 「とてもよい」 とみなすかを訊ねている。IEQの回答は、効用関数を特定するためにファン・プラークと後続の研究者によって用いられた。この方法の適用例として、最低所得質問(Minimum Income Question:MIQ)がある。これは、どれだけの所得が 「生計を保つ」 ために必要かについて訊ねる。第4章では、貧困線の設定におけるこの方法の応用について述べる。

 

所得ベースの指標から完全に離れて、厚生の自己評価を代わりの厚生指標として用いる、自由度の大きいアプローチが出現した。よく用いられるものでは、 「幸福」 や 「生活全体の満足度」 について、人々に自身がどのような位置にいるかを訊ねるものがあり、しばしば 「キャントリルのはしご」(Cantril ladder)を呼ばれる。これは恐らく、貧困あるいは 「経済厚生」 を測定するには広すぎる概念であろう。誰かが 「貧しい」 と言うときに、その人が不幸であるとは言うつもりがないのが通例であろう。

 

主観に基づく貧困測定のより良い出発点は、 「貧しい」 から 「豊か」 までのキャントリルのはしごの各段を定義することである。例として、フィリピンの Social Weather Station によって行われた世論調査や Eurobarometer がある。 Social Weather Station では、標本に含まれる成人に、 「貧しい」 「境界線上」 「貧しくない」 のどの段が当てはまるかを訊ねた。 Eurobarometer も同様の質問をするが、7つの段を用い、自らを下の2つの段にいるとする人々を貧しいと特定する。

 

 「経済厚生質問」 の研究もいくつかある。それらの研究では、回答者が最低と最高の段をそれぞれ最貧と最富裕とする(通常9段の)はしごのどれかの段に自身を置く。この方法は、厚生の主観認識と経済学の伝統として支持される 「客観」 指標の間の食い違いなど、個人の厚生に影響を与える要因をよりよく理解するために、有用であろう。

 

定性分析は、厚生の個人間比較を行う際に、参加者やファシリテーターが他者の厚生ランキングをすることで、三角検証(triangulation)の形でも用いられている。これは、自己評価の妥当さを確認するための方法と考えることができる。これはまた、調査データに含まれ観察できる変数の中で、厚生の自己評価と連動し頑健な説明力を有する変数を特定する、という動機を与えた。原理上は、一次抽出単位の中での無作為標本から作られるフォーカスグループを用いて、厚生評価を三角検証することも可能である。

 

全国レベルの異時点間の貧困比較のためには実現可能な方法でないことは明らかであるが、定性データは役に立つ新しい情報を提供する。経済学者は、人々の厚生についての主観に基づく、ないしは自由解答式の、質問を用いない傾向があった。奇妙にも、経済学者は、人々が自身の厚生を最もよく判断すると考える一方で、どのように感じているかを人々に直接に訊ねることはしない。

 

 

第3章 厚生の測定⑤ につづく

 

『貧困の経済学 上』 マーティン・ラヴァリオン著 柳原透監訳 (2018年9月20日第1刷)

 

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 貧困の測定と評価 ◇

 

 

 

第3章 厚生の測定③ (第3章は①から⑤まで)

 

 

厚生の測定①

厚生の測定② のつづき

 

 

 

3・3  代替指標の理論と適用

 

 

貧困と不平等の測定の目的のために最も一般に用いられる個人レベルでの厚生の指標は、世帯の消費もしくは所得を、世帯人数や世帯構成の違いにつき標準化し、さらに直面する価格の違いを反映して実質化したものである。これは経済厚生についての重要な指標であり、現在利用できる指標の中で明らかに最も優れたものである。

 

しかし、ここまで議論したように、理論と実践の両面で、利用にあたり注意を要するいくつかの限界もある。ありがたいことに、個人の厚生の評価、そして貧困と不平等の測定に関連した有用な追加情報を提供する他の諸指標がしばしば利用可能である。

 

 

■   成人1人当たり換算での実質消費

成人1人当たり換算での実質消費は、すべての財とサービス(自家生産からの消費の価値も含む)に対する総名目支出を、2つのデフレーター(直面する価格の違いを調整する生計費指数と、世帯の人数と構成の違いを調整する等価尺度)で割ったものである。Yを世帯の総消費(もしくは総所得)とし、Zを等価尺度と価格デフレーターを統合したものとすると、これはY/Zと書くことができる。

 

ここでのデフレーター(Z)は、基準とされる経済厚生水準を当該世帯が達成するために要する費用、と解釈しうる。基準とされる経済厚生水準が、世帯が貧困であるかどうかの判定に用いられるときには、Zは貧困線である。貧困線に関しては第4章で詳しく論じる。

 

適切な貧困比較のために、価格指数に関してとりわけ重要なことがある。それは、特別な条件が満たされない限り、ある1つの指数を貧困層と非貧困層の両方に適用することはできない、ことである。

 

一般に、この指数は生活水準の基準がどのように選ばれるかに依存する。もし相対価格に違いがないのであればインフレーションの調整だけ行えばよいが、そのための良い価格指数が必要である。インフレ率だけを調整すればよいもう1つの場合は、相対価格は異なるが、家計消費支出の配分が所得水準にかかわらず同一である、という条件が満たされるときである。この条件は、現実にはめったに満たされることはない。

 

例えば、インドにおける貧困比較では、一般に(全国平均の)消費者物価指数ではなく、貧しい人々によって消費される基本賃金財に大きなウェイトが置かれる農業労働者対象の消費者物価が用いられている。しかし、ラスパイレス指数が用いられているので、時間を通じてウェイトは変化しない。

 

時間を通じての生計費の変化を調整すべきことはよく認識されているが、地域間での価格の相違についての調整は貧困比較でなされることは少ない。しかし、輸送費がしばしば高く、市場の地域間統合に対するその他の障害も大きい途上国においては、地域間での価格の相違はとりわけ大きい。このことは、地域間もしくは農村都市間での貧困比較に明らかに影響を及ぼす。

 

また、地域による生計費の違いを適切に調整しないと、集計された貧困指標の著しい偏りを生みかねない。地域による価格のばらつきは、また、行動と整合する(生計費指数などの)厚生指標の推計に必要な需要パラメーターを特定するのに、大きな助けとなる。

 

留意すべき主な問題として、利用可能な地域別価格データの通常の分類項目に含まれる財が不均一であるかもしれないことがある。これは 「住居」 のような財についてとりわけ重要であるが、 「米」 のような財でさえも品質の違いがある。

 

世帯の間には人数や構成に違いがあり、単に世帯全体としての消費額を比較するのでは、世帯内の個人の厚生の比較としては不適切である。どのような所与の人数と構成の世帯に対しても、等価尺度は、その世帯と同等であるとみなされる(通常は)成人男性の人数を定める。

 

中心をなす問いは、どのような意味で 「同等」 なのか、である。理想としては、世帯の総消費(もしくは総所得)を用いる尺度で標準化したとき、個人間で比較可能な金銭表示厚生指標が得られる、と確信したい。言い換えれば、同じ等価尺度をもつ2人の厚生水準が等しいことを保証するような尺度を求めたい。実際にはこの理想を達成できるかどうかは別のことである。ここでも、観察された行動から厚生を推測することの難しさと同じ問題に直面する。実際には、観察された行動のみに拠らず、理に適うと思われる価値判断をしなければならないであろう。

 

どのように測定を行うかによって、貧困の判定などの結果が左右されうる。貧困と世帯人数の関係を検討しよう。厚生指標の 「世帯人数弾力性」 を、世帯人数が何%か増加したときに厚生指標が何%減少するか、と定義できる。一般に、この弾力性にはある臨界値があり、それ以上では大家族のほうが貧しいとみなされ、それ以下だと小家族のほうが貧しいとみなされる。

 

したがって、(子どもの多い)大家族を優遇する貧困政策の実行を考えるとするならば、実際に測定される弾力性の値がどれくらいかが重要な関心事となる。もし、世帯消費を人数で割るならば (弾力性はー1)、ほとんど常に大家族のほうが貧しいという傾向がわることがわかる。もし (逆の極端の設定として)、世帯人数で割らないで、世帯の総消費を厚生指標として用いるならば、ほとんど確実に逆の結果となる。そして、両極端の間のどこかで、貧困と世帯人数は無相関であろう。

 

実際に等価尺度を決める際には、調査から観察される消費行動に基づくのが普通である。つまり、クロスセクションデータを用いて、ある調査期間における世帯の各種財の消費が(価格や総消費に加えて)世帯の人数や構成によってどのように異なるかを見る。

 

例えば、通常の方法では、各世帯における食料消費の予算シェアが、1人当たり総消費の対数と、世帯構成の分類ごとの人数とに回帰される需要モデルが用いられる。食料シェアは厚生指標の逆数と解釈される。ある厚生水準を、したがって(仮定により)食料シェアを、基準値として定め、回帰式を用いて世帯構成の相違を正確に補償するために必要な消費額を計算することができる。実際には、そのような方法では、成人女性や子どもに対して成人男性等価1未満の値が割り当てられる傾向がある。

 

この方法にはいくつかの問題がある。推定されたエンゲル曲線に基づく上で論じた例では、同じ食料シェアを持つ異なる世帯は等しい厚生水準にあると仮定する。これは厚生主義の立場からは正当化し難い (その仮定を受け入れるのであれば、厚生と貧困の測定のためにわざわざ等価尺度を推計する必要はない。食料シェアそのもので十分な情報である)。

 

また、すでに記したように、観察される食料消費行動の厚生上の解釈は、同じ行動を生み出す複数の効用関数が存在することによって不明確なものとなり、厚生に関係するパラメーターを行動に基づき特定することができない。また、その他の問題として、子どもにかかる費用は親が負担するが、現在の消費は減らさずに貯蓄を削って賄うことがあり、消費への影響は調査時よりも後に起こるかもしれない (子どもたちが成長した後かもしれない)。このように、消費と世帯構成についての1時点のみでの観察に基づくと、等価尺度を作成する際に誤りを犯しかねないのである。

 

消費行動に基づき作成される等価尺度の厚生上の解釈は、世帯内で消費の配分がどのようになされているかについての見方にも依存する。等価尺度が依拠する実証研究の結果の解釈は、(1つの極端な場合として)成人男性による独裁の下で決定がなされているか、あるいは世帯全員の厚生を最大化するようになされているか、でまったく異なるかもしれない。

 

世帯内交渉モデルとして、世帯内の配分において世帯成員の世帯外での選択肢は反映されるもの、を考えよう。消費行動から引き出される等価尺度は、世帯内での分配の2つの側面を反映している、と考える。年齢、性別による実際の 「ニーズ」 の違い(世帯消費における規模の経済とも関連しているかもしれない)と、外部の選択肢と 「バーゲニングパワー」 での不平等、の2つである。分析や政策立案のために世帯の厚生を比較する際に、第一の側面を取り入れるのは正しいが、第二の側面についてはそうは言えない。不平等な厚生の状態をそのままにし、さらに強固なものとしてしまう、からである。

 

先に見た測定の問題は、政策にも影響しうる。表3・1の仮想データを用いて、簡単な例で示すことができる。

貧困の経済学 上 p224表3.1

 

2つの世帯に計5人がいる。世帯Aには成人男女1人ずつと2人の子どもがおり、世帯Bは1人の成人男性からなる。3人の最も貧しい人が世帯Aにいる。例を明確なものにするため、上述の貧困状況のニーズの違いを考慮しても変わらないと仮定する。政府は、最貧層と判定する世帯に移転を行うが、政府が知るのは世帯全体としての消費額と世帯構成のみであり、世帯内での分配については観察できない。

 

2つの世帯A、Bのどちらが先に援助を受けるべきだろうか。少なくとも、女性と子どもに何らかの恩恵がある限り、答えは明らかに世帯 「A」 である。しかし、これを知るためには、各人の消費を知る必要がある。

 

(既知の)1人当たりの世帯消費を基準にしても、答えはAである。すべての人に同じウェイトを与えるこの等価尺度を用いるとき、少なくとも何らかの利益が3人の最も貧しい人たちに届く。しかし、代わりに、成人女性に0.5、それぞれの子どもに0.25を割り当てる等価尺度を考えよう。この場合には、世帯Aは成人男性2人と等価であり、成人男性換算消費は世帯Bよりも多くなる。援助は、最初にBが受け、最貧の60%の人たちにはまったく届かないであろう。

 

もちろん、これは1つの例にすぎず、(しかも)世帯A内での不平等はかなり極端である。しかしながら、この例は2つの重要な点を示すのに適している。第一に、観察される消費行動は重要なデータであるが、観察されないものについての仮定が必要である、ことである。第二に、世帯間の厚生比較の実証研究における一見無害な仮定が、政策選択にかなりの影響を与える、ことである。

 

等価尺度を定めることは、かねてより厚生測定を実施する上での最も難しい課題の1つである。どのような選択がなされるかで政策上の判断に影響が出ることがある。特に、人口中の特定の集団を優遇するような社会政策についてはそうである。世帯人数について考えよう。貧困層の家族構成上の特徴は、人口政策に、そして家族手当などの給付の適格基準の設定に、とりわけ関係が深い。しかし、人数が多い若い世帯を他の世帯よりも貧しいとみなすかどうかは、厚生の測定の際に置かれる検証できない仮定に大きく依存する。

 

先進国では、貧しい家族でさえ、消費において規模の経済が働く財を消費する。1人の2倍未満の支出で2人が生活できる。貧しい国では、このような財が貧困世帯の支出に占める割合は非常に少ない。彼らの消費バンドルは、食料や衣類といった規模の経済が少ない財で占められている。この理由から、途上国を対象とした貧困研究では、世帯の消費もしくは所得を人数で割る傾向がある。これは大まかな近似としては容認しうるものであるが、貧困世帯での消費における規模の経済を過少に見ていることは確かである。考慮すべき事柄はこれだけではない。厚生の測定は、指標が用いられる目的によっても影響を受けることがある。例えば、観察はできないが、世帯人数が多いほど世帯内不平等が大きいであろうことを認識して、政策立案者は、消費における規模の経済に注意する以上に世帯人数を重視するかもしれない。

 

指標の選択に難しさがつきまとうことを考えると、選択次第でどの程度の影響が出るのかを知る必要がある。置かれる仮定に対する指標の感応度(sensitivity)を検証するべきであるが、厚生指標のパラメーターの変化に対する貧困指標の感応度を検証するのは簡単かことではない。

 

この問題を理解するために、その他の条件を一定として、尺度パラメーターを変化させるときに、貧困指標がどのように変化するか見よう。最近の1つの研究では、消費における規模の経済と大人と子どもの支出ニーズの違いを組み入れて、途上国全体を一括して貧困率の推計がなされた。その研究では、上記の設定の下で推計された指標が、 「1人当たり」 尺度に基づく指標と比較された。相当の違いが見出された。途上国全体としての2000年の貧困率は、用いられる尺度が変わることで、31%から3―13%へと低下した。

 

根本の問題は、尺度パラメーターが異なるときに厚生水準を相互に整合するように比較するための、概念上の基礎が欠如していることである。感応度の検証を理解するためには、まず、意味ある比較を可能とするには固定点あるいは 「基軸」 が必要であることが、認識されねばならない。それは、尺度パラメーターの選択に影響を受けない特定の種類の世帯である。

 

感応度の検証で得られる結果は、たまたまどのような基軸が選ばれているかに大きく左右される。尺度パラメーターを次々と変えて等価1人当たりの実質所得の分布を再計算した上で、同一の 「1人当たり」 貧困線を適用するのは、単身成人世帯が基軸とみなされている場合にのみ意味を持つ。

 

しかし、これは恣意による選択にすぎず、成員構成から見る世帯の種類の分布においてかなり極端な例である。どのような成員構成を基軸に採るかによって、尺度パラメーターの違いに対する感応度は大きく異なりうる。基軸の設定についての正当な概念上の基盤を欠いているので、厚生関数のパラメーターが変化した際の貧困指標の感応度については、どのような答えでも得ることができる。したがって、意味ある推測ができるかどうかは明らかではない。

 

正当化できそうな基軸の設定の根拠を見いだそうとするとき、なしうることの1つは、貧困の測定を導いたのと同一の論理を適用することである。それは、(価格指数や非食料品のウェイト付けにおいて)貧しい人々の状況とかなり符合するパラメーターを用いることである。

 

その趣旨は、貧しい人々の厚生を評価する際に妥当しそうもないようなパラメーターを用いてはならない、ということである。それは価値判断であるが、受け入れられそうに思われ、実際において広く受け入れられている。この論理からすると、単身成人を基軸とすることはとても適切とは言えそうにない。

 

 

■   境遇に基づき予測される厚生

研究者によっては、調査から(必要であれば生計費の調整後に)得られる世帯の厚生指標の代わりに、その指標を(通常では同じ調査で観察される)いくつかの変数に回帰して得られる予測値を用いる、ことがある。

 

それらの変数の信頼できる計測値に基づく予測値についての1つのありうる解釈は、調査に基づく厚生指標に含まれる測定誤差を除去する、というものである。しかし、次の懸念がある。予測値は、厚生指標が反映する重要でありうる観察されない厚生の決定要因を除去してしまう。それらの要因とは、世帯による厚生水準の違いをもたらすものであるが、調査には含まれず、先述の変数によって捉えられることもないものである。

 

近年よく見られるこのアプローチの応用として、個人もしくは世帯にとっての 「境遇」 を表すように変数を意識して選ぶことがなされる。これは、ジョン・ローマ―により提案された 「機会の不平等」 を測定するアプローチに倣うものである (Roemer 1998)。

 

より一般に、この解釈では、予測値は、除外された変数よりも厚生との関連が強いとみなされる要因を反映する。機会の不平等を計測するときに目的とされるのは、測定された厚生の分散のどれだけが境遇によるものであるかを特定することである。そうすることによって、残りの分散は努力によるものであるとされ、理論上の問題とはされない。

 

このアプローチについての概念レベルでの懸念については3・1節に記した。次の問題は、不平等のどれくらいが境遇によるものであるのかの判断に十分な自信を持てるのか、ということである。すぐに浮かぶのは、境遇に関して観察事項のリストの実際に用いられるものは、明らかに限られており調査に含まれる変数次第である、という懸念である。

 

同じ国での2つの異なる調査を比較するとき、調査により境遇の違いを表すのに適した変数がどれだけ含むかが異なるために、1つの調査では相違の30%が境遇によるとされる一方で、他の調査では60%とされる、といったことが起こりうる。そして、それぞれに即して、観察される不平等の70%(もしくは40%)は努力の違いによるものであり理論上の問題とはされない、といった解釈が下される。さらに、境遇要因のうち観察されるものは観察されないものと相関がある公算が高く、回帰係数の解釈にも疑問が生ずる。

 

その他に、さらに深刻かもしれない懸念がある。境遇から結果に至る過程に努力が介在しているかもしれないので、観察される境遇要因は表に出ない努力と相関しているかもしれない。これは厚生の解釈を不明瞭にする。

 

ここでの問題は、結果を決定する上で、隠れた努力の要因が境遇と相互作用することから生ずる。これらの予測値が、所得や就学などのうちで努力ではなく境遇のみに帰せられる部分を本当に測定すると信じるためには、努力が無視できる、すなわち境遇と相関しない、と仮定しなければならない。この仮定は、努力が境遇に依存することを許すことによって、いくらか緩められる。しかし、観察される境遇によって決定はされないが、それと相関はする何らかの努力の要素が存在する限り、懸念は残る。努力と境遇の相互作用があるとすれば、懸念はさらに高まる。

 

ここでの問題の核心には、境遇による影響と努力による影響とを明確に分離することの困難がある。貧困を貧者当人の責任だとする人々は、貧困を引き起こす原因と考える行動をあっさりと特定する。 「怠惰」 はその典型例である。機会アプローチによれば、怠惰な人々は貧しいからといって政策による支援を与えられるべきではない、とされる。

 

しかしながら、状態が境遇のみにより決定されることはめったになく、努力により最初の不利な境遇を克服しうることがある。貧者は往々にして怠惰であると考える人々は、実証上で特定される境遇要因は観察されない行動を(単独であるいは境遇要因との相互作用の中で)捉えているにすぎない、ということはないと確信しているにちがいない。

 

しかし、怠惰がある程度は親から子どもへと受け継がれると考えるのであれば、そのような確信を持つのは難しい。子どもの教育と親の教育の間には明らかに正の相関がみられる。子どもが親よりも熱心に勉強する意志をもつことは、ありうるし、実際にある。しかし、努力しうる能力と親の教育の間の相関があることには変わりがない。機会アプローチにとって、この相関を排除することが、観察される境遇要因に基づく予測値が厚生指標として信頼しうるための鍵である。

 

 

第3章 厚生の測定④ につづく

 

『良い戦略、悪い戦略』 リチャード・P・ルメルト著 村井章子訳(2012年6月22日第1刷)

 

 

 

◇ 第2部 良い戦略に活かされる強みの源泉(第6章から第15章) ◇

 

 

 

第1部で繰り返し述べたように、ごくおおざっぱに言えば、良い戦略とは最も効果の上がるところに持てる力を集中投下するところに尽きる。短期的には、手持ちのリソースを活かして問題に対処するとか、競争相手に対抗するといった戦略がとられることが多いだろう。そして長期的には、計画的なリソース配分や能力開発によって将来の問題や競争に備える戦略が重要となる。

 

第2部では、良い戦略ではどのように強みが生み出され活用されているかを説明する。ここでは最も一般的で、かつ読者に新たな視点を提供できるものを選んだ。そして第15章では、これらの手法を一体的に活用した例として、3DグラフィックスのNVIDIAに注目する。

 

 

 

第6章 テコ入れ効果

 

 

良い戦略は、知力やエネルギーや行動の集中によって威力を発揮する。ここぞという瞬間にここぞという対象に向かう集中が、幾何級数的に大きな効果をもたらすのである。これをテコ入れ効果(レバレッジ)と呼ぶ。最も効き目のあるところに力を集中することが、戦略的テコ入れの要諦である。

 

 

■ 的確な予測でテコ入れ効果を引き出す

テコ入れ効果を得るには、的確な予測を行うことが重要になってくる。みごとな予測として、トヨタを挙げておこう。アメリカでガソリン喰いのSUVが大流行していた頃、トヨタは10億ドル以上をハイブリッド車の開発に投じていた。この戦略を支えていたのは、2つの予測である。1つは、エネルギー事情が逼迫する中で、将来的には燃費の良い車の需要が増大してハイブリッド車は主流的な製品カテゴリーになるというもの。

 

もう1つは、トヨタが先行してハイブリッド技術をライセンス提供できるようになれば、他社はそれに応じ、自前でより高度なシステムを開発する方向に進まないだろう、というものである。これまでのところ、どちらの予測も適切であったことが実証されている。

 

戦略的予測では、すでに起きた出来事を起点にして、世の中の趨勢、経済や社会の動向、他の関係者の動きなどを手掛かりに、「下流」で起こりうる出来事を予測するのが定石である。

 

 

■ テコの支点を選ぶ

テコ入れ効果を実現するためには、エネルギーやリソースの効果を数倍に高められるような「支点」を見つけなければならない。適切な支点を選んでテコをあてがえば、力は何倍にもなる。それは、自然に形成されたか人為的に作られたかを問わず、何らかの不均衡であることが多い。ほんの小さな力をそこに加えるだけで、抑えられていた不満や蓄積されていた力を解放する。たとえばニーズは高まっているのに、それに応える製品やサービスが提供されていないとすれば、それは1つの不均衡である。また、開発された能力が十分に発揮されていないとか、他にも応用が期待されるケースなども、不均衡と言える。

 

 

■ 集中によってテコ入れ効果を得る

限られているものを集中投下したときの見返りは大きい。これは、1つには、制約があるからだ。リソースが無制限にあったら、どの目標にするか、誰も真剣に悩まないだろう。リソースに限りがあるからこそ、投入する対象を厳しく吟味せざるを得ない。

 

集中が大きな見返りをもたらすもう1つの理由は、「閾値効果」が表れるからである。このようなケースでは、ターゲットを選び、手持ちのエネルギーやリソースを集中投下することが望ましい。たとえば、広告には閾値効果があると考えられる。すなわち、ほんの少しだけ広告を出してもほとんど効果はなく、閾値を超えて初めて反応が現れるのがふつうである。このことから、まんべんなく長期にわたって広告を出すよりも、短期間に集中豪雨的に出すほうが効果があると考えられる。

 

同様の理由から、企業のストラテジストは、大きな市場でシェアを獲得するより小さな市場を独占するほうを好む。また政治家は、国民全体に広く薄く便益をもたらすより、特定の集団に明らかな利益を提供するほうを好む。

 

組織で集中が生まれる要因としては、閾値効果のほかに、経営幹部の注意や認識能力に限りがあることが挙げられる。人間が一度に5つのことをやろうとしてもうまくいかないのと同じように、組織も重要な課題に同時にいくつも取り組むのは無理がある。

 

心理学の観点から言うと、集中ができるのは、閾値以下のシグナルに気づかないか、無視するからである(これを心理学用語で「サリエンス[顕現性]効果」という)。あるいは、勢いづいていて成功が成功を呼ぶような好循環に入っているときも、集中が起きる。

 

このような集中によって大きな成果をあげ、人々の注意を集め、世論をも変えた例は少なくない。たとえば、2つの学校をみごとに生まれ変わらせることができたら、200の学校が2%ずつ改善されるより、世間は強い印象を受けるだろう。こうして人々の見方を変えることができれば、その行動を支持する動きが生まれ、自ら力を貸したり後押ししたりする人が現れて、一段と効果が高まる。

 

 

『良き社会のための経済学』 ジャン・ティロール著 村井章子訳 (2018年8月24日第1刷)

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 経済学者の仕事 ◇

 

 

 

第5章 変貌を遂げる経済学③  (第5章は①~③まで)

 

変貌を遂げる経済学①

変貌を遂げる経済学② のつづき

 

 

3 法的人間

 

 

経済学者にとって法律とは、何よりもまずインセンティブの集合である。罰金をとられるかもしれないとか、刑務所送りになるかもしれない、といったことを見越して制限速度を守ったり、盗みその他の犯罪行為を思いとどまったりするのだという。

 

心理学者や社会学者は、こうした解釈に懐疑的だ。彼らは社会的な行動を促すには説得や社会的懲罰を活用するほうが良いと考える。困っている外国人に道を教えるのはよいとして、困っている人を助ける義務はどこで終わるのだろうか。それを決めるのは社会だ、というのが社会学者たちの考えである。社会は、社会規範という形で、人々に期待される行動を定義すると同時に、その行動が自発的になされるようなインセンティブを設定しているという。

 

一方、法学者もインセンティブの重要性を認めている。法律や規則は社会的価値観の表現であるとし、その意味で法律には人々に期待される行動を促すインセンティブ効果があるとする。法学者のみるところ、公共政策において、金銭的賞罰だけに頼って経済主体に社会的行動をとらせることはできない。

 

アリゾナ州立大学の社会学者ロバート・チャルディーニは、2種類の社会規範の存在をあきらかにした。1つは記述的規範で、リサイクルをどの程度しているか、慈善団体にいくら寄付しているか、といったことを記述する。もう1つは慣行的規範で、仲間や集団の言動によって定められる。私たちが行う選択の多くは、仲間や世間がどう思うかとか、彼らはどう行動しているか、といったことに左右される。

 

プリンストン大学では、学内での学生の過剰飲酒対策としてある実験を行い、学生の大半は飲みたいから飲んでいるのではなく、他の学生たちが飲酒を 「クール」 だとみなしていると(まちがって)思い込んでいるからだということを示した。社会規範へのこの種の介入は、ターゲットとする経済主体に対し、他の主体をこうしている、こう思っている、といった情報を提供することにほかならない。

 

ただしチャルディーニは、介入の際に発するメッセージには十分に慎重でなければならないとする。経済理論からも、そう言える。たとえば、 「〇〇市民のリサイクル率はx%に達しています」 などがそうだ。このx%が大方の予想より高い数字だったら、非常に効果的だろう (もちろん、嘘ではいけない)。市民に善行を促すには実証主義者になる必要がある。

 

法律もまた社会の価値観の表現にほかならず、個人の行動のコスト、倫理観、社会的価値などについてメッセージを発しており、相当数の公共政策がそれを考慮している。たとえば犯罪に対する刑罰を考えてみよう。古典派経済学の立場に立った費用便益分析では、懲役より罰金や奉仕などを推奨するかもしれない。刑務所に送るより社会にとって有益だし、費用もかからないという理由からである。一方、そうした考え方をあまりに経済偏重だと批判する人もいるにちがいない。それでは、許しがたい行為でさえカネで片のつくありきたりの悪行になってしまうと考えるからだ。大多数の市民は、たとえ受刑者が全面的に同意した場合でも、懲役刑に代えて鞭打ちの刑を行うことは容認できないと考えているのである。そのほうが社会的には安上がりだとしても、である。

 

以上のように、良き社会のためのインセンティブの活用が市民に歓迎されるとは言いがたく、むしろ多くの行動にとってマイナスであり、非生産的であることがわかる。社会は善意に満ちたものだという幻想を守ろうとする気持ちが人々にあるとするなら、経済学者のメッセージが幅広く反感を招く理由も説明がつく。経済学者は、社会の成員の徳についてとかく不愉快な実証データを持ち出す輩とみなされているのである。

 

 

 

5 意外な視点から

 

 

本章を締めくくるにあたり、大方の人が経済学に期待していない2つの領域に敢えて言及したい。というのもこの2つの領域は、経済学の中で存在感を強めているからだ。1つは進化経済学、もう1つは宗教経済学である (あいにくどちらの分野も私自身は不勉強なので、簡単な説明にとどめたい)。

 

 

■   進化論的人間

ここ20年ほどの経済学研究で注目に値する現象の1つは、経済学に基づく人間観と、チャールズ・ダーウィンの自然選択説との融合を図ろうとする試みである。経済学と進化生物学の 「他家受粉」 の例は、数多く見受けられる。たとえば本章で取り上げた社会的選好は経済学にとって重要なテーマだが、これは進化生物学の分野でも研究されている。

 

また、生物学者はゲーム理論にも貢献している。たとえば、 「消耗戦」 の最初のモデル(戦争やストライキなどで、どちらの側も苦しいが、相手が先に降参するだろうとの希望的観測から持ちこたえる状況を記述する)を開発したのは、生物学者のメイナード・スミスで、1974年のことだった。このパラダイムは、のちに経済学者によって精緻化されている。

 

生物学者と経済学者がともに取り組んでいる研究の3つ目の例として、シグナリング理論が挙げられる。シグナリング理論をごく一般的に説明すると、リソースの無駄遣いをすることによって相手の承認を得られたり、同調的な行動を促すことができるなら、それは有益だというものである。

 

このことは、個人にも国家にも、また動物や植物にも当てはまる。たとえば動物は、メスの注意を引いたり捕食者を避けたりするために、ひどくコストがかかるうえにあまり機能的でないシグナル(孔雀の羽など)を発する。人間も、競争相手や見てほしい相手に印象づけようとして、必要もないリスクを冒したりする。また企業も、自社はコスト効率が良いとか財力はたっぷりあるといったことを競合先に見せつけるために、赤字で売ってライバルを市場から追い払おうとする。

 

シグナリング理論に関する経済学者マイケル・スペンスの著名な論文が発表されてすぐ、生物学者のアモツ・ザハヴィが同じテーマで論文を発表した。シグナリングというアイデア自体の起源は、ダーウィンが1871年に書いた 『人間の進化と性淘汰』(邦訳、文一総合出版)にある。当時は経済学や社会学はまったく進化論に関心を持っていなかったが、いまでは経済学と自然科学を遮る壁はない――経済学と人文科学や社会科学の間に壁がないように。

 

 

■   宗教的人間

「宗教の経済学」 は、経済学として再認識されるようになったのはこの20年か30年ほどのことだが、非常に古くから存在する研究分野である。なにしろあのアダム・スミスが、聖職者の生計を分析し、聖職者が国家や教会上層部から生計費を支給されるケースよりも信者の寄付に頼っているケースのほうが、信者に熱心に奉仕するし、ひいては宗教自体への貢献も大きくなると結論づけている。これはすでに、当時の道徳観の考察になっている。

 

そしてマックス・ウェーバーの1904年の著作 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(邦訳、日経BP社)によって、宗教の社会経済的影響というテーマが経済学に定着した。プロテスタンティズムは資本主義の飛躍的発展に重要な影響をおよぼしたとするウェーバーの学説は、広く人文科学、社会科学の分野で議論を巻き起こした。今日ではウェーバーの主張について、計量経済学を使って事実の詳細なデータに分け入り (もちろんウェーバー自身もデータに強い関心を持っていた。たとえば、プロテスタントとカトリック信者が入り混じっている地区では、プロテスタントのほうが収入が多い、裕福な家庭や裕福な地域社会のほうがすみやかに改革派を受け入れた、といったデータに注目している)、因果関係を突き止めることができる。

 

実際にも、宗教に関するさまざまな社会経済的分析が行われている。たとえばマリステラ・ボッティチーニ(ボッコーニ大学)とスヴィ・エクスタイン(テルアビブ大学)は、ユダヤ人の経済的成功に関する従来の説明を検証した。

 

ユダヤ人は多くの職業に就くことを禁じられた結果、やむなく金融業、職人、商業に従事し、それによってユダヤ人社会は教育水準の高い都市社会に変貌を遂げた、というのが通説である。だがボッティチーニらによると、ユダヤ人社会が変化したのは職業規制を受ける前だった。ユダヤ教はトーラー(律法)を熟読することを要求し、またユダヤ教学校で読み書き算数を教え込んだ。こうしてユダヤ人社会の人的資本の価値を高め、金融や法律を扱えるような人材を育てた。それが後年になって、たとえば小麦栽培の知識よりも有効であることが判明した、というのである。

 

宗教同士の競争も、経済学の研究対象になっている。ここでも研究者は、守備範囲外の宗教思想には立ち入らず、経済的な側面に注目する。宗教が信者を呼び込むために何らかの便益を提供していることは周知の事実だ。ときには 「神の国」 の役割さえも果たす。

 

保証を与え (保守的な宗教集団同士が結びつく理由の1つはここにある)、教育を行い、公的な場を用意する。たとえば、イスラム教の多くの宗派がそうだ。場合によっては宗教集団が 「二面市場」 の代わりを務め、配偶者選びを手助けするといったケースもある。さらに、宗教と科学の関係を研究テーマにする経済学者もいる。

 

私たちは、社会科学が徐々に再統合される現場に立ち会っている。再統合の歩みはのろいかもしれないが、必然だと言える。なぜなら、文化人類学、法学、経済学、歴史学、哲学、心理学、社会学は、みな同じ人間、同じ集団、同じ社会を扱っているからだ。19世紀の終わりまで、これらの学問は1つにまとまっていた。それを復活させるべきであり、多くの学問分野が他分野の知識や技術に対して開かれた姿勢で臨む必要がある。

 

 

第Ⅲ部 経済の制度的枠組み 

第6章 国家 につづく

 

 

『良き社会のための経済学』 ジャン・ティロール著 村井章子訳 (2018年8月24日第1刷)

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 経済学者の仕事 ◇

 

 

 

第5章 変貌を遂げる経済学② (第5章は①~③まで)

 

 

変貌を遂げる経済学① の続き

 

 

2  社会的人間

 

 

■   信頼

経済的・社会的生活を支えているのは信頼である。たとえば貨幣の発明によって、交換のメカニズムは単純化された。ある品物の品質を確かめられる限りにおいて、私たちはお金を払って見知らぬ人からその品物を買う。買う前に品質を確かめられないときは、評判に頼ることが多い。一度買って満足した店から買ったり、友人知人が満足したという店で買い物をしたりする。店のほうもこのメカニズムを承知していて、固定客を維持できるよう、できる限り努力をする。

 

こうした行動を分析していて興味深いのは、赤の他人に対する信頼である。経済学ではこの概念をごく簡潔に形式化し、他人の信頼性や選好に関する不完全な情報として扱う。経済主体は、時間の経過とともに、かかわり合った相手に対する信頼を修正する。知らない相手と取引せざるを得ないときは、何とかして相手を知ろうとし、どの程度信頼できる人間か見定め、それに応じて行動する。

 

この評判メカニズムが機能せず、ひたすら信頼するほかないという関係性も存在する。たとえばあまりよく知らないベビーシッターに子どもを預けるときや、知り合ったばかりの相手との取引もこれに該当しよう。相手の態度から評価がすぐに定まる場合もあるにはあるが、この評価はひどく不完全である。

 

とはいえ相手をどう評価すべきか学習できるのは、その相手との関係が反復される場合に限られる。近年では信頼関係にはホルモンも影響することがわかってきた。チューリヒ大学のエルストン・フェールとフランクフルト大学のミヒャエル・コスフェルトらは、ボランティアの被験者を使った実験で、オキシトシンという脳下垂体後葉から分泌されるホルモンが信頼感におよぼす影響を解明した。これは 「信頼ゲーム」 と呼ばれ、プレーヤー1と2に次のような役割が与えられる。

 

まず、プレーヤー1は実験者から元手10ユーロをもらい、プレーヤー2に好きな額を投資し、残りは手元にとっておく。するとプレーヤー2は、1から受け取った額の3倍を実験者からもらうことができる。最後にプレーヤー2は、プレーヤー1への分け前を決める。これは、2が好きに決めてよい。必ず分けなければならない、ということはない。このゲームでは、最初にプレーヤー1がプレーヤー2をどこまで信頼するかが重要な意味を持ってくる。

 

このゲームは最初から最後まで匿名で行われる。どちらのプレーヤーも、すべての決定をコンピュータの画面上で行い、ペアを組んだ相手を(その後もずっと)互いに知ることはない。

 

2人のプレーヤーにとって最善手は、プレーヤー1が元手を全額プレーヤー2に投資することである。そうすれば、プレーヤー2がもらう額は最も大きくなる (30ユーロ)。ゲームの構造上、事前の合意は成り立たないようになっているので、その30ユーロをどうするかは、プレーヤー2の完全な自由裁量に委ねられる。プレーヤー1が全額をプレーヤー2に投資するには、相手が見返りをくれることへの全幅の信頼が必要になる。

 

プレーヤー2の 「合理的な」 な行動(すなわち自己の利益を最大化する選択)は、自分がもらった額を独り占めすることだ。プレーヤー1にとっての 「合理的な」 行動は、プレーヤー2が自分に見返りをよこさないことを見越して、一銭も投資しないことである。そうすれば、最低限の利益(10ユーロ)を確保できる。だが実際には、ゲームはちがう様相を示す。かなりの数のプレーヤー2は、プレーヤー1が自分を信頼してくれたことに何らかのお返しをしなければならないという気持ちになるのである。そして合理的にそれを見越したプレーヤー1は、プレーヤー2が持ちつ持たれつの行動をとるだろうと期待して、それなりの金額を投資する。

 

フェールらは、このゲームで被験者の半分にオキシトシンを、残り半分にプラセボ(偽薬)を噴霧した。すると、オキシトシンを嗅いだプレーヤー1の投資額が平均してかなり増えたのである。

 

「信頼ゲーム」は互恵行動のメカニズムを実験室で再現したと言えよう。互恵行動すなわち持ちつ持たれつの行動は、社会的行動の中でもきわめて強いものである。私たちはコストをかけてまで、親切にしてもらった相手にはお返しをし、意地悪をされたら仕返しをする。このことは、マーケティングに活用されている。たとえば、無料のサンプルやノベルティがそうだ。これはきっと、 「与える者は与えられる」 ことを期待しているのだろう。

 

互恵行動のメカニズムを経済学に応用すると、賃金と雇用関係について、次のような仮説が浮かぶ。社員を募集するときに相場以上の給料を提示すれば、新規採用者は意気に感じてがんばるので、雇用主が得る利益は増えるのではないか。

 

だがインドの農場で行われた実験によると、この効果は一時的かもしれない。ある農場では、綿花採取労働者の基本給を30%引き上げる一方で、収穫量に応じた歩合給は引き下げた。全体としては、収穫量の多寡にかかわらず賃金は増えることになる (が、とくに増えるのは、収穫量が最も少ない労働者である)。古典的な経済モデルからすると、労働者はやる気をなくして収穫量は大幅に減るはずである。

 

だが実際には収穫量は、コントロール・グループに比べて大幅に増えた。ところが4か月後には、ホモ・エコノミクスが復活したのである。歩合給を減らすことで予想された収穫量の減少は、4か月経ってからほぼ確認できた。

 

 

■   ステレオタイプ

社会学者は個人を文脈から切り離して捉えてはならない、すなわちその人を取り巻く社会環境を無視してはならないと主張するが、これはまことに正しい。

 

個人はなんらかの社会集団に属しており、その集団はさまざまな形で個人の行動に仕方に影響をおよぼす。集団は個人のアイデンティティを規定し、各自が自他に誇示したいイメージを決定づける。また集団は、手本や価値観を提供する。信頼し同じ仲間とみなす人を見て、同じように行動するのだから、影響をうけずにはおれない。ここでは、集団がおよぼすもう1つの影響として、集団に対する評価・評判が集団の外におよぼす影響について簡単に説明したい。

 

ある意味で集団の評判というものは、その集団を構成する個人の行動が積み上がった結果にほかならない。私のステレオタイプと集団の評判に関する論文で、個人の行動は不完全にしか観察できないと仮定した。もし完全に観察できるなら、どの個人も各自の行動だけに基づいて十全に評価できるはずだから、集団の評判は何の役割も果たさない。

 

逆に、個人の行動がまったく観察できないなら、個人は責任ある行動をとろうとはしないだろう。社会にとっては、集団としての評判が定着しているからだ。不当な上乗せ料金を要求するタクシーは、同業者にとってとんでもなく迷惑だ。集団の評判を守ることは全面的に個人のコスト負担で行うことを意味する一方で、評判はその業界で共有されるため、便益は広く分散されることになる。となれば、フリーライダーが出現しやすい。

 

論文では、方法論的個人主義(タクシーの運転手による自己利益の追求は、集団の利益と一致しない)と全体論(全体は単に部分の総和ではなく、それ以上の何かがあり、全体を部分や要素には還元できないとする立場)との融和を試みた。

 

分析の結果、個人の行動と集団の行動はある意味で補い合っていることがわかった。自分の属す集団の評判が悪い場合、個人には良い行動をとろうというインセンティブが働かない。どうせ評判が悪いのだから、それなりにふるまおうということになる。集団の外からは信頼されなくなり、集団の外とやりとりする可能性自体も減るので、集団の外で良い評判を得ようとするインセンティブも弱まる。そして個人にとって合理的なこうした行動が、集団に対する悪評の原因をますます強固にし、よからぬステレオタイプの形成を助長することになる。

 

こうした次第で、最初は同じだった2つの集団が、まったくちがうステレオタイプとして認識されるにいたることもある。ついには、集団に対する評判がヒステリシス現象(長い間加えられた力によって変化が生じ、力が加わらなくなっても元に戻らなくなる現象。履歴効果とも呼ぶ)を起こす可能性もある。非常に長い間先入観をもって見られてきた国や職業や企業は、とりわけそうなりやすい。だから、集団として悪い評判を立てられることは、何としてでも避けるべきである。さもないと評判が自己実現し、永久に正せないということになりかねない。

 

 

 

3  インセンティブに釣られる人間

 

 

経済学者が言いたいのは、インセンティブはある状況ではうまく作用し、組織や社会の目的に適うような行動を促す効果があるが、状況によってはさしたる効果がないこともあるし、ときには逆効果にもなる、ということである。

 

ある経済主体が複数のタスクをこなさなければならないとしよう。たとえば、学校の先生が、次の授業へ進むための知識あるいは次の試験でいい点を取るための知識を生徒に教えなければならない一方で、思索や自立といったより長期的な視野に立った教育も行わなければならないとする。

 

もしこの先生の報酬が、試験の合格率といった短期的な実績に基づいて決まるとしたら、まちがいなくせっせと 「詰め込み教育」 を行い、長期的な全人格教育はなおざりにするだろう。後者は測定がむずかしく、したがって報酬の基準になりにくい。だからといって、学校の先生に対していっさいインセンティブを設けるな、と言いたいのではない。

 

状況によってはインセンティブは有効であることがわかっている。開発経済学者のエスター・デュフロらがインドで実験しを行ったところ、学校の先生は金銭的インセンティブと教育現場の監督に反応し、生徒の不登校が減って学業成績は上がったという。だが、よく練れていないインセンティブをテストもせずに設定して教育プロセスを歪めることがないよう、十分に注意しなければならない。

 

マルチタスク問題 (本来、複数の任務を負っている労働者 [代理人] に対して、報酬を目に見える貢献についてだけ連動させることにより、努力分配の歪みを引き起こすこと) は多くの分野で見受けられる。

 

そうした中から、いくつかの例を挙げよう。金融部門の一部のプレーヤーは、短期的な実績に基づくインセンティブを与えられた結果、長期的に社会に害をおよぼす行為に走った。その結果が、2008年の世界金融危機である (第12章参照)。ある企業は、コスト削減を奨励し、その成果に報酬を与えた。すると保守点検作業が削られ、事故のリスクが増大した。したがってコスト削減に対してインセンティブが設けられるときには、規制当局が保守点検の監視を強化する必要がある (第17章参照)。またプリンシパルとエージェントの関係が反復される場合には、インセンティブを設けるよりも信頼関係を成立させるほうが好ましい。

 

 

■   内なる動機の排除

また、外からインセンティブで促すことによって、内から湧き出る動機がしぼんでしまう、という批判もある。外生的なインセンティブがむしろ逆効果になり、参加者が減る、努力が放棄される、といった結果を招くケースだ。たとえば一部の国では献血にお金を払っているが、これは効果があるのだろう。あるいは環境保護目標を達成するには、省エネ型ボイラーの購入に補助金を出すべきだろうか。

 

社会的な行動を調べるにあたり、ロラン・ベブナーと私は、人間は多面的であって、自らよいことをしようとする面と、報酬に釣られる面の両方が備わっているとの観察から出発した。このような人間は、3つの動機に突き動かされる。

 

第一は、良き社会に貢献したいという内生的な動機、第二は、善行に対する金銭的報酬(図表5-5中のy)に反応する外生的な動機、逆に言えば悪行に対する懲罰(yに等しい)に反応する外生的な動機である。そして第三は、自分自身の自己像を気にする動機である。

 

良き社会のための経済学 p167図表5-5

 

私たちは、まずは内生的な動機と金銭の効用という2つの要素の統計的分布から始めることにし、人々の行動が与えられたインセンティブによってどのように変わるのかを調べた (図表5ー5を参照されたい。縦軸には各人の供給の合計、横軸には供給者に与えられる報酬yをとった)。

 

このモデルから、献血をした人に報酬を払うべきかどうかを考えてみよう。相手がホモ・エコノミクスなら、報酬を出せば献血は増える。図表5-5のいちばん下の直線のグラフがホモ・エコノミクスの行動を表しており、報酬が増えるほど献血の量も増える。だが自己像を気にする人の場合は、経済学者からすると 「奇妙」 な現象が表れる。

 

自己像を十分に気にする人たちの場合には、報酬が増えるほど供給(ここでは献血量)の合計が減る区間が出現する。博愛心に富む自己像を自他ともに示すという動機があった。しかし報酬が与えられると、お金欲しさにやっているのではないかと思われる恐れが出てくる。このように複数の動機を勘案することで、ミクロ経済学で仮定されている報酬と結果の関係にメスを入れることができる。

 

またこの減退効果とは別に、仲間から見られている状況では金銭的インセンティブの効果は下がると考えられる。動機を疑われかねないからだ。もしそんなことになったら、報酬にいそいそと反応するいやなイメージがまとわりつくことになってしまう。このことは、公共政策を考えるうえで非常に役に立つ。先ほど、省エネ型ボイラーの購入に補助金を出すべきだろうか、という質問をした。これに対する答は、補助金を出すほうがよい、ということになる。というのも、ボイラーは家の中にあって他人に見られることはないため、金銭的インセンティブがよく効くと考えられるからだ。

 

献血の例では、報酬が用意されている場合には、善意からの行為に金銭的動機を疑われることを恐れて献血が減る可能性があることがわかった。その一方で、報酬は、やってもらいたい仕事の困難さや、やってくれる人への信頼についての情報を伝えているという考え方もある。こちらについても心理学者たちが研究を行っており、2つの効果が認められている。1つは、おなじみのインセンティブ効果だ (報酬がいっそうの努力を促す)。もう1つは、いま述べた仕事の難易度や実行者の能力に対する信頼などの情報伝達効果である。

 

たとえば、子どもが良い成績をとったときにお金をあげたら、歪んだ効果が現れる可能性がある。勉強に対する内生的な意欲を失ってしまい、お金をもらえるときしか勉強しなくなる恐れがあるからだ。

 

しかし、これとはちがう理論的説明も可能だ。子どもは、お金をもらえるのは勉強が本質的におもしろくないからだとか、自分の能力や勉学意欲を信用されていないのだ、と解釈するかもしれない。よって報酬は短期的には一定の効果は上げられるかもしれないが、長期的には 「中毒症状」 を引き起こしかねないと結論づけられている。すなわち、報酬を打ち切ったら、もともと報酬をいっさい与えなかった場合に比べ、動機はひどく弱まってしまう。

 

要するに、インセンティブに関するこちらの選択を相手がどう解釈するか、十分注意を払わなければならない。たとえば企業では、部下にあまりあれこれ指図するのは 「おまえを信用していない」 というシグナルを送ることになり、信頼関係を台無しにし、当然ながら社員のモチベーションも低下させる。管理の行き過ぎは、互恵的精神を傷つけることにもなりかねない。

 

 

第5章 変貌を遂げる経済学③ につづく

 

『子どもの貧困対策と教育支援』 末冨 芳 (2017年9月30日第1刷)

 

 

 

◇ 第2部 当事者へのアプローチから考える教育支援 ◇

 

 

 

第10章 静岡市における学校プラットフォーム化 / 末冨 芳 (日本大学) 川口正義(静岡市教育員会スクールソーシャルワーカー&スーパーバイザー)

 

 

 

1  オーソドックスで丁寧な静岡市の子どもの貧困対策

 

 

静岡市のひとつひとつの取組みは、基礎自治体としてオーソドックスである。しかしオーソドックスな子どもの貧困対策に丁寧に取り組んでいる点にこそ、静岡市の強みがある。基礎自治体として、子どもの貧困対策への取組み水準を上げることが可能な仕組みづくりとして、市役所の部局内連携や学校現場とスクールソーシャルワーカーの連携が静岡市には見出せる。

 

2014年の内閣府 「子供の貧困対策に関する大綱」 制定からまだ4年、若い政策領域である子どもの貧困対策を日本のどの自治体でも進めていくためには、先端的な改革と同様にオーソドックスで丁寧な取組みも知られていく必要がある。

 

子どもの貧困対策は長期の取組みとなるが、息切れせずに自治体が取組みを進めるようとする時に、静岡市の子どもの貧困対策とくに学校のプラットフォーム化は、多くの自治体にとって必ず参考になるケースである。

 

 

 

2  静岡市における学校プラットフォーム化

 

 

学校のプラットフォーム化とは。ほとんどすべての子どもがアクセスする公立小中学校を中心に、貧困状態にある子どもや保護者への支援拠点として、学校が機能することである。

 

とくに、教職員がまず子どもの課題の背景に貧困問題があることに気づけるよう専門性を向上させることと、子どもや家庭の課題に気づいた教職員が課題を抱え込まず専門職であるスクールソーシャルワーカーや外部機関との連携により課題を解決していく 「専門職協働型学校プラットフォーム」 (末冨 2016, p.26)が学校現場では展開されつつある。

 

しかし、子どもの貧困問題は教育と福祉にまたがる課題であるため、行政内でどの部局が改革を担当し、また多忙な学校現場とスクールソーシャルワーカーがどう連携していけばよいのか、模索段階にある自治体も多い。

 

静岡市では、学校プラットフォーム化の手法は、①市役所内の部局間連携会議(三局連携会議)の設置と総合教育会議による子どもの貧困対策の推進、②学校の課題発見・共有能力の向上、③スクールソーシャルワーカーの職務の 「見える化」、の3点にその特徴が見出させる。

 

 

① 市役所内の部局間連携(三局連携会議)による子どもの貧困対策の進展

静岡市の子どもの貧困対策に関する部局間連携については、次のような経緯で発展してきた。まず子ども政策を優先課題として認識する市長のリーダーシップのもとで、2013(平成25)年度に保健福祉局(現・保健福祉長寿局)を再編し子ども未来局を創設、2013・2014年度にかけて 「静岡市第三次総合計画」 「静岡市子ども・子育て支援プラン」 「放課後子どもプラン」 の策定プロセスにおいて教育委員会と子ども未来局の連携が進展したことが契機となっている。市長が庁内で 「縦割りではない局間連携」 の大切さを常に強調したことも、連携に進化した背景にある。

 

こうした動きの中で2014年8月29日の子供の貧困対策大綱の成立を受けて、9月17日に子ども未来局が教育委員会、保健福祉局 (生活困窮者自立支援事業関連)、経済局(若者就労支援)の担当者を集め、関係会議を持つなど迅速な対応がとられた。

 

2016年度には総合教育会議(市長と教育委員が出席する市の教育の課題認識や方針決定をするための会議)において、生活支援の活動現場を視察した教育委員から子どもの貧困対策において福祉部門と教育委員会との連携の必要性が提言された。現在はとくに静岡市の子どもの貧困実態調査に関する連携が行われている。

 

教育委員会としては生活保護世帯に関する情報の共有体制などを他部局との検討課題の1つと認識している。総合教育会議が契機となり、子どもの未来局・教育委員会・保健福祉長寿局の三局連携会議が子どもの貧困対策のために発足している。

 

子どもの貧困実態調査が当面の課題であるが、2013年度以降の5年程度のスパンの中で子ども行政全般の連携とともに、子どもの貧困対策に特化した部局間連携へと進展を見せている点に、静岡市の子どもの貧困対策への取組みの真摯さを見出せる。

 

子どもの貧困対策において、自治体担当者から連携体制について筆者は質問を受ける場合もあるが、とくに教育委員会等との部局間連携の進展のなさが課題として認識される場合が多い。静岡市のケースは首長のリーダーシップが部局間連携の契機であったが、子どもの貧困対策のための三局連携会議までの進展の過程は、関係する市役所職員たちが子どもの貧困対策を重要課題として認識し、真剣に取り組む意識がなければ実現できない。

 

部局をまたいだ子どもの貧困対策に関する勉強会や、子どもの貧困対策実態調査等における関係者会議など、具体的課題を通じて市役所内の 「つながり」 を深めることが、基礎自治体における子どもの貧困対策を推進する際の、部局間の壁をなくしていく契機となるものと考えられる。

 

 

② 学校の課題発見・共有能力の向上

学校を登校している限りにおいては、子どもが授業に集中できなかったり問題行動を起こす等の変化については教職員が気がつく。しかしその背景に、貧困問題や家庭の課題があるのかどうかを、とくに若い世代の教員が気づくスキルがまだ蓄積されていなかったり、またスクールソーシャルワーカーという聞きなれない専門職に対する学校の警戒感が課題共有のさまたげになってしまう。

 

こうした課題に対応するため、静岡市では、各スクールソーシャルワーカーによる配置校や要請派遣校での校内研修およびスーパーバイザーによる管理職を対象とした研修等を行ってきたが、2016年度より教員の5年経験者研修と10年経験者研修(どちらも静岡市の該当年代の全教員が受講する研修で若手・中堅世代が対象)のプログラムの中に、スクールソーシャルワーカーが自らの実践を伝える時間を組み込む取組みを始めた。

 

また2017年度よりスクールソーシャルワーカー事業のいっそうの拡充を図るために 「拠点校巡回方式」 へと変更したが、校内研修においても市内の多くの小中学校で開催されるように積極的な取組みが始められている。これらは前述した総合教育会議の中の指摘を受けて、教育委員会が迅速に対応した成果である。

 

スクールソーシャルワーカーが関わる子どもたちがどのような家庭状況にあるか、スクールソーシャルワーカーや学校・関係機関がどのように子どものために連携して支援ができたかというケースを知ることで、教員が貧困状態にある子どもや家庭に困難を抱えた子どもに対しての感度を上げ、課題発見・共有能力を向上させていくことを目的としている。

 

研修の後では多くの若い教員が話を 「聞きたい、聞きたい」 とワーカーに長蛇の列をつくったケースがあるという。また学校事務職員研修では、子どもの貧困対策を学校でも進めるために、教育委員会による就学援助制度だけでなく生活保護制度について担当課の健康福祉長寿局・福祉総務課より制度説明が行われ、学校の窓口で家庭を生活保護につなげていくことも意識している。教職員研修における静岡市の丁寧な取組みは、他自治体でもすぐに実践可能なものといえる。

 

 

③ スクールソーシャルワーカーの職務の 「見える化」

スクールソーシャルワーカーに何ができるのか、教職員や家庭にはわからないことも多い。また行政の職員もスクールソーシャルワーカーや学校の教職員と、子どもや保護者の状況改善に取り組む際に、誰が誰とどのようにつながって、決定権を持つのか見えない場合もある。

 

静岡市では、スクールソーシャルワーカーが前述したように教職員に対し研修をしたり、生活支援や学習支援につなぐ際のスクールソーシャルワーカーの役割を明確化するなどの、職務の 「見える化」 を行っている。

 

2012年度より自主事業として生活支援と学習支援を立ち上げていた川口正義さん(「一般社団法人てのひら」代表理事、静岡市教育委員会スクールソーシャルワーカー&スーパーバイザー)の作成するスクールソーシャルワーカー便りは、保護者・子どもにも教職員にも、スクールソーシャルワーカーにどんな困りごとを相談できるのか、とてもわかりやすい取組みとなっている。

 

学校では 「一人職」 と呼ばれる専門職(学校事務職員、養護教員、栄養教職、学校栄養士やスクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー)が多いが、 「一人職」 だからこそ教員や保護者・子どもとつながるために、 「便り」 「通信」 などで積極的に、職務や役割の 「見える化」 や情報発信を行う人も多い。

 

小さな工夫を丁寧に積み重ねていくことが、子ども・保護者や教職員、スクールソーシャルワーカー関係機関が連携する 「専門職協働型プラットフォーム」 として学校が機能していくための基礎となる。

 

 

 

3  学校からスクールソーシャルワーカーへ――子ども・家庭の課題が支援につながるまで

 

 

静岡市では、学校の教職員が、子どもや保護者の課題をどのように発見し、スクールソーシャルワーカーに情報をつなげるのだろうか。ここでは静岡市立A小学校での実際のケースをもとに、大きく3つのつながりを整理していく。

 

A小学校は児童数500人弱、児童の3分の1程度がシングルペアレント (母子家庭もしくは父子家庭)、就学援助率も1割程度と市内では比較的高く、教職員も課題を抱える保護者や子どもの対応が多い学校だと認識している。

 

 

■   前提 ・ 「中立」 なスクールソーシャルワーカーという立ち位置の理解

A小学校の校長・教頭ともに、スクールソーシャルワーカーが、学校側の立場ではない 「中立的な立場で関わっている」 ことが、もっとも助かる、という発言があった。

 

学校プラットフォーム化を実現していくにあたって、スクールソーシャルワーカーが学校側の人間ではない 「中立」 の立ち位置にあることを、管理職をはじめとした教職員が理解していることの意義は大きい。課題を抱えた保護者や子どもは、学校側の人間 (教職員)、と判断した人間には、心を開かないことが多い。スクールソーシャルワーカーの立ち位置を理解した発言が当たり前のように管理職から聞かれる点に、静岡市における学校プラットフォーム化の浸透が確認できる。

 

 

■   教頭 ・ 生徒指導主任等からスクールソーシャルワーカーに相談するケース

A小学校では、教頭に学級担任や級外、生徒指導主任、特別支援教育コーディネーター、養護教諭、学校事務職員から情報が集まる。週に1回、木曜日の職員会議の中で子どもに関する情報交換の時間が設けられており、すべての教職員によって、その時々に気になり支援の必要性があると考えられる子ども・保護者についての情報共有と支援の検討がなされている。また教頭がスクールソーシャルワーカーの担当コーディネーターとなりつつも、学級担任等からスクールソーシャルワーカーに直接の相談が気軽にできる体制もつくっている。

 

たとえば学校に来られなくなってしまった児童に登校の働きかけをする場合、保護者との溝が埋まらないケースではスクールソーシャルワーカーが保護者面談をしたり、保護者の考え方や家庭の状況への理解を深めていく方針をミーティングで共有する。

 

学校の多忙化の要因に保護者クレームへの対応があげられることもあるが、スクールソーシャルワーカーが関わることでクレームに振り回されすぎない学校運営にもつながっていく。学校へのクレームは保護者自身の心の悲鳴が別の形で表されていることも多い。クレームの背景に保護者自身の状況の変化がありうるという見方を教職員も共有し、それをスクールソーシャルワーカーとの連携で把握し、保護者への働きかけができる点も学校プラットフォーム化の特徴といえる。

 

 

■   教員の面談や家庭訪問にスクールソーシャルワーカーが同行するケース

保護者や子どもとの関係がこじれたら、管理職が担任と同席した面接となる場合も多いが、A小学校では管理職からの要請や時には担任からのリクエストで、スクールソーシャルワーカーが同席するケースもある。

 

たとえば言葉づかいが荒いヤンキー系の保護者との面談を行う際に、スクールソーシャルワーカーが保護者の特性を踏まえたうえでさりげなく介入する、というような手法で、担任や学校側と保護者との 「通訳」 や、保護者の思いを引き出していく役割を担う。これによって、保護者との信頼関係の改善につなげていく。

 

川口さんは学校側に、保護者とは 「どういうつなぎ方でもいい」 とつねづね伝えており、保護者の 「真のニーズ」 を引き出すきっかけとして、面談、家庭訪問、関係機関への動向などを行っている。

 

また教員から保護者への電話での言葉のかけ方なども、スクールソーシャルワーカーが職員室でアドバイスしている場合があるという。課題を抱える家庭では、学校の教員の一言一句がクレームの対象になる場合もある。保護者に拒否反応を起こさせにくい言い方を一緒に考えていくなどのサポートも行われている。

 

 

■   学習支援 ・ 生活支援と教職員とのつながり

静岡市の学校プラットフォーム化では、スクールソーシャルワーカーが子どもや家庭の状況を把握し、教職員と一緒になって生活困窮家庭のニーズの掘り起こしを行い、学習支援や生活支援へアクセスさせていく権限を持つ (末冨 2016, p.30)。

 

学校の教職員も、学習支援や生活支援の場を見学したり、ときにはボランティア参加する教職員もいるということで、静岡市では学校も学校外の支援の場も、両方子どもの成長のための大切な居場所であるという認識を、学校側も共有している非常に良い状況にある。

 

学校の教職員を支援するスクールソーシャルワーカーが、学校外の子どもの支援とのつなぎ役になっているという静岡市の制度設計の工夫もあるが、A小学校のように、学校内外での子どもの状況を関係者そろって共有する意識こそが、子どもの成長を支える学校プラットフォーム化の中軸になければならない。

 

 

 

4  「きづく」 「つながる」 「はぐくむ」 ――学校プラットフォーム化とは

 

 

2016年11月3日に進歩 「子どものためにつながろう!行政・学校・スクールソーシャルワーカーそしておとなたち」(一般社団法人・静岡県社会福祉協議会こども家庭福祉委員会主催・スクールソーシャルワークシンポジウム)が、静岡市教育委員会との共催により開かれた。そのシンポジウムにおいて、登壇された小学校の校長先生が、学校プラットフォーム化は子どもたちのために大切なことで、大人たちが 「きづく」 「つながる」 「はぐくむ」 ことが学校プラットフォーム化ということではないか、と意見を述べられたのである。

 

行政職員、学校の教職員、スクールソーシャルワーカーや地域住民など子どもと関わる大人たちが、まず子どもや家庭の課題に 「きづく」 こと、そして子どもや保護者と 「つながる」 だけでなく支援側の大人たちも 「つながる」 こと、そして、そのつながりを通じて、子どもや時には保護者を 「はぐくむ」 ことこそが、子どもたちにとってよりよい現在と未来につながっていく、という学校プラットフォーム化への理解が学校現場でも進んでいる静岡市の素晴らしさをあらためて感じる瞬間であった。

 

学校プラットフォーム化とはそれ自体が目的なのではなく、子どもたちのより良い現在と未来のために大人たちが 「きづく」 「つながる」 仕組みづくりである。静岡市の例は、どの基礎自治体においても、子どもたちのための学校プラットフォーム化やその質の向上が可能であることを示してくれている。

 

 

第11章 高校内居場所カフェから高校生への支援を考える につづく

 

『絶望を希望に変える経済学』 アビジット・V・バナジー & エステル・デュフロ著 村井章子訳 (2020年4月17日第1刷)

 

 

 

第3章 自由貿易はいいことか?③ (第3章は①から③まで)

 

 

①は、こちら

②は、こちら

 

 

■   忘れられる敗者

貿易理論家は労働者の移動性を過大評価し、貿易で直接影響を受けた労働者も市場が面倒を見てくれる、とひどく楽観視していた。

 

そこで②で取り上げたオーター、ドーン、ハンソンは、いったいどれほど政府が介入し、対中貿易で損害を被った地域をどのように支援しているかを調査した。その結果わかったのは、甚大な影響を受けた通勤圏(②を参照してください)とほとんど影響のなかった通勤圏を比較すると、成人1人当たりの所得が前者で549ドル減ったのに対し、政府から受け取るのは1人当たりわずか58ドルだった。

 

しかも給付制度の構造が、失業した労働者の状況を一段と悪化させている。貿易が原因で失業した労働者への支援は、原則として貿易調整支援制度(TAA)の下で行われる。TAAの受給資格者は、他産業に就職するための職業訓練を受けることを条件に失業保険の3年間延長が認められ、移住、就職活動、医療のための補助金も受けられる。だが、貿易の影響を受けた郡への支給額に占める割合は先ほどの58ドルのうち、TAAから支払われるのはたったの23セントだ。残りはどこから来るのか――障害年金である。貿易で職を失った労働者の10人に1人が障害年金の受給を申請している。

 

障害年金の給付額の急増はじつに懸念すべきことである。障害年金に頼るのは永久に雇用機会を失う一本道になる。アメリカではいったん障害年金受給者になると、そこから抜け出す人はめったにいない。就労困難な障害があると認定されたわけだから、雇用機会はまずもって得られない。

 

こうなった原因は政党政治にもある。失業した人が医者にかかる場合、頼みの綱はオバマケアである。オバマケアでは低所得層向けの医療保険メディケイドの対象者が拡大されたからだ。だが対象範囲の拡大を適用するかどうかは州に委ねられたため、共和党を支持する州の多く(カンザス、ミシシッピ、ミズーリ、ネブラスカなど)はこれを拒否し、連邦政府に抵抗する姿勢を示している。そこで医療サービスを受けるためにやむなく障害者認定を受ける人が出てくるわけだ。

 

だが、こうした状況になった原因はもっと根深い。アメリカの政治家は、特定産業や特定地域に補助金を出すことにきわめて慎重である (他産業・地域が割を喰ったと感じてロビー活動を展開するからだ)。TAAの補助金がひどく少ないのも、おそらくはこのためだろう。

 

経済学者も、伝統的に地域ベースの政策は支持したがらない。この種の政策を本格的に研究した数少ない経済学者の1人であるエンリコ・モレッティは、きっぱりと地域に対する補助金に反対している。公的資金を貧困化した地域に投じるのは、損失を取り戻すための追い貸しと同じだという。衰退した地域は滅びる運命にあり、他の地域が取って代わるべきだ、歴史を見てもそうなっている、とモレッティは主張する。

 

この分析は、衰退した地域の現実を軽視している。クラスターというものは発展するのとまさに同じ理由からあっという間に分解する。理論的には、クラスターの全面的な解体に対する正しい反応は、できるだけ多くの人々を移動させることになるだろう。だが彼らはそうはしない。

 

ではこの人たちはどうなるのか。チャイナ・ショックに見舞われた地域では、結婚する人が減り、子どもを産む人が減り、生まれた子どもの多くが片親である。若者、とりわけ白人の若者は大学へ行かない。そしてこうした地域では薬物やアルコール依存による 「絶望死」 や自殺が急増する。これらすべて、将来にまったく希望が持てないことから来る症状だと言えるだろう。ごく若いときから未来の一部を失っており、それはおそらく永遠に取り戻すことができない。

 

 

■   貿易にそれだけの価値があるのか?

ドナルド・トランプは、貿易が引き起こす悪影響は関税で対抗するのがよいと考えた。 「貿易戦争、大いに結構」 という姿勢である。また一般の人も、アメリカはもっと市場を閉じてもいい、とりわけ中国から自国経済を守るべきだ、と感じたのである。この点は、右も左も、共和党も民主党も変わらなかった。

 

経済学を大学院まで学んだ人の頭には、貿易はよいものであって活発なほどよいという考え方が染みついている。とはいえ、経済学者がよく承知しているがけっして口に出さないことが1つある。貿易から得られる利益の総額は、アメリカのように規模の大きい経済にとって、実際にはきわめて小さいということだ。つまり、アメリカが完全な自給自足国家に逆戻りし、どこの国とも貿易をしなかったら、たしかに貧しくはなるにしても大騒ぎするほど貧しくはならない。

 

アルノー・コスティノと共同研究者のアンドレス・ロドリゲス=クレアは、この点を深く掘り下げた研究で名高い。2018年3月に彼らはトランプ関税と時を同じくして新しい論文 「アメリカが貿易から得る利益」 を発表した。この論文は、貿易がもたらす利益は主に2つの要素に左右される、と主張する。

 

第一は、輸入そのものの規模と、輸入が関税、輸送費など国際貿易に伴うさまざまなコストに影響される度合いである。何も輸入しないなら、当然ながらコストの問題は消滅する。第二は、国内の代替品の存在である。たとえ大量に輸入する国でも、輸入品がすこし値上がりしただけで輸入を打ち切るようであれば、国内に他の選択肢が潤沢にあることを意味する。このような場合、その国にとって輸入の価値はさほど大きくない。

 

 

■   貿易利益の計算

以上のアイデアに基づいて、貿易の利益を計算することが可能だ。アメリカがバナナだけを輸入し、リンゴだけを輸出するなら、話はきわめて簡単である。消費に占めるバナナの割合を調べ、バナナが値上がりしたらどれだけの消費者がリンゴにスイッチするか、リンゴが値上がりしたらどうかを調べればよい (経済学者はこれを交差価格弾力性と呼ぶ。すなわち財の価格変化が他の財の需要におよぼす影響の度合いである)。だが実際にはアメリカは8500種類もの品目を輸入しており、このやり方はまずもって不可能である。

 

だが実際には、すべての品目について1対1で交差価格弾力性を知る必要はない。輸入品すべてを単一の財とみなしても、真実に十分近づくことができる。輸入品の一部は直接消費され (輸入品はアメリカの消費全体の8%を占める)、一部は生産に組み込まれる(こちらは3.4%を占める)としても、かまわない。

 

貿易の最終利益の計算のために知る必要があるのは、輸入が貿易に伴うコストにどの程度敏感なのか、ということだけである。きわめて敏感だとすれば、それは国内で生産するものと簡単に置き換えられることを意味するので、他国から輸入する価値はあまりないことになる。逆にコストが上がっても需要が維持されるなら、輸入品が消費者に非常に好まれていて、貿易が生活満足度を大きく押し上げていることになる。

 

コスティノらは結果をシナリオ別に示すことにした。すなわち輸入品が国産品で容易に代替されるシナリオ(この場合の貿易利益はGDP比1%と推定される)から、代替が最も困難なシナリオ(この場合はGDP比4%)までの数通りである。

 

 

■   大きいことはいいことだ

コスティノとロドリゲス=クレアが妥当と考えるのは、貿易利益がGDP比2.5%という中位予想である。この比率は高いとは言いがたい。アメリカの2017年の経済成長率は2.3%だから、1年分の成長を毎年犠牲にするだけで完全な自給自足経済を恒久的に続けられる計算になる。

 

アメリカは市場開放をしているにもかかわらず、輸入が消費占める比率(8%)は世界で最も低い部類に属する。だから、アメリカが国際貿易から得る利益はさほど多くないのである。同じく開放経済を実現しているベルギーの場合は、輸入比率が30%を上回る。したがってベルギーにとって貿易ははるかに重大な問題となる。

 

ただし、アメリカの例だけを見てはいけない。アメリカや中国は経済の規模が大きく、国内のどこかでたいていのものを効率よく作るだけのスキルと資本を持ち合わせている。しかも国内市場も規模が大きいので、各地の工場から次々に送り出されるさまざまな品物をどんどん消費することができる。このような国は、貿易をしなくても失うものは比較的小さい。

 

国際貿易が重要な意味を持つのは、小さい国や貧しい国だ。たとえばアフリカ、東南アジア、南西ヨーロッパの国々である。これらの国ではスキルが乏しく、資本も乏しい。鉄鋼や自動車に対する国内需要は十分に大きくないうえ、所得水準は低く、人口もさほど多くないので、大規模な生産を維持することができない。貿易をまさに必要とするこれらの国が、不幸にもグローバル市場への進出をさまざまな要因によって阻まれているのである。

 

また規模の大きい発展途上国、たとえばインド、中国、ナイジェリア、インドネシアなども、固有の問題を抱えている。それは国内の輸送網の整備である。世界ではおよそ10億人が舗装道路から2キロ以上離れたところに住んでおり (そのうち3分の1がインド人である)、近くに鉄道もない。国内政治がこうした不都合にさらに拍車をかけている面もある。たとえば中国にはすばらしい道路網が整備されているのに、各省の当局は地元企業が他の地方からの買い付けるのをあれこれと規制して邪魔している。

 

 

■   スモール・イズ・ビューティフル?

だがもしかすると比較優位という概念そのものが過大評価されていて、小さな国でも自給自足が可能なのかもしれない。あるいはこの論理をさらに推し進めれば、どの地域も必要なものを生産できるようになるのかもしれない。

 

問題は、スモール・イズ・ビューティフルではないことだ。企業が必要なスキルを持つ労働者を雇用したり、効率のよい機械を購入したりするためには、最低限必要な規模というものがある。とはいえ企業が大きくなるには、市場が大きくなければならない。すでに1776年にアダム・スミスは 「分業は市場の大きさに制約される」 と書いている。だからこそ貿易や地域間取引は有益なのである。一つひとつの国や地域が孤立していたのでは、生産的な企業は出現しない。

 

実際、鉄道によって国内各地が結ばれたとき、多くの国の経済が変貌を遂げている。一方国内の輸送網が未整備でそれぞれの地域が孤立していると、経済は硬直的になり、せっかく国際貿易で手にした利益も多くの人に行き渡らず、それどころか損害を与えることになりかねない。

 

インドでは村と幹線道路を結ぶ道の多くが未舗装で、村の人々が農業以外の職業に転じることを阻む要因になっている。凸凹道をのろのろと運ぶのでは、商品の最終価格はずいぶんと割高になってしまう。これでは、僻地の村に住む人々は国際貿易の恩恵には与れない。ナイジェリアとエチオピアでは、仮に輸入品がなんとか届いたところで、とても手の届く値段ではなくなっている。また輸送網が整備されていないと、何を出荷するにしても高いものにつき、せっかくの安い労働力のメリットを活かすことができない。貿易によって世界と結ばれた恩恵を享受するためには、国内の輸送インフラの整備が必要である。

 

 

■   貿易戦争を始めてはならない

本章で取り上げた事例と分析から導き出される結論は、長年の社会通念とは相容れないように見える。本章で指摘した次の3つの事柄は、バラ色の貿易理論に水を差す。

 

第一に、国際貿易から得られる利益は、アメリカのような規模の大きな経済にとってきわめて小さい。第二に、規模の小さい経済や貧しい国にとっては貿易の利益は潜在的に大きいものの、市場開放を行うだけでは問題は解決しない。移民を扱った第2章で論じたとおり、国境を開いただけでは人は移動しないのと同じで、貿易障壁を取り除いただけでは初めてグローバル市場に進出する国が利益を手にすることはできない。第三に、貿易利益の再分配は口で言うほど簡単ではない。貿易で打撃を受けた人々の多くはいまなお苦しんでいる。

 

貿易がもたらす利益と損失はひどく偏って分布しており、そのことが社会に暗い影を落とし始めている。いまや移民問題とともに政治の行方を決する要因になっているのは、貿易の負の影響だと言える。

 

では、保護関税は問題の解決に役立つのか。答はノーだ。関税の導入は、アメリカ人を助けることにはならない。理由は単純だ。ここまでの議論で私たちは主張したいことの1つは、移行期にもっと注意を払う必要がある、ということである。チャイナ・ショックで解雇された人の多くは、ショックに見舞われる前の生活水準を回復できていない。なぜなら経済というものは硬直的だからだ。彼らは別の産業や別の土地へ移って自立することができない。リソースも移動しない。

 

だからと言って中国との貿易をいま打ち切るのは、新たな解雇を生むだけである。新たに負け組になるのは、おそらくこれまで名前を聞いたこともない郡で生活している人々――農村地帯の人々だ。なぜ聞いたこともないかと言えば、何の問題もなく暮らしているのでニュースにならないからである。

 

中国が2018年4月2日に発動した報復関税(15%と25%)の対象128品目は、大半が農産物である。アメリカの農産物輸出は過去数十年にわたって右肩上がりで増えており、1995年には560億ドルだったのが、2017年には1400億ドルに達している。今日ではアメリカの農業生産高の5分の1が輸出されており、最大の仕向先は東アジアだ。中国だけで、アメリカの農産物輸出の16%を買っている。

 

こうしたわけだから、アメリカが中国と貿易戦争を始めると最初に痛手を被るのは、おそらく農業と、農業を支える産業になるだろう。アメリカ農務省は2016年に、農業はアメリカ国内で100万以上の雇用機会を創出しており、その4分3が非農業部門だと推定している。

 

農業部門の雇用で全米上位を占めるのは、カリフォルニア、アイオワ、ルイジアナ、アラバマ、フロリダの5州だ。ペンシルベニア州の製造業で解雇された人たちが、同じ州に他の産業があってもそちらに転職しなかった(できなかった)のとまさに同じ理由から、農業に従事していた人々は、たとえ同じ地域に工場があっても、そちらには転職しないだろう。本章と前章で分析したさまざまな理由から、人々は移動しない。しかしアラバマとルイジアナは、アメリカで最も貧困な10州に含まれている。貿易戦争は、この貧しい人々を巻き添えにすることになる。

 

貿易戦争で鉄鋼労働者の一部を救うことはできても、他の部門が新たな打撃を受けることになる。貿易戦争をしてもアメリカ経済は全体として好調を維持するだろう。だが100万人近い人々が犠牲を強いられる。

 

 

■   関税以外にどんな手があるのか

貿易が引き起こす深刻な問題は、ストルパー = サミュエルソン定理が想定する以上に多くの負け組を生み出すことである。よって解決策は、解雇された人の移動や転職支援をして負け組の数を減らすこと、または補償を拡充することになるだろう。

 

ある産業がチャイナ・ショックを受けたことがわかっているなら、その産業の労働者を支援すればいい。貿易調整支援制度(TAA)はまさにその前提からスタートしている。TAAは職業訓練(1年間1万ドルを上限とする)を支援し、訓練を受けている労働者には失業手当を最長3年間給付する。すばらしい制度だが、すでに述べたように、支援額があまりに少ない。これはコンセプトが悪いのではなく、ひたすら資金不足なのである。

 

TAAの支援を受けることが決まると、当初は年間1万ドルで生活しなければならない (訓練中は働けないからだ)。だが訓練後の10年間で、訓練を受けた労働者は受けていない労働者より5万ドルも所得が増える。これはやる価値のある投資だと言えよう。

 

ではTAAのように効果的な制度がなぜ資金不足のまま放置されているのか。労働者支援に対する関心が低いのは、経済学者にも原因がある。経済学者が補助金嫌いであることはすでに述べたが、個人的な判断が入り込む余地の多い制度も好まない。権力濫用が起きやすいからだ。また政治的には、貿易調整支援の名目で予算を割り当てれば、貿易の悪影響を是正するには巨額の資金が必要だという事実をあからさまにすることなる。これはあまり褒められた話ではない。

 

どのような理由があるにせよ、貿易の影響で解雇された労働者を支援するには、TAAのようなプログラムを拡充することが望ましい。もっと金額を増やし、もっと手続きを簡素化する。たとえば、復員兵援護法(通称GIビル)をモデルにしてはどうか。復員兵援護法では、元兵士が大学に進学した場合、36か月の学費と生活費の大部分を政府が肩代わりする。同様に貿易ショックから 「復員」 する人のために、職業訓練や再教育のための費用を政府が肩代わりすることが望ましい。さらに、訓練期間中は失業給付を延長する。

 

大量のレイオフがあった場合、高齢者ほど転職できなかったことが調査で確かめられている。55歳で大量レイオフに巻き込まれた労働者と運よく職場に残った労働者を2年後と4年後に比較した調査では、前者は後者より失業している確率が20%高かったという。解雇されれば若い労働者でも痛手は避けられないが、高齢者の受けるショックのほうがはるかに大きい。

 

そこで、打撃を被った産業や地域にもっと集中して支援を行い、かつ対象を55~62歳の既存労働者に絞ってはどうか。そうすれば、申請者にもっと多くの金額を支給できるし、企業には雇用を維持しながら生産ラインの転換などに取り組むだけの補助金を出せるはずだ。もちろんこれですべての企業を救うことはできないが、最も打撃を受けた地域で雇用を守り、地域社会の分裂を防ぎ、新しい道への長い移行期を軌道に乗せることはできるだろう。これだけの規模の補助金には、一般税収を充当すべきだ。全員が貿易の恩恵に与っているとすれば、貿易の代償も全員で払うべきである。鉄鋼労働者の雇用を守るために農家に失業してくれと頼むのは筋が通らない。だが関税が実際にやっているのはこれである。

 

この章の包括的な結論は、こうだ。貿易によって大切な仕事を失い、ずっと続くと思っていた人生で変化と移動の必要に迫られた人々の痛みに配慮しなければならない。経済学者も政策当局も、富裕国では低技能労働者が貿易の不利益に被ること、貿易の恩恵に与るのは貧困国の労働者であることは知っていたはずだ。

 

にもかかわらず、人々が自由貿易に敵対的な反応を示すことに戸惑っている。なぜなら彼らは、労働者は簡単に他産業への転職または移動またはその両方ができるという前提に立っていたからである。そして労働者にそれができないのはある程度は本人の責任だ、と考えていたからだ。現在の社会政策にはこうした発想が反映されており、 「負け組」 とそれ以外の人々の間に軋轢を引き起こす結果となっている。

 

 

第4章 好きなもの・欲しいもの・必要なもの [注:差別と偏見について] につづく

 

 

 

『絶望を希望に変える経済学』 アビジット・V・バナジー & エステル・デュフロ著 村井章子訳 (2020年4月17日第1刷)

 

 

 

第3章 自由貿易はいいことか?② (第3章は①から③まで)

 

 

①は、こちら

 

 

■   誰のための保護か

移動性の欠如にもかかわらず、リソースは最終的に移動する。そして輸出は、とりわけ東アジアの国々のめざましい躍進で主役級の役割を果たした。当時の富裕国が東アジアからの輸出を無邪気に歓迎したわけではない。

 

さまざまな基準や規則が輸入を締め出してきたことは、よく指摘されるとおりだ。たとえばカリフォルニアのアボカド農家はロビー活動を行い、メキシコ産のアボカドを1914年からなんと97年まで(カリフォルニア州だけは2007年まで)輸入禁止にすることに成功した。害虫の輸入を防ぐという理由からだが、メキシコは地続きで害虫はいくらでも自由に侵入できるのだから、理由にならない。

 

2008年に金融緩和が発生した際、食品医薬品局(FDA)が食品の安全性を理由に、発展途上国からの農産物の輸入を突然禁止した例がある。危機のせいで需要が減少したため、アメリカの生産農家にとっては輸入品を締め出すことが以前にも増して重要になったわけである。

 

そうは言っても、ほんとうに消費者の安全も守る基準(たとえば中国製玩具に鉛が含まれていたことがある)や、環境保護基準 (作物に対する農薬の使用など)、労働基準(児童労働の禁止など)が存在することは事実だ。多くの著名ブランドも、最近では規制を上回る独自の品質基準を守っていることを謳うようになった。こうした流れは、輸入品の参入を一段と困難にすると言えよう。

 

 

■   評判という高いハードル

第二の中国をめざす発展途上国にとっては、富裕国へ輸出する際の高いハードルがもう1つある。それは、グローバル市場で評判を確立することだ。

 

WTOは2006年に貿易のための援助(AfT)を発足させ、発展途上国の貿易を支援するさまざまなプログラムに2017年半ば時点で3000億ドル以上を支出している。こうした構想の背後にあるのは、貿易は貧困から抜け出す手段になるという信念だ。

 

この信念は果たして正しいのか。ある研究者チームはアメリカのNGOエイド・トゥー・アーティザン(ATA)の協力を得て、貿易はほんとうに貧困か抜け出す手段なのかどうかをテストすることにした。

 

2009年10月にATAはエジプトで標準的な手順に従って新規プログラムを開始した。まず、富裕国市場で人気の出そうな商品で、比較的工賃の安い国で作られているものを探す。エジプトの場合、理想的な商品としてカーペットが候補に挙がった。次にATAは支援対象として適切な地域を探し、アレキサンドリアから車で南東2時間の距離にあるフワ [Fuwwah] を選んだ。個性的なカーペットやラグを手がける小さな工房が数百も集まる町である。

 

支援地域が決まると、ATAは現地の仲介業者を探す。現地の事情にくわしく、注文をとってきて適切な工房に依頼するといった仕事をこなす。ATAとしては、数年間はエジプトにとどまるが、その後は仲介業者にプロジェクトの継続を委ねたい。だから、経験豊富で信頼できる仲介業者を見つけることが重要な意味を持つ。ハミス・カーペットという仲介会社があり、フワで作られたカーペットを長年扱ってきたが、そのほとんどが国内向けで、輸出はしていなかった。

 

ATAはハミスと手を組むことにし、どんなタイプのカーペットを作るかを決めると、買い手を探して注文を取り付ける仕事に取りかかる。これが大変だった。ATAはハミスのCEOにアメリカで研修を受けさせ、イタリア人デザイナーにラグのデザインを依頼し、ハミスが扱う製品をありとあらゆる見本市で展示し、知っている限りの輸入業者にも売り込みをかけた。

 

ビジネスは上向きになり、2012~14年には注文が次々に入るようになった。そしてプロジェクト発足から5年後には、累計受注高が15万ドルを突破する。ATAという外部組織からのプッシュがなければ、エジプトの仲介業者が輸出市場を開拓することなど、とてもできなかっただろう。

 

輸出市場への進出がこれほど困難なのはなぜだろうか。問題のかなりの部分は、外国の買い手にあるように思われる。買い手の多くは大手の小売事業者や名の通ったインターネット通販事業者である。こうした大手の買い手からすれば、エジプトの小さなカーペット製造業者から買うことは端的に言ってギャンブルだ。

 

買い手にとって最も重要なのはクオリティである。彼らの抱える顧客は欠点のない完璧な品物を求めている。それから、納期も重要だ。さらに、作り手にすべてのリスクを転嫁することは不可能だ。品質が悪かったり納期に遅れたりした場合に商品代金を払わないことは契約上もちろん可能だろう。だが富裕国の小売事業者や通販事業者の立場からすれば、評判を落とすリスクのほうがはるかに大きい (腹を立てた顧客がウェブのレヴュー欄に投稿することを考えてほしい)。また買い手が懲罰的な損害賠償規定を設けることも契約上は可能だが、小さなエジプトの町の工房からどうやって取り立てるのか。

 

1つ考えられるは、商品をかなり安く提供することだ。そうすれば消費者はこれだけ安いなら多少の欠点には目をつぶろう、思ってくれるかもしれない・・・・・・。残念ながらそうはいかない。多くの場合、消費者は信用できない品物には手を出さないからだ。そういう品物を買ってしまうと自分の貴重な時間が無駄になることを彼らはよく知っており、どれほど値段を下げたところで、その損害を容認できるほどにはならない。

 

たとえば、アマゾンは自社のサービスに対する評判を維持しようとたいへんな苦労をしている。ものによっては返品無用で返金し、消費者の時間のロスを防いでいる。そのためにも、全面的に信頼できるサプライヤーとだけ取引したい。理想的なのは取引実績のあるサプライヤーだが、最低でも製品やサービスに高い評価を得ているサプライヤーであることが条件だ。つまり消費者だけでなく売り手にとっても 「時は金なり」 なのである。

 

世界の不平等の構造がここに現れている。貧しい国で作られた手織りのカーペットや草木染のTシャツを買う欧米の消費者は、要するに作り手より裕福すぎる。

 

ここで中国の作り手とエジプトの作り手を比べてみよう。中国の平均月給は915ドル、エジプトは183ドルである。週40時間働くとして、中国人の時給は5ドル、エジプト人は1ドルになる。草木染のTシャツが1時間に一枚できるとして (とても手の込んだシャツだとする)、エジプトに発注すれば4ドル安く出来上がるわけだ。だが買う側からすれば、たとえ4ドル高くても品質がたしかなほうが断然いい。アマゾンはそのことをちゃんとわきまえている。中国に取引実績のある信頼できるサプライヤーがいるのに、なぜエジプトの知らないところと取引するリスクを冒す必要があるのか。

 

評判を確立する苦労を私たちが初めて知ったのは、1990年代後半に萌芽期にあったインドのソフトウェア産業を調査したときである。インドのソフトウェア産業は、最初は南部の都市のバンガロール周辺で発展した。インドのソフト開発企業は、顧客の要求に応じてカスタマイズされた製品を開発することに特化していた。たとえば企業から会計ソフトの発注があれば、標準品をカスタマイズするか、顧客のニーズに応じてゼロから開発する。

 

インドはソフト開発に関して多くの競争優位を備えていた。非常に評判の高い工科大学から優秀な学生が潤沢に供給されること、インターネット環境が整備されていること、英語が通用すること、アメリカと時差があるため顧客とはちがう時間帯で働けること、などだ。

 

1997~98年の冬に、私たちはインドのソフト開発会社のCEO100人以上に聞き取り調査をした。起業の経験と直近の2つのプロジェクトについて話してもらうためである。創業間もないスタートアップのCEOの生活は苦労が多い。顧客からは細かい要求が来る。できるだけその要求に沿ったソフトを開発するのだが、いざ納品すると、要求とちがうとクレームがつくことがたびたびあるという。実績のない企業との契約は、多くの場合作業量とは無関係の固定価格方式で、しかも買主が満足しなければ払われない形になっている。

 

買い手がこのタイプの契約を選ぶのは、遠国インドの無名のサプライヤーに発注するだけで大きなリスクなのだから、それ以上のリスクはごめんだという姿勢の表れだろう。その証拠に、インド企業が成熟し評判も上がってくると、固定価格方式の請負契約ではなく、原価加算方式の契約が結べるようになる。調査では、すでに顧客から仕事を請け負った実績があり、信頼関係が築かれている場合には、スタートアップでも原価加算方式で受注できることがわかった。

 

まだ世に知られておらず、したがって評判もないスタートアップには、とにかく資金力が必要である。バンガロールのIT産業を代表する企業として引き合いに出されるインフォシスは、1981年に7人のエンジニアが設立した。インフォシスは現在インドで第3位のソフトウェア企業だが、残りの二社がウィプロとタタ・コンサルタンシー・サービシズなのは偶然ではあるまい。もちろん、成功するためには資金以外のものも必要であり、ウィプロにもタタにも先見の明のある有能な人材がいた。だが資金力が強力な助けになったことも事実である。

 

 

■   名前がモノを言う

ブランドネームの価値は、競争を回避できることにある。作り手より買い手のほうが桁外れに裕福だという状況では、作り手は価格よりもクオリティに力を入れることが非常に重要になってくる。これだけでも未来の新規参入者にとっては高いハードルだが、さらに既存企業を出し抜くことを一段と困難にする要因がある。それは、最終価格のうちサプライヤーに支払われる金額の占める比率が次第に下がっていることだ。今日では、製品を買い手にとって魅力あるものにするためにさまざまな費用がかけられており、ブランディングと流通に関するコストが生産コストを上回ることもめずらしくない。多くの品目で、生産コストは小売価格の10~15%を占めるに過ぎない。それでも絶対額としてはそれなりのインパクトがあるかもしれないが、多くの研究が示すように、買い手が問題にするのは最終価格に占める比率なのである。

 

ある古典的な実験では、次のような結果が出ている。回答者に第一グループに15ドルの計算機を示し、車で20分のところにある店では5ドル安く売っていると情報を提供する。第二のグループには125ドルの計算機を示し、車で20分のところにある店では5ドル安く売っていると伝える。

 

どちらのケースでも20分行けば5ドル安いという条件は同じだ。だが結果は大きくちがった。 「回答者の68%は、15ドルの計算機を5ドル安く買うためなら車で20分走ると答えたが、125ドルの計算機の場合は29%にとどまった」 のである。となれば消費者は、7.5%安くなった程度ではそちらに乗り換えたりしないことになる。

 

ということは、中国の工場渡し価格が大幅に上昇すればともかく、少々上昇しても誰も気づかないということだ。しかも近い将来に大幅に上昇すると考えるべき理由は何もない。中国には、現在の賃金水準でいいから働きたいという貧しい人々が大勢いる。だから、中国の生産コストはかなりの期間にわたって低いままだろう。ベトナムやバングラデシュなど第二の中国をめざす国や、ローコストのサプライヤーの多くが、虎視眈々と付け入る機会をうかがっている。そう考えると、リベリアやハイチやコンゴがどれほど長く待たなければならないか、想像するだけで背筋が寒くなる。

 

以上のように、評判やブランドネームは途方もなく大きな役割を果たす。新規参入者がグローバル市場で成功し、シェアを獲得するのは至難の業だ。そこに労働市場の硬直性が加わると、ストルパー = サミュエルソン定理が依拠し自由貿易が促すとされる人と資金の自由な移動は、実際にはそううまく実現しなくなる。

 

 

■   グローバル市場で伍していくには

世界に打って出ようという新規参入者にとって、さらに高いハードルが待ち構えている。それは、問題になるのがその企業の評判だけではないということだ。日本の自動車は安定した品質で知られる。このような状況で日本の自動車メーカーが新規市場を開拓する場合、たとえば三菱自動車が1982年にアメリカに参入したケースでは、すでに日本メーカーが成功を収めているという事実のおかげで始めから有利な立場にあった。

 

これに対して、バングラデシュやブルンジの自動車メーカーは不利だ。たとえ厳格な基準に合格し、低価格で、レビューで高い評価を得ているとしても、誰も買おうとしないだろう。数年後にどうなるかわかったもんじゃない、と買い手は考えるだろう。ある意味で彼は正しい。その車がいかによくできていて乗り心地も耐久性もすぐれているかということは、何年も経ってようやくわかるものだ。トヨタも日産もホンダも、最初はそうだった。

 

低い呪いを打ち破るのは容易ではない。ここで役立つのが、強力なコネクションだ。誰か影響力のある人物が新規参入者を知っていて、あそこの製品はいいですよ、と保証し後ろ盾になってくれれば絶大な効果がある。欧米に住んで働いたことのある中国人が、祖国に帰って中国企業のグローバル進出に重要な役割を果たしているのは、けっして偶然ではない。彼らは自分自身の評判やコネクション活かし、買い手(その多くは彼らがかつて働いていた企業だったする)に売り込み、万事問題ないことを保証する。

 

サクセスストーリーの存在も、好循環を生み出すカギとなる。何かで決定的な成功を収めた企業に、たとえ新興企業であろうと買い手は群がるものだ。他社があの会社と取引を続けているのだから大丈夫だろう、と安心するのだろう。多くのスタートアップは、運よく最初の注文を獲得すると、それが低い期待の呪いを断ち切る大チャンスだと心得、最高の品物を納めるべく最善の努力をする。

 

だが命をかけて努力をしても、必ず報われるとは限らない。一社がいくらがんばっても、その国あるいは産業全体の評判も重要だ。ほんのすこし腐った卵が混ざっただけで、ある国やある産業全体の評判がガタ落ちになるという事態も起こりうる。このことをよく知っている政府は、品質をごまかした企業に重い罰を科すようになってきた。

 

企業・産業・国の評判が相互作用し、しかも脆くて崩れやすいという状況では、 「産業クラスター」 を形成することが最善の方法だとされる。産業クラスターとは、一定地域に特定分野の企業やそれを支援する組織などが集積された状況を指す。

 

中国には、さまざまな製品に特化した製造クラスターが多数存在する。靴下シティ、セーターシティ、靴シティ、といった具合だ。たとえば湖州にある子供服クラスターには1万社を超える企業が集中し、30万人以上が働いている。もちろんアメリカにも多くのクラスターが存在する。ボストンのバイオ・クラスター、ロサンゼルスに近いカールスバッドのゴルフ用品専門クラスター、ミシガンの時計クラスターなどだ。

 

インド南部の都市ティルプルの綿織物産業を支えているのは、請負業者だ。生産プロセスの1つまたは複数、ときには出荷までの全工程を請け負う下請業者だが、彼らは言わば黒子のような存在である。買い手は一握りのよく知られた仲介業者と契約し、仲介業者が下請業者に割り当てる。この生産モデルの利点は、個々の企業には大規模工場を建設する資金がなくとも、大口注文に応じられることだ。それぞれの下請業者は自分のところでできる限りの投資をし、あとのとりまとめは仲介業者に委ねる。ここにも、クラスターが必要な理由が存在する。

 

この生産モデルには、現在興味深い変化が現れている。オンライン・マーケットプレイスの二大企業アマゾンとアリババ(阿里巴巴)が、仲介業者に代わる役割を果たすようになってきたことだ。個別の生産者は仲介業者を経ずにアマゾンやアリババのサイトで販売し、もちろん価格も自分で決めてよく、さらにサイトにレビューを集めるなど個別に評判を確立することができる。レビューで星5つに近づけようと彼らは靴下や玩具を信じられないほど安値で売ったりする。そのうちたくさんのレビューを集め、星の数も確保したら、値段に上乗せできるだろうと考えているのだろう。言うまでもなく、揺るぎない評判を確立するまでには時間がかかる (永久に評判が得られない可能性もある)。それまでは、第三世界の無名の生産者がグローバル市場で伍していくのはまず不可能だ。どれほどよい製品を低価格で売り出しても、である。

 

 

■   2.4兆ドルの価値?

すでに論じたように、リソースというものは移動性に乏しい。とりわけ発展途上国でそう言える。また、輸出市場に参入するのはきわめて困難である。このため貿易自由化は、当初経済学者が予想したような劇的な効果をただちに生み出してはいない。賃金は上がるどころか下がっている。労働力が豊富な発展途上国では労働者は貿易の恩恵に与るはずなのに、必ずしもそうはなっていない。理由は、労働者が必要とするすべての要素、すわなち、資本、土地、経営者、起業家、そして他の労働者が効率的でなければならないのに、実際には古いものから新しいものへのシフトがなかなか進まないからである。

 

インドでは1991年に貿易が自由化されたが、輸出・輸入いずれについても突然大幅に増えるということはなかった。だが最終的には輸出入ともに増加し、いまやインドは中国やアメリカより貿易比率が高い。リソースも最終的には移動し、新しい製品が作られるようになった。既存の生産者も、必要な資材や部品を簡単に輸入できるようになったおかげで、グローバル市場で競争できる高品質の製品を作れるようになっている。インドの企業は、輸入品が安くなるとすぐに輸入品に切り替えるようになり、それを活かして新たな製品ラインの導入にも積極的になる。だがそうなるまでにはかなりの時間がかかった。

 

多くの政策担当者は、このプロセスを加速させるには 「輸出振興策」 を導入するのがいちばんだと考えている。戦後期の東アジア (日本、韓国、台湾)、そして最近では中国の成功は、たしかにさまざまな形の輸出振興策によるところが大きい。多くの専門家は、中国の場合は為替政策が輸出を後押ししたとみている。政府が2000年代を通じて人民元売りドル買いで元安を誘導したおかげで、中国製品の輸出競争力が高まったという。

 

2010年にポール・クルーグマンは、中国の政策を 「かつて主要国が推進した中で最も歪んだ為替政策」 だと批判した。中国の外貨準備はすでに2兆4000億ドルに達し、なお毎月300億ドルが流れ込んでいる。中国にはもともと買う以上に売る傾向があったと言ってよいだろう。このことはおそらく人民元相場を押し上げ、輸出の増加にブレーキをかけていたはずだ。政府の為替政策は、それを防ぐ役割を果たしたことになる。

 

輸出振興はほんとうによい経済政策なのだろうか。中国の政策が人民元建ての利益を増やし、輸出企業を助けたことはまちがいない (ドル建てで靴を売り、ドル高元安になれば、元で受け取る金額は増える)。輸出企業はドル建ての販売価格を低く抑えて外国人にたくさん買ってもらい、中国製品は安くて良質だという評判も確立できる。そうなれば資本を蓄積することも、雇用を増やすこともできるだろう。

 

その一方で犠牲になるのは中国の消費者だ。中国の人々は割高な輸入品を買わされることになる (自国通貨が弱い国のデメリットがこれだ)。では、元安誘導策がとられていなかったらどうなっていたか。これを推定するのは容易ではない。なぜなら、中国政府は輸出企業に有利な政策をほかにも採用している。現に2010年に元安誘導策を打ち切っても、中国の輸出競争力は健在だ。それに、たとえ輸出の伸びが減速したとしても、国内市場がそれを上回るペースで拡大し、その分を埋め合わせた可能性がある。今日でさえ、中国の輸出はGDPのおよそ20%を占めるに過ぎない。それ以外は国内市場向けである。

 

仮に輸出振興策が中国で効果があったとしても (その可能性は高い)、同じ戦略が他の国でうまくいくとは限らない。少なくとも、近い将来についてはそう言える。問題の一端は、中国自身にある。中国の成功とその巨大な規模が、他国の参入と成功を阻む。グローバル市場に打って出ることが平均的な貧困国にとってほんとうに未来につながる道なのか、疑問に感じざるを得ない。

 

 

■   チャイナ・ショック

J・D・ヴァンスの 『ヒルビリー・エレジ―』 はアメリカの繁栄から取り残された人々の嘆きを代弁する書だが、読んでいるうちに、この人たちにも責められるべき点があるのではないかとの著者の深い葛藤が感じられるようになる。

 

同書で語られるアパラチア山脈周辺地域の経済の空洞化は、中国との貿易が始まるのと時を同じくして起きた。貧しい人が打撃を受けるのはストルパー = サミュエルソン定理から予想できたことで、富裕国では労働者が割を喰うことになる。だが驚かされるのは、その地理的な集中だ。取り残された人々は、取り残された地域に住んでいるのである。

 

デビット・オーター、デビット・ドーン、ゴードン・ハンソンは①で取り上げたトパロヴァと同じ手法を使って、対中貿易が始まったときにアメリカに何が起きたかを調査している。1991~2013年にアメリカはいわゆるチャイナ・ショックに見舞われた。なにしろ世界の製造業に中国が占める割合は、1991年には2.3%だったのが、2013年には18.8%に拡大したのである。

 

オーター、ドーン、ハンソンは、この中国の躍進がアメリカの労働市場に与えた影響を調べるために 「チャイナ・ショック指数」 を開発した。アメリカの通勤圏ごとにチャイナ・ショックにさらされた度合いを示す指数である。通勤圏とは文字通り通勤が可能な範囲のことで、複数の郡で形成される。

 

チャイナ・ショック指数は、次のアイデアに基づいている。アメリカ以外の国への中国の輸出品のうち、ある特定の品目の価格がとくに高ければ、中国はその産業でおおむね成功していると考えてよい。よってその特定品目をアメリカ国内で生産している通勤圏は、他の品目を生産している通勤圏より打撃を受けやすい。チャイナ・ショック指数を算出するにあたっては、中国のEU向け輸出品を参照して品目別にウェイトをつけ、通勤圏ごとの産業構造が中国製品に対してどれほど脆弱かを示した。

 

チャイナ・ショックの影響をもろに受けた通勤圏では、他の通勤圏に比べ、製造業の雇用が大幅に減っていることがわかった。これは予想されたことだが、意外だったのは、労働者の移動がまったく見られないことである。つまり、新しい仕事に移る人がいない。打撃を受けた通勤圏の失業者数合計は、影響を受けた産業のみの失業者数を上回ることが多く、下回ることはめったになかった。これはおそらく、先ほど取り上げたクラスター効果がマイナスに作用したのだと考えられる。失業した人は節約するので、その通勤圏全体の経済活動が縮小してしまうのである。非製造業が雇用を増やして製造業の雇用減を埋め合わせる、というふうにもならない。これらの通勤圏では他より賃金水準も低下し、とくに低賃金労働者にその傾向が顕著だった。近隣の通勤圏はさほどチャイナ・ショックの影響を受けていないのに、労働者は移動しなかった。影響を受けた通勤圏の生産年齢人口は減っておらず、雇用だけが失われたのである。

 

こうした現象は、アメリカだけに見られるわけではない。スペイン、ノルウェー、ドイツでもチャイナ・ショックの影響で同じようなことが起きている。どのケースでも、経済の硬直性が罠を形成していた。

 

 

■   クラスターは悪か

先ほど触れたように、この問題は産業クラスターによって深刻化した可能性がある。産業クラスターを形成する合理的な理由はいくつもあるが、何か大きなショックに見舞われると、一地域に集中している企業すべてが影響を受ける可能性があることは潜在的なデメリットの1つだ。

 

インドのTシャツ・クラスター、ティンプルでは、2016年10~17年10月の1年間で輸出高が41%も減少した。ここから悪循環が始まる可能性は高い。失業した労働者は、店やレストランなどで地元にお金を落とさなくなる。持ち家の評価額もときに大幅に下がってしまう。周辺地区が衰退し始めると、住民すべてが貧しくなる。こうして町から活気が消え地域が荒れてくるのと並行して、地方税の課税ベースも壊滅的に縮小するため、公共サービス(水道、学校、照明、道路など)も切り詰められ、ついにはその地域はまったく魅力がなくなって再起不能に陥ってしまう。企業は引き揚げるか倒産し、代わりの企業はやって来ない。

 

インドや中国で見られたこの現象が、アメリカの製造業クラスターにもおおむね当てはまる。たとえばテネシー州は、家具から繊維製品まで、中国と直接競合する製品の製造クラスターを数多く抱えていた。企業は次々に倒産してクラスターが姿を消すと、町はゴーストタウンと化していく。だからと言ってクラスターはよくないと言うつもりはない。クラスター形成のメリットはきわめて大きいからだ。だがクラスターが崩壊したときにどういうことになるかは肝に銘じておくべきだろう。

 

 

③につづく

 

『絶望を希望に変える経済学』 アビジット・V・バナジー & エステル・デュフロ著 村井章子訳 (2020年4月17日第1刷)

 

 

 

第3章 自由貿易はいいことか?①  (第3章は①から③まで)

 

 

2018年3月初めにトランプ大統領は、鉄鋼とアルミニウムの輸入品に追加関税を導入する大統領令に署名した。周りを取り囲んでいた鉄鋼労働者が拍手する映像が全世界に流されている。

 

その直後にIGMパネルは、専門会議のメンバーである一流大学の教授陣(共和党支持者もいれば民主党支持者もいる)に質問調査を行った。 「鉄鋼とアルミに対する追加関税でアメリカ人の生活水準は上がると思うか」 という質問に対し、65% が 「まったく思わない」 と強く否定し、残りも 「思わない」 と答えている。 「そう思う」 はおろか、 「どちらとも言えない」 と答えた人さえいなかった。

 

さらに、 「エアコン、自動車、クッキーなどの製品に新たな追加的に関税をかけるのは、国内メーカーの生産意欲を高めるよい政策だと思うか」 という質問に対しても、全員が 「まったく思わない」 か 「思わない」 と答えた。

 

自由主義経済の旗手であるポール・クルーグマンが自由貿易推進の立場をとるのは当然だが、ジョージ・W・ブッシュ大統領の下で経済諮問委員会(CEA)の委員長を務め、何かとクルーグマンに反対の立場をとるグレゴリー・マンキューも、同意見だったのである。

 

対照的にアメリカ国内で行った貿易に関する世論調査では意見が割れ、どちらかと言えば自由貿易に反対する人が多かった。関税率を引き上げて国内メーカーの生産意欲を高める政策には54%が賛成し、反対したのは25%に過ぎなかった。

 

経済学者は貿易の利点を語りたがる。自由貿易は利益になるというのは、経済学における最古の命題の一つだ。デビット・リカードが2世紀前に説明したとおり、貿易によってどの国も比較優位を持つことに特化できるため、貿易が行われている地域では収入の合計が増える。そして、貿易で利益を上げた 「勝ち組」 の利益合計は、損をした 「負け組」 の損失合計を必ず上回る。以来200年間、この原理の基本的な論理そのものはほとんどの経済学者が受け入れている。

 

だが一般の人々は、自由貿易が議論の余地なくいいものだとは思っていない。貿易が利益をもたらすことは知っているが、苦痛をもたらすことも知っている。安い品物が外国から入ってくるのは結構だが、価格競争に負けてしまう国内生産者のことを考えれば、貿易のメリットも打ち消されようというものだ。私たちが行った調査では、レギュラー回答者の42%が、アメリカが中国と貿易をすれば、国内の低技能労働者が打撃を受けると答えた (そうは思わないと答えたのは21%にとどまった)。

 

一般の人々は単に無知なのか、それとも経済学者が見落としていることに直感的に気づいているのだろうか。

 

 

■   スタニスワフ・ウラムの要求

スタニスワフ・ウラムは、水爆の発明者の一人としても知られる数学者・物理学者である。あるときウラムは経済学界の重鎮で20世紀最高の経済学者の一人であるポール・サミュエルソンに、挑戦的な要求をした。 「あらゆる社会科学分野の中で、真理であり、かつ自明でない命題は何か、教えてほしい」 というのである。

 

これに応じてサミュエルソンが持ち出したのが、国際貿易理論の柱となっているあの比較優位である。このときのサミュエルソンの言い分が傑作だ。 「これが論理的に正しいことは、数学者の前で改めて論じる必要はあるまい。またこの理論が自明でないことは、何千人ものきわめて優秀な人間によって確かめられている。彼らは独力ではこの理論を考案できなかったうえ、説明されても理解できなかったのだから」。

 

比較優位 [comparative advantage] の概念を簡単に言うと、どの国も相対的に自分が得意とすることをやるべきだ、ということに尽きる。この概念がいかにすばらしいものかを理解するには、絶対的優位 [absolute advantage] と対比するのがよいだろう。

 

絶対優位はわかりやすい。ブドウはスコットランドでは育たない。一方、フランスにはスコッチウィスキーの製造に欠かせないピート(泥炭)がない。よってフランスはワインを作ってスコットランドに輸出し、スコットランドはウィスキーを作ってフランスに輸出することが理に適う。

 

だが1つの国が、たとえば今日の中国のような国が、大方の国よりも何でもうまく作れるとしたら、どうなるのか。中国があらゆる市場で一人勝ちし、他の国には売れる物が何もなくなってしまうのだろうか。

 

リカードは1817年にこう主張した。たとえ中国(リカードの時代はポルトガルだった)が何でも他国よりもうまく作れるとしても、あらゆるものを売ることはできない。なぜなら買い手の国に売るものがなかったら、中国から買うためのお金がないことになるからだ。となれば、自由貿易をしたからといって19世紀のイギリスの産業がすべて衰退するわけではない。自由貿易のせいでイギリスのある産業が衰退したら、その産業は最も生産性が低かったということになる。

 

この論拠に基づき、リカードはこう結論づけた。たとえポルトガルがワインも毛織物もイギリスよりもうまく作れるとしても、両国が貿易をするようになれば、それぞれの国が比較優位を持つ産業に特化するようになる。ある産業が比較優位を持つとは、自国の他の産業と比べて生産性が高いことを意味する。

 

ポルトガルではワイン、イギリスでは毛織物がこれに該当する。どちらの国も相対的に得意とするものを作り、残りは買う (得意でないものを作って資源を無駄にしない)。こうすれば、それぞれの国の国民が消費しうる財の価値合計が国民総生産(GNP)に加わることになる。

 

すべての市場を同時に考えない限り貿易を考えることはできない理由を見抜いたところが、リカードの鋭いところだ。中国はどの市場でも勝つことはできる。だがすべての市場で勝つことはできないのである。

 

言うまでもなく、GNPが(イギリスとポルトガルの両方で)増えたからと言って、損をする人がいないわけではない。リカードの理論は、生産に必要なのは労働力のみであり、あらゆる労働者は同じである、よって経済が豊かになれば全員がその恩恵を受ける、という前提に立っている。だが生産には労働力だけでなく資本も必要だとなったとたん、話はそう単純ではなくなる。サミュエルソンがまだ25歳だった1941年に発表した論文であきらかにしたアイデアは、以後、国際貿易を考える際のベースになった。

 

両国が貿易をする限りにおいて、労働力が豊富な国は労働集約型の財の製造に特化し、資本集約型の財からは手を引くだろう。そうすれば、貿易がまったく行われていないか規制されている場合に比べて労働需要は拡大し、したがって賃金は上昇するはずだ。逆に資本が相対的に豊富な国では、資本需要が拡大して資本価格が上昇(賃金は下落)するはずだ。

 

労働力が豊富な国はおおむね貧しい国が多く、かつ労働者は雇用主よりも貧しいのがふつうであるから、自由貿易は貧困国にとって好ましい影響をもたらし、賃金格差を減らすと考えられる。逆もまた成り立つ。したがってアメリカと中国が貿易を行えば、中国の労働者の賃金は上昇し、アメリカの労働者の賃金は下落するはずだ。

 

だからと言って、アメリカの労働者の生活が悪化したままになるわけではない。サミュエルソンはその後に発表した論文で、自由貿易はGNPを押し上げるので、その恩恵はすべての人に行き渡ると述べた。つまり、政府が自由貿易の勝ち組に税金をかけ、それを負け組に再分配するなら、アメリカの労働者の生活も向上するという。問題は、税金を再分配するというこの条件だ。これでは、労働者の命運は、政府のお情け次第ということになる。

 

 

■   美は真であり、真は美である

ストルパー = サミュエルソン定理(先ほど紹介した理論)は美しい。だがこの定理は真なのだろうか。この定理は2つのことを意味しており、1つは明確かつ好ましく、もう1つは好ましくない。すなわち、貿易を行うとどの国でもGNPは拡大し、貧困国では不平等が縮小する。一方、富裕国では不平等が拡大する (再分配が行われる前は)。ところが、現実を見るとそうはなっていない。

 

中国とインドは、貿易主導で成長を遂げた国としてもてはやされている。中国は1978年に改革開放政策を導入した。門戸開放から40年度の現在、中国は輸出大国となり、アメリカから経済大国ナンバーワンの座を奪おうとしている。

 

インドでは1991年まで政府が経済の中枢を掌握していた。輸入には許可が必要で、その許可はなかなか下りない。そのうえ輸入業者は輸入関税を払わなければならない。その結果、輸入品の価格は原産国の4倍にもなっていた。

 

インド経済の転換点となった1991年は、サダム・フセインのクウェート侵攻を受けて第一次湾岸戦争が勃発した年である。その結果、沿岸諸国からの石油の輸出が止まり、原油価格は天井知らずに上昇した。このことがインドに与えた影響は大きい。そのうえインド人出稼ぎ労働者が中東から引き揚げてきたため、本国送金もぱったり途絶え、外貨準備が大幅に減ってしまう。

 

インドはやむなくIMFに支援を求めるが、IMFのほうはこの機会を待ちかまえていた。インドは1940年代、50年代の反市場イデオロギーに固執し、市場経済に移行していない最後の大国だったのである。IMFが持ち出した条件は、インドには必要とする資金は提供するが、門戸を開放し、貿易を行わなければならない。インド政府に選択肢はなかった。輸出・輸入許可制度は廃止され、輸入関税はただちに引き下げられた。平均90%近かったのが、35%まで引き下げられたのである。

 

こんなことをしたらインド経済は崩壊すると予想した人は少なくない。高い関税障壁に守られたインドの産業は、世界の効率的な競争相手と伍して行く力はないから、壊滅的打撃を受けるだろう、云々。

 

驚くべきことに、これらの悲観的な予想は当たらなかった。インドのGNPは1992~2004年には年6%のペースで伸び、2000年代半ばに7.5%を記録し、それ以降ほぼこのペースで成長している。

 

となればインドは貿易理論の教えるとおりになったみごとな例の中に数えてよいのだろうか。それとも、正反対の例とみなすべきなのだろうか。一方で、経済成長のおかげで過渡期をスムーズに乗り切ることもできた。しかし他方で、成長が加速するまでに門戸開放から10年以上かかっている。これは、いささか期待を裏切るものだったと言わざるを得ない。

 

 

■   語り得ぬことについては沈黙せねばならない

この議論に答えを出すことはできない。複雑なのは、貿易が1980年代から徐々に自由化されたいたことだ。1991年は、それが大幅にペースアップしたにすぎない。劇的な離陸をするためには、何かビックバンのようなものが必要なのだろうか。

 

だが経済学者は、この手の問いを 「わからない」 で済ますことはしない。この問題は、インドだけの問題ではないからだ。ある種の社会主義から資本主義への移行とともに、インドの経済成長率が大きく変化したことは事実である。1980年代前半のインドの成長率は4%前後だったが、現在は8%近い。このような変化はめずらしいし、変化が維持されていることは、もっとめずらしい。

 

しかし同時に、不平等も顕著に拡大している。同様のことが、おそらくは一段と顕著に中国で1979年に、韓国で1960年代前半に、ベトナムで1990年代に起きた。これらの国で自由化前に行われていた厳格な国家統制経済が、不平等の軽減にきわめて効果的であったことはまちがない。ただしそのために経済成長は犠牲になった。

 

インドがまだ維持している関税障壁による保護をなくすことはどれほど重要なのか。貿易というものをそれまでしたことがない国にとって、関税はどの程度貿易の妨げになるのか。貿易は成長を加速させるのか。不平等にはどのような影響があるのか。トランプ関税はアメリカを成長路線から脱線させたのか。

 

これらの質問の答を探すとき、経済学者は国同士を比較する手法を採ることが多い。たとえばインドが1991年に貿易を自由化し、他の国はしなかった場合、どちらのグループが1991年直後に成長が加速するか、絶対値または1991年以前との相対値で比較するのである。

 

この問題については多くの論文が書かれている。研究から導き出された答は、貿易が国内総生産(GDP)に大きなプラス効果をもたすとしたものから、懐疑的なものまでかなりの振れ幅があるものの、大きなマイナス効果をもたらすとした報告はほぼ皆無だった。

 

一部の研究が懐疑的な結論にいたった原因は大きく分けて3つある。第一は、逆の因果関係の可能性だ。インドが貿易を自由化し、他の国が自由化しなかったという事実は、インドがすでに過渡期にさしかかっていて、自由化をしなかったとしても比較対照国より早いペースで成長したことの表れとも考えられる。言い換えれば、成長が貿易自由化を促したのであって、その逆ではないかもしれない。

 

第二は、原因因子を見落とした可能性だ。インドの貿易自由化は、大きな変革の一部に過ぎない。たとえば政府が産業界にあれこれ 「指導」 することはなくなった。また、産業界に対する官僚の姿勢や政治家の態度が変わったことも大きい。こうした変化と貿易自由化をきっぱりと切り離して評価するのは不可能である。

 

第三は、データのうちどれが正確に貿易自由化を表しているのかを見きわめるのはむずかしいことだ。どの国も一気に全面自由化するわけではなく、どこをどの程度自由化するかは国によって異なる。となれば、国同士を比較してどの国の自由化が進んでいるかを決めるのは困難だ。

 

これらの理由から国同士の比較には問題が多い。国同士の比較を行う方法は、最初にどんな大胆な前提を立てるかによって無数に存在するのである。

 

ストルパー = サミュエルソン定理のもう1つの項目、すなわち不平等についても同じことが言える。貧困国が貿易自由化に踏み切ると、ほんとうに不平等が減るのか。こちらについては、国同士の比較研究はあまり多くない。貿易論を専門とする経済学者は、パイが大きくなることに関心があっても、パイをどう分けられるかには関心がないからだ。サミュエルソンが、すくなくとも富裕国では、貿易の恩恵は労働者を犠牲にしてもたらされると警告したにもかかわらず。

 

1985~2000年にメキシコ、コロンビア、ブラジル、インド、アルゼンチン、チリが門戸を開放し、全面的に関税率を引き下げた。するとこれらの国すべてで同時期に賃金格差の拡大が認められた。そのタイミングからして、貿易自由化と何らかの関係があると考えられる。

 

たとえば1985~87年に、メキシコは輸入割当制度の範囲を大幅に縮小すると同時に、輸入関税も大幅に引き下げされている。すると1978~90年にブルーカラー労働者の賃金は15%落ち込む一方で、ホワイトカラー労働者の賃金は15%増えた。

 

これと同じパターン、すなわち貿易自由化後に低技能労働者に比して高技能労働者の賃金が上昇し、その他の面でも不平等が拡大するというパターンは、コロンビア、ブラジル、アルゼンチン、インドでも見られた。

 

そして中国が1980年代を通じて徐々に門戸開放を進め、最終的に2001年にWTOに加盟するまでの間に、同国の不平等は猛烈な勢いで進行したのである。世界不平等データベース(WID)によると、1978年には最貧層50%と最富裕層10%はそれぞれ中国の総所得の27%を占めていた。両者の差は1978年から拡大し始め、2015年には最貧層50%が中国の所得に占める比率は15%に過ぎず、最富裕層10%は41%を占めるにいたっている。

 

言うまでもなく、相関関係と因果関係はまったくちがう。おそらくグローバル化それ自体が不平等を拡大させたわけではないだろう。貿易自由化が単独で実行された例はなく、どの国でも貿易改革は幅広い改革パッケージの一部だった。たとえばコロンビアでは1990年と91年に抜本的な貿易改革が実行されたが、時を同じくして労働市場規制が緩和され、労働市場の流動性が大幅に高まっている。

 

また、メキシコを始めとする中南米諸国は、中国とほぼ同時期に市場開放に踏み切っている。このため彼らは自由貿易の開始当初から、自国よりも労働力が豊富な中国との競争に直面することになった。中南米の労働者が割を喰ったのはそれが一因だったと考えられる。

 

以上のように、国同士の比較だけで、貿易と経済成長や不平等との関係について結論を下すのはむずかしい。経済成長にせよ、不平等にせよ、貿易以外の多くの要因の影響を受ける。貿易はその1つに過ぎないし、ひょっとすると原因ではなく結果なのかもしれない。

 

しかしここに、ストルパー = サミュエルソン定理に疑問を投げかけるみごとな研究があるので、紹介したい。

 

 

■   あってはならない事実

国同士の比較ではなく、同じ国の中のさまざまな地域を比較する場合には、貿易の影響を曖昧にするさまざまな潜在的要因をかなりの程度排除することができる。問題は貿易を扱う関係上、貿易理論の中心的な命題は経済におけるすべての市場と地域にまたがっていることだ。

 

ストルパー = サミュエルソン定理が前提とする世界では、同じ技能を持つ労働者の賃金は同一ということになっている。だからこそ、外国との競争が原因で解雇されたペンシルベニアの鉄鋼労働者は、すぐさまモンタナかミズーリの製鉄所で仕事に就ける、と言えるのである。同じ技能を持つ労働者の賃金は、ほどなく同一水準に収斂するはずだという。

 

もしこれがほんとうだとしたら、貿易の影響を知るためには経済全体の比較をするほかない。ペンシルベニアの労働者とモンタナやミズーリの労働者を比べても意味がないことになる。彼らの賃金はみな同じだからだ。

 

したがって逆説的なことだが、貿易理論の前提を信じる限りにおいて、それをテストすることはまず不可能だ。なぜなら、いま述べたように貿易の影響をまずまず正確に評価できるのは一国のレベルのみということになるからだ。しかし国同士の比較に多くの難点があることは、前段で説明したとおりである。

 

だが移民を取り上げた第2章で示したように、労働市場というものは硬直的になりがちである。ほかへ移ったほうがよいとわかっているときでさえ、人々は移動したがならい。その結果、経済全体で賃金が自動的に同一水準に収斂するといったことにはならない。同じ国の中であっても、実際にはたくさんの小さな経済が営まれている。そして貿易政策の変更がそれぞれの経済に与える影響がちがうなら、それらの比較から学べるものは多いはずだ。

 

若手経済学者のペティア・トパロヴァは、MITの博士課程に在学中だった頃、このアイデアを真剣に検討する。そしてインドが1991年に大規模な貿易自由化を行ったときにインド国内で何が起きたかを調査し、重要な論文を書き上げる。

 

この研究で判明したのは、一口に 「インドの貿易自由化」 と言っても、貿易政策に加えられた変更は多種多様であって、一国の中でも地域や産業によって受ける影響はさまざまだということである。このため、ゆくゆくはすべての関税がほぼ同じ水準まで引き下げられるとしても、その影響は産業によって大きく異なる。

 

トパロヴァは、インド国内の地区ごとに自由化の影響をどの程度受けたかを調べた。たとえばある地区の主要産品が鉄鋼その他の工業製品で、輸入関税がほぼ100%から40%まで引き下げられた場合には、自由化の影響を 「強く受けた」 とする。穀物が主要産品の地区で、関税があまり変化がなければ、影響は 「ほとんどない」 ということになる。

 

このような影響判定基準に従って、1991年の前と後について全地区を調査した結果、国全体の貧困率は1990年代~2000年代に急速に下がったことがわかった。1991年には約35%だったのが、2012年には15%になっている。

 

だがこのバラ色の全体像とは裏腹に、貿易自由化の影響を強く受けた地区では貧困率の低下のペースがあきらかに遅いことがわかった。ストルパー = サミュエルソン定理が示唆することとは反対に、貿易自由化の影響を強く受けたところほど、貧困率の低下にブレーキがかかったのである。その後の調査では、貿易自由化の影響を強く受けた地区における児童労働も、他地区に比べてなかなか減らないことがわかった。

 

だがトパロヴァの研究報告は、経済学界で手ひどく叩かれた。調査手法は正しいとしても結論はまちがいだ、と酷評されたのである。貿易が貧困を増やすなど、あり得るはずがない。貿易は貧困国の貧困層に恩恵をもたらすと理論は結論づけているのだから、調査で集めたデータがまちがっているのだ。トパロヴァの論文は一流の経済専門誌からも門前払いを喰わされた。今日では多くの研究がさまざまな状況にトパロヴァの手法を応用しており、コロンビア、ブラジル、アメリカ(以下で取り上げる)でも同じ結果が得られている。論文掲載誌で最優秀論文賞を獲得し、経済学界でトパロヴァの名誉が回復されたのは、ようやく数年後になってからだった。

 

 

■   硬直的な経済

トパロヴァが常々言っていたのは、貿易自由化で甚だしい不利益を被る人がいると主張するつもりは毛頭ない、ということである。そもそも同じ国の中のさまざまな地域を比較しただけだから、結論として言えるのは、ある地域(貿易の影響を強く受ける地域)は他地域ほど貧困が減らない、ということだけである。すなわち、自由化という上げ潮はすべての船を浮かばせるにしても、一部の船は他の船よりよく浮かぶ可能性があるということだ。

 

それにトパロヴァの研究は、インド全体で不平等が拡大したなどとはまったく主張していない。ある地区では他の地区より不平等が拡大したと指摘しただけである。実際には、自由化の影響を強く受ける地域は、自由化の時点では他地域よりいくらか裕福であることが多い。そのため自由化後に貧困がスムーズに減らなくとも、むしろ国全体の不平等の縮小には貢献していることもある。

 

にもかかわらず、貿易論を専門とする経済学者たちがトパロヴァの論文に脅威を感じたのは、理由がある。伝統的な理論における貿易の恩恵は、リソース(労働者、資本)の再分配に依拠している。ところが貿易自由化の影響を強く受ける地域とあまり受けない地域とで差があることをトパロヴァは発見した。

 

ということはつまり、リソースが当初考えられていたほどたやすくは移動しないことを意味する。人も資本も機会を追いかけて機敏に移動するという見方を捨てなければならないとしたら、貿易はよいものだという信念を持ち続けることはできなくなってしまう。

 

労働者がなかなか他地域へ移動しないとすれば、ある産業から別の産業にもなかなか移らないと考えるのが妥当だろう。インドでは、貿易自由化が貧困削減にマイナスに作用することをトパロヴァは示したが、このことは労働市場にはより極端な形で現れる。というのも、厳格な労働法により労働者の解雇が困難で、不採算企業の市場からの退場も進まないため、元気な企業がなかなか取って代わることができないからだ。

 

さらに、資本もなかなか移動しない。銀行は不採算企業への融資打ち切りを渋るうえ、好調な企業への新規融資にも及び腰だ。融資担当者は自分がゴーサインを出した融資が焦げ付いた場合の責任を取らされることを極端に恐れるため、何も決断しようとしないのである。そこで、過去に誰かが下した決断をそのまま踏襲することになる。

 

唯一の例外が、実際に融資が不良債権になりかかったときである。このとき銀行は何をするかと言うと、さらに追い貸しをするのである。それで古い債務を返済させ、債務不履行の悪夢を先送りし、将来に何か幸運が起きることをひたすら願う。これを銀行業界では 「自動継続」 融資と言う。一見すると申し分のないバランスシートを誇っていた銀行が突如として破綻する原因の多くは、これだ。

 

硬直的な貸し出しは、本来ならとっくに退場しているべき企業が粘り続ける現象を生み出す。それはすなわち、新規参入者の資金調達が困難であることも意味する。とりわけ、不確実性が高い状況(たとえば貿易自由化の直後など)で、そうなりやすい。そのような状況では、融資担当者はますますリスクテークを嫌うからだ。

 

このように経済にはさまざまな形で硬直性がつきまとうことを考えると、国外から大々的に競争相手が押し寄せるといった悪いニュースが到来した場合には、好機到来と歓迎し最善の使途にリソースを移動しようとするよりも、身を潜めて避難し、問題が頭の上を通り過ぎてしまうことを願うほうが、ありそうに思われる。かくしてレイオフが実施され、定年退職した労働者の補充はされず、賃金水準は下がり始めるというわけだ。

 

これは極端なケースかもしれないが、トパロヴァがインドで発見したいくつかのデータは、これに似た状況を示している。まず、貿易自由化の影響を強く受けた地域からの移住はほとんど見られなかった。また同一地域内でさえ、産業間のリソースの移動はなかなか進まなかった。

 

一段と衝撃的なのは、同じ企業内でもリソースの移転が進まなかったことである。インドの多くの企業は、複数の製品を製造している。となれば、安価な輸入品と競合する製品は製造を打つ切り、不利益を被らない製品に注力すればよさそうに思える。労働法で解雇がむずかしい場合でも、企業内での配置転換までは禁じられていない。にもかかわらずトパロヴァは、輸入品と太刀打ちできない製品の製造を打ち切った企業の例を発見できなかった。

 

 

②につづく

 

 

『良い戦略、悪い戦略』 リチャード・P・ルメルト著 村井章子訳(2012年6月22日第1刷)

 

 

 

◇ 第1部 良い戦略、悪い戦略(序章、第1章から第5章) ◇

 

 

 

第5章 良い戦略の基本構造

 

 

良い戦略は、十分な根拠に立脚したしっかりした基本構造を持っており、一貫した行動に直結する。この基本構造を「カーネル(核)」と呼ぶ。カーネルを理解してしまえば、戦略を立てるのも表現するのも評価するのも容易になる。ずばり単刀直入なのが良い戦略である。

 

カーネルは、次の3つの要素から構成させる。

① 診断

状況を診断し、取り組むべき課題をみきわめる。良い診断は死活的に重要な問題点を選り分け、複雑に絡み合った状況を明快に解きほぐす。

② 基本方針

診断で見つかった課題にどう取り組むか、大きな方向性と総合的な方針を示す。

③ 行動

ここで行動と呼ぶのは、基本方針を実行するために設計された一貫性のある一連の行動のことである。すべての行動をコーディネートして方針を実行する。

 

 

それでは、いくつか例を挙げておこう。

① 医師にとって解決すべき問題は、病気の兆候あるいは症状を示し、既往病を持つ患者そのものである。医師は診断を行い、治療法を決める。これは基本方針に相当する。そして、治療法に基づいて、投薬などの一連の行動を調整し、治癒をめざす。

 

② 企業にとって大切なのはやみくもに業績目標を掲げるのではなく、状況を診断して課題の本質をみきわめることである。この診断がついたら、どうすれば最も効率的かつ効果的に対処できるか、方針を決める。そして一連の行動とリソース配分をデザインし、方針を実行に移す。

 

③ 大規模な組織の多くは、内部に問題を抱えていることが多い。つまり外部との競争よりも、時代遅れの業務慣行、官僚主義、既得権益、縦割り組織、旧態依然の経営手法などのほうが深刻な問題となっている。したがって、こうした問題点をみきわめ、組織改革や組織再生の基本方針を打ち出すことが必要である。この方針に基づいて、人事の刷新や業務手続の見直し、権力構造の解体・再編など一連の行動をとることになる。

 

戦略の核は状況の診断。診断で明らかになった課題に取り組む基本方針。基本方針に基づく一貫した行動である。

 

 

 

(1) 診断

同僚のジョン・マメーと私は教育談義をし、戦略コースの授業は質問で成り立っているという話になった。質問を重ねていくことによって複雑な状況を整理し、過去の例との関連性を見出して、解決の糸口をつかめるのだと私が言うと、ジョンはしばらく私の顔を見てから、おもむろにこう言ったものである。「でも君は、クラスで一種類の質問しかしていないように見えるけどね。つまりそれは、いま何が起きているのか、という質問だよ」。実際、戦略を立てる作業の多くは、何が起きているのかを洗い出すことにある。何をするか決めることだけが戦略ではない。より根本的な問題は、状況を完全に把握することである。

 

診断では、少なくとも悪い箇所を特定し、病名をはっきりさせなければならない。断片的な兆候や症状からパターンを割り出し、どこに注意を払い、どれはあまり気にしなくてよいかを選別する。診断によって、目の前の状況のタイプやパターンがわかれば、過去の類似の状況を探してヒントを得ることができる。また信頼できる診断が下されれば、従来の戦略を評価できるようになるので、それを軌道修正したり、状況に応じて方針転換したりすることも可能になる。

 

スターバックスは、アメリカのシンボルと言えるほどに成長した企業である。しかし2008年には、ROAはそれまで14%の高率を誇っていたのに、5.5%前後に落ち込んでしまう。さてここで質問は、これはどの程度深刻な問題なのか、ということである。

 

急成長を遂げてきた企業は、遅かれ早かれ市場が飽和する事態に直面するので、拡大スペースにはどうしてもブレーキがかかる。また、仮にアメリカ市場が飽和したとしても、海外進出の余地はまだあったのではないか。あるいはほかにもっと深刻な問題が隠れているのだろうか。競合店がコーヒーのクオリティを改善したため、スターバックスの強みが薄れてしまったのか。そもそもコーヒー自体のクオリティよりも店舗の立地や雰囲気のほうが重要だったのではないか。さまざまな質問が考えられる。

 

スターバックスでは、ある経営幹部は「顧客の期待にどう応えるかという問題だ」と状況を統括した。別の幹部は「新たな成長の基盤を探すべきだ」と主張し、別の幹部は「競争優位が薄れてきた」と結論づけた。どの見方も、あることに焦点を当て、それとして行動につながるものではない。何より問題なのは、これらの診断が正しいかどうか検証できないことである。どれも、どの問題が重要かを判断しているだけで、事実に基づく診断とは言えない。したがって、どのような結果をめざしてどう行動するかもわかっていなかった。事実を客観的に観察して問題点を把握しておかないと、現実的な戦略を立てることはできない。

 

状況を適切に診断できたことは、複雑な現状が整理され、よりシンプルな形で提示される。この整理された形を見れば、どこに注意を払うべきかがわかりやすい。そして何がほんとうの問題なのかを理解し、解決に向けて前進することが可能になる。

 

また的確な診断は、単なる状況説明では終わらず、どのような行動が必要なのかを自ずと示すことができる。社会学では結果を最も正しく予測できる分析が良い分析とされるが、良い戦略でも多くの場合、望ましい結果への道筋が見通せるような診断が最初に下される。

 

企業経営では、重大な戦略転換が診断によってもたらされることが多い。置かれた状況を従来とは異なる角度から見ることによって、診断の結果はまったく違うものになる。たとえば1993年にルー・ガースナーがIBMのCEOに就任したときがそうだった。当時IBMは深刻な業績低迷に悩まされていた。長らく同社の成功の方程式は、すべてを統合した完全なソリューションを大企業や政府官庁に提供する、というものだった。だがマイクロプロセッサの出現で、業界の様相はがらりと変わってしまう。コンピュータ業界は細分化され、チップ、メモリ、ハードディスク、ソフトウェア、OS等々に特化した企業が続々と出現した。

 

いったいどうしたらよいのか。当時はIBMの社内でもウォール街でも、IBMは図体が大きくなりすぎたという見方がもっぱらだった。新しい業界構造のキーワードは細分化である。したがってIBMも解体し、身軽になるべきだ、というものである。ガースナーが着任したときは、すでに分社化の準備が着々と整えられていた。

 

だが状況を診断したガースナーは、大方の見方とは異なる診断を下す。IBMの問題は、統合メーカーであることではなく、総合的なスキルを活かせていないことにあるのだ、というのがガースナーの見立てだった。むしろIBMはもっと統合化を進めるべきだ、しかしこれからは、ハードウェアではなく顧客向けのソリューションに力を入れていく、とガースナーは宣言する。

 

このとき最大の障害となったのは、社内に横のつながりがなく、行動をコーディネートするのに時間がかかり、まったく俊敏性に欠けることだった。この新たな診断に基づき、すべてを自前で提供できるというIBMの独自性と高度な技術力、そしてブランドを活かして顧客にオーダーメイドのソリューションを提供する、という基本方針が立てられた。何が問題なのかを正しく診断したとき、IBMは新しい方向に進みはじめたのである。

 

 

(2) 基本方針

基本方針は、診断によって判明した障害物を乗り越えるために、どのようなアプローチで臨むのかを示す。ちょうどガードレールのように、基本方針は行動を一定の方向に導き逸脱を防止する。しかしこまかい内容は指示しない。良い基本方針は、目標やビジョンではないし、願望の表現でもない。難局に立ち向かう方法を固め、他の選択肢を排除するのが基本方針である。

 

私が「基本方針」と呼ぶものを戦略と称している企業がかなり多く見受けられる。だが、戦略を基本方針で代用するのはまちがっている。良い戦略とは「何をやるか」を示すだけでなく、「なぜやるのか」「どうやるのか」を示すものであるべきだ。良い基本方針は、埋もれていた強みを引き出し、あるいは新たな優位性の源泉を開発して難局を打開する。いやむしろ、こうした優位性を見つけることこそが戦略の要諦と言えよう。戦略的優位があれば、リソースや行動の効果を何倍にも大きくすることができる。優位と言うとすぐに競争優位を思い浮かべる人が少なくないが、非営利組織や公的機関も、良い戦略によってリソースや行動の効果を高めることができる。

 

現代の企業戦略では、とかく競争に勝つことが最優先され、基本方針なしにいきなり細かい戦術に移ってしまう例が多い。コスト削減、ブランド力の強化、開発サイクルの短縮、顧客情報の収集…。たしかにこれらはどれも、競争優位につながるだろう。だがそれよりも大切なのは、より広い視野から自社の戦略的優位性を探すことである。また、良い基本方針を持つこと自体も1つの優位になる。手当たり次第にいろいろなことを試すのではなく、一貫した行動を呼び起こす。

 

では、基本方針は実際にどのように作用するのかを、身近な例で説明しよう。友人のステファニーは、町の小さな食品店のオーナーで、店に関するあらゆる決断はステファニーが下す。数年前、私は相談を受けた。これからもずっと安値で売りつづけるべきだろうか、地元に多いアジア人学生のためにアジアの食品を仕入れるべきだろか、レジカウンターももう1つ備えたいが、元がとれるだろうか、駐車スペースも必要だろうか、等々。

 

まず何が頭痛の種なのか、診断するようにアドバイスすると、ステファニーは、地元にできたスーパーマーケットとの競合が問題だと答えた。そのスーパーは年中無休のうえ、値段も安い。そういう強敵から客を奪うにはどうすればよいのか。ステファニーによれば、店の客の大半は、地元の学生か、地元企業で働くサラリーマンに二分される。学生は値段重視で、会社員は時間重視で、短時間で買い物を済ませられる点がスーパーよりも好まれている。こうして状況を整理した結果、さまざまな疑問に頭を悩ませていたステファニーの前に明確な選択肢が姿を現した。

 

もちろん、両方のニーズに応える一石二鳥の戦略があるなら、二者択一をする必要はない。だがステファニーの場合、両者のちがいは大きく、二兎を追うのは無理があった。考え抜いた末に、ステファニーは「忙しく働く人たちのニーズに応える」ことを基本方針に選び、さらに具体的に「忙しくて料理をする時間のない人」をターゲットに絞り込んだ。

 

この基本方針が唯一絶対なのか、あるいはベストなのかを確かめる方法はない。だがとにもかくにも基本方針がなかったら、どう行動するかが決まらない。あちらに手を付け、こちらに目を配り、あれをやってはギブアップし、これをやってみる、という具合になっていたにちがいない。重要なのは、基本方針を定めることによって、無数にあった手段の中から方針に沿った行動を選び、一貫性をもって取り組めるようになることである。

 

しっかりした基本方針立てれば、その後の行動が次々に決められるし、いくつもの行動をうまくコーディネートして、目的達成に集中することができる。

 

 

(3) 行動

多くの人が基本方針を戦略と名づけて、そこで終わってしまう。これは、大きなまちがいだ。戦略は行動につながるべきものであり、何かを動き出せるものでなければならない。戦略のカーネルには、行動が含まれていなければならないと私は確信している。

 

 

■   行動へと足を踏み出す

行動を妨げるのは、多くの場合、苦痛を伴う選択は避けられるという当てのない希望である。盛りだくさんの「やることリスト」を作り、全部達成することは可能だと考えたがる人が多すぎる。最も優先すべきことを決めるのは、戦略を立てる中で最も困難な作業である。この作業を完了して初めて行動に移すことが可能となる。

 

ここでは、ある消費財メーカーの欧州事業部を例にとろう。欧州事業部の社長はロンドンに駐在しており、私はそのオフィスに出向いて、同事業部が推進する「汎欧州イニシアチブ」の進捗状況を協議した。経営陣は、自社の欧州事業が細分化されすぎていると感じている。彼らの考えでは、ヨーロッパで売るものは「汎欧州」ブランドであるべきで、そうすれば、製造面でもマーケティング面でも規模の経済をより良く活かすことができる、という理屈である。経営陣は時間とエネルギーを費やして汎欧州製品ラインの必要性を強調し、そのためのメカニズムも用意した。

 

だがこうした努力の甲斐もなく、さしたる成果は現れてこなかった。ドイツとイギリスの開発担当者は、自分たちのプロジェクトに相手が協力しないと互いに非難している。おまけに、ようやく実現にこぎ着けた共同イニシアチブから提案された新製品は、社内からさんざん酷評された。

 

これでは社長が苛立ち落胆するのも無理はない。私は問いかけた。「仮にこの件がほんとうに重要で、会社の存亡がかかっているような最優先事項だとしたら、どうでしょう。あなたは何をしますか」。そしてしばし考えてから「いっそドイツとイギリスの両方とも閉鎖して新しいセンターをオランダに設置するほうがいいな。あそこには試験販売のためのオフィスがあるから、あれをうまく活用できるだろう。だがこれだけでは、問題は解決しない。カントリー・マネジャーが頑固に汎欧州イニシアチブに抵抗している。」と社長は答えた。「彼らはなぜ抵抗するのですか」と私は質問した。「カントリー・マネジャーは長年その国で働いて、特有の事情を理解している。だから、マーケティングのその国に合ったやり方があると信じている。したがって当然ながら、彼らは汎欧州ブランドには懐疑的だ。フランス人いたっては、英国風やドイツ風の製品を売り込むのは時間のムダだと考えている」。

 

「なるほど。カントリー・マネジャーは、自国の事業をうまく運営することが何よりも大切だ。一方であなたは汎欧州イニシアチブを推進したい。この状況から言えるのは、あなたは金槌を使わずに靴の裏で釘を打ち込んでいるようなものだ、ということです。時間をかければ、あるいはできるかもしれない。だが、ほかのやり方を考えるべきでしょう。もしこのイニシアチブがほんとうに重要なら、本来であればどうすべきなのか、あなたにはわかっていると思うのですが」。「もちろんだ。汎欧州ブランドを開発、製造、販売する独立したグループを発足させる」と彼は答えた。「同時に予算配分をそのグループに優先的に行い、汎欧州ブランドへの貢献度を昇進の基準にし、非協力的な行動をとった人間には相応の措置をとるべきでしょう」と私は付け加えた。

 

彼はわたしを見て「それはあまりにも苦痛が大きいやり方だ。有能な人材がさっさと会社を出て行ってしまうだろう。われわれの考えを強調するよりも、大半の社員が賛成するように仕向けるほうが好ましい」とおもむろに言った。「わかりました」と私は同意した。「ほんとうに重要なことであれば、あなたは苦痛に満ちた方法を選ぶ。だがそれは、ほんとうに重要なときだけだ、と。そういうことですね」。

 

彼の抱えていた問題、すなわち汎欧州ブランドを育てたいが、誰にも出て行ってほしくない、という虫の良い願いを叶えてくれる魔法などない。戦略が単なる願望にとどまっている限りおいて、組織内の価値観の対立は容認される。だが行動しなければならないときには、苦渋の選択をしなければならない。そして戦略で最も重要なのは、そこである。

 

この社長の抱えていたのは、製品開発や競争ではなく、根本的には組織の問題だった。問題の本質が何であれ、必要とされる行動は意外にシンプルなものだ。ただ多くの場合、それをやらずに済ませたい、済ませられるだろう、という希望的観測が邪魔をする。おそらく大勢の人が、対立や矛盾をあざやかに解決できる魔法のような方法がきっとあるに違いない、と考えているのだろう。だが、戦略の極意は、本当に重要な問題をみきわめ、そこのリソースや行動を集中することにある。これは、非常に厳しい。何かに集中すれば、それ以外を捨てることになるからだ。

 

 

■   一貫した行動を組織する

戦略が実現する優位性の多くは、一連の行動の一貫性によってもたらされるのである。企業経営における簡単で効果的な戦略は、営業やマーケティングで得た情報や知識を製品の設計や事業の拡張・縮小の判断に活用することである。この場合には、各部門の活動がうまく組み合わされ、一体的に効果を発揮している。

 

ローコストだけが売りのメーカーのように、一見すると単純きわまりない競争優位を持つ企業でも、コスト優位をうまく活用して大きな効果を上げるには、さまざまな行動や現場の方針を巧みにコーディネートする必要がある。

 

一貫性を欠く行動は互いに矛盾をきたして衝突したり、取り組むべき課題から逸脱してしまったりする。たとえばフォードがそうだ。ジャック・ナッサーCEOは、「自動車産業の利益の源泉はブランド力だ」と語っていた。そして、ボルボ、ジャガー、ランドローバー、アストンマーティンという具合に矢継ぎ早に買収を行っている。しかし同時に、規模の経済を追求する同社の基本方針は頑固に維持された。

 

したがって、ボルボとジャガーの設計思想は1つにまとめられ、共通のプラットフォームを使うことになった。しかしこれでは、それぞれの特徴は消され、ブランドの魅力は薄れてしまう。ボルボ好きは「安全なジャガー」など欲しがらないし、ジャガー・ファンは「スポーティーなボルボ」などに興味はない。相次ぐ買収と規模の経済の追求は、矛盾する行動と言わざるを得なかった。

 

私がコンサルタントを務めたある企業は、①オハイオ州アクロン工場を閉鎖してメキシコに製造拠点を新設する、②広告予算を増やす、③360度フィードバック・プログラムを導入する、という「戦略」を立てていた。それぞれの行動は悪くない。だが互いにつながりがなく、相乗効果は期待できそうもない。これらの行動は、会社全体の方向性を決する戦略とは別物である。戦略とは、ある具体的な課題に取り組む行動を連携・集中させるものでなければならない。各事業部の責任者の「やることリスト」を寄せ集めただけでは、戦略とは言えない。

 

さまざまな行動をコーディネートすること自体が、それとして1つの優位性となりうる。この点は、とかく過小評価されているようだ。だが戦略的なコーディネーションは一貫性を実現するものであって、場当たり的な妥協や融通ではない。行動をコーディネートするのは、「近い目標」を立てるのも良い方法である。「近い」とは、とりあえず実現可能な目標を意味する。

 

戦略は結局のところ、コーディネートされた行動があるシステムに強制されるという形で具体化するのである。会社という複雑なシステムはてんでんばらばらに動こうとする傾向があるが、それを抑えて1つにまとめる力が働くという意味で、戦略の力はまさに強制的と言える。行動のコーディネーションは、戦略がない限り実現しないという意味において、組織にとって自然発生的なものではない。このように言うと、現代の教育を受けた人はみな一様に警戒する。権限委譲が進む中で多くの決定がうまく下されているというのに、なぜいま権限集中なのか、というわけだ。

 

だが、権限委譲ですべてが解決するわけではない。とくに行動の主体がそのコストを引き受けない場合、あるいは利益を手にできない場合には、権限委譲はうまく機能しない。コストと利益の分離は、中央と現場の間でも起こりうるし、現世代と将来世代の間でも起こりうる。簡単な例で言えば、営業部門は急ぎの注文に即応して顧客を喜ばしたい。製造部門は生産ラインを長期的に安定し運転したい。だが両方を同時に満足させようというのは無理な相談だ。戦略を立てるときには、両方のニーズを取捨選択し、全社にとってより利益の多い解決を見つけなければならない。

 

とは言え中央での戦略策定と行動の調整が、つねに良いというわけではない。中央で指揮をとるより現場に任せたほうがうまくいくことは多い。中央司令型のイニシアチブは現場の知識や経験や専門性と対立し、思わぬコストを強いられることがある。

 

したがって、 「全社一丸となる」 ような戦略は、得られるメリットが大きいときに限るのが賢いやり方である。すぐれた組織は使い分けをわきまえており、何をやるにも全部門の行動を統率する、といった愚は犯さない。これでは現場に活気がなくなってしまう。通常の活動はそれぞれの部署に委ね、ここぞというときに行動を一点集中するのが賢い戦略であり、賢い組織である。