『絶望を希望に変える経済学』 アビジット・V・バナジー & エステル・デュフロ著 村井章子訳 (2020年4月17日第1刷)
第4章 好きなもの・欲しいもの・必要なもの① [注:差別と偏見について]
(第4章は①から③まで)
自分とはちがう人種、宗教、民族、さらにはちがう性に対する剝き出しの敵意をあからさまに表現する――これが、世界中で台頭するポピュリスト政治家の常套手段だ。2016年のアメリカ大統領選挙では、自分は何よりも白人であるというアイデンティティが、経済に対する不安などよりも、ドナルド・トランプを強力に支持する理由になった。
国を率いる政治家たちが日常的に口にする悪意に満ちた言葉のせいで、それまでなら思っていても口には出さなかったことを人々が公然と話したり投稿したりするようになっている。人種差別を行動に移すことはもはや日常茶飯事だ。
たとえばアメリカのあるスーパーマーケットで白人女性が警察を呼び、そばにいた黒人女性を指差しして逮捕するように訴えた。警察官とのやり取りの中で白人女性は叫んだ。 「こんなことだから壁を建設しなければならないのよ!」 ――この発言は、論理的に考えればナンセンスだ。この黒人女性はアメリカ市民であって、白人女性と同じく仮想の壁のこちら側に属しているからである。
だがもちろん、彼女の言いたいことはわかる。要するにこの白人女性が好きなのは、自分とちがう人種のいない社会、トランプ大統領の大好きな壁が白人と白人以外の間に建設されているような社会なのである。
何が好きかということは、ある意味でその人がどんな人間かを端的に物語っている。経済学ではAが好きかどうかとAをどう考えるかを峻別し、前者をAとBの二項関係で捉えて 「選好」 と表現したりする。ひらたく言えば、海と山、赤と白、どちらが好きかということだ。ただし、双方のメリット、デメリットについて何も知らない状態、つまり情報がない状態ではなく、必要な情報を十分に知ったうえでどちらが好きかを問題にする。
スーパーマーケットの白人女性にしても、自分の好みに論理的な裏付けをする義務などない。好きだから好きなのだ。それでも人種差別の泥沼に落ち込む前に、なぜ人々がそのような好き嫌いをするようになったのか、考えてみる価値は大いにあるだろう。
そうした好き嫌いが何を表しているのか、何に由来するのかを理解しなければ、政策の選択肢を検討することはできないからだ。経済成長、不平等、環境保護などの問題を論じる場合には、人々が本当に必要とするものは何か、その一方で人々は何を望んでいるのか、区別することが必要となる。そして人々が望んでいることを社会はどこまで重視すべきか、という問題を避けて通ることはできない。
残念ながらこの点に関して伝統的な経済学はあまり役に立たない。さまざまな見方や意見に関して人々の寛容つまり許容度に期待するというものだ。賛成しがたい見方だが、人々が正しい情報を得られるよう大声で叫んだとしても、どのみち人は自分の好きなように決めるのである。
さらに主流派経済学では、狭量や偏見に対しては市場がうまくやってくれると期待する。了見が狭い好みを持つ人は、市場では生き残れないということだ。たとえば同性愛に反対で、同性同士の結婚式には断固ケーキを作らないというケーキ職人がいるとしよう。この職人はあらゆる同性婚の結婚式でケーキを売る機会を逸してしまい、チャンスは他の職人に転がり込む。寛容な他の職人は利益を上げ、偏屈なこの職人は損をする、というわけだ。
だが現実は必ずしもそうではない。この職人が失業するとは考えられない理由の1つとして、同性愛を嫌う人たちがお得意さんになってくれることが挙げられる。場合によっては偏見が事業のプラスになることがあるし、どうやら政治についてもそう言えるようだ。こうした事情から、近年の経済学では人々の好みを問題にするようになった。おかげで私たちは有意義な研究成果を知ることができ、差別と偏見の泥沼を脱する手がかりが見えてきた。
■ 好みについて議論すべきではない?
ともにノーベル経済学賞の受賞者でシカゴ学派の重鎮であるゲーリー・ベッカーとジョージ・スティグラーは、1977年に 「好みについて議論すべきではない」 と題する論文を発表した。この論文はきわめて大きな影響力を持つことになった。
好き嫌いはその人の切っても切り離せない一部を形成している、とベッカーとスティグラーは主張する。入手した情報をすべて入念に吟味したあとでもバニラアイスとチョコレートアイスのどちらがいいかといった問題で2人の人間の意見が一致しないことは大いにあり得る。だとすればその判断は、各人に生得的に備わっている何かに由来するのだと考えられる。気まぐれや勘違いではなく、また周囲の圧力に負けたのでもなく、個人に深く根差した価値観に由来するというわけだ。人々がなぜあるものを好み、ある行動をとりたがるかを理解するうえで、これが最善の出発点になりうると主張した。
たしかに人々の選択に一貫性があるという見方には共感したくなる。人間は気まぐれや思いつきで選ぶのではなく、よく考えたうえで選んでいるのだと思いたいからだ。ある人が自分とはちがう行動をとるからと言って、あいつは馬鹿だなどと決めつけるのは、傲慢で不愉快な態度である。
ところが政府は、たびたび人々の選択に横から口を出す。とくに相手が貧しい人々の場合がそうだ。彼らのためになると称して、たとえば現金を渡さずに食料か食料配給券を渡す。そして、彼らがほんとうに必要とするものは政府のほうが知っているのだ、と正当化する。
このような政府の姿勢をいくらかなりとも正そうと私たちは努力した。その一環として前著 『貧乏人の経済学』 [邦訳:みすず書房] では、貧しい人々の選択はこちらが考えるより合理的だと論じている。
たとえばモロッコのある村で暮らす男性は、自分も家族も満足に食べていないと言いながら、大型テレビと衛星放送受信用のアンテナを持っていた。それを見た私たちは最初、彼がテレビを衝動買いして後悔しているのではないかと思った。
だがまったくちがった。 「だってテレビは食べ物より大事でしょ!」 と彼は言ってのけたのである。モロッコの村でしばらく暮らしてみて、この選好が最初に考えたほど理不尽ではないことがよくわかった。村にいると、とにかくやることがあまりない。なにしろ村には、単調な生活に刺激を与えてくれるような社交場はおろか、露店や屋台の類いもないのだから。
だが、大方の人の直観からはかけ離れているし、経済学の標準的な考え方にもそぐはない。経済学者の見方に従えば、家にろくに食べ物がないときにテレビを買ったのだから、今後何かでお金を手にしてもまたしても浪費してしまうだろう、なぜならこの男は不合理な衝動に駆られるタイプだから、となる。貧しい人にお金を渡さないのは、まさにこの見方に基づいている。だが 『貧乏人の経済学』 の出版後に世界各地で行われた多くの研究で、貧しい人々がちゃんとわきまえて選択していることが報告された。
貧しい人の判断力を疑ってかかるのをやめ、自分の欲しいものはちゃんとわかっていると信頼することで、私たちは多くを学んだ。だがベッカーとスティグラーの主張はまだ続く。さらに一歩踏み込んで、好みは周囲に影響されないという意味で不変だと仮定したのである。こう仮定すると、人は社会規範に従うとか、同僚や仲間に影響される、という見方は排除される。みんながタトゥーを入れているから自分も入れるとか、お隣さんがゴージャスな車を買ったからウチも買う、といったことにはならないわけだ。
ベッカーとスティグラーは、つねにこの仮定が当てはまるわけではないことには気づいていた。それでも、一見すると不合理な選択にも実際には意味があるのかもしれないと考えてみるほうが、頭から否定して集団ヒステリーの一種だと片付けるより役に立つだろうと考えたのである。この考え方は経済学界に瞬く間に浸透し、大半の経済学者が、個人の選好は首尾一貫しているのだ、むしろ一貫した選好こそが標準的な選好なのだと考えるようになる。
たとえば数年前にアビジットはこんな経験をしている。当時彼は自宅のあるマンハッタンからお隣の州のプリンストン大学まで教えに行くために電車を利用していた。プラットフォームでは大勢の人が列を作って待つ。しかしあるとき、列の位置が必ずしも電車のドアの位置と一致しないことに気づいた。
となればこれは一種の群衆行動である。すぐに思いつくのは、みんながやっているのと同じことをしておけば安心だという心理から、すでにできている列に並ぶ、という説明である。だがこれは、選好を首尾一貫しているとの見方に反する。なぜなら、プラットフォームのどの位置に立つかという選好が、他人の行動に左右されることになるからだ。
そこでアビジットは次のような説明を考えた。人々は、他人が何か有用な情報を持っているのではないかと考える。そこですでにある列に加わる。すると列がさらに長くなるため、次に来た人は、これだけたくさんの人が有用な情報を持っているならそれに従おうと考える。人々は無条件に他人の行動に従う気はないのであって、他人が自分より有用な情報を持ち合わせていると判断したのである。つまり列の位置は、彼らの合理的な意思決定の結果ということになるわけだ。アビジットはこれを 「群衆行動の単純モデル」 と呼ぶ。
ただし個人の選択が合理的だからと言って、結果が望ましいものになるとは限らない。群衆行動は情報カスケードを生むことがあるからだ。情報カスケードとは、最初の人の判断基準になった情報が過大な影響力を持ち、その後に続く人々は自分の持っている情報を無視してまで最初の人の行動に倣う現象を指す。
最近行われた実験では、レストランなどのクチコミサイトを活用した。実験では、投稿されたばかりのコメントの中からランダムに2つ選び、一方には直ちに賛成票を投じ、他方には直ちに反対票を投じた。これをジャンルや時期別に繰り返すと、最初に賛成票を投じたコメントにはその次にも賛成票が続く確率が、最初に反対票を投じたコメントより32%高いことがわかった。もとの投稿自体を何万人もの人が閲覧しているにもかかわらず、最初のほんのちょっとしたナッジ [人々が自発的に特定の行動を選択するように促すしかけや工夫] があとあとまで強い影響力を発揮し続けたということだ。
以上のように群衆行動は、首尾一貫した選好という概念と必ずしも矛盾しない。他人の行動は、自分の好みを変えなくても意見や行動を変えさせることはあり得るからだ。だが人間は、直接自分の利益にならないとわかっている行動(たとえば好きではないタトゥーを入れる、逮捕される恐れがあるのにイスラム教徒のリンチに加担する、など)を、単に仲間がやっているからという理由でやることがある。これはどう説明したらいいのだろうか。
■ 集団的行動
群衆行動が首尾一貫した選好の点で合理的とみなせるのと同じく、社会規範に従う行動も合理的とみなすことができる。その理由はこうだ。社会規範に反した人は、社会に帰属する他の人々から罰せられる。もし罰すべき立場の人が罰しなかったら、罰しなかった人は社会に帰属する他の人々から罰せられる。罰しなかった人を罰すべき立場の人が罰しなかったから、罰しなかった人は社会に帰属する他の人々から罰せられる・・・・・・からである。
ゲーム理論の偉大な功績の1つに、フォーク定理がある。これは非協力ゲーム(囚人のジレンマなど)を一回限りではなく無限に繰り返す場合には、互いに協力することが均衡解になるという定理である。この定理が論理的に立証されたおかげで、人々がなぜ社会規範に固執するのかの説明にも応用が可能となった。
女性初のノーベル経済学賞受賞者であるエリノア・オストロムが調査した事例の多くは、小さな地域社会や共同体のものだ。たとえばスイスのチーズ生産農家、ネパールの林業従事者、スリランカの漁師などである。こうした小さな村で暮らす人々は村の掟つまり社会規範に厳格に従う生活を送り、その掟を継承している。
たとえばアルプス地方では、チーズ生産農家は数世紀にわたり、牛を放牧する牧草地を共同所有している。村の全員に共通理解がなかったら、この方式は破綻しかねない。野放図に牛を放牧したら、牧草は食べ尽くされてしまうだろう。だが村には牛の所有者がやっていいことといけないことについて不文律があり、誰もがそれに従う。なぜなら、違反したらもう自分の牛を放牧できなくなってしまうからだ。こうしたわけだから、集団的な土地所有は、各農家が私有地を持つよりも好ましいとオストロムは主張する。土地を小さな区画に区切ってそれぞれの農家が所有する場合、自分の区画だけに何かが起きるリスクを各戸が負わなければならないからだ。
多くの発展途上国で土地の一部が共有財産になっていることも、これで説明がつく。フォーク定理は、村の人々が助け合いの精神で結ばれているように見える構図にも利己的な理由が隠されていることを示す。村人たちが困った隣人を助けるのは、将来自分が困ったときに助けてもらえるだろうと期待する、という理由もいくらかはあるだろう。規範は維持するために、助けの手を差し伸べなかった者は村の助け合いの輪から排除されるという罰を受ける。
この互助のシステムは、一部の村人が村の外に何らかの活路を見出せる場合には破綻しやすくなる。この場合、村八分にされることはさほど脅威ではなくなるので、義務を怠る誘惑に駆られることになる。それを見越した村人たちは彼らを助けようとしなくなるので、義務をないがしろにする誘惑はますます高まる。かくして互助システムは崩壊し、誰もが不幸にあるだろう。こうしたわけだから、地域社会や共同体では掟破りに厳重な注意を払い、規範を脅かすような行動を厳しく取り締まる。
■ 集団的反応
経済学者は一般に共同体が果たす役割のプラス面を強調する。だが共同体固有の規範が自主的に守られるからと言って、つねによいものだとは限らない。規範破りに科される罰が、保守的さらには暴力的、破壊的な方向に向かうこともある。
いまや古典と位置づけられるある著名な論文は、人種差別とインドの悪名高いカースト制度はどちらも同じ論理で維持されうることを示した。実際には人種やカーストによる差別を誰もしたくなくても、である。
実際には誰もカースト上の身分など気にしていないとしよう。だが性交渉や結婚でカースト上の身分を踏み越えた者は、通婚の禁止に違反したとされ、社会から追放される。そうなれば誰もその人の家族と結婚してはならないし、その人と友達になったり付き合ったりしてもいけない。さらに、その掟を破って追放された人の家族と結婚した人もまた社会から追放される。
こうした状況では、カースト自体をどう思うにせよ、自分の将来を考える人は敢えてカーストの決まりを破ろうとはしないだろう。もちろん、大勢の人が規範を否定し始めれば社会は変わるはずだ。だがそうなる保証はどこにもない。
■ 博士と聖人
このように、共同体は人々を結びつける一方で、反抗する者を罰する。これは大昔から世界のどこでも見受けられる現象だ。国家レベルで言えば、国は個人を保護する一方で、共同体を壊す。パキスタンからアメリカまで現在さまざまな国で進行中の対立は、その表れである。
独立後のインドン歴史は、カーストで厳格に差別された身分の統合という点でまずます成功を収めたと言ってよいだろう。たとえば、長年にわたり不利益を強いられてきた被差別カースト(「指定カースト」 および少数民族である 「指定部族」)と上位カーストとの賃金格差は、1983年には35%だったのが、2004年には29%まで縮まっている。これは、同時期のアメリカにおける黒人と白人の賃金格差の縮小を上回る成績なのである。
インドがこれだけの格差縮小に成功した理由の一因は、やがてインド憲法の草案を書くまでになるのだが、生まれはカーストの最下層で、地元の学校に入ることすら認められなかったビームラーオ・アンベードカルがアファーマティブ・アクション [差別是正措置] を導入したことにある。
歴史的に差別されてきた集団について入学や雇用の受け入れ枠や目標値を定め、教育や就労、さらに議員になる機会が保証された。経済改革も寄与している。都市化によって人々の匿名性が高まると同時に、村のネットワークへの依存度が下がったおかげで、異なる身分同士が混ざり合うことが多くなった。新しく出現した産業ではカーストに関係なく雇用機会が提供され、そうなると低いカーストの若者たちにとっても教育を受けるインセンティブが高まる。
だからといってカーストの問題が解決されたというわけではない。地元レベルでは、カーストに根ざす偏見がいまなおしぶとく残っている。インドの11州565村を対象とする調査では、法律で禁じられているにもかかわらず、80%の村で最下層民への差別が何らかの形で残っていることが確かめられた。
約半数の村では、ダリットと呼ばれる最下層民は牛乳を売ることができず、約3分の1の村では、地元の市場では何も売ってはならない。彼らはレストランではちがう食器を使わねばならず、井戸も使用できず、接触、接近も忌避されていた。2018年3月には、グジャラート州のダリットの若い農夫が馬を所有したという理由で撲殺された。馬を所有したり乗り回したりするのは上位カーストにだけ許される行為と考えられていたためである。
また、カーストの遵守が重視されている地域では、共同体が構成員を監視し、法的権限もないのに罰を与えるといったことも日常的に行われている。地方では、パンチャーヤトと呼ばれる地元の長老会議が大きな影響力を持っており、伝統の名の下に州法に頑強に抵抗する。
たとえばチャティスガル州では、65歳の男にレイプされた14歳の少女が、地元の長老会議から警察に言うなと口止めされた。それでも彼女が訴えると言い張ると、女性を含む村の年配者たちから暴行されたという。このように、強力な共同体は最も弱いメンバー(かつてはダリット、現在は若い女性という具合に)を抑圧する。これに対して国はほとんど無力だ。なにしろ共同体に属す大半の人々は、集団的な監視や懲罰を維持することが自分たちの利益に適うと考えているのである。
■ 「黒人が国民に変革を求めた」
これは、有名な風刺新聞オニオンの2008年の見出しである。この見出しは、バラク・オバマがアメリカの大統領候補になったことがいかに注目すべきことかを強調するものだ。黒人の物乞いはほんの小銭(チェンジ)をねだるのに、訴求力のあるリーダー、オバマは文化や意識の変革(チェンジ)を求めた。
1963年に行われた人種差別撤廃を求めるワシントン大行進から、アメリカ初のアフリカ系アメリカ人大統領の誕生までにわずか45年しか経っていないことを忘れてはならない。
その一方で、今日のアフリカ系アメリカ人は教育を受けた人が1965年と比べてはるかに多いにもかかわらず、教育水準が同程度の白人と黒人の間の賃金格差は拡大の一途をたどっている。今日では格差は30%近くに達している。
アフリカ系アメリカ人は、社会的地位が上方移動する速度が白人より遅く、下方移動する速度が白人より速い。この現象は、黒人男性の受刑率が際立って高いこととあきらかに関係がある。しかし、居住地や学校などに根深く残る分離とも関係があるだろう。
今日では黒人に対する敵意があからさまに(すくなくとも以前より素直に)表現されるケースが増えてきた。連邦捜査局(FBI)によると、ヘイト・クライムの件数は横ばいか減少傾向にあったが、2015年から増加に転じて3年連続で増え続け、2017年には17%増を記録したという。ヘイト・クライムの5件に3件が民族を理由にするものだったこともわかった。2018年の中間選挙では、白人至上主義者を公言するか、白人至上主義者と密接な関係にある候補者9人が出馬している。
■ 今回はちがう
とはいえ2016年の大統領選挙以来、アメリカでしきりに口にされるようになったのは、アフリカ系アメリカ人に対する憎悪よりも、移民に対する憎悪である。それは、経済的な脅威をはるかに超えた感情のように見受けられる。
移民は 「われわれの」 仕事を 「奪う」 だけでなく、 「犯罪者で強姦犯」 であって、白人の生存自体を脅かすという。興味深いのは、アメリカの中で移民が少ない州ほど、移民を憎む傾向が強いことだ。移民がほとんどいない州(ワイオミング、アラバマ、ウェスト・バージニア、ケンタッキー、アーカンソー)の住民の半分近くが、移民はアメリカの文化と価値観を脅かすと考えている。
こうした現象は2016年以前もあったが、トランプが勝利した大統領選挙以降、憎悪を堂々と口にすることに抵抗がなくなったように見受けられる。アメリカには何度も移民の波が押し寄せている。そのたびに移民たちはこのような拒絶に遭い、最終的にアメリカ社会に受け入れられてきたのだと考えれば、すこしは心が休まるかもしれない。いまや 「イタリアの種馬」 ロッキーはアメリカ人のヒーローだし、ピザは5種類の食品グループの1つに数えられている。
同じ現象がフランスでも見られた。フランス人はまずイタリア移民を拒絶し、次にポーランド移民を、さらにスペイン移民やポルトガル移民を拒絶した。しかしいまでは彼らはフランス社会に定着している。だがフランス人は、次の移民の波が押し寄せて来るたびに 「今回はちがう」、今度こそ押し戻すと考えたものである。そして2016年にはイスラム教徒が拒絶の対象になっている。
こうした選好や姿勢はいったい何に由来するのだろうか。前に来た移民を受け入れた経験があるというのに、なぜ新しい敵を探し求めるのだろう。
■ 統計的差別
他の集団に対して頑固な敵意を示す行動には、ベッカーとスティグラーの標準モデルの延長線上で単純な経済学的説明がつく可能性もある。
たとえば暴動や威圧などの行動は、経済的な目的に適っていることがある。1950~2000年にインドで起きたイスラム教徒に対するヒンドゥー教徒の暴動は、発生する都市と年度が偏っている。イスラム教徒の共同体が繫栄しているときに起きやすく、ヒンドゥー教徒の共同体が繁栄しているときにはあまり起きない。無差別攻撃のように見えたものも、実際にはイスラム教徒の商店などが狙い撃ちされていることがわかった。それらの攻撃の多くは、窃盗のカモフラージュだったのである。
さらに、経済学者が統計的差別 [statistical discrimination] と呼ぶものがある。統計的差別とは、過去の統計データに基づいた合理的判断から結果的に生じる差別のことだ。
私たちがパリでウーバーを利用したとき、その運転者はいかにウーバーがすばらしいか熱く語ってくれた。アフリカ系の自分がこんな立派な車を運転していると、以前は麻薬の密売人か車を盗んだのだろうと決めつけられたという。大方のフランス人は、フランスにいるアフリカ出身者は貧しく、したがって新車など買えないと考えている。これ自体は統計的事実に基づく合理的な判断だ。ところがその判断に基づき、大方のフランス人は、新車に乗ったアフリカ人はだれでも犯罪者だとみなしていた。だがいまは、ああ、ウーバーの運転手か、と考えてくれる。これはすごい進歩だというのである。
アメリカで警察官が黒人ドライバーを頻繁に止めて職務質問をするのも、統計的差別で説明がつく。また、ウッタル・プラデシュ州の州政府(ヒンドゥー教徒が要職の大半を占める)はこのほど、州警察に 「偶発的に」 殺された人々の多くがイスラム教徒だったことを認めたが、これも統計的差別で説明できる。犯罪者の中では黒人とイスラム教徒の比率が高いため、イスラム教徒と見ると犯罪者とみなしてしまうということが起きるわけだ。
このことは、剥き出しの人種差別と見えるものも、実際にはそうではなく、人種なり宗教なり関連づけられる何らかの属性(麻薬密売人、犯罪者など)を標的にした結果だと解釈できる。したがって統計的差別は、古くからある偏見(経済学者は好みに基づく偏見と呼ぶ)とは異なり、理由が存在する。
アメリカでは23州が、求職者に犯罪歴を訊ねることを禁止するいわゆるバン・ザ・ボックス法を施行している。ボックスとは採用時の書類審査に設けられたチェック欄のことで、 「あなたは有罪判決を受けたことがありますか」 という質問に答えることを求職者に要求する。
ここにチェックマークを入れただけで排除されるのは不当であるとし、雇用機会の均等を保障するために、バン・ザ・ボックス法はこうしたチェック欄の設定を禁じている。23もの州がこの法律を導入したのは、若い黒人男性の雇用を増やしたいという狙いもある。若い黒人男性はそれ以外の人々と比べて有罪判決を受ける確率が高く、また失業率は全国平均の2倍に達している。
では、バン・ザ・ボックス法は、実際に若い黒人男性の就労率を押し上げる効果があったのだろうか。最近、2人の研究者がこの点を確かめる調査を行った。彼らは1万5000件の架空の応募書類をニュージャージー州とニューヨーク市に雇用主に、それぞれ法律施行直前と直後に送付した。応募書類には、それぞれ白人に典型的なファーストネーム、アフリカ系アメリカ人に典型的なファーストネームを記入して、人種がはっきりとわかるように操作を加えてある。また法律施行前に送付した著類では、有罪判決の質問欄にイエスのチェックマークをランダムに入れた。
調査の結果、全般的に黒人に対するあきらかな差別が認められた。応募書類の内容が同じであっても、架空の白人応募者は、書類審査に合格して面接に進む確率が黒人応募者より23%高かった。また当然ながらバン・ザ・ボックス法施行前の調査では、応募書類の内容が同じであっても、有罪判決を受けたことのない架空の応募者は、チェックマークを入れた応募者より書類審査の合格率が62%高かった。つまり、チェックマークを入れると書類段階で門前払いを喰わされる可能性が高いということである。この点に関する限り、黒人と白人に大差はなかった。
しかし驚くべき結果がでたのは、バン・ザ・ボックス法施行後の調査である。なんと、書類審査の合格率に関して人種による格差が広がったのだ。法律施行前では、チェックマークを入れた白人応募者の合格率は、やはりチェックマークを入れた黒人応募者より7%高いだけだった。
ところが施行後は、この差が43%に拡大したのである。理由は、こうだ。有罪判決に関する情報が何もない状況で、雇用主が確実に知っているのは、黒人のほうが白人より有罪判決を受ける確率が高い、という統計的事実だけである。したがってこの事実に基づいて判断すれば、黒人は雇わないに越したことはない、ということになる。言い換えればバン・ザ・ボックス法の導入で、雇用主は人種だけに依存して犯罪歴を予想することになった。その結果が統計的差別というわけである。
第4章 好きなもの・欲しいもの・必要なもの② につづく