『良い戦略、悪い戦略』 リチャード・P・ルメルト著 村井章子訳(2012年6月22日第1刷)

 

 

 

◇ 第2部 良い戦略に活かされる強みの源泉 (第6章から第15章) ◇

 

 

 

第7章 近い目標

 

 

リーダーが戦略実行に使える強力な手段の1つは、近い目標を定めることである。近い目標とは、手の届く距離にあって十分に実現可能な目標を意味する。近い目標は、高い目標であってよいが、達成不可能ではいけない。

 

だが不幸なことに、近年ではどうやって達成するのか皆目わかっていないような目標を、実現可能だとして掲げる傾向が強まっている。たとえば麻薬撲滅運動はその1つだ。麻薬の追放がいかに望ましいとは言え、司法制度や警察の現状を見る限り、近い目標とは言い難い。この目標の達成に向けて多大な努力が払われたものの、とるに足りない密輸業者を摘発した挙句に路上取引の価格をつり上げ、暗躍する麻薬カルテルの儲けを増やすだけの結果に終わっている。

 

 

■ 曖昧さをなくす

ケネディが月面着陸計画を発表してから2年後、私はNASAのジェット推進研究所(JPL)のエンジニアと仕事をすることになった。そこで私は、すぐれた近い目標には組織のエネルギーを結集させる驚くべき効果があることを学んだ。

 

当時JPLが抱えていた大きな目標の1つは、無人の月面探査機「サーベイヤー」の開発である。月面は軟着陸させ、月面の調査、写真撮影、離陸試験などを行うことが目的だった。サーベイヤーの設計チームにとって最も悩ましい問題は、月の表面がどうなっているのか、誰も知らないことである。あれこれ思い悩むばかりで、設計作業は一向に進まない。探査機の設計ができないのではなく、さまざまな脅威を思い浮かべると、どれか1つに決められないのである。

 

当時、JPLで研究主任をしていたフィリス・ブワルダは月面の研究で知られており、最終的にJPLの技術陣は、フィリスが作成した月面模型に基づいて探査機の設計を進めることになる。

 

初めてこの模型を見た時、私は驚いて口走った。

「フィリス、これは、アメリカ南西部の砂漠にそっくりだね」

「そうよ、いけない?」とフィリスはにっこり笑って答えたものだ。

「ちょっと待ってくれよ」私は狼狽した。「それじゃあ君は、月がどうなっているのか何も知らないことになるじゃないか。なぜあんな模型を作ったんだ?」

「まあまあ、落ち着いて」とフィリス。「月面がこうだと条件を指定しない限り、技術者は何もできない。仮に月面がこれとはまったく違っていたとしても、どのみち長期滞在するわけではないのだし、問題ないわ」

 

つまり、こういうことだ。フィリスの模型は真実ではない。真実はその時点では誰も知りようがなかった。だから、技術者がプロジェクトを先へ進められるような近い目標を戦略的に選んだのである。これは、賢明なやり方だった。月面の状況に関してあらゆる可能性を網羅した詳細分析など行っていたら、探査機の設計のみならず、月面着陸計画そのものが危うくなっていただろう。

 

フィリスの月面探査は、曖昧さの大半を解消し、設計チームの直面する問題を単純化した。問題が容易に解決できるようになったとは言わないが、少なくとも解決可能になったのである。

 

「条件を指定しない限り、技術者は何もできない」というフィリスの慧眼は、組織的に行う仕事の大半に当てはまる。どんなプロジェクトでも状況が完全に解明されていることはめったにない。このようなとき、リーダーは複雑で曖昧な状況を整理して、何とか手のつけられる状況に置き換えなければならない。だが多くのリーダーがここでつまずいてしまう。何に取り組めばよいのか曖昧にして、むやみに高い目標を掲げてしまうことが多い。「最後の責任は自分がとる」と言うだけでなく、近い目標を設定してチームが動けるようにすることがリーダーの大切な使命である。

 

 

 

■ 足場を固めて選択肢を増やす

戦略本の多くが、状況が流動的になったらリーダーはより先を見越して手を打たなければならない、と説く。だが、このような指示は論理的とは言えない。状況が流動的になればなるほど、先は見通しにくいからだ。したがって、絶えず変化する先行き不透明な状況では、むしろより近い戦略目標を定めなければならない。

 

目標は将来予測に基づいて立てるものだが、将来が不確実であるほど、遠くを見通すよりも「足場を固めて選択肢を増やす」ことが重要になる。

 

〔近い目標を立てるための質問〕

「もしたった1つの目標しか選べず、その目標は実現可能でなければならないとしたら、どれを選びますか。実現したときに最も大きな違いを生み出せるのは、どの目標でしょうか」

 

 

■ 目標設定には階層がある

近い目標は階層組織の下位へと送り込まれるだけでなく、時間軸に沿っても送られていく。ある国、ある組織、あるいはある個人にとっては近い目標も、他の国や組織にとっては、必ずしも近い目標とはならない。これは、持ち合わせているスキルやリソースに違いがあるからだ。ヘリコプターの操縦を例にとって説明しよう。

 

私は、若い頃に戦闘ヘリのパイロットで、ベトナムに従軍した後レスキュー隊で働いたこともあるPJからヘリコプターの話をしてもらおうと、こう言ってみた。

「ヘリコプターは飛行機よりも安全なはずだ。万一エンジンが止まっても、降下しつづけながらオートローテーションができるから、ちゃんと着陸できる。そうだろう?」

PJはフフンと鼻を鳴らした。

「エンジンが止まった瞬間に、コレクティブピッチ・レバーを操作して回転翼をフルダウンし、左のペダルを話して右のペダルをいっぱいに踏み込み、メインローターの回転力を得る。高速で降下してしまうのを防ぐには、これだけの操作をほぼ1秒でやらなければならない」。そして一呼吸置いてから付け加えた。「もちろん、この操作は可能だ。だが、考えていたらできない」

「自動的にできなければならないということかい?」と私は聞いた。

「全部というわけじゃないよ。エンジンが止まってしまったら、いろんなことをやらなくちゃいけない。いちばん大事なのは、どこに着陸するかを決めて、そこまでスムーズに降下していくことだ。こいつには全神経を集中しなければならない。だがヘリコプターを操縦する動作のほうは、機械的にやれなくちゃだめだ。何も考えずに操作できるからこそ、危機に注意を集中できる」

「ヘリを飛ばすには、いろいろな装置を絶えず調整する必要がある。簡単じゃないが、訓練すればできるようになるし、経験を積めば自動的にできるようになる。そうなったら、次に夜間飛行を学ぶ。昼間が先で夜間は後だ、逆はあり得ない。そして、夜間飛行が問題なくこなせるようになったら、次に編隊飛行を学び、さらに戦闘訓練に移る。どれもこれも完全にマスターし、何も考えずに自動的にできるようになったら、強風が吹く中で夜の山中に着陸するとか、揺れる船の甲板に着艦するといった練習を始められるだろう」

 

はるか昔に操縦桿やレバーやペダルの操作に習熟してしまったから、着艦のタイミングをみきわめることだけに専念できる。あることにだけに集中する、すなわち最重要課題に優先的に取り組むためには、他の重要なことがクリアにできていなければならない。PJがヘリと船のタイミングを合わせることだけに集中できるのは、初歩から始めて段階を踏み、飛ぶことがすでに機械的にできる作業になっているからである。

 

このように、近い目標とは梯子を上るようなものと考えることができる。最初の段にしっかり足をかけなければ、次の段に上がることはできない。とりわけ、たくさんのスキルを必要とする場合にそう言える。

 

 

 

 

『良き社会のための経済学』 ジャン・ティロール著 村井章子訳 (2018年8月24日第1刷)

 

 

 

◇ 第Ⅲ部 経済の制度的枠組み ◇

 

 

 

第6章 国家

 

 

国家の役割を考えるに当たっては、社会にとっての市場の問題点と政府介入の限界を洗い出す必要がある。そのためにまず少し後戻りし、社会がどのように建設されてきたかを振り返りたい。

 

 

1  市場の失敗

 

 

市場擁護論者は、市場の効率性と完全性を主張する。彼らの主張はこうだ。まず効率性について言うと、自由な競争は企業をイノベーションへと駆り立て、財やサービスを安価に提供させる。それによって購買力は向上する。このことは、とりわけ貧困層や中流層にとって意味があるという。

 

市場の完全性は、効率性に劣らず重要である。政治や文化の自由によって人々は多数派による抑圧から守られる。まさにそれと同じように、起業や取引の自由によって、市民は、政治に働きかけて特権を手に入れ社会的利益を犠牲にする既得権益団体の横暴から守られる。

 

計画経済を採用した国の生活水準と、市場経済を選んだ国の生活水準の甚だしい格差は、1989年にベルリンの壁が崩壊したときに、全世界にあきらかになった (今日でも、北朝鮮と韓国の間には1対10の格差がある)。

 

いまや、経済的自由の価値を疑う余地はない。そうは言っても、市場にはたくさんの欠点がある。まずは失敗の全体像を把握するために、基本的な質問を1つ提示しておこう。売り手と買い手の双方が合意した取引が、なぜ社会にとって問題を生じるのか。先験的には、両者が合意したからにはこの取引は両社に利するはずだ。それなのに、なぜ政府が干渉しなければならないのか。

 

市場の失敗は、おおざっぱに次の6つに分類できる。

 

(1) 何らかの取引が、合意に参加していない第三者に悪影響をおよぼす。

環境汚染がその代表例だ。企業は、消費者のために製品を生産する際に、環境を汚染することがある。だが、影響を被る人たちを守る市場のメカニズムは存在しない。人々は一方的に被害を受け、我慢しなければならない。だから市場を環境保護政策で補う必要がある。この根拠により、環境省や原子力庁といったものに権限を与えることが正当化される。

 

(2) 取引の中には、買い手が十分な情報を得たうえで合意したわけではないものがある。

熟慮吟味のうえで合意に達するためには、買い手が正しい情報を提供される必要がある。買い手は、医薬品にせよ他の製品にせよその危険性を知ることができないし、うかうかと詐欺商法にだまされてしまうこともある。そこで、消費者を保護し、不正を監視する機関が必要になる。取引は、暴力の脅しなどにより強制されて成立することもありうるし、当事者能力のない人に押し付けられることもある。こうしたことは、言うまでもなく、許されるべきではない。

 

(3) 買い手は自ら選んで自分に損害を与えることがある。

人間は、自らの将来を犠牲にしてまで現在の快楽を選ぶことがある――だからといって、けっして将来を台無しにしたいわけではない。そこで、タバコや脂っこい食品や甘い嗜好品に税金をかけることが正当化され、薬物の取引が禁じられる。またある種の耐久消費財については頭を冷やす期間(クーリングオフ)を設けて、消費者をのぼせた自分自身から(あるいは断り切れないセールスマンから)保護している。また多くの国で人々に退職後の蓄えをしておくこと(退職積立金)を奨励しているのも、同じような理屈からだと言えよう。つまり人間は、目先の快楽のために遠い将来の備えがおろそかになりやすいと考えられている。

 

(4) 取引の実行が個人の能力を超えてしまうことがある。

あなたが銀行にお金を預けているとしよう。銀行との契約では、一定の手続きに従って預金を引き出せることになっている。だが、あなたが預金を引き出そうとしたとき、銀行が倒産していたら、どうだろう。まさにお金を必要とするそのときに、あなたは途方に暮れることになる。もちろん理論上は、銀行を日々監視し、財務諸表に目を通し、経営不振の気配を察知したらすぐさま預金を下ろしたりすることは可能だ。だが少し考えれば、このようなやり方がうまくいかないことはすぐわかる。そこで実際には、銀行や保険会社を監督する機関が置かれて、あなたが毎日監視しなくてもよいことになっている。さらに万一の破綻の際には、国家の保険機構が、一定額までは預金の保障をしてくれる。

 

(5) 企業が市場の力を悪用することがある。

企業は、消費者に法外に高い値段を払わせたり、品質の悪い製品を買わせたりすることができる。規模の経済などの理由からその企業が市場を独占しているときには、とくにそうなりやすい。市場の力を支えるのは競争の権利と業界規制であり、そのために独占・寡占や反競争的商習慣を監視している。

 

(6) 市場は効率の権化だとしても、そのことは平等を保証しない。

健康保険を例にとろう。共済組合や社会保障制度において、健康保険契約に差別を設けることを容認したらどうなるだろうか。たとえば現在の健康状態や家系の遺伝データに基づいて、あなたは癌になりやすいとか病気がちな家系だと判断され、妥当な保険料では保険に加入できなくなるかもしれない。これは、経済学に古くからあるテーマだ。情報過多は保険を殺すのである。このためほとんどの国の法律では、ある種の個人情報に基づいて健康保険に留保条件を付けることを禁じている。

 

また市場は、社会にとって望ましい所得の分配をしなければならない理由は、いっさい持ち合わせていない。税引き前所得の不平等は、グローバル化した今日の世界では是正されず、一国の富がイノベーションに依存する度合いは高まる一方だ。だが不平等は、正義と効率という2つの観点から高いものにつく。

 

まず正義について言うと、市場経済における不平等は、それ自体が保険の不備と見ることができる。私たちがまだ生まれる前で、社会における自分の将来の位置づけを知る前の状態にいるとしたら、個人の努力が報われることによって、人々が全体のゆたかさに貢献したくなるような社会を望むだろう。だが同時に、もし自分が不運な境遇に生まれついても、尊厳を持って生きられるような社会をも望むだろう。この意味で社会契約はたった1つの保険契約とみなすことができ、こうした保険が用意されているということが、所得税によって再分配を行う根拠となる。

 

次に効率についてだが、不平等は不運な境遇に生まれつく「運命のリスク」を伴うだけでなく、非効率を招きかねない。不平等は社会の絆を断ち切り、外部不経済を生む。安全が脅かされ、スラム街が増殖し、弱い立場に追い込まれた人々は排他思想に流されやすくなる。こうした社会不安の影響からは、恵まれた人々も逃れられない。世界のあちこちに、防犯のためのゲートを設け周囲にフェンスを張り巡らしたゲーテッドコミュニティ(要塞都市)と呼ばれる住宅地区があることをご存じだろうか。その姿は不平等の負の影響をまさに体現しており、運命リスクに対する保険の不備だけでは片付けられない問題だと感じさせる。

 

 

 

2  市場と国家の相補関係

 

 

公の場の議論では、市場擁護派と国家擁護派がしばしば対立する。どちらの側も、市場と国家は相争っていると考えているからだ。だが実際には、市場がなければ国家は市民を(適切に)養っていくことはできないし、市場は市場で国家を必要としている。起業の自由を守り、司法制度を通じて契約の履行を保障するためにも、またその失敗を修正するためにも、国家が必要だ。

 

長いこと社会という組織は、次の二本の柱に支えられていると(暗黙のうちに)考えられてきた。第一の柱は、競争市場という「見えざる手」である。この言葉はアダム・スミスが『国富論』(1776年)の中で使ったことで一躍有名になった。見えざる手は、個々人の利益追求の結果として経済効率が高まることを表した言葉である。つまり競争市場においては、売り手も買い手も規模が小さすぎて価格操作ができないので、価格は、需要と供給が一致して市場が均衡したときの水準に落ち着く。このときの取引の利益が実現し、社会における効率的なリソース配分が行われたことになる。

 

第二の柱は、国家による市場の失敗の是正である。先ほど説明したように、市場には6つの失敗がある。国家は経済主体に責任を負わせ、また国家が連帯責任を負う。この考え方を強く支持した経済学者に、イギリスのアーサー・ピグーがいる。彼はケンブリッジでケインズの師だった人だ。ピグーは1920年に『厚生経済学』を著し、「汚染者負担の原則」を提唱した。

 

国家による市場の失敗の是正には限界があるのだが、この考え方に筋が通っていることは強調しておきたい。国家はゲームのルールを決め、プレーヤーに責任を持たせる。プレーヤーはそのルールに従い自己利益の追求をしてよろしい (というよりも、追求しなければならない)。

 

環境汚染の例で考えてみよう。国家は、企業に対して汚染するなと要求するのではなく、「もし二酸化炭素を1トン排出したら、これこれの料金を払ってもらいます。排出するか払うかは、あなたが決めなさい」というふうに言う (もちろんこれは脚色である)。すると自らの選択が社会に与える影響に最終責任を負う企業は、要求された二酸化炭素排出基準を守りつつ、生産性の向上に全力投球することができる。

 

スミスとピグーの業績は、自由主義や株主価値という概念の基礎なった。重要なのは経済主体が社会的費用(外部不経済)と自らの選択について責任を負うことである。

 

 

■    国家の失敗

市場と国家の関係を分析すると、市場は国家の代わりにはならず、国家も市場の代わりにはならないこと、両者は相互に依存していることがわかる。市場がうまく機能するには、国家がうまく機能することが必要だ。逆に、失敗国家は市場の効率に寄与できないし、もちろん市場の失敗を埋め合わせる手段を講じることもできない。市場と同じく国家も、さまざまな理由からたびたび失敗する。

 

最大の理由は、利益団体の圧力に負けてしまうことだ。大方の人が思い浮かべるのは、ちょっとした依怙贔屓や少しばかりの便宜を図ってやる(たとえばその業界に将来のポストを約束する)ことで政治家と業界が共謀状態になるといった構図だろう。だがそのようなことは氷山の一角にすぎない。もともと政治家の側には、次の選挙で当選したい、再選されたいという強い動機がある。そこに次の2つの要因が重なって意思決定を歪めやすい。

 

1つは、政治家には有権者の先入観と無知無能力に付け入る誘惑が大きいことである。これについては後段で論じる。もう1つは、圧力団体の便宜を図る政治的コストが、それ以外の大多数の人(納税者、消費者など)には見えにくいことだ。その一方で圧力団体のほうには、自分たちの得られる利益がじつにはっきりと見える。この情報の非対称性は、特定業界への優遇措置を意図的にわかりにくくすることによって一段と強化され、一般の人々に選択を誤らせる。

 

このような行為の責任をとらせるのはなかなかむずかしい。責任追及が容易な部門とそうでない部門がある。たとえば、公共輸送部門の失敗は直ちにわかる。これに対して、国や地方自治体の帳簿外の借り入れやさまざまな事業の公営化(長期債務を抱え込むことと事実上同じである)は、有権者にはなかなかわからない。

 

最後に、裁判管轄が絡んでくるため、市場の失敗は必ずしもうまく修正されないことを指摘しておきたい。国際的な合意が成立しない場合、市場の規制は必然的に国ベースで行わざるを得ない。国内で児童労働を禁じることはできても、遠いよその国に禁じることはできないのである。

 

 

 

3  政治の優越か、独立行政機関か?

 

 

国家の介入の必要性を説くだけでは、十分ではない。どのように介入するかということも慎重に考える必要がある。フランスでは、選挙で選ばれた議会と選挙の洗礼を経ていない独立行政機関(AAI:日本の独立行政法人に近い)の分業ほど扱いのむずかしい問題はないと言ってよかろう。

 

大統領選挙のたびに、ポピュリズムに出し抜かれることを恐れる右派や中道左派は、経済的決断における政治の優越性をポピュリスト以上に強調し、国内の規制機関や欧州中央銀行(ECB)の独立性に疑義を呈する。選挙のとき以外でも世論はひんぱんにECBを批判するほか、公正取引委員会などの競争当局も槍玉に挙げる。すると競争当局は競争の維持という強迫観念に取りつかれ、かえって経営者の手から競争する自由を奪いかねない。

 

政治権力からの独立は、けっして目新しい問題ではない (たとえば英国からの裁判官の独立は1701年王位継承法に遡る。また三権分立は、1787年のアメリカ合衆国憲法に定められた)。だがここ30年ほどで進められた改革の顛末と、独立行政機関に対する執拗な攻撃を目の当たりにすると、政治からの独立の根拠と意義を改めて問い直す必要を強く感じる。

 

司法の独立は、政治や社会の目的を決めるのは政治や社会だという、きわめて基本的なことを示している。一方、社会が「正義」をどう定義するにせよ、司法の目的である「良き正義」が最もよく保証されるのは、独立した裁判官が行う場合である。かくして司法の独立は、健全な民主主義を象徴する要素の1つになっている。

 

同じことが、経済政策の決定にも当てはまる。経済学が扱うのは手段であって、目的には関与しない。このため、独立機関に他の選択肢の評価やその技術的解決を委託するわけだ。こうすることで、政策当局には政策の一貫性が保証され、独立機関には圧力団体からの独立が保証される。

 

 

■    なぜ独立行政機関なのか?

たとえば、独占的な地位や買収合併を利用して市場の競争を脅かすようなケースが、大臣の執務室で経営者と議論になったとしよう。そこは政治の場であるから、経済的根拠が正しいかどうかと同じくらい、両者の個人的関係に結論が左右されることになりやすい。

 

しかし独占禁止法の適用を独立行政機関に委ねれば、ゲームの様相はすっかり変わる。なれ合いやお目こぼしは姿を消し、規制する側とされる側は合理的な論拠と確かな事実に基づいて議論することになる。経済理論にも出番が回ってくるわけだ。

 

こうした独立機関が下す決定の中には賛同できかねるものもあるが、それはここでは問題ではない。重要なのは、独立機関は強い反論に遭うにしても、そこで問われるのは議論の質であって、力関係ではないということである。したがって下される決定は、少なくとも大臣の執務室よりは質の高いものになる。独立機関が下す決定の質をより高めるために、われわれ経済学者は研究の質を高め成果を広く共有すること、独立機関のほうは専門知識を深め分析を精緻化することが望ましい。

 

選挙偏重の弊害を挙げておこう。銀行危機やソブリン危機は、しばしば不動産のせいにされる。世界のどの国でも、政府というものは国民に家を買わせたがる。それ自体は避難すべきことではないかもしれない。だが政府が住宅の購入を奨励すれば、どうしても金融機関は住宅ローンの審査を甘くしやすい。返済できそうもない人にまで貸してしまう。そうした借り手は、たとえばローン金利が上昇したり、住宅価格が下落したりすると、ローンを返せなくなって路頭に迷うことになる。

 

アメリカで大惨事を引き起こしたサブプライム危機についてはさんざん議論されたが、じつは同じようなことはヨーロッパでも起きている。たとえばスペインがそうだ。スペインでは2008年までに住宅バブルが膨れ上がっており、それが破裂したときには借り手はもちろん、住宅産業や銀行 (カハスと呼ばれる貯蓄銀行)、最後は国民全体に影響が波及した。銀行を救済したために政府債務は積み上がり (危機前は対GDP比40%未満だった)、結局は国際通貨基金 (IMF)、 ECB、 欧州連合(EU)に助けを求めることになった。失業率はとくに若年層で急上昇し、高い社会的コストを払わされる結果となった。

 

貯蓄銀行をはじめとする銀行部門の脆弱性がスペイン危機の重要な要因だったことはまちがいない。しかしスペインの銀行の監督機関(中央銀行であるスペイン銀行の中にある)は世界でもきわめて優秀だと評価が高く、多くの中央銀行がそう認めている。

 

この監督機関は2005年頃に早くも、住宅バブルのリスクを見抜いていた。しかもまだ強気相場が続いているうちに、世界に先駆けて市中銀行に引当金の積み増しを求めたのである (この積み増し分がなかったらスペイン危機がどれほど悲惨になったかは、想像にあまりある)。ところが中央銀行が状況判断を下したあと、市中銀行に住宅ローン・リスクを減らすよう指導する役割は政治に委ねられた。ここで、人気取りが慎重を上回ったというわけだ。

 

 

 

4  行政改革

 

■    新しい国家の概念

国家の概念は変わった。かつては国家と言えば公職に国民を雇用し、国営企業を通じてモノやサービスを提供する機関だった。これに対して近代国家はゲームのルールを決め、市場の失敗を是正するために介入しても、市場の代わりはしない。企業経営に不向きの国家は、規制機関になったと言えよう。国は市場がうまく機能しない領域で責任を引き受け、機会の平等、健全な競争、公的資金に依存しない金融システム、企業の環境保全義務の徹底、国民皆保険、労働者の保護(失業保険、職業訓練など)などの実現に努める。

 

公共支出の増加は避けられないものではない。現にスウェーデンは、1991~97年にGDP比10%まで切り詰めることに成功している。民間委託を増やし、公務員の数を1990年代に40万人から25万人まで減らしたことが大きい。省庁には戦略立案、予算折衝、議会審議の準備に携わる数百人規模しか残さず、通常業務は独立した専門機関に委託し、雇用と報酬の決定権も与えた。

 

ドイツ、オランダ、北欧諸国、カナダなどには、公共サービスや社会保障の膨張を防ぐ社会民主主義の伝統がある。これらの国々が公共サービス支出を一定水準に抑えることに成功したのは、単一の総合政策によって改革を実現させたからだ。個別の改革というものは、なかなかうまくいかない。改革で損をする業界の利益団体が猛反対する一方で、改革の恩恵を受ける側はそのことをよく知らなかったり、無関心だったりするからだ。包括的な改革であれば、損をする人も多いのだが、パイ自体を非常に大きく見せることができる。

 

 

■    公務員の削減

行政改革では、お手本となる国でもやっているように、まずは公務員の数を制限すべきである。1つには言うまでもなく経費削減のためだが、もう1つには、情報技術の進歩によって以前ほど人手がいらなくなっているからでもある。

 

ところがフランスでは減らすどころか、2000~13年に15%も増えている。何らかの公共サービスを始めるとなると、フランスではまず公務員を雇うことを考える。民間委託方式に比べ、人材活用の仕方が硬直的だと言えよう。EUの統計局ユーロスタットによると、2010年の公共部門の雇用数はフランスでは530万人だが、ドイツはフランスより25%ほど人口が多いにもかかわらず、450万人にとどまっている。

 

労働市場が長らく低迷しているフランスのような国では、公務員の削減は後回しになりがちだ。政治家、とくに地方の首長は、たとえ公務員の数が多すぎるような自治体であっても、新たな雇用機会を創出するよう絶えず圧力をかけられている。なにしろ次の選挙で勝てるかどうかは雇用次第なのだから。だが肝に銘じてほしい。国や地方自治体が公共サービスを拡大してよいのは、そのための増税ができるときだけである。増税をしてまでサービス拡大を認めるかどうかは社会の選択である。ただし、次の2つの点に注意を促したい。

 

第一に、公務員の雇用を増やしても、端的に言って雇用の創出にはならないことだ。その報酬をまかなうために増税をするとなれば、その増税分を誰かが負担しなければならない。たとえば社会保障税を引き上げるとしよう。民間部門でつくられるモノやサービスはその分だけコストがかさむことになる。すると競争市場にいる民間企業としては、人減らしをしてコストを抑制せざるを得ない。したがって公務員の増員を正当化できるのは、質の高い公共サービスの提供が求められている場合に限られる。公務員を増やすときは、この基準で検討しなければならない。

 

第二に、増員が必要になった場合には契約ベースで増やすべきである。恒久的に身分を保障される公務員を今日雇ったら、報酬を手当てするための増税は、今年1年だけでなく40年におよぶ。そのうえデジタル革命によって不要になる仕事は増えているし、今後も増えるだろう。そう考えれば、公務員を新規に採用するのは無謀なことだと言えよう。

 

 

■    支出を減らし、賢く使う

アウトソーシングや契約社員方式以外にも、経費を節減する方法はいろいろある。フランスではとりわけ問題なのは、地方自治体の数がむやみに多いことだ。フランスの人口はヨーロッパ全体の13%にすぎないのに、自治体の数では40%を占める。

 

議員の数も多すぎる。アメリカの上院は非常に活発に活動しているが、議員数は100名である。一方、アメリカの上院に相当するフランスの元老院は、人口がアメリカの5分の1にもかかわらず348名もいる(下院に相当する国民会議は577名)。国民1人当たりの議員数でみると、アメリカはフランスの10分の1である。個人的には、フランスの議員数を大幅に減らす代わりに、専門知識を備えたスタッフを増やすのがよいと考えている。

 

ただし、拙速は禁物である。一般的には、 「カナダ方式」 でプロジェクトの経済性を検討するのがよいだろう。これは、プロジェクトごとに次のような的確な質問を検討するやり方である。そのプロジェクトは公共の利益に資するか。答がイエスだとして、他の公共部門または民間部門で提供可能ではないか。かかるコストは妥当か、コストがもっと少なくて済む方法はないか。聖域を設けずに問いを重ねることが重要である。この種の質問をつねに意識し、議論することで、意外な解決の道が開けることも多い。自国の公共サービスを他国と比較し、彼我の差がついた原因を究明するのも良い方法である。税金の徴収方法は適切か。医療の費用対効果はどうか、等々。

 

カナダの場合、連坊政府が財政再建に着手し、1993~97年に公的支出を19%に削減したとき、医療、司法、住宅、移民など社会的なプログラムの予算はほとんど減らさず、企業向け補助金を60%削減するとともに、産業運輸省の予算を半分に減らしている。国の予算編成は、必要な支出を積み上げていく方式ではなく、目標ごとに割り当てるべきだ。国家が国民に奉仕し、国民のために何をすればよいかを考えることから改革が始まる。

 

行政改革の最後に、行動の改革を挙げておきたい。ここでは、いくつか例を挙げるにとどめよう。まず、公的な手続きの簡素化 (統一フォームの採用など)、ペーパーレス化、電子化をもっと進めなければならない。手続き処理はもっと効率化し、費用対効果分析を組織的に行う必要がある。フランスの職業訓練制度も改善の余地が大きい。ドイツのように、対象者を社会的弱者に限定し企業のニーズに沿ったものにすべきだろう。雇用政策の下で十分な効果を挙げられるよう、制度の簡素化と評価の組織化も必要である。

 

 

■    いまは時期が悪い?

外国の改革の事例から、いくつか学ぶべき教訓を挙げておこう。

第一に、大胆な改革は可能である。

第二に、改革は継続性がなければならない。多くの国では公の場で少なからぬ反対が起きても、社会制度の持続性は国全体の利益になるという観点から実行に移されている。政権交代があって野党が権力の座に就いても、改革に継続的に取り組むことが必要だ。

第三に、十分に市民に説明したうえで迅速に行われた改革は、選挙でも受けがよい。カナダのジャン・クレティエンは13年連続で、スウェーデンのヨーラン・ペーションは11年連続で首相を務めている。

第四に、フランスでは景気が低迷しているいま改革するのは時期が悪いといった声をよく聞く。だが改革の大半は、まさに景気後退期に行われている。

 

スウェーデンの改革は、金融危機の真っ只中で可決された。同国では金融バブルが崩壊し、1990年初めに大手銀行を中心に相次いで金融機関が経営不振に陥った。GDPは1991~94年に5%減となり、失業率は1.5%から8.2%へ上昇。さらに財政赤字が1994年に対GDP比15%に達したときに、短期間で実現したのである。

 

フィンランドの改革もほぼ同時期に行われている。同国にとって重要な貿易相手国であるソ連が崩壊した直後のことだった。またドイツでシュレーダー改革が行われたのも、困難な時期だった。東西ドイツの統合がなかなかうまくいかず、社会保障制度も人口構造面で問題を抱えていた。ほかにも多くの例を挙げることができる。困難な状況は改革を促すのであって、くじくのではない。

 

 

第7章 企業、統治、社会的責任 につづく

 

 

『子どもの貧困対策と教育支援』 末冨 芳 (2017年9月30日第1刷)

 

 

 

◇ 第2部 当事者へのアプローチから考える教育支援 ◇

 

 

 

第11章 高校内居場所カフェから高校生への支援を考える / 末冨 芳 (日本大学) 田中俊英(一般社団法人Officeドーナツトーク)

 

 

 

1  サードプレイスとしての高校内居場所カフェ

 

 

学校の中にカフェがある。先進国を見渡せば、高校だけでなく、小学校や中学校にだってカフェがあることは珍しくない。イギリスでは幼稚園・小学校や中学校にコミュニティカフェがあることも珍しくない。教職員や子どもの保護者・住民がそれぞれお客さんだったり、カフェの店員さんだったりする。

 

日本の高校にだってカフェがある。大阪西成高校の 「となりのカフェ」 がそのはじまりだ。2012年に1つの高校からはじまった大阪府内の高校のカフェは、2015年に21校まで増えた。21校は、非行、メンタルやフィジカルな障害、不登校経験者などさまざまな困難を抱える生徒の多い、明らかに 「しんどい」 高校だ。

 

カフェを含め、家でも学校・職場でもない場所がサードプレイスと言われる。日本語では居場所、というほうが通りがよいだろうか。学校の中でも、生徒たちがほっと一息つけるサードプレイスをめざしてカフェはつくられた。

 

 

■ 高校内居場所カフェはどのような場所か?

大阪府の高校内カフェは、とくに困難を抱える生徒が多い高校に、居場所となるカフェを設置する。大阪府の場合、カフェ委託を受けたNPOによって運営されている。スタッフは高校生にも近い若い年代のお兄さんやお姉さんも多い。

 

西成高校の 「となりのカフェ」 は週2回の運営で、昼休みと放課後にカフェがオープンする。場所は、学級からは少し離れた部屋を使っている。開催時間に生徒たちがやってきて、ドリンクを飲んだり昼休みにはパンや弁当を食べながら、生徒同士やカフェスタッフとにぎやかに話す生徒もいれば、まったりしているだけの生徒もいる。

 

カフェの主役である生徒は、不登校経験があったり、人とコミュニケーションをとるのが苦手な 「ぼっち」 だったり、時々ご飯を食べていなかったりする。友達と普通にしゃべっていても友達には言い切れない影が見え隠れする生徒もカフェに来る。

 

その背景には、貧困や虐待など、家庭の抱える課題が隠れているが、いまの高校は教員が熱心だけれど忙しすぎて、非行や不登校などのわかりやすい課題を抱えている生徒以外の生徒が見逃されがちになる。カフェがなければ、ひっそりと高校を退学してしまったり、理由はわからないのに、ある日突然学校に来なくなってしまうような生徒たちがカフェの常連でもある。

 

不登校対策や非行対策、つまり生徒への 「指導」 として特別に設定されたものではなく、日常の生きづらさをかかえ (主として家庭環境)、内面にも思春期青年期の葛藤をかかえ、友人関係で悩む多くのハイティーンたちにとって、校内にある居場所カフェはなんとなく気分が紛れるものとして存在する。またカフェのスタッフが、虐待やクラスメートとのトラブル、ときには学校外でのケンカや借金の相談、アルバイトが決まらないという悩みなど、生徒たちの小さい変化やつぶやきから、それぞれの抱える課題を見出し、学校に発信したり、必要なら外部機関での支援にもつなげていく。

 

問題が大きくなってからの 「指導」 ではなく、その前の段階での 「課題発見」 や、不登校や校内トラブルの 「予防」 的機能をカフェは持つ。また、居場所カフェによって貧困や虐待問題が発見され、高校ソーシャルワーカーやカウンセラーによって支援環境が整備されていく、 「支援の起点」 ともなる機能がそこにはある。

 

高校内居場所カフェの体制や効果の検証を行った 「『高校内における居場所のプラットフォーム化事業』 調査研究事業報告書」(特定非営利法人み・らいず 2016, p.8)によれば、2015年の21か所の高校内居場所で1455人の生徒が支援対象となっている。大阪の年間高校中退者数は国公私立合わせて5593人、不登校状態の高校生は7415人 (ともに2014年度)。高校内居場所カフェの取組みによって、中退・不登校のリスクが懸念される高校生に1000人以上の規模で何かのサポートができる仕組みが整っている、という状況が生まれているのはとても良いことではないだろうか。

 

 

■ サードプレイスの大切さ

高校内居場所カフェは、中退や不登校を予防したり生徒を支援したりすることは表に出さず、とにかく居場所であるということを大切にしている。教員は滅多なことでは高校内居場所カフェに入ってこない。自分の部屋が家になかったり家が居場所でない (家=ファーストプレイスがない)、それほど優秀ではない自分を 「指導」 したり 「評価」 したりする教員がいない (職場=セカンドプレイスでも居心地が悪い)、そんな高校生にとって家でも学校でもない居場所(サードプレイス)が身近な距離にあることは、困難を抱えて生きてきた高校生がこれからも生きていくうえでとても大切だ。

 

家庭に余裕があれば、部活の部屋や帰り道のフードコートがサードプレイスになるかもしれない。でも学校が終わればアルバイトや幼いきょうだいたちの世話や家事が普通になっている貧困層の生徒にとって、学校外の居場所にアクセスすることは難しい。本当に厳しい世帯の高校生は、家にひきこもる余裕すらない場合もある。だからとりあえずでも、毎日通っている高校の中に居場所となりカフェをつくるというアイデアが大切なのだ。

 

クリスマスやバレンタインのシーズンに合わせて生徒たちとスタッフがカフェを飾るデコレーションをワイワイつくる。アートやDIYのイベントも時々開催している。学校的な芸術活動・体験活動では教師の指導というタテの関係が介在してしまうが、高校内カフェでは、スタッフと生徒同士、隣り合って同じアートをつくるヨコの目線のアートだからこそ楽しさもある。

 

厳しい環境で育ってきた生徒ほど価値観も狭く、世の中に関する知識も少ない。だからこそ、高校内カフェで、大人になる前に少しでもいろんなカルチャーや価値観に触れることは、生徒たちが高校を出たあとの人生を少しでもいいものにしていくために大切なのだ。

 

 

 

2  高校生居場所カフェの設置経緯

 

■ Officeドーナツトークと大阪府青少年課、西成高校の出会い

大阪府における高校生居場所カフェは、一般社団法人Officeドーナツトークのスタッフの辻田さん、田中さんのアイデアと、西成高校、大阪府青少年課・地域安全質青少年課が2012年に出会ったことで誕生している。

 

Officeドーナツトークによる高校生居場所カフェのアイデアには、前身となる団体での不登校・ひきこもりの子ども・若者の支援の経験が反映されている。ひきこもり状態にある若者の中には、高校中退者がたくさんいて、そもそも中退をくいとめる高校生支援が、ひきこもりの予防という視点からも大切ではないかという思いもあって、高校内に居場所をつくるというアイデアが出てきた。

 

大阪府では、子ども・若者育成支援推進法(2014年4月1日施行)の成立を受け、ひきこもりや不登校状態にある青少年のための有効な施策を、本格的に検討する中で、やはり学校からドロップアウトする前に外部機関との効果的な連携を行うことが重要と考えた部局としての判断を行っていた。2011年度にひきこもり相談支援ネットワークをつくる事業を青少年・地域安全室青少年課(以下、青少年課)が立ち上げ、支援NPOとの連携が可能な状態になっていた。

 

高校内居場所カフェは、大阪府立西成高校で開始されたが、2012年度前後の西成高校も校長のリーダーシップのもと教職員全員で校内改革に取り組んでいた。そんな状況の西成高校の肥下教諭(当時)が、田中さんの講演を聞き 「実は、西成高校では居場所つくりにニーズがあるんです」 という話から、西成高校に高校内居場所カフェを設置する話が本格化した。

 

その後、西成高校 「となりカフェ」 に手ごたえを感じた大阪府青少年課は、高校内居場所事業を拡大してきた。高校内居場所カフェは2013・2014年度に8校、2015年度に21校まで広まった。2017年度以降は教育委員会の所管する継続事業となっていく可能性を持った新しいステージに入ったのである。

 

 

■ 西成高校 「となりカフェ」 のはじまり

学校の教職員が頑張っているのに、なぜカフェが必要だったのだろう。西成高校では2人担任制が採用されている。しかし、2人の担任は学級内でいつも注目しないといけない非行の生徒、個別の支援や保護者との連絡調整が必要な不登校の子と、発達障害等の知的精神的な面での障害のある生徒たち、この3つの課題を持つ生徒たちをカバーするだけで、手いっぱいという状況になる。

 

こうした状況の中で、2012年当時の山田校長から、Officeドーナツトークに説明があったのは、非行、障害、不登校の生徒たちは、学校で教師が見られるとして、その予備軍みたいな子が数十名いる、その予備軍に対して何らかのアプローチをしないといけないと思いながら教員は手いっぱいで多が出せない。ここを何とか外部の支援に手伝ってもたえたらありがたいという議論が校内でわき起こっていたという状況だった。

 

2012年度に設置した 「となりカフェ」 も最初は、今みたいに何十人も生徒が来るわけではなく、理解ある教師たちの何人かに、ちょっと気になる生徒をひとりふたりと連れてきてもらって、相談室で辻田さんをはじめとするスタッフがドリンクを準備して、そこでぼそぼそ日常の会話をする、そんな小さい取組みから始めてきた。週2回、小さい取組みでも、必ず昼休みと放課後に開くようにしてぼちぼちと始めたのが、 「となりカフェ」 のはじまりだったそうだ。高校はたいていそうだ、生徒数も教職員数も多いので、あまり大急ぎで初めて先生方の理解を得ないまま取組みが進むと、居場所カフェの役割に誤解が生じてしまう、だからこそゆっくりと始めていった経緯がある。

 

生徒たちも、内心はドキドキしながらカフェに入ってくる。そして生徒たちを、やはりドキドキしながら居場所カフェにつなげる学校の先生方にも敬意を表したい。ともすれば閉鎖的になりがちな学校現場では、高校の中にカフェができたというだけで、面白くないと考える教員もゼロではない。教育学者として長年学校現場に接してきた私には、それがよくわかる。でも、この居場所カフェにつなげば、何か変わるのではないか、そんな淡い期待と、もしそれで状況が改善しなければという不安の中で、前に進む教員の勇気も、課題を抱えている高校生の支援にとってはとても大切なことだと思う。

 

 

 

3  学校と居場所カフェのつながり

 

 

教員は滅多なことではカフェに来ない、教員とカフェのスタッフは生徒の前では話さない、西成高校の 「となりのカフェ」 の運営で学校側も居場所カフェ側も気を使っている暗黙のルールがこの2つだ。そして、この2つは多くの居場所カフェが意識しているルールだと思われる。

 

教員もわかっていると思うが、 「指導」 や 「評価」 を仕事にする教員が日常的に出入りする場所は、困難を抱える高校生にとってほんとうの居場所とはならない。また、教員の仲間だとわかってしまう大人には心を開かないのも、課題を抱える高校生に共通している。

 

しかし、学校と居場所カフェスタッフの連絡体制はとても丁寧に行われている。カフェでの生徒たちの様子については、とくに課題がない日でも、口頭やメモで丁寧に状況の共有が行われる。情報共有をするのは重要で、あらかじめ生徒のバッググラウンドを把握できるからこそ、居場所スタッフが生徒を日常のカフェでのんびり過ごさせることができて、危険の察知も、ある程度早い段階で気づくことができる。

 

田中さんによれば、居場所カフェは週2回か週3回の開催が望ましいという。生徒たちの生活の様子を見るには、1週間という期間での変化を把握することが必要だからだ。たとえば、週2回の居場所に2回とも同じ服で来ていたり、昨晩家に帰ってない様子だったり、食事を友達に分けてもらっていたり、そうしたきっかけから、居場所カフェスタッフ同士が相談して、日々の情報共有のほかに 「それはやっぱりちょっと問題やな」 と思った段階で、あらためて教員に情報をあげていくというアプローチが採用されている。

 

教員が個人面談が難しい生徒については、カフェスタッフや府立高校スクールソーシャルワーカー(居場所カフェ運営団体の職員がスクールソーシャルワーカーとして大阪府に非常勤採用されている場合もある)が、学校側の許可を得たうえで個別面談するケースもあるという。

 

 

 

4  高校内居場所カフェから高校生への支援を考える

 

 

話を原点に戻そう。高校内居場所カフェは、目立った生徒ではないけれど、何か課題を抱えている、でも教員も手一杯で面倒を見きれない、そんな生徒たちを学校とも家とも違う居場所につなぐことで、虐待等の 「課題発見」 や不登校や校内トラブルの 「予防」 的機能を担っている。

 

ただ居場所カフェをつくればいい、のではない。学校とのつながりや、ケースによっては学校外の支援機関との連携も必要となる。困難を抱える高校生のためにつながりをつくる、学校の中に対しても、学校の外に対しても、このつながりのつくり方が、今も今後も高校生支援のためには大切だ。

 

学校の主役は生徒だけれど、生徒と関わる主役はやはり教員だ。教育困難高校における教員の負担はあまりに大きい。高校支援チームが、課題を抱える生徒の支援を専門的に担当することで、教員も忙しさに押しつぶされそうになる毎日から、たくさんの生徒と親身に関われる日々に変化していくはずだ。

 

 

第12章 ユースソーシャルワーカーによる高校生支援 につづく

 

 

『絶望を希望に変える経済学』 アビジット・V・バナジー & エステル・デュフロ著 村井章子訳 (2020年4月17日第1刷)

 

 

 

第4章 好きなもの・欲しいもの・必要なもの③ [注:差別と偏見について]

 

 

(第4章は①から③まで)

 

 

好きなもの・欲しいもの・必要なもの①

好きなもの・欲しいもの・必要なもの② のつづき

 

 

■   インターネットの問題点

政治的二極化現象がインターネット以前から存在していたことは事実にしても、人々の政策の選好やその表現方法にSNSやインターネットがおよぼす影響が非常に大きいことは否定できない。これは好ましい現象とは言いがたい。

 

インターネットでは、信頼できるニュースソースが報道する前に、根も葉もない噂がでっち上げられて拡散しやすい。この場合、若い人ほどインターネットには嘘や誇張がはびこっていると知っていので鵜呑みにしないが、長年にわたりテレビを信用してきた高齢層はそうした噂を聞くとだまされやすいという傾向がある。

 

ほかにも懸念すべきことがある。第一に、SNS上でニュースが出回るようになると、信頼性の高いニュースの取材や制作が行われなくなることだ。フェイクニュースをこしらえるのはじつにお手軽だしコストもかからない。ある調査によると、フランスのニュース・サイトに掲載されたコンテンツの55%はよそからのカット&ペーストだったという。しかも出典を明記していたのは5%にも満たなかった。ジャーナリストのチームが丹念に取材して報道したニュースが瞬時に他のサイトにカット&ペーストされるとしたら、情報の発信元はどうやって報われるのか。

 

アメリカではこのところジャーナリストの数が減っているのも無理はない。2007年には5万7000人近くいたジャーナリストは2015年には3万3000人まで落ち込んだ。正しい情報を伝える 「公共空間」 の提供を使命とするジャーナリズムを支えてきた経済モデルは、急速に崩壊しつつある。こうして事実にアクセスできないとすれば、人々はますますフェイクニュースにどっぷり浸かることになる。

 

第二に、インターネットは無限の反復を許容する。エコー・チェンバー現象が問題なのは、同類の考え、つまり自分にとって心地よい意見ばかりに触れることだけではない。そうした意見に繰り返し繰り返しいつまでもさらされ続けることも問題である。

 

フェイクニュースの発信者は、まずフェイスブックを発射台に使う。と同時に、生身の人間にお金を払って 「いいね!」 をつけさせ、注目が集まるようにする。するとメッセージは繰り返され、拡散され、一人歩きをするようになる。これが際限なく繰り返されるうちに、冷静になってその情報が正しいかどうか確かめようと言っても、誰も聞く耳を持たなくなるというわけだ。

 

それどころか、最後に真実があきらかになっても、すでに偽情報に基づいて世論は真っ二つに分かれており、もはや取り返しがつかないこともめずらしくない。たとえば、トランプ大統領がメキシコ人についてのべつ口にすること(メキシコ人は麻薬の売人だとか強姦犯だという類)ばかり頭に焼き付き、移民の犯罪率とアメリカで生まれ育った人の犯罪率にさして差がないという事実は忘れられてしまう。

 

これほど効果的だとなれば、世の中に「もう1つの事実 [alternative fact]」つまりは虚偽情報を流したくなるのも当然だろう。2016年の大統領選挙では選挙運動期間中にトランプに好都合なフェイクニュースが115件もネット上に流れ、3000万回も閲覧された (クリントンに好都合なフェイクニュースもあったが、閲覧数は800万回にとどまった)。

 

第三にインターネットのコミュニケーションではとかく揚げ足取りやあら探しがされやすいため (ツイッターはとくにそうだ)、単純化した単刀直入な表現が好まれ、経緯や背景の説明が省略されがちで、注意深い慎重な議論の規範が失われつつある。その結果、ツイッターは汚い言葉や強引な宣伝の格好の実験場になってしまった。選挙コンサルタントなどは最も先鋭的な主張をまずツイッターで流し、反応を見て、すくなくともターゲット層で手応えがあれば選挙戦術に活用するといったやり方をしている。

 

第四に、インターネットでは自動的なカスタマイズが行われることも懸念すべき点だ。今日ではニュースを選ぶ必要がそもそもなくなってきている。高度なアルゴリズムが機械学習による予測技術を駆使して、検索履歴などに基づき、こちらから探す前に「あなたはこれが好きなはず」というものを差し出してくれるからだ。その目的は、端的に言って、ユーザーにできるだけ多くの時間をそれに費やしてもらおう、ということである。

 

フェイスブックは2018年に、ニュースフィードのアルゴリズムについて釈明と変更の約束を余儀なくされた。過激で挑発的な投稿ほどよく読まれると多方面から指摘さたことを受け、友人や家族からの投稿をメディアより上位に表示すると約束した。

 

だがフェイスブックにやってもらうのを待つまでもない。カスタマイズはいまやあたりまえになっている。公共ネットワークのナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)のアプリでさえ、自動化された音楽レコメンデーションサービスを提供するご時世だ。過去の履歴に基づいてあなたの大好きな(はずの)音楽を流してくれる。あれである。かくしてNPRは聴きたい音楽だけが流れるエコー・チェンバーそのものになった。

 

それのどこが問題なのか。大いに問題である。第一に、自ら選んだ場合にはすくなくとも選んだのは自分だということを意識するが、自動配信されたら何も意識しないことだ。たとえば自分のお気に入りのソースの記事を好んで読む人は、自分にある種のバイアスがかかりやすいことをそれなりに認識しているはずだ。自分が選んでいれば、このソースは右寄りだとか、左寄りだとかわかっているだろう。だがアルゴリズムにおまかせの場合、どのソースから収集してくるのかを気にしなくなるので、気をつけて読む必要も忘れがちになる。

 

 

■   一緒に走ろうよ

お互いの言うことに耳を貸さなくなったら、民主主義は意味を失い、選挙は次第に部族投票のような様相を呈して来るだろう。みんなが自分の部族に忠誠を尽くし、政治的主張を注意深く聞いて判断するのではなく、とにかく同じ部族の候補者に票を投じるようになる。そうなれば勝利するのは最大規模の部族の代表者または部族の取りまとめに成功した指導者だ。たとえそれが倫理的に疑わしい人物であっても、である。

 

いったん権力を掌握してしまえば、支配者は自分の支持者たちの経済的・社会的便益にすら配慮する必要がない。なぜなら、有権者は他の部族に優位を奪われることを極端に恐れるので、どんなにひどい指導者でも自分の部族出身者なら従うからだ。そのことをよく知っている支配者は、国民の間に恐怖を植え付ける。最悪の場合にはメディアを支配下に置いて反対意見を言えないようにしてしまう。ハンガリーのオルバーン・ビクトル首相がまさにそうだ。

 

ここまでに論じてきたように、他人に対する反応は自らの尊厳やプライドと深くかかわっている。人としての尊厳を重んじる社会政策でなければ、平均的な市民の心を開き、寛容な姿勢を生み出すことはできないのではないかと強く感じる。

 

心理学者のゴードン・オルポートは、1954年に「接触仮説 [contact hypothesis]」を発表した。適切な条件の下では、人同士の接触が偏見を減らすうえで最も効果的だという考え方である。他人と時間をともにすることで、相手をよく知り、理解し、認められるようになる。その結果、偏見は消えていくという。もしこれが正しいのなら、学校や大学は重要な存在になる。異なるバッググラウンドを持つ子どもたちや若者が、まだしなやかな心を持つ年齢のときに1つの場所で一緒に過ごすのだから。

 

デリーで2007年に導入されたある政策は、生まれも育ちも異なる子どもを一緒にすることの効果を雄弁に物語っている。この政策では、デリーのエリート層向けの私立小学校に貧困家庭の児童の入学枠を設けることを義務づけた。

 

この政策の効果を調べた秀逸な実験がある。実験では、貧しい生徒の入学枠が設けられている学校と、そうでない学校でランダムに選んだ子どもたちに、リレーのメンバーを選ぶ役割を与えた。また前者の学校では、さらにランダムに子どもたちを分け、一方は貧しい子どもと一緒の勉強グループに入れ、もう一方はそうしなかった。リレーのメンバーを選ぶ前にかけっこのテストを実施し、誰が速いか見きわめられるようにした。ただし選ぶには条件がある。メンバーに選んだ子どもと一緒に遊ぶ約束をすることだ。

 

結果は鮮烈だった。入学枠のない学校の富裕な家庭の子どもは、貧しい子をメンバーに選ぼうとしなかった。貧しいこの方が足が速かったのに、である。入学枠があり貧しい子をすでに見慣れている子どもは、たとえ貧しくても足の速い子を選んだ。その子と遊ぶことも別に苦にならなかったのだろう。そして、貧しい子と一緒の勉強グループにいる子どもは、一緒に走ろうと積極的に誘って遊んだ。慣れ親しんでいるというだけのことが、この魔法のような効果を発揮したのである。

 

 

■   ハーバード大学の入試は公正か

こうした調査から、教育機関における生徒の多様性は、それとして重要なだけでなく、個人の好みに長く続く影響を残す点でも非常に大切であることがわかる。ランダム化比較試験(RCT)の評価結果も、生まれや育ちのちがう生徒たちを混ぜ合わせることは、より寛容で包容力のある社会の形成にとってきわめて強力な手段になりうると結論づけている。だが最近では、アファーマティブ・アクションが二極化を助長するという見方も出てきた。

 

2018年頃、ハーバード大学はアジア系アメリカ人を入試で不当に差別しているとして訴えられていた。多様性を実現するという口実でアジア系入学者に人為的に上限を設けているというのである。トランプ政権は、あらゆる学校は入学選抜時に人種に配慮するのをやめるべきだと主張している。最高裁はこれまでのところは政権の圧力に抵抗しているが、この立場をいつまで貫けるかはわからない。

 

この種の議論では、「価値」という概念が重要な役割を持っている。試験の点数は、応募者がその大学なり仕事なりにふさわしい価値を持っているかどうかを判断する客観的な方法だという考え方がある。この観点からすれば、アファーマティブ・アクションは「価値のある」応募者をさしおいて「価値の劣る」応募者を優遇するのだから価値のある応募者に対する差別だということになる。だが本章で検討してきたことからすれば、この主張は成り立たない。

 

たまたま特定の集団に生まれついたというだけで長い間先生や監督者から虐げられ、蔑まれ、無視されてきた若者は、自己差別的な先入観を抱くようになり、自信を失い、試験の成績も悪くなる。それに家のあちこちに本があり、夕食の話題は数学や哲学だというような家庭に育った若者が大学入試で有利なのはあきらかだ。下位カーストの子どもが高校卒業試験で好成績を挙げるには、上位カーストにはなかった多くのハードルを飛び越えなければならない。したがって、上位カーストの子ども以上に多くを求められることになる。

 

この議論は結局のところ、そもそも人間の価値を決めるものは何なのか、ということに帰着する。人格評価は、アジア系であろうとなかろうとある種の志願者を排除し、エリートの伝統を受け継いで行くための装置だとみなすことは可能かもしれない。

 

その一方で、アフリカ系の志願者の人格評価はほぼ一貫して白人やアジア系より高いことも事実だ。このことは、先ほど述べたこととも一致する。ハーバード大学に入学するのはもちろん、出願するだけでも途方もなく学業成績が優秀でなければならない。したがって子どもの頃から不利な環境に置かれていた者にとっては、出願を考える水準に達するだけでも並外れた資質を必要とする。荒れた学校や勉学に不向きな家庭環境で努力を続けてきた若者の人格評価が高くなるのも当然とも考えられる。

 

この問題に誰もが満足する決着をつける方法はおそらくないだろう。次世代のリーダーを輩出する教育機関の代表格だと自任するハーバード大学には、あらゆる社会集団から広く学生が集まる場を形成する使命があり、何であれ、1つの集団の占める比率が総人口に占める比率に比して甚だしく高くなる事態は避けたいところだ。それはおそらく民主主義にとっても好ましくないし、政治的な問題にも発展しかねない。

 

アファーマティブ・アクションのあり方について、私たちはもっと本質的な議論を社会に巻き起こすべきだろう。現時点では問題が人種を巡る差別に矮小化されており、まったく望ましくない。ハーバード大学の1件は起こるべくして起きた問題であり、社会が自己矛盾に向き合う機会を提供したという意味ではむしろ歓迎すべきことかもしれない。

 

オルポートの接触仮説では、接触が偏見を減らす効果を発揮できるのは、一定の条件が満たされたときだとされている。接触をする時点で集団同士が対等の関係であること、共通の目的があること、集団間の協力が可能であること、監督機関や法律や慣習などの後押しが得られることなどだ。敵対関係にある集団を強制的に一緒にしても、接触の好ましい効果は得られない。たとえば同じ高校で、白人の生徒たちが大学受験でアフリカ系と競っていると考え、白人は受験で不当に不利な立場に置かれているなどと思い込むようであれば、アフリカ系に対する怒りは募る一方になるだろう。

 

 

■   クリケットの教訓

最近行われた実験でも、こうした懸念が浮き彫りになった。この実験では、インドのウッタル・プラデシュ州で8か月にわたりクリケットのリーグ戦を実施した。若い男性ばかり1261人の選手の中からランダムに800人を選び、さらにランダムに3つのグループに分けた。第一のグループは同じカーストでチームを編成し、第二、第三グループは異なるカーストに属す選手の混成チームを編成する。

 

他の実験と同じくこの実験でも、接触の好ましい効果が確認された。混成チームでプレーする若者は、実験終了後も他のカーストと、それも同じチーム以外であっても友達付き合いをする傾向が認められた。また試合のためのメンバー選びをさせると、カーストは無視して実力で選手を選ぶことも確認できた。

 

ところが、対戦相手が問題になることがわかった。混成チームが単一カースト(仮にダリットとしよう)のチームと試合をすると、チーム内のダリットの選手との協力関係が壊れ、もうあいつと一緒のチームはいやだと言い出す選手まで出現した。同じカースト同士で試合をする場合にはそういうことは起きない。競争は接触の効果を弱めるのである。

 

これはいささか落胆させられる結果だが、ここから重要な教訓を導き出すことができる。接触だけでは、寛容生み出すには不十分化もしれない、ということだ。おそらく共通の目的を持つことが重要なのだと考えられる。

 

 

■   居住区の住み分けモデル

大学で学生を混ぜ合わせることに限界があるとすれば、居住区はどうだろう。だがノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリングがユニークな机上実験で示したように、居住区には不安定化する傾向があるという厄介な問題がある。

 

仮に白人と黒人が混ざり合って平和に暮らしている居住区があるとしよう。この居住区では白人、黒人、どちらも圧倒的多数ではない。が、ある日たまたま白人の家族が出て行き、今度はたまたま黒人の家族が引っ越して来た。すると白人は落ち着かなくなる。もしあと何軒か白人の家族が出て行ったら、白人は圧倒的少数派になってしまうと心配する。この緊張はもう耐えられないと思った時点で、出て行ける人は出て行くことになる。白人と黒人を逆にしても同じことだ。シェリングはこの耐えられなくなる限界を転換点 [tipping point] と呼んだ。

 

デビッド・カードはアメリカに1970年代、80年代、90年代に起きた居住区の分離現象を調査し、たしかに転換点らしきものが存在することを突き止める。たとえばシカゴではこの転換点が非常に低い。1970年の時点で同じ居住区に住む黒人の比率が5%以下だった地区では、その後もその比率が保たれたが、すこしでも5%を上回ると白人が出て行き、今後は白人の比率が急激に落ち込むことがわかった。全米の各都市の平均を計算すると、転換点は12~15%だった。

 

となれば分離を防ぐためには、低所得層用の公共住宅を都市部の全域に分散させ、どこにも同一集団(富裕層、貧困層、移民など)だけの居住区を作らないようにすればいい。私たちが数年ほど住んでいたパリのある地区では、私たちのアパートの隣には公共住宅があった。同じ地区の子どもたちは同じ学校へ行き、同じ公園で遊ぶ。その年齢の子どもたちはあきらかに同じ世界で暮らしていた。

 

シンガポールでは、民族統合政策の下でどの住宅区画も異なる民族(中国系、マレー系、インド系など)がある程度混ざり合うように厳格な割当制が敷かれている。これほど大胆な政策を採用するのはむずかしいにしても、区画ごとに公共住宅用地を確保することは十分可能だと考えられる。

 

とはいえ近い将来には、まだ貧しい人々は貧困地区に集中して住んでいることだろう。となれば、人々の融合を図るにはやはり学校を活用するのがよいということになる。だがそのためには子どもたちを居住区から離れた学校に通わせる必要が出てくる。

 

アメリカでは大都市圏教育機会評議会(METCO)が、インナーシティの低所得地区に住む子どもたちを対象に、希望すれば郊外の学校へ通えるよう支援している。これまでのところ、通う側と受け入れ側双方にとって有益だと報告されている。とくに受け入れ側の学校の子どもたちは、それまで白人ばかりの環境で暮らしていたわけだが、多様なバッググラウンドを持つ子どもたちと接することで世界観や好みに変化が現れたという。

 

 

■   4つの教訓

偏見あるいはその根っこにある好み(社会的選好)は、現代の病理の原因である以上に症状なのだ。いまの世の中はまちがっている、自分は不当に不利益を被っている、自分は尊重されず見捨てられている――そう感じさせる多くのことに対する防衛反応が、差別や偏見の形で表現されることが多い。

 

この考察から重要な学びが得られる。第一に、差別的な感情を露にする人、人種差別に共感する人、あるいはそうした人に投票する人を軽蔑したり見下したりする(「嘆かわしい」 など)のは、感情を逆なでするだけである。差別的な感情は、この世界で自分は尊重されていないのではないかという疑いに根ざしていることを忘れてはいけない。

 

第二に、偏見は生来の絶対的な好みとはちがう。いわゆる人種差別主義者と呼ばれる人にしても、差別以外の問題にも関心がある。最近では、アメリカでいささか驚くべき現象が起きた。医療保険制度改革法いわゆるオバマケアは、「あの黒人でケニア出身のイスラム教徒のオバマ」 [実際にはハワイ出身のキリスト教徒] が積極的に提唱した制度として、共和党色の濃い多くの州で忌み嫌われてきた。オバマケアの下では低所得層向け医療保険メディケイドの対象範囲が拡大されたが、共和党出身の州知事の多くがこれを拒否したという経緯がある。

 

だが2018年の中間選挙が近づいてくると、メディケイドの範囲拡大が争点の1つとなる。こうした背景から、共和党支持者の多いレッド・ステート州(ユタ、ネブラスカ、アイダホ)が拡大を承認した。またカンザス州とウィスコンシン州では、メディケイドの対象拡大に賛成する民主党の知事が誕生した。これらの州の住民が突然民主党支持に回ったわけではない。彼らは相変わらず共和党の議員に、場合によってはかなり保守的な思想の持ち主にも投票している。だがメディケイドに関する限り、住民は自分たちの理解に基づいて自分にとってよいと考えたほうに票を投じたということだ。経済的判断がトランプに勝ったわけである。

 

第三に、たとえ有権者が人種や民族や宗教に基づいて投票するとしても、いやそれどころか人種差別を唱える人物に投票するとしても、その主張に熱烈に賛同しているわけではない。カースト政治のはびこるウッタル・プラデシュ州で2007年に行われた選挙の際に、アビジットのチームは投票のおよそ10%をカースト政党から引きはがすことに成功した。使った道具は、歌と人形劇と街頭演劇だけである。どれもたった1つの単純なメッセージを発信した。「カーストではなく開発を考えて投票しよう」。

 

ここから、最後のいちばん重要な学びが得られる。差別や偏見と闘う最も効果的な方法は、おそらく差別そのものに直接取り組むことではない。ほかの政策課題に目を向けるほうが有意義だと市民に考えさせることだ。大きなことを公約し、大掛かりな政策を打ち出す政治家は、往々にして竜頭蛇尾 [始めは威勢がいいが、終わりは勢いがなくなること] に終わる。大きなことをやり遂げるのは容易ではない。私たちは政策議論に対する信頼を取り戻し、無能力を大言壮語でごまかすばかりが政治ではないのだと証明しなければならない。そして言うまでもなく、多くの人がいま感じている怒りや喪失感をいくらかでも和らげるためにできることを試みなければならない。ただしそれは容易ではなく時間もかかると認識している。

 

 

第1章で述べたが、これが本書で私たちが始めた長い旅路である。旅の最初で取り上げたのは、多くの人が知っている問題――移民と貿易だった。だがこれらの問題でさえ、経済学者は十分な説明もなく留保条件もつけずに断定的な答を出す癖がある (移民はよいことだ、自由貿易はよいことだ・・・・・・)。これでは人々の信頼は得られない。

 

しかもこれから取り上げるのは、経済学者の間でも異論の多い問題――経済成長、気候変動、不平等である。これまでの章と同じく、この先も私たちは問題をありのままの姿で捉える姿勢を貫きたい。これらの問題は私たちの将来(そして現在も)を考えるうえで外すことはできない。経済成長、気候変動、不平等を取り上げずしてよい経済政策を語ることなど不可能である。

 

これらの問題のすべてで、人々の好みが果たす役割は大きい。人々は何を必要とし、何を欲しがっているのか、そして何を好むのかを考えずに問題を論じることはできない。とはいえ本章で論じたように、欲しいものが必要なものだとは限らない。

 

人間は、社会保障番号に引きずられてワインに値付けをするようなところがあるのだ。それに、必要なものが欲しいものとは限らない。たとえばテレビは必要なのか、欲しいのか。これらの要素はこの先の章でも、ときに暗黙のうちに、ときに明示的に、議論の中で、また世界の見方においても重要な役割を果たすことになる。

 

 

第5章 成長の終焉? につづく

 

『絶望を希望に変える経済学』 アビジット・V・バナジー & エステル・デュフロ著 村井章子訳 (2020年4月17日第1刷)

 

 

 

第4章 好きなもの・欲しいもの・必要なもの② [注:差別と偏見について]

 

(第4章は①から③まで)

 

 

好きなもの・欲しいもの・必要なもの① のつづき

 

 

■   自己実現的な差別

アメリカの心理学者クロード・スティールは、自分自身や自分が帰属する集団に対して差別を行うという現象に注目して有名な実験を行った。この実験であきらかになった自己に対する差別は 「ステレオタイプの脅威」 と名付けられている。

 

実験では学生の被験者を対象にテストを実施する。最初に 「実験室における問題解決」 についてのテストをすると言われたときには、黒人男性と白人男性の成績は拮抗していた。ところが、 「個人の能力測定」 のテストをすると言われたときには、黒人学生の成績は白人学生を大幅に下回ったのである。

 

ステレオタイプの脅威の影響を受けやすいのは、黒人だけではない。女子学生と男子学生を対象に高等数学のテストを行う実験では次のような結果が出ている。テスト前に 「女性は数学が男性ほど得意でないということがよく言われるが、このテストにはそれは当てはまらない」 と言われたときは、女子学生の成績は男子学生と同等か上だった。一方、テスト前に 「アジア人は他の民族より数学の能力がすぐれていると言われる。今回のテストはそれを確かめるためのテストである」 と言われると、大学進学適性試験(SAT)の数学で高得点をとった数学・工学専攻のアメリカ人男子学生の成績はひどくお粗末になってしまった。

 

自己差別は、往々にして自己実現的である。自分が帰属する集団のアイデンティティを想起させられると、人は自分の能力に自信が持てなくなり、いつもとちがうふるまいをしてしまう。同じことが他の集団に対する差別についても当てはまる。

 

たとえばフランスでは、ある食品スーパー・チェーンの若いレジ係を対象にした調査が行われた。レジ係の多くは北アフリカまたはサブサハラ出身のマイノリティである。調査の結果、レジ係の監督者がマイノリティに対する偏見を持っている場合、それがレジ係の仕事ぶりに影響することが確認された。

 

偏見の強い監督者が担当の日は、マイノリティのレジ係は欠勤したり、来てもあまり熱心に働かなかったりする。非マイノリティのレジ係にはそうしたことはまったく見られなかった。実際には偏見の強い監督者は、マイノリティにいくら注意しても無駄だと思い込んでいるので、しっかりと管理責任を果たそうとしない。レジの見回りもしないし、レジ係に注意したり、あるいは励ましたり褒めたりもしない。そこでレジ係のほうも熱心に働かないというわけだ。

 

女性管理職に対する差別にも、自己実現的な予言に近いものが感じられる。マラウイの農村で行った実験では、村人の中から男女をランダムに選んで新しい技術を教え、それを他の村人にも教えてもらった。すると女性のほうが教わったことをよく覚えており、女性から教わった村人も、彼女の言うことをちゃんと聞いていれば、しっかりと技術を習得することができた。ところが大方の男たちはちゃんと聞かない。女はダメだと思い込んでいるからだ。すると女性から教わった村人は技術を習得できないことになり、女はダメだという思い込みを裏付ける結果となる。

 

またバングラデシュでは、女性にラインマネジャー研修を行った。彼女たちは、リーダーシップ能力や専門的な知識などに関する客観評価に関する限り、男性に劣らぬ好成績を挙げた。ところが部下たちは女性管理職を見下して経緯を払おうとしない。すると当然ながらそのチームの業績は低下し、女の管理職はダメだという差別的偏見を裏付ける結果になる。かくして、最初は女性に対する根拠のない偏見と見えたものが、女性の側には何の落ち度もなかったにもかかわらず女性の実績を押し下げる方向に作用し、女性の地位を一段と低くする結果となる。

 

 

■   白人みたいと思われたくない

人間は見知らぬ人、異質と感じる人を避け、自分と同じような人が大勢いるところに移りたがる。こうして異質な人からの分離が進むと、それが人生の選択にも大きな影響を及ぼし、不平等を助長する。貧しい人や黒人の多い地区では、公共サービスを始めとするリソースが十分に行き渡らなくなる。そうなれば、そこで育つ子どもの人生には始めから足かせがはめられているようなものだ。

 

アメリカでは 「大移動期」 と呼ばれる1915~70年に、黒人が北部の白人の町へと大量に移住した。すると白人たちは町を捨てて出て行った。あとに残されたのは荒れた学校や劣化したインフラで、働き口もほとんどない。こうした町はどんどん貧しくなり、見捨てられ、犯罪発生率が上昇し、繁栄はますます遠のいていく。

 

黒人の子どもが所得分布の下位5分の1から上位5分の1へと移る確率は、大移動期に白人に見捨てられた地区では、他の地区よりはるかに低い。もちろんそこには多くの要因が関わっているが、その1つに、人々が自分たちの生まれ育った地区の暗黙のルールに意識的・無意識的に従うということが挙げられる。日常的に暴力が振るわれる地区では暴力が規範となる。

 

こうした規範の持つ力を浮き彫りにした実験を紹介しよう。この実験では、生徒の大半がヒスパニックで占められるロサンゼルスの高校で、大学進学適性試験(SAT)の予備校に無料で行かせてあげると提案した。ランダムに選んだ第一グループには、行くにしても行かないにしても、君たちの選択は誰にも言わない、と約束する。第二のグループには、君たちの選択は公表する、と伝えた。すると、第一グループは72%が行くと答えたのに、第二グループは61%にとどまったのである。自分のひそかな勉学意欲を友達に知られたくなかったのだろうか。

 

たしかにフォーク定理でこの現象を説明することはできる。生徒たちは、自分が大学に行きたがっていると仲間に知れ渡り、ガリ勉野郎だとみなされたら、仲間はずれにされ、誰からも相手にされなくなると恐れたのだろう。これはたしかにありそうなことだ。

 

だが、ヒスパニックの生徒たちの間だけでこのような仲間内の規範が維持されているのは、偶然ではあるまい。ヒスパニックには、白人文化を嫌悪する長い歴史がある。だからヒスパニックの少年少女たちは 「白人みたいに」 ふるまうことを極端に恐れる。つまり彼らの規範は歴史に根ざしているということだ。その証拠にアジア系の生徒たちの間では、勉強熱心だからといって仲間はずれにするような行動は高校レベルではほとんど見られない。

 

 

■   動機づけられた信念

何を正しいと考えるか、さらには何を好きかということも、状況に左右される――そう認められると、多くのことが腑に落ちてきた。私たちに重要な刺激を与えてくれたのは、ノーベル経済学賞を受賞したジャン・ティロールがローラン・ベナブーと行った共同研究である。

 

ティロールらは、人々の意見や信念といったものを理解しようとするとき、額面通り受け取らないほうがいいと指摘する。たとえば 「自分はこういう人間だ」 と信じていることのすくなくとも一部は、感情的にそう信じる必要に迫られたから、あるいはそう考えるほうが楽だから、そう考えているのである。だから自分が自分の思う自分でなかったとき、自分自身に落胆し、ひどくみじめになってしまう。自分の中の自己像を感情的に重視するあまり、他人に対する見方が歪められてしまう。

 

たとえば、自分は偏見など抱いていないと思いたいがために、客観的な事実を持ち出してごまかす、などだ。たとえば先ほどのマイノリティのレジ係の例で言うと、監督者はこんな言い訳をした。 「いやなに、私はレジ係がアフリカ出身だろうがどこの出身だろうがまったく気にしていません。ただ事実として、私が励ましたって何の反応もない。だから時間の無駄だと思っただけです」。

 

人間は、考えを変えるのを嫌うものだ。なぜなら、変えるということは、最初の考えがまちがっていたと認めることになるからである。また私たちは、自分の倫理観を問われるような情報も避けようとする。そこで、国境警備局に拘留され収容施設で暮らす移民の子どもたちについてニュースは見ないようにする。自分の選んだ政府が子どもたちをどう扱っているか、考えたくないからだ。

 

こうした回避戦略の深みにどんどんはまっていくのは時間の問題である。たとえば自分を人種差別主義者と考えたくないので、誰かに対して否定的な意見を抱いた場合、その誰かを責めることで自分を正当化しようとする。

 

あるいは自分が正しいという証拠を見つけようとする。やがて最初は本能的な防御反応だったものが、次第に隙のない論拠らしきものを形成するようになる。そうなると、自分の意見と相容れない主張は、いかに健全に見えようと、自分の価値観に対する攻撃であるとか、自分の知性に対する侮辱だというふうにみなすようになる。そうなった時点から対立は激化し、暴力的になりかねない。

 

人間はこうしたパターンに陥りやすいと認めれば、多くの重要な教訓を学ぶことができる。まず、人々を人種差別主義者呼ばわりしたり、あるいはヒラリー・クリントンが口を滑らせたように 「嘆かわしい人たち」 などと決めつけたりするのは不適切である。そのような行動は人々の倫理観を侮辱するものであり、当然ながら怒りを燃え上がらせる。侮辱された人たちは、もう聞く耳を持たないだろう。

 

誰もが、自分はまともな人間だと思いたがっている。だから、偏見を減らすような試みをする前にまず、相手の価値観を認めることが大切だ。昨今の心理学者は小さな子どもを持つ親に対し、 「いい子にしてね」 と言うのではなく、 「あなたはほんとにいい子ね」 と言うように奨める。そして親はあれこれ指示せず、ただ生来のやさしさや思いやりに従って行動すればよいのだという。この貴重な助言はすべてに当てはまるだろう。

 

とりわけこの助言が役立つのは、相手の自尊心がまだ決定的に傷ついていない状況だ。反移民・反黒人感情の強い地域の低所得層の白人男性が直面する問題の一部は、彼らの生活があきらかに自分たちの見下していた移民や黒人の生活に我慢ならないほど似てきたことにある。

 

1997年にウィリアム・ジュリアス・ウィルソンは、黒人社会の問題として 「失業率の高い地域が迎える結末は貧困率の高い地域よりもずっと悲惨だ・・・・・・インナーシティのスラム街が抱える問題、すなわち犯罪、家庭崩壊、生活保護などは、根本的には仕事がないことに起因する」 と書いた。

 

ウィルソンの描いた黒人居住区の社会問題が、ラストベルト [斜陽化した工業地帯] の白人社会にぴたりと当てはまるということ自体、侮辱に侮辱を上塗りするものだ。白人たちの自己像は、自分たちは移民や黒人より上だという優越意識と分ちがたく結びついていた。それなのに自分たちの置かれた社会的状況が移民や黒人のそれに限りなく近づいている――これはもう貧しい白人労働者階級にとって、存在の危機そのものである。

 

こうした状況で自我を取り戻す方法は2つある。1つは否定である。もう1つは、見下す相手を一段と貶めて、彼我の距離を広げることだ。たとえばレーガン時代には、黒人やラテンアメリカ系のシングルマザーを白人は 「ウェルフェア・クイーン」 と揶揄した。政府の社会福祉制度をいいことに潤沢に生活保護を受け取ってぬくぬくしている、というほどの意味である。だがいまや行き詰った白人男性は、生き延びるために障害年金の受給申請をしている。だから、シングルマザーを馬鹿にできる立場にはない。そこで一段とひどい侮辱を浴びせる。あいつらはギャングの娼婦だ、という具合に。

 

こうした状況を踏まえると、社会政策を単なる経済的な生活向上の面だけで考えるのではなく、技術革新や貿易その他のさまざまな要因で失業した人々の尊厳を取り戻すことが必要だと痛感させられる。昔ながらの補助金政策は、それだけでは機能しない。自己肯定感の喪失を埋め合わせるような政策が望まれる。いま必要なのは、社会政策のあり方を根本的に考え直すことである。この点については第9章でくわしく論じる。

 

 

■   恣意の一貫性

人間は、自分の考え、とりわけ自分の価値観に深く根ざす考えに関しては、その修正を余儀なくされるような証拠をなんとしてでも目に入れまいとするものだ。他の人種や民族や移民をどう考えるかといったことも、この範疇に含まれる。

 

ここで、行動経済学の分野で最も有名な実験の1つを紹介したい。実験を設計したのはダニエル・カーネマンとリチャード・セイラ―である。実験ではランダムに選んだ被験者の学生(第一グループ)にマグカップを進呈する。その数分後に、いまあげた品物を売ってくださいと申し出る。一方、マグカップをあげなかった学生(第二グループ)に対しては、欲しかったら売りますよと持ちかける。

 

すると驚いたことに、第一グループの学生がもらった品物につけた売値は、第二グループの学生が買ってもいいと思った買値の2~3倍に達したのである。同じ実験をボールペンでやっても同様の結果になった。単にもらったかもらわなかっただけで同じ品物につける値段にこれほど開きが出るのは、どうしたわけだろうか。

 

その説明は、こうだ。最初にマグカップ(またはボールペン)をもらった学生は、自分のものになったその品物に対してわずか数分の間に愛着が湧いたので手放したくなくなった、ということである。この実験結果は、人々がマグカップやボールペンといったさして高価でない品物の価値をどう判断するかについて、直観には反するが、じつに深い洞察を与えてくれる。

 

こうした恣意的な条件づけの効果を一段と衝撃的に示したもう1つの実験も紹介しよう。被験者の学生は、ワイン、マウス、本の競売をするので値段をつけるよう言われる。ただしその前に、自分の社会保障番号の最後の2桁の数字を記入し、その前に$マークを付けるように指示される。その後に 「ではワインにいくらつけるか考えてください」 と言われるわけだ。もちろん学生たちは、社会保障番号とワインの値段に何の関係もないことをよく知っているにちがいない。

 

にもかかわらず、自分が書いた$マーク付きの数字にとわられた。最後の2桁が80以上だった学生は、20以下だった学生の3~4・5倍の値段をつけたのである (このように先行して与えられるランダムな数字がその後の数値の判断に影響することを 「アンカリング」 と呼ぶ)。

 

この点を除けば、学生たちのふるまいは標準的なモデル通りだった。すなわち、競売で値段が競り上がるにつれて買う気をなくしたし、安い値段のときに買おうとした。だが彼らは、ワインの絶対的な価値となるとイメージが湧かなかったので、手近な数字に影響されたのだろう。このように恣意的なアンカーと価値判断の間に正の相関性が認められることを、ダン・アリエリーは 「恣意の一貫性」 と呼んだ。

 

だが言うまでもなく、移民やイスラム教徒はマグカップやボールペンとはちがう。まさかこのような恣意的な条件づけに、はるかに重大な人種差別や移民の問題でも私たちが影響されるということはあるまい。だが実際には、そのまさかなのである。

 

 

■   ロバーズ・ケーブ実験

先ほどの実験にも相通じる現象が 「社会的選好」 でも認められている。経済学において社会的選好とは、他人に関する好みのことである。1954年に心理学者のムザファ・シェリフとキャロライン・シェリフが、オクラホマ州ロバーズ・ケーブのキャンプ場で野外実験を行った。

 

対象となったのは、11~12歳の少年22人である。少年たちはランダムに2つのグループに分けられ、互いの存在を知らされずにそれぞれちがう小屋で数日間集団生活をする。その後に2つのグループは引き合わされ、綱引きなどの競争を行った。これでグループ同士は敵対心を募らせ、相手の悪口を言ったり、相手の持ち物を壊したりするようになる。その一方で、グループ内の結束は一段と強まった。最終日にシェリフはわざとキャンプ場を断水状態にする。少年たちは始め協力を渋っていたが、そのうち力を合わせて問題解決に当たるようになり、互いの敵意をほとんど忘れていった。

 

興味深いのは、恣意的に与えられた条件が忠誠心に影響をおよぼす現象が、少年たちのように孤立した状況での集団生活などでなくても認められることだ。ランダムに選ばれた被験者のグループに単に名前をつけるだけで、グループ内のメンバーは互いに好意を抱くようになるのである。これは、11歳の子どもだけでなく、大人にもあてはまる。

 

ロバーズ・ケーブ実験から学べる2つのことは、どちらも重要な意味を持つ。1つは、人々を分裂させるのは簡単だということ。もう1つは、分裂しても再び結束する可能性はあるということである。分裂させるのは簡単だという事実こそ、今日多くの国を支配している移民排斥主義者や彼らを操る連中を恐れなければならない理由そのものである。なるほど、彼らが与える傷は回復不能ではないかもしれない。だが先ほどのキャンプ場の例のように、注意深く導かない限り、深い傷跡を残す可能性がある。

 

たとえばルワンダでは、ベルギーの植民地主義者が統治の都合上、本来はほぼ均質なルワンダ人についてツチ族は優等でフツ族は劣等であるという神話をでっち上げ、ツチ族をあらゆる面で優遇した。ルワンダ独立後も少数派ツチ族が支配的な地位を独占したため、国民の大多数を占めるフツ族の不満が募り、ついに1994年にフツ族過激派によるツチ族および穏健派フツ族の虐殺が起きている。

 

それに好みは必ずしも一貫しない、つまり社会的文脈によって変わるのだとすれば、誰かを人種差別主義者なとど 「~主義者」 呼ばわりしたり、おなじことだが 「嘆かわしい人たち」 などと決めつけたりするのは控えるべきだろう。そもそも多くの人が差別に反対であると同時に賛成なのだし、偏見を露骨に口にするのはむしろ不満や苛立ちの表れなのだ。

 

 

■   似た者同士

私たちの好みは、誰と一緒にいるか、どんな集団に帰属するかに強く影響される。となれば、社会の分裂はきわめて憂慮すべき事態である。なぜなら、分断されたこちらとあちらでは人々の交流がごく限られてしまうからだ。

 

人々は自分と似た人とだけいるようになる。アメリカの学校では、黒人の生徒は黒人と、白人の生徒は白人と友達になる。これは、社会学者が 「同類性」 と呼ぶ現象だ。類は友を呼ぶ、ということである。学校の中で最も人数の多い社会集団にはとくにこの傾向が強い。しかたがって少数集団に属す生徒は、最大集団からあぶれた生徒と友達になるほかない。彼らが同類に親しみを覚える 「ゆるやかな好み」 を持っている限り、わざわざ集団の外に新しい友達を求める理由はない。

 

大半の人々が同じ集団の相手と結婚するのも、こうした傾向が一因である。1967年のラヴィング対バージニア州裁判で、異人種間結婚を禁じる法律を無効にするという画期的な決定を最高裁が下してから50年以上が経つというのに、判決後に結婚したアメリカ人で異人種と結婚したのは6人に1人に過ぎない。

 

インドでは、世帯の74%が結婚は同じカースト内で行うべきだと考えている。私たちの調査によると、どのカーストの男性も、自分の姉妹と同類の相手を探す。女性もまたそうだ。その結果、当然ながら自分と同じカーストから相手を選ぶことになる。

 

 

■   残響室とホログラム

類は友を呼ぶ行動は、おそらく多くは無意識的な分離につながる。いつも自分と同じ集団の仲間とつるんでいたら、やがて同類だけの孤島を形成することになるとは、たぶん誰も気づいていないだろう。いったんそうなると、傍から見れば常軌を逸した好みや極端な政治的意見がどんどんエスカレートすることになりやすい。

 

自分と同類とばかり一緒にいると、ちがう視点に立てなくなり、ちがう価値観を理解できなくなる。これは大きなデメリットだ。その結果、ワクチン接種が自閉症の原因になるといった根も葉もない主張がいつまでもはびこることにある。すでに述べたように、人々は合理的な判断に基づき、自分自身の意見を引っ込めてまで集団に従うものだ。だが、集団の外の意見が遮断されていたら、事態は一段と悪化するだろう。最終的には異なる意見を持つ排他的な集団がそれぞれに孤立し、他の集団とほとんどコミュニケーションをとろうとしなくなる。

 

法学者のキャス・サスティーンは、こうした現象をエコー・チェンバー [残響室] に喩える。同じような意見を持つ人たちが長い残響が生じる部屋にこもり、互いの言うことをわんわん響く中で同じ考えばかりを延々と聞いている、という意味だ。

 

その結果として生まれるのが極端な二極化である。二極化現象は、客観的な事実を巡っても生じることがある。たとえばアメリカ人の41%は人間の活動が地球温暖化を招いたと考えているが、ぴったり同じだけの人が温暖化は自然の周期的現象である (21%)、または温暖化など存在しない(20%)と考えている。

 

ピュー研究所が地球温暖化に関する世論調査をしたところ、人々の意見が政治的立場に沿ってほぼ真っ二つに分かれていることがわかった。大気温の上昇を示す確かな証拠があると考える人は、民主党支持者のほうが共和党支持者より圧倒的に多い (81%対58%)。また人間の活動が原因だと考える人も、同様の傾向を示した (54%対24%)。

 

だからといって、民主党支持者のほうが科学を信奉しているとは言えない。たとえば遺伝子組み換え食品は健康に悪いとは言えない、というのが科学界の一致した意見だが、民主党支持者の多くは、そうした食品を避けられるよう、遺伝子組み換えの表示をしてほしいと考えている。

 

同類集団がそれぞれに孤立する状況では、人心掌握術に長けた政治家にとって、相手にする集団ごとに別の人格を演じ分けることなどわけもないことだ。2014年のインド首相選挙で地滑り的勝利を収めたナレンドラ・モディは、選挙運動中に各地で同時に開催された集会に登場するという離れ業をやってのけた。等身大の3次元ホログラムを使ったのだが、聴衆の多くは本物だと信じたという。

 

そのうえ、イデオロギー的に別の人格になりきるという高度な技術も披露した。国際社会で活躍する都市部の野心的な若者にとって、モディは近代政治の体現者だ (イノベーションを推進し、ベンチャー・キャピタルの強化を謳い、洗練されたビジネスライクな態度を示した)。急増中の中流階級の仲間入りをした人々の目には、モディはヒンドゥーの伝統に基づくナショナリズムの提唱者と映る。そして経済的に虐げられている最貧層にとっては、急伸するイスラム教徒の(多くは想像上の)脅威から守ってくれる頼もしい指導者だ。

 

これらの集団が一堂に会してそれぞれの 「モディ像」 を語り合うことがもしあったら、互いにとても同一人物とは認められないだろう。だが各集団のネットワークはどこにも接点がないため、モディには一貫性を保つ必要がなかった。

 

 

■   新しい公共空間?

有権者がこのようにきっぱり分離した状況は、単に政策面での意見の不一致よりも根が深い。政治的意見の異なるアメリカ人は、互いに相手を憎むようになっている。1960年には、息子か娘が自分の支持政党とは異なる政党を支持する相手と結婚したら 「不快に思う」 人は、共和党支持者、民主党支持者はともに5%程度だった。だが2010年になると、共和党支持者の50%近く、民主党支持者の30%以上が、 「非常に不幸だと感じる」 と答えている。

 

また1960年には、共和党支持者、民主党支持者ともに33%が自分の支持政党のメンバーは知的だと考え、27%が反対政党のメンバーも知的だと考えていた。だが2008年には、前者は62%に増える一方で、後者は14%まで減っている。

 

これはどうしたわけだろうか。党派性の強まった1990年代前半以降で最も大きな変化と言えば、インターネットの普及とソーシャルネットワークサービス(SNS)の爆発的な拡大である。2019年1月の時点で、フェイスブックの月間アクティブユーザー数は全世界で22億7000万人に達している。ツイッター(現:X)は3億2600万人だ。

 

SNSは、もともとは誰もがつながることのできる新しい仮想の公共空間として設計されたものである。似た者同士が寄り集まるのではなく、さまざまな境界を越えて誰とでも友達になるはずだった。

 

フェイスブック上では、20億人の99.91%がネットワーク理論で言う 「巨大コンポーネント [Giant Component]」 を形成している。巨大コンポーネントとは、その中にいるほぼ全員が誰かの友達の友達の友達になっているようなまとまりのことである。巨大コンポーネントでは、そこに属すどの2人の人間をとっても、分離度(通過するノードの数)が4.7しかない。このことは、SNSを通じてほぼ全員と簡単に知り合えることを意味する。

 

にもかかわらずSNSは、異論の多い問題についてユーザーを融合させることには成功していない。ツイッター上で政治に関与したアメリカ国内のユーザー(2012年の議会選挙期間中に立候補者の関係するアカウントをすくなくとも1つはフォローしたユーザー)220万人について調査したところ、これらのユーザーには合計約9000万のリンクが存在するが、保守系ユーザーのフォロワーは84%が保守であり、リベラル系の場合も69%がリベラルであることがわかった。

 

結局のところ、フェイスブックもツイッターもエコー・チェンバーの役割を果たしているということだ。民主党支持者は民主党候補者が発信する情報だけを受け売りし、共和党支持者も同じことをしている。民主党候補者のツイートを最初にリツイートした人の86%はリベラルであり、共和党候補者の場合はなんと98%が保守だ。しかも、これは単に政治的なメッセージだけではない。ツイッターで釣りについて情報交換するときでさえ、リベラルはリベラルと、保守は保守とやりとりしている。SNSが形成するバーチャル・コミュニティは、分裂した公共空間に過ぎない。

 

二極化現象がオンライン・ユーザーの間で増えていることは事実だが、オンライン以外の生活空間でも増えている。現に年齢別で見ると、1996年以降で二極化が最も進んだのは、インターネット普及率が最も低い65歳以上の年齢層なのだ。そして二極化が最も少なかったのは、18~39歳の若年層だった。

 

二極化は、旧来のニュース媒体でも進行している。テレビのニュース番組のテクスト解析を行ったある研究によれば、2004年以来、FOXニュースが使う語彙は次第に右寄りになり、MSBC [マイクロソフトとNBCが共同設立したニュース専門放送局] は左寄りになっているという。

 

視聴者の分化も進み、2008年まではFOXの視聴者に占める共和党支持者の比率は安定して60%程度だったのが、2008~12年に70%に増えた。つまり、FOXが次第に保守色を強めるとともに保守層の視聴者が増え、それでますますFOXが保守化するわけだ。このことは、投票パターンにも影響を与え始めている。アメリカにはたまたまFOXニュースにアクセスしにくい郡があるのだが、そうした郡では保守系候補への投票率が低い。

 

こうした変化の原因は何なのだろうか。ジェンツコウとシャピロは、議会に関する限りターニングポイントは1994年にニュート・ギングリッチが 「アメリカとの契約」 を公約に掲げ、共和党を率いて中間選挙を大勝したときだという。この年は、政治コンサルタントが選挙で活躍した最初の年でもある。私たちは社会科学者として彼らの選挙運動の設計方法やメッセージの発信方法などに関心を持ち、調査を行ってきたが、懸念すべき結論にたどり着いた。

 

 

第4章 好きなもの・欲しいもの・必要なもの③ につづく

『絶望を希望に変える経済学』 アビジット・V・バナジー & エステル・デュフロ著 村井章子訳 (2020年4月17日第1刷)

 

 

 

第4章 好きなもの・欲しいもの・必要なもの① [注:差別と偏見について]

 

(第4章は①から③まで)

 

 

自分とはちがう人種、宗教、民族、さらにはちがう性に対する剝き出しの敵意をあからさまに表現する――これが、世界中で台頭するポピュリスト政治家の常套手段だ。2016年のアメリカ大統領選挙では、自分は何よりも白人であるというアイデンティティが、経済に対する不安などよりも、ドナルド・トランプを強力に支持する理由になった。

 

国を率いる政治家たちが日常的に口にする悪意に満ちた言葉のせいで、それまでなら思っていても口には出さなかったことを人々が公然と話したり投稿したりするようになっている。人種差別を行動に移すことはもはや日常茶飯事だ。

 

たとえばアメリカのあるスーパーマーケットで白人女性が警察を呼び、そばにいた黒人女性を指差しして逮捕するように訴えた。警察官とのやり取りの中で白人女性は叫んだ。 「こんなことだから壁を建設しなければならないのよ!」 ――この発言は、論理的に考えればナンセンスだ。この黒人女性はアメリカ市民であって、白人女性と同じく仮想の壁のこちら側に属しているからである。

 

だがもちろん、彼女の言いたいことはわかる。要するにこの白人女性が好きなのは、自分とちがう人種のいない社会、トランプ大統領の大好きな壁が白人と白人以外の間に建設されているような社会なのである。

 

何が好きかということは、ある意味でその人がどんな人間かを端的に物語っている。経済学ではAが好きかどうかとAをどう考えるかを峻別し、前者をAとBの二項関係で捉えて 「選好」 と表現したりする。ひらたく言えば、海と山、赤と白、どちらが好きかということだ。ただし、双方のメリット、デメリットについて何も知らない状態、つまり情報がない状態ではなく、必要な情報を十分に知ったうえでどちらが好きかを問題にする。

 

スーパーマーケットの白人女性にしても、自分の好みに論理的な裏付けをする義務などない。好きだから好きなのだ。それでも人種差別の泥沼に落ち込む前に、なぜ人々がそのような好き嫌いをするようになったのか、考えてみる価値は大いにあるだろう。

 

そうした好き嫌いが何を表しているのか、何に由来するのかを理解しなければ、政策の選択肢を検討することはできないからだ。経済成長、不平等、環境保護などの問題を論じる場合には、人々が本当に必要とするものは何か、その一方で人々は何を望んでいるのか、区別することが必要となる。そして人々が望んでいることを社会はどこまで重視すべきか、という問題を避けて通ることはできない。

 

残念ながらこの点に関して伝統的な経済学はあまり役に立たない。さまざまな見方や意見に関して人々の寛容つまり許容度に期待するというものだ。賛成しがたい見方だが、人々が正しい情報を得られるよう大声で叫んだとしても、どのみち人は自分の好きなように決めるのである。

 

さらに主流派経済学では、狭量や偏見に対しては市場がうまくやってくれると期待する。了見が狭い好みを持つ人は、市場では生き残れないということだ。たとえば同性愛に反対で、同性同士の結婚式には断固ケーキを作らないというケーキ職人がいるとしよう。この職人はあらゆる同性婚の結婚式でケーキを売る機会を逸してしまい、チャンスは他の職人に転がり込む。寛容な他の職人は利益を上げ、偏屈なこの職人は損をする、というわけだ。

 

だが現実は必ずしもそうではない。この職人が失業するとは考えられない理由の1つとして、同性愛を嫌う人たちがお得意さんになってくれることが挙げられる。場合によっては偏見が事業のプラスになることがあるし、どうやら政治についてもそう言えるようだ。こうした事情から、近年の経済学では人々の好みを問題にするようになった。おかげで私たちは有意義な研究成果を知ることができ、差別と偏見の泥沼を脱する手がかりが見えてきた。

 

 

■   好みについて議論すべきではない?

ともにノーベル経済学賞の受賞者でシカゴ学派の重鎮であるゲーリー・ベッカーとジョージ・スティグラーは、1977年に 「好みについて議論すべきではない」 と題する論文を発表した。この論文はきわめて大きな影響力を持つことになった。

 

好き嫌いはその人の切っても切り離せない一部を形成している、とベッカーとスティグラーは主張する。入手した情報をすべて入念に吟味したあとでもバニラアイスとチョコレートアイスのどちらがいいかといった問題で2人の人間の意見が一致しないことは大いにあり得る。だとすればその判断は、各人に生得的に備わっている何かに由来するのだと考えられる。気まぐれや勘違いではなく、また周囲の圧力に負けたのでもなく、個人に深く根差した価値観に由来するというわけだ。人々がなぜあるものを好み、ある行動をとりたがるかを理解するうえで、これが最善の出発点になりうると主張した。

 

たしかに人々の選択に一貫性があるという見方には共感したくなる。人間は気まぐれや思いつきで選ぶのではなく、よく考えたうえで選んでいるのだと思いたいからだ。ある人が自分とはちがう行動をとるからと言って、あいつは馬鹿だなどと決めつけるのは、傲慢で不愉快な態度である。

 

ところが政府は、たびたび人々の選択に横から口を出す。とくに相手が貧しい人々の場合がそうだ。彼らのためになると称して、たとえば現金を渡さずに食料か食料配給券を渡す。そして、彼らがほんとうに必要とするものは政府のほうが知っているのだ、と正当化する。

 

このような政府の姿勢をいくらかなりとも正そうと私たちは努力した。その一環として前著 『貧乏人の経済学』 [邦訳:みすず書房] では、貧しい人々の選択はこちらが考えるより合理的だと論じている。

 

たとえばモロッコのある村で暮らす男性は、自分も家族も満足に食べていないと言いながら、大型テレビと衛星放送受信用のアンテナを持っていた。それを見た私たちは最初、彼がテレビを衝動買いして後悔しているのではないかと思った。

 

だがまったくちがった。 「だってテレビは食べ物より大事でしょ!」 と彼は言ってのけたのである。モロッコの村でしばらく暮らしてみて、この選好が最初に考えたほど理不尽ではないことがよくわかった。村にいると、とにかくやることがあまりない。なにしろ村には、単調な生活に刺激を与えてくれるような社交場はおろか、露店や屋台の類いもないのだから。

 

だが、大方の人の直観からはかけ離れているし、経済学の標準的な考え方にもそぐはない。経済学者の見方に従えば、家にろくに食べ物がないときにテレビを買ったのだから、今後何かでお金を手にしてもまたしても浪費してしまうだろう、なぜならこの男は不合理な衝動に駆られるタイプだから、となる。貧しい人にお金を渡さないのは、まさにこの見方に基づいている。だが 『貧乏人の経済学』 の出版後に世界各地で行われた多くの研究で、貧しい人々がちゃんとわきまえて選択していることが報告された。

 

貧しい人の判断力を疑ってかかるのをやめ、自分の欲しいものはちゃんとわかっていると信頼することで、私たちは多くを学んだ。だがベッカーとスティグラーの主張はまだ続く。さらに一歩踏み込んで、好みは周囲に影響されないという意味で不変だと仮定したのである。こう仮定すると、人は社会規範に従うとか、同僚や仲間に影響される、という見方は排除される。みんながタトゥーを入れているから自分も入れるとか、お隣さんがゴージャスな車を買ったからウチも買う、といったことにはならないわけだ。

 

ベッカーとスティグラーは、つねにこの仮定が当てはまるわけではないことには気づいていた。それでも、一見すると不合理な選択にも実際には意味があるのかもしれないと考えてみるほうが、頭から否定して集団ヒステリーの一種だと片付けるより役に立つだろうと考えたのである。この考え方は経済学界に瞬く間に浸透し、大半の経済学者が、個人の選好は首尾一貫しているのだ、むしろ一貫した選好こそが標準的な選好なのだと考えるようになる。

 

たとえば数年前にアビジットはこんな経験をしている。当時彼は自宅のあるマンハッタンからお隣の州のプリンストン大学まで教えに行くために電車を利用していた。プラットフォームでは大勢の人が列を作って待つ。しかしあるとき、列の位置が必ずしも電車のドアの位置と一致しないことに気づいた。

 

となればこれは一種の群衆行動である。すぐに思いつくのは、みんながやっているのと同じことをしておけば安心だという心理から、すでにできている列に並ぶ、という説明である。だがこれは、選好を首尾一貫しているとの見方に反する。なぜなら、プラットフォームのどの位置に立つかという選好が、他人の行動に左右されることになるからだ。

 

そこでアビジットは次のような説明を考えた。人々は、他人が何か有用な情報を持っているのではないかと考える。そこですでにある列に加わる。すると列がさらに長くなるため、次に来た人は、これだけたくさんの人が有用な情報を持っているならそれに従おうと考える。人々は無条件に他人の行動に従う気はないのであって、他人が自分より有用な情報を持ち合わせていると判断したのである。つまり列の位置は、彼らの合理的な意思決定の結果ということになるわけだ。アビジットはこれを 「群衆行動の単純モデル」 と呼ぶ。

 

ただし個人の選択が合理的だからと言って、結果が望ましいものになるとは限らない。群衆行動は情報カスケードを生むことがあるからだ。情報カスケードとは、最初の人の判断基準になった情報が過大な影響力を持ち、その後に続く人々は自分の持っている情報を無視してまで最初の人の行動に倣う現象を指す。

 

最近行われた実験では、レストランなどのクチコミサイトを活用した。実験では、投稿されたばかりのコメントの中からランダムに2つ選び、一方には直ちに賛成票を投じ、他方には直ちに反対票を投じた。これをジャンルや時期別に繰り返すと、最初に賛成票を投じたコメントにはその次にも賛成票が続く確率が、最初に反対票を投じたコメントより32%高いことがわかった。もとの投稿自体を何万人もの人が閲覧しているにもかかわらず、最初のほんのちょっとしたナッジ [人々が自発的に特定の行動を選択するように促すしかけや工夫] があとあとまで強い影響力を発揮し続けたということだ。

 

以上のように群衆行動は、首尾一貫した選好という概念と必ずしも矛盾しない。他人の行動は、自分の好みを変えなくても意見や行動を変えさせることはあり得るからだ。だが人間は、直接自分の利益にならないとわかっている行動(たとえば好きではないタトゥーを入れる、逮捕される恐れがあるのにイスラム教徒のリンチに加担する、など)を、単に仲間がやっているからという理由でやることがある。これはどう説明したらいいのだろうか。

 

 

■   集団的行動

群衆行動が首尾一貫した選好の点で合理的とみなせるのと同じく、社会規範に従う行動も合理的とみなすことができる。その理由はこうだ。社会規範に反した人は、社会に帰属する他の人々から罰せられる。もし罰すべき立場の人が罰しなかったら、罰しなかった人は社会に帰属する他の人々から罰せられる。罰しなかった人を罰すべき立場の人が罰しなかったから、罰しなかった人は社会に帰属する他の人々から罰せられる・・・・・・からである。

 

ゲーム理論の偉大な功績の1つに、フォーク定理がある。これは非協力ゲーム(囚人のジレンマなど)を一回限りではなく無限に繰り返す場合には、互いに協力することが均衡解になるという定理である。この定理が論理的に立証されたおかげで、人々がなぜ社会規範に固執するのかの説明にも応用が可能となった。

 

女性初のノーベル経済学賞受賞者であるエリノア・オストロムが調査した事例の多くは、小さな地域社会や共同体のものだ。たとえばスイスのチーズ生産農家、ネパールの林業従事者、スリランカの漁師などである。こうした小さな村で暮らす人々は村の掟つまり社会規範に厳格に従う生活を送り、その掟を継承している。

 

たとえばアルプス地方では、チーズ生産農家は数世紀にわたり、牛を放牧する牧草地を共同所有している。村の全員に共通理解がなかったら、この方式は破綻しかねない。野放図に牛を放牧したら、牧草は食べ尽くされてしまうだろう。だが村には牛の所有者がやっていいことといけないことについて不文律があり、誰もがそれに従う。なぜなら、違反したらもう自分の牛を放牧できなくなってしまうからだ。こうしたわけだから、集団的な土地所有は、各農家が私有地を持つよりも好ましいとオストロムは主張する。土地を小さな区画に区切ってそれぞれの農家が所有する場合、自分の区画だけに何かが起きるリスクを各戸が負わなければならないからだ。

 

多くの発展途上国で土地の一部が共有財産になっていることも、これで説明がつく。フォーク定理は、村の人々が助け合いの精神で結ばれているように見える構図にも利己的な理由が隠されていることを示す。村人たちが困った隣人を助けるのは、将来自分が困ったときに助けてもらえるだろうと期待する、という理由もいくらかはあるだろう。規範は維持するために、助けの手を差し伸べなかった者は村の助け合いの輪から排除されるという罰を受ける。

 

この互助のシステムは、一部の村人が村の外に何らかの活路を見出せる場合には破綻しやすくなる。この場合、村八分にされることはさほど脅威ではなくなるので、義務を怠る誘惑に駆られることになる。それを見越した村人たちは彼らを助けようとしなくなるので、義務をないがしろにする誘惑はますます高まる。かくして互助システムは崩壊し、誰もが不幸にあるだろう。こうしたわけだから、地域社会や共同体では掟破りに厳重な注意を払い、規範を脅かすような行動を厳しく取り締まる。

 

 

■   集団的反応

経済学者は一般に共同体が果たす役割のプラス面を強調する。だが共同体固有の規範が自主的に守られるからと言って、つねによいものだとは限らない。規範破りに科される罰が、保守的さらには暴力的、破壊的な方向に向かうこともある。

 

いまや古典と位置づけられるある著名な論文は、人種差別とインドの悪名高いカースト制度はどちらも同じ論理で維持されうることを示した。実際には人種やカーストによる差別を誰もしたくなくても、である。

 

実際には誰もカースト上の身分など気にしていないとしよう。だが性交渉や結婚でカースト上の身分を踏み越えた者は、通婚の禁止に違反したとされ、社会から追放される。そうなれば誰もその人の家族と結婚してはならないし、その人と友達になったり付き合ったりしてもいけない。さらに、その掟を破って追放された人の家族と結婚した人もまた社会から追放される。

 

こうした状況では、カースト自体をどう思うにせよ、自分の将来を考える人は敢えてカーストの決まりを破ろうとはしないだろう。もちろん、大勢の人が規範を否定し始めれば社会は変わるはずだ。だがそうなる保証はどこにもない。

 

 

■   博士と聖人

このように、共同体は人々を結びつける一方で、反抗する者を罰する。これは大昔から世界のどこでも見受けられる現象だ。国家レベルで言えば、国は個人を保護する一方で、共同体を壊す。パキスタンからアメリカまで現在さまざまな国で進行中の対立は、その表れである。

 

独立後のインドン歴史は、カーストで厳格に差別された身分の統合という点でまずます成功を収めたと言ってよいだろう。たとえば、長年にわたり不利益を強いられてきた被差別カースト(「指定カースト」 および少数民族である 「指定部族」)と上位カーストとの賃金格差は、1983年には35%だったのが、2004年には29%まで縮まっている。これは、同時期のアメリカにおける黒人と白人の賃金格差の縮小を上回る成績なのである。

 

インドがこれだけの格差縮小に成功した理由の一因は、やがてインド憲法の草案を書くまでになるのだが、生まれはカーストの最下層で、地元の学校に入ることすら認められなかったビームラーオ・アンベードカルがアファーマティブ・アクション [差別是正措置] を導入したことにある。

 

歴史的に差別されてきた集団について入学や雇用の受け入れ枠や目標値を定め、教育や就労、さらに議員になる機会が保証された。経済改革も寄与している。都市化によって人々の匿名性が高まると同時に、村のネットワークへの依存度が下がったおかげで、異なる身分同士が混ざり合うことが多くなった。新しく出現した産業ではカーストに関係なく雇用機会が提供され、そうなると低いカーストの若者たちにとっても教育を受けるインセンティブが高まる。

 

だからといってカーストの問題が解決されたというわけではない。地元レベルでは、カーストに根ざす偏見がいまなおしぶとく残っている。インドの11州565村を対象とする調査では、法律で禁じられているにもかかわらず、80%の村で最下層民への差別が何らかの形で残っていることが確かめられた。

 

約半数の村では、ダリットと呼ばれる最下層民は牛乳を売ることができず、約3分の1の村では、地元の市場では何も売ってはならない。彼らはレストランではちがう食器を使わねばならず、井戸も使用できず、接触、接近も忌避されていた。2018年3月には、グジャラート州のダリットの若い農夫が馬を所有したという理由で撲殺された。馬を所有したり乗り回したりするのは上位カーストにだけ許される行為と考えられていたためである。

 

また、カーストの遵守が重視されている地域では、共同体が構成員を監視し、法的権限もないのに罰を与えるといったことも日常的に行われている。地方では、パンチャーヤトと呼ばれる地元の長老会議が大きな影響力を持っており、伝統の名の下に州法に頑強に抵抗する。

 

たとえばチャティスガル州では、65歳の男にレイプされた14歳の少女が、地元の長老会議から警察に言うなと口止めされた。それでも彼女が訴えると言い張ると、女性を含む村の年配者たちから暴行されたという。このように、強力な共同体は最も弱いメンバー(かつてはダリット、現在は若い女性という具合に)を抑圧する。これに対して国はほとんど無力だ。なにしろ共同体に属す大半の人々は、集団的な監視や懲罰を維持することが自分たちの利益に適うと考えているのである。

 

 

■   「黒人が国民に変革を求めた」

これは、有名な風刺新聞オニオンの2008年の見出しである。この見出しは、バラク・オバマがアメリカの大統領候補になったことがいかに注目すべきことかを強調するものだ。黒人の物乞いはほんの小銭(チェンジ)をねだるのに、訴求力のあるリーダー、オバマは文化や意識の変革(チェンジ)を求めた。

 

1963年に行われた人種差別撤廃を求めるワシントン大行進から、アメリカ初のアフリカ系アメリカ人大統領の誕生までにわずか45年しか経っていないことを忘れてはならない。

 

その一方で、今日のアフリカ系アメリカ人は教育を受けた人が1965年と比べてはるかに多いにもかかわらず、教育水準が同程度の白人と黒人の間の賃金格差は拡大の一途をたどっている。今日では格差は30%近くに達している。

 

アフリカ系アメリカ人は、社会的地位が上方移動する速度が白人より遅く、下方移動する速度が白人より速い。この現象は、黒人男性の受刑率が際立って高いこととあきらかに関係がある。しかし、居住地や学校などに根深く残る分離とも関係があるだろう。

 

今日では黒人に対する敵意があからさまに(すくなくとも以前より素直に)表現されるケースが増えてきた。連邦捜査局(FBI)によると、ヘイト・クライムの件数は横ばいか減少傾向にあったが、2015年から増加に転じて3年連続で増え続け、2017年には17%増を記録したという。ヘイト・クライムの5件に3件が民族を理由にするものだったこともわかった。2018年の中間選挙では、白人至上主義者を公言するか、白人至上主義者と密接な関係にある候補者9人が出馬している。

 

 

■   今回はちがう

とはいえ2016年の大統領選挙以来、アメリカでしきりに口にされるようになったのは、アフリカ系アメリカ人に対する憎悪よりも、移民に対する憎悪である。それは、経済的な脅威をはるかに超えた感情のように見受けられる。

 

移民は 「われわれの」 仕事を 「奪う」 だけでなく、 「犯罪者で強姦犯」 であって、白人の生存自体を脅かすという。興味深いのは、アメリカの中で移民が少ない州ほど、移民を憎む傾向が強いことだ。移民がほとんどいない州(ワイオミング、アラバマ、ウェスト・バージニア、ケンタッキー、アーカンソー)の住民の半分近くが、移民はアメリカの文化と価値観を脅かすと考えている。

 

こうした現象は2016年以前もあったが、トランプが勝利した大統領選挙以降、憎悪を堂々と口にすることに抵抗がなくなったように見受けられる。アメリカには何度も移民の波が押し寄せている。そのたびに移民たちはこのような拒絶に遭い、最終的にアメリカ社会に受け入れられてきたのだと考えれば、すこしは心が休まるかもしれない。いまや 「イタリアの種馬」 ロッキーはアメリカ人のヒーローだし、ピザは5種類の食品グループの1つに数えられている。

 

同じ現象がフランスでも見られた。フランス人はまずイタリア移民を拒絶し、次にポーランド移民を、さらにスペイン移民やポルトガル移民を拒絶した。しかしいまでは彼らはフランス社会に定着している。だがフランス人は、次の移民の波が押し寄せて来るたびに 「今回はちがう」、今度こそ押し戻すと考えたものである。そして2016年にはイスラム教徒が拒絶の対象になっている。

 

こうした選好や姿勢はいったい何に由来するのだろうか。前に来た移民を受け入れた経験があるというのに、なぜ新しい敵を探し求めるのだろう。

 

 

■   統計的差別

他の集団に対して頑固な敵意を示す行動には、ベッカーとスティグラーの標準モデルの延長線上で単純な経済学的説明がつく可能性もある。

 

たとえば暴動や威圧などの行動は、経済的な目的に適っていることがある。1950~2000年にインドで起きたイスラム教徒に対するヒンドゥー教徒の暴動は、発生する都市と年度が偏っている。イスラム教徒の共同体が繫栄しているときに起きやすく、ヒンドゥー教徒の共同体が繁栄しているときにはあまり起きない。無差別攻撃のように見えたものも、実際にはイスラム教徒の商店などが狙い撃ちされていることがわかった。それらの攻撃の多くは、窃盗のカモフラージュだったのである。

 

さらに、経済学者が統計的差別 [statistical discrimination] と呼ぶものがある。統計的差別とは、過去の統計データに基づいた合理的判断から結果的に生じる差別のことだ。

 

私たちがパリでウーバーを利用したとき、その運転者はいかにウーバーがすばらしいか熱く語ってくれた。アフリカ系の自分がこんな立派な車を運転していると、以前は麻薬の密売人か車を盗んだのだろうと決めつけられたという。大方のフランス人は、フランスにいるアフリカ出身者は貧しく、したがって新車など買えないと考えている。これ自体は統計的事実に基づく合理的な判断だ。ところがその判断に基づき、大方のフランス人は、新車に乗ったアフリカ人はだれでも犯罪者だとみなしていた。だがいまは、ああ、ウーバーの運転手か、と考えてくれる。これはすごい進歩だというのである。

 

アメリカで警察官が黒人ドライバーを頻繁に止めて職務質問をするのも、統計的差別で説明がつく。また、ウッタル・プラデシュ州の州政府(ヒンドゥー教徒が要職の大半を占める)はこのほど、州警察に 「偶発的に」 殺された人々の多くがイスラム教徒だったことを認めたが、これも統計的差別で説明できる。犯罪者の中では黒人とイスラム教徒の比率が高いため、イスラム教徒と見ると犯罪者とみなしてしまうということが起きるわけだ。

 

このことは、剥き出しの人種差別と見えるものも、実際にはそうではなく、人種なり宗教なり関連づけられる何らかの属性(麻薬密売人、犯罪者など)を標的にした結果だと解釈できる。したがって統計的差別は、古くからある偏見(経済学者は好みに基づく偏見と呼ぶ)とは異なり、理由が存在する。

 

アメリカでは23州が、求職者に犯罪歴を訊ねることを禁止するいわゆるバン・ザ・ボックス法を施行している。ボックスとは採用時の書類審査に設けられたチェック欄のことで、 「あなたは有罪判決を受けたことがありますか」 という質問に答えることを求職者に要求する。

 

ここにチェックマークを入れただけで排除されるのは不当であるとし、雇用機会の均等を保障するために、バン・ザ・ボックス法はこうしたチェック欄の設定を禁じている。23もの州がこの法律を導入したのは、若い黒人男性の雇用を増やしたいという狙いもある。若い黒人男性はそれ以外の人々と比べて有罪判決を受ける確率が高く、また失業率は全国平均の2倍に達している。

 

では、バン・ザ・ボックス法は、実際に若い黒人男性の就労率を押し上げる効果があったのだろうか。最近、2人の研究者がこの点を確かめる調査を行った。彼らは1万5000件の架空の応募書類をニュージャージー州とニューヨーク市に雇用主に、それぞれ法律施行直前と直後に送付した。応募書類には、それぞれ白人に典型的なファーストネーム、アフリカ系アメリカ人に典型的なファーストネームを記入して、人種がはっきりとわかるように操作を加えてある。また法律施行前に送付した著類では、有罪判決の質問欄にイエスのチェックマークをランダムに入れた。

 

調査の結果、全般的に黒人に対するあきらかな差別が認められた。応募書類の内容が同じであっても、架空の白人応募者は、書類審査に合格して面接に進む確率が黒人応募者より23%高かった。また当然ながらバン・ザ・ボックス法施行前の調査では、応募書類の内容が同じであっても、有罪判決を受けたことのない架空の応募者は、チェックマークを入れた応募者より書類審査の合格率が62%高かった。つまり、チェックマークを入れると書類段階で門前払いを喰わされる可能性が高いということである。この点に関する限り、黒人と白人に大差はなかった。

 

しかし驚くべき結果がでたのは、バン・ザ・ボックス法施行後の調査である。なんと、書類審査の合格率に関して人種による格差が広がったのだ。法律施行前では、チェックマークを入れた白人応募者の合格率は、やはりチェックマークを入れた黒人応募者より7%高いだけだった。

 

ところが施行後は、この差が43%に拡大したのである。理由は、こうだ。有罪判決に関する情報が何もない状況で、雇用主が確実に知っているのは、黒人のほうが白人より有罪判決を受ける確率が高い、という統計的事実だけである。したがってこの事実に基づいて判断すれば、黒人は雇わないに越したことはない、ということになる。言い換えればバン・ザ・ボックス法の導入で、雇用主は人種だけに依存して犯罪歴を予想することになった。その結果が統計的差別というわけである。

 

 

第4章 好きなもの・欲しいもの・必要なもの② につづく

 

『貧困の経済学 上』 マーティン・ラヴァリオン著 柳原透監訳 (2018年9月20日第1刷)

 

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 貧困の測定と評価 ◇

 

 

 

第3章 厚生の測定⑤ (第3章は①から⑤まで)

 

厚生の測定①

厚生の測定②

厚生の測定③

厚生の測定④ のつづき

 

 

*   3・3  代替指標の理論と適用 からのつづき2

 

 

■ 厚生の自己評価

回答者に自身の 「経済厚生」 「生活への満足」 もしくは 「幸福」 の程度を順序尺度で訊ねる主観厚生指標が広く用いられている。これらの指標は、心理学や社会科学において極めて頻繁に適用され、近年には経済学でも受け入れられるようになった。

 

これらのデータを用いて答えを出そうとする問いとして最もよく知られているのは、 「お金で幸せは買える」 という命題の検証である。ある時点において、所得が高い人ほど自らを幸せであると報告する傾向がある。正確に言うと、所得の高い人々のほうが自身を 「非常に幸せ」 とみなす割合が高い。また、他の面でも高い主観厚生を報告する傾向がある。

 

しかし、リチャード・イースタリンによる有名な初期の研究は、いくつかの国において平均として幸福度は経済成長とともに上昇しなかった、と主張した (Easterlin 1974)。これは、イースタリンのパラドックスとして知られるようになった。イースタリンはこれを、幸福度は自身の所得と平均との比較に依存する、という厚生に対する相対欠乏の影響であると考えた。

 

おそらく、 「幸福」について訊ねる代わりに、回答者が自身を 「貧しい」 から 「豊か」 までのはしごの段に位置付ける 「経済はしご質問」(Economic Ladder Question:ELQ)のような、経済厚生に関する調査回答を用いる場合には、背景にある変数は、世帯人数と価格についての適切な標準化された、回答者の富あるいは適切に金銭表示された効用、と解釈できる。

 

幸福についての分布が知りようのないものであるのに対し、貧しいとか豊かであるといった変数については課されるべき制限を容易に思いつくことができ、そのため、調査回答での項目の選択に基づく平均値の比較が頑健なものでありうる。例えば、富は正規分布ではなく対数正規分布に従う、という傾向がかなり一般に妥当する。

 

それでも、もう1つの問題が現れる。 「貧しい」 とか 「豊か」 であるとか、人によって考えが異なるかもしれず、そのため、主観厚生に関する調査質問の解釈は人によって異なりうる。

 

例えば、 Young Lives Project は、ベトナム農村に住む6歳の子どもデュイの 「わたしたちは、新しい棚を持っているけれど洗濯機は持っていないので、豊かというにはちょっと足りない」 という言葉を報告している。デュイは明らかに何が 「豊か」 を意味するかについて、ベトナムで真に豊かな生活を送っている人とは違う考えを持っている。

 

調査回答者は、主観評価を求める質問を、彼ら自身の参照枠(frame-of-reference)に照らして解釈する。センが言うように、 「不満の多い金持ち」 のほうが 「満足した小農」 よりも貧しいと判断されるべきだろうか。

 

主観データが用いられる2つの場面に即してこの問題を検討しよう。その1つは、貧困の測定に必要な厚生の個人間比較での利用である。 「主観貧困」 の指標は普通に用いられるようになってきた。これらの指標は、何割の調査回答者が自身を 「貧しい」 から 「豊か」 までの 「厚生のはしご」 の最下段(あるいは下の二段)に位置付けるか、を示す。しかし、もし厚生のはしごの段が回答者によって同じように理解されていないとすると、それらの指標が持つ意味は不明確となる。

 

2つめは、主観厚生と連動する変数に数多くの研究に関連する。いまや慣行となったように、調査への回答を、年齢、性別、婚姻状況、所得、教育、就業状況、世帯構成、といった個人と世帯の属性に回帰する。

 

そのような回帰は、客観状況(例えば所得や消費)のみに頼る通常の方法の場合よりも、弱い識別仮定の下で、厚生へのさまざまな影響とトレードオフを特定する見通しを提供する。個人の経済厚生が、世帯の現在の消費または所得のみならず、家族の人数や構成や特徴(例えば教育や雇用)によっても影響されることに、原則として同意する。このような属性については 「価格」 情報は存在しない。主観データは、トレードオフを識別して回帰に基づく混合指数を限定するための解決策を提示する。

 

厚生の自己評価による実証研究は、いくつかの標準の経済モデルやその政策上の合意に疑問を投げかけた。その例としては、所得が同じであるとして、失業中のほうが主観厚生は低い、といういくつかの論文から得られた結果がある。これは、労働と余暇の間の選択について標準の経済モデルが示すことではない。

 

標準モデルでは、失業の厚生上のマイナスは所得の損失からのみ生じるとされ、所得が同じであるなら、失業中のほうが余暇時間は多くそれだけ効用水準は高い、と考えられている。しかし、標準モデルが見逃している失業の不効用があるのかもしれない。非自発失業に伴い選択の幅が狭まる、仕事が社会での地位を与える、といったことかもしれない。また、失業が心理面の不調を生む、という証拠もある。

 

個人に内在し時間を通じて安定した属性が、厚生の自己評価に体系立った影響を及ぼす、という証拠が心理学研究で得られている。心理学研究のメタ分析では、主観厚生と相関する137の個人特性が特定され、心理学でよく用いられる5つの表題(「外向」 [extraversion]、 「協調」 [agreeableness]、 「誠実」 [conscientiousness]、 「神経症傾向」 [neuroticism]、 「経験への開かれた態度」 [openness to experience])の下に分類された。

 

これらの心理特性は、主観厚生のモデルで用いられているようには、標準の社会経済調査において測定されることはない。しかし、これから見るように、このようなデータを失業の厚生への影響を評価するために用いる際に、それらの存在は関心事項となる。

 

心理学での研究に目を向け、どのような個人特性が関係するのかを探ろう。上記の総括研究において5つの表題の下に特定された137の個人特性のうち、主観厚生と最も強い相関を示すのは次のものである。「外向」 では 「対人能力」、 「協調」 では 「集合自尊心」 「親交への恐れ」 「個人間での統制感」 「対人感情」 「対人関心」 「対人歩調」 「信頼」、 「誠実」 では 「自律欲求」 「自己抑制」 「可逆」、 「神経症傾向」 では 「苦悩」 「情緒安定」 「反抗・不信」 「抑圧型防御」 「対人不安」 「緊張」、 「経験への開かれた態度」 では 「自信」 「自尊」。

 

これらは、個人の違いのもとになるものとして、厚生の個人間比較をする大多数の場合にコントロールされるべきである。例えば、自己抑制、反抗、自信のなさ、といったことは税制優遇措置の対象者を選定する基準とはされないであろう。これらの心理要因が関心の対象とされる他の変数と無相関であるのであれば、例えば失業が厚生に及ぼす影響を測るときに、これらをコントロールする必要はない。説明力は弱まるが、それらの潜在心理要因が偏った結果をもたらすことはない。

 

しかし、厚生の自己評価を高める個人特性の中には、所得とプラスに、失業とはマイナスに、相関しているものがあるであろう。先に列記した中で、主観厚生を高めると考えられている特性は、採用候補者との面談で人事担当者が望ましい特性として注目するものとかなり重なる。幸せな労働者はさまざまな点で生産への貢献が大きいという証拠があり、これには納得がいく。

 

例えば、さまざまな個人特性が労働者の常習欠勤に影響することを示唆する心理学の研究が数多くある。それらの特性の一部(例えば、外向、誠実、情緒安定)は、主観厚生に影響すると考えられているものと重なるところがある。特定の個人特性により、幸福度が高められるのと同時に、調査への回答で自らが病んでいると認めるのをためらう、と憶測することもできる。ここでの検討が意味するところは明白である。主観厚生の回帰分析において、例えば失業の影響が統計上で強く検出されたとしても、それは分析に含まれなかった個人特性の影響を反映しているだけかもしれないのである。

 

同様の偏りは、(所得、健康、家族人数など)その他の要因の影響の推定においても生じる。例えば、主観厚生のデータを用いると、客観データを用いた前述の方法よりも、消費における規模の経済が大きな値を示す。

 

しかし、クロスセクション研究では規模(特に、1人当たり所得を同一としたときの世帯人数)の影響が頑健に示されることはなかった。個人の主観厚生において世帯人数による規模の経済がいくつかの研究で見出されているが、それは回答者の個人特性が世帯人数に影響しているのを反映しているのかもしれない。クロスセクション分析の結果は、そもそも幸せな人々は大家族を形成しがちであるという傾向があるために、大きな偏りを含んでいるかもしれない。

 

もう1つの懸念は、主観についての質問の解釈が回答者によって異なることである。回帰式の推定では、閾値が、すべての回答者に共通の一定値のパラメーターであることが仮定されている。 「尺度の不均一」 は、この仮定が成り立たない何らかの状況(例えば、閾値が人により異なる場合)として定義される。そのような不均一があり、それが主観厚生の回帰式の説明変数と相関しているならば、既存研究での回帰内生であるために、背景にある主観厚生の連続変数の誤差項との相関を生じさせる、という一般の懸念も妥当する。

 

ブルーノ・フレイとアロワ・シュトゥッツァーによる信頼できる展望論文では、厚生についての自己申告回答に 「尺度の不均一」 の問題がありうることの指摘はなされるが、そのデータを用いる回帰モデルは有効でありうると主張される (Frey and Stutzer 2002)。このような見解は広く受け入れられているようであるが、先に述べた偏りについての懸念がある以上は、一般論としては擁護しがたい。問題を無視するのも、偏りがありうる以上は主観貧困ないし主観厚生の回帰は放棄すべきと判断するのも、早計であるようである。

 

最近の研究の中には、主観厚生の回帰分析がこれら諸問題に対して頑健であるかどうか、を明らかにしようとするものがある。1つの研究では、ロシアのパネルデータを用いて、(モデルでは付加要因と解釈される)潜在する個人特性の影響を取り除くことが試みられた。この研究からは、これまでのクロスセクション研究では失業による厚生の損失を大幅に過大推計している、ことが明らかになった。これは恐らく、存在する個人の特性の影響によるものであろう。それにもかかわらず、所得の損失をコントロールしても失業による厚生の損失があることが見出された。

 

 「尺度の不均一」 の問題に対処するため、アンケートの回答者に家庭や状況についての仮想のエピソードを同一の尺度で位置付けてもらう方法が、健康状態、政治関与能力、仕事への満足度、などについての主観データを用いた研究で用いられている。これに倣って、主観厚生における参照枠の影響につきエピソード法を用いて研究することに関心が高まり、データを用いて 「尺度の不均一」 の影響を検証するさまざまな手法が提示された。エピソード法を用いたこれまでの研究によって、尺度の不均一の影響は大きいことが明らかにされ、それによって、一般に用いられている主観貧困指標は信頼できないものであることが示された。

 

しかし、心強いことに、尺度の不均一を無視した主観厚生の回帰からも、それに対処したものと同様の結果が得られている。尺度の不均一は、主観厚生や主観貧困のデータを用いたときに深刻な問題を生じかねないが、一定の尺度を仮定するほかはない場合には、このようなデータを従属変数として用いることで有用な結果を得ることができる。したがって、主観データは、直接の厚生指標としてよりも(とりわけ非市場財が含まれるときに)厚生の諸側面間のトレードオフを明らかにする上で、大きな価値を有するかもしれない。次章では、貧困線の設定にあたっての主観データの使用について述べる。

 

 

 

3・4  3つの質問

 

この章では、貧困の測定を目的とした個人の厚生の評価が価値判断を必要とすることと、重要な点に関して常にデータに欠陥があること、を強調した。こうした認識に立ち、私の考えでは、実際における測定の選択を導くべき3つの原則がある。

 

 

■   原則①:個人の厚生につき絶対基準を用いる

1つの指針として、貧困の評価では常に、個人の厚生については絶対基準を用いなければならない。これは貧困を測定するどんな経済アプローチにおいても基礎となっている。このように定めることによって、貧困の測定は、十分に明確な定義された個人の厚生の概念と適合することが求められる。

 

ここで重要なのは、われわれが 「厚生」 という言葉で何を意味するかである。主な学派の間で共通の基盤をしばしば見つけることができるが、異なる概念アプローチも存在する。ケイパビリティは絶対基準であると見ることができるが、多くの側面を有するので、トレードオフがあるときには、評価のためにはファンクショニングで定義される効用関数が必要とされる。

 

あるレベルの分析では、厚生の決定要素として、自家で供給される財とサービスの消費が重要な役割を持つ。民間消費を唯一の厚生指標とすることの限界はとてもよく認識されている。例えば、公共部門により提供される財へのアクセスも考慮に入れるべきであることは広く合意されている。

 

原則①を実行する上で中心の問題は、貧困を測定する目的で厚生の個人間比較を行うときに用いられる情報である。財に対する選好を尊重するアプローチでは一般に、(可能であれば家計に固有の)価格を用いて消費された量を集計することによって得られる総消費の指標を重視する。

 

しかし、同一の消費バンドルは、(個人の特徴によって異なる)多数の効用関数についての予算制約下での最大化に対応するもの、と解釈しうる。ケイパビリティ・アプローチは、人々が何ができて何ができないかに関係するさらに広い情報の集合を、厚生を直接に生み出すものとして活用する。しかし、ここでも、その考えと整合する複数の指数が存在するので、価値判断が必要とされるであろう。

 

原則として、厚生の個人間比較をするときに、消費可能性を超えて広い範囲の要因を考慮に入れ包括する厚生主義アプローチを考えることができる。理論上は、この広い概念としての厚生の金銭表示は、個人の実際の所得と属性により決まる実際の厚生水準を、ある基準の属性の場合に達成するのに要するであろう所得、として定義することができる。この考えを実際に適用する際には、外部からの判断が常に求められる。

 

ケイパビリティの考えは、財の消費のみを見ることから知りうることを超えて、厚生に関連する情報を提供する源と見なすことができる。これは、観察される消費パターンと一致する諸厚生指標の中から1つを特定するのに役に立つことがありうる。

 

 

■   原則②:パターナリズムを避ける

この原則は、分析者に、貧しい人の顕示された選好を重んじることを求める。価格が存在するときには、厚生の集計指数を形作る際に、観察された財の消費に重み付けするのに価格を用いる強い論拠がある。確かに、しばしば、観察された価格に消費の機会費用を適切に反映させるために調整を要するかもしれない。貧しい人々が非合理であるとの主張は、証明するのが難しい。そのような主張は、人々の関心をあまりにも単純に捉えすぎているとか、人々が間違いを犯しうることを認めないとか、調整期のコストを考慮していないとか、に起因しているかもしれない。選択に際して当人が必ずしも十分な情報を有するとは限らないが、それは部外者とて同じことである。

 

挙証責任は、外からの見方を押し付ける側にある。当人の自由意志により、外部者の推奨するリストにないものに乏しい所得の一部が充てられるとすれば、その個人を尊重するのなら、リストのほうを疑うことが求められる。それ以上に情報がないときには、ある人が何を必要とするかは他の誰よりも当人がよくわかっている、と考えるのが筆者の立場である。

 

既存の市場が十分によく機能する(とりわけ、誰でも望むだけの量を買うことができる)ならば、市場価格が存在するときには、それが評価に用いられるべきである。(予算制約以外の)制約がない場合には、消費者の合理選択として、自身の評価を相対価格に一致させる。

 

このように考えると、価格、世帯人数、世帯構成の違いが適切に標準化された、十分に広範な財への支出の集計指標に、貧困と不平等の指標が基づくべきことは明らかである。厚生主義以外のアプローチでは、厚生の諸側面がどのように集計されるべきかについて、実際上の指針を提供することはない。

 

そして、用いうるときでも、市場価格はしばしば無視される。貧しい人々の厚生がどのように変わったかについての外部者による評価と、貧しい人自身による評価との間で、不一致が生じてしまうであろう。私の考えでは、(市場経済での)実務者が価値付けにおいて市場価格を用いないとすれば、それなりの正当な理由がなければならない。集計にあたり市場価格は(選択に制限があれば)完璧とは言えないかもしれないが、それでも無視されるべきではない。

 

 

■   原則③:データの限界を認識する

異なる属性を持つ人々の間で厚生を比較するためには、市場の財に対する顕示された選好のみからは十分な情報が得られない。他のデータに頼る必要があり、ここでは、ケイパビリティの考え方が効用と財の間の中間項として極めて有用でありうる。

 

しばしば、ケイパビリティに関する情報は、貧困指標の調整の指針となる。例えば、貧困指標が通常の活動を維持するのに必要な栄養摂取量に基づく場合などである。貧困指標の外部にある、他の情報が必要な状況がしばしばある。

 

これには、家計調査ではなかなか捉えることのできない重要な非市場財へのアクセス(例えば、公共サービスへのアクセスや家庭内の不平等の指標)に関するデータ、がしばしば含まれる。この原則は、付け足しではなく肝心なことであるが、貧困を測定する標準のアプローチでは時として忘れられている。われわれは、用いられている指標の限界に常に気を配る必要があり、1つの指標のみに頼ることについて慎重でなければならない。

 

財の消費を十分にカバーする指標があれば、生活水準について多くを知ることができる。それでも、そのような指標には反映されない厚生の諸側面がある。このため、公共サービスへのアクセスや家庭内の不平等などの欠落変数をよりよく反映するその他の指標を用いて、世帯消費の分布に基づく貧困指標を補完する必要がある。

 

 

※ この 『貧困の経済学 上』 は残り 「第4章 貧困線」、 「第5章 不平等指標」、 「第6章 インパクト評価」 があり 『貧困の経済学 下』 へと続くが、ここで一度中断し、 『アジア開発史』 アジア開発銀行著か 『最底辺のポートフォリオ 新装版』 ジョナサン・モーダック他著のいずれかに変更する予定

 

 

『貧困の経済学 上』 マーティン・ラヴァリオン著 柳原透監訳 (2018年9月20日第1刷)

 

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 貧困の測定と評価 ◇

 

 

 

第3章 厚生の測定④ (第3章は①から⑤まで)

 

 

厚生の測定①

厚生の測定②

厚生の測定③ のつづき

 

 

 

*   3・3  代替指標の理論と適用 からのつづき1

 

 

■ 食料シェア

予算に占める食料の割合は実質総消費支出が増えるにつれて減少する傾向がある。この観察に基づき、食料予算シェアを生活水準の逆の指標として用いることがしばしば正当化されてきた。しかし、食料シェアを厚生指標として用いることにはいくつかの懸念もある。

 

食料予算シェアと1人当たり総消費との関係は一般に世帯間で異なる。そのような不均一さを生む要因としては、相対価格、ある種の財へのアクセス (娯楽や外食は都市部のほうがはるかに簡単である)、世帯構成、仕事の種類 (どの程度のカロリーを消費するか)、天候 (寒冷地では食料シェアが下がるかもしれない)、選好、の相違など数多く存在する。

 

これらの相違があるため、価格指数の設定での援用の場合も含めて、食料シェアを実質消費の指標として用いることは、妥当とは考えられない。同一の総支出額の下で食料支出額が地域により異なるとき、それが(生計費指数の設定において求められるように)価格水準の違いのみを反映していると結論付けることは明らかに不適切である。また、貧困世帯の食料需要の所得弾力性は1に極めて近いかもしれず、そうだとすれば食料シェアはかなり不安定な指標といえる。

 

予算シェア(食料シェアを含む)の慎重な分析が、厚生分析にとってまったく役に立たないというわけではない。異なる種類の世帯を比較するとき、需要行動のみから厚生指標を導出する上での識別問題が大きく立ちはだかる。これに対処する1つのアプローチは、同一の種類の世帯について需要分析を行い厚生指標を導出することである。異なる種類の世帯の間での比較は(とりわけ健康や栄養といった)ファンクショニングの達成などの外部情報、あるいは厚生の自己評価に関する観察、を基にする必要があろう。注意深く用いることで、予算データは生活水準を見る上で役に立ちうるのである。

 

 

■   栄養指標

通常の理解では、低栄養と貧困は別個の概念であり、それぞれ違った厚生指標が対応する。低栄養については栄養摂取量(主に食料エネルギーであるが微量栄養素も含まれる)であり、貧困については消費全体(栄養価値以外の食料の性質や食料以外の消費も含まれる)である。したがって、いささかぎこちない言い方ではあるが、低栄養を 「食料エネルギー貧困」 と見て同様の方法で測定することができる。

 

栄養摂取量を厚生の指標として用いることには賛否両論ある。食料シェアと同様に、インフレ率が高い国や適切な価格データがない国では、実際上の強みがある。食料エネルギー摂取量の分布とデータはインフレーションを調整する必要がない。しかし、その反面、栄養は厚生の1つの側面にすぎない。低所得国でさえ、主食の消費が高いウェイトを占めるとしても、そのウェイトは決して1にはならない。

 

消費行動は厚生指標にとって不完全な指針でしかない、という主張がありうる。人々が栄養摂取に与えるウェイトは、 「自身にとっての価値よりも低い」 と考えられるかもしれない。しかし、人々が常に自身の厚生に対し最も良い判断を下すと仮定する厚生主義の主張を時として疑いうるのと同様に、消費者行動を無視するどのような生活水準の指標に対しても疑いの目を向けるべきである。

 

この問題に関して不確実さがあるのは明らかであり、それを前提とすると、唯一の賢明な解決策は、低栄養のような非厚生主義の指標と厚生主義の指標の両方をモニターすることのようである。貧困比較に際してこれら2種類の指標が異なる判断を導くときにのみ、問題をさらに探求する必要がある。そのような必要があれば、顕示された選好が厚生に反する理由について、非厚生主義の立場からの説得力のある見解が示されることを期待する。

 

例えば、等価尺度との関係で先に論じた世帯内の不平等といった消費行動が、厚生を反映しない理由はあるのであろうか。それは不完全情報の問題であろうか (そうであれば、教育政策への示唆を提起しうる)。もしくは、非合理さ(例えば認知の不協和のため)や合理選択をする能力がないこと(自身にとって何が良いことなのかわからない年少者に代わって健全な選択をする人がいない場合など)といった、より根本の問題なのであろうか。

 

このコメントは、子どもの年齢に対する体重(weight-for-age)もしくは 「身長に対する体重」(weight-for-height)といった身体測定指標にも妥当する。これらの指標は個人の栄養必要量の設定の不確実さを避けることができるが、同様の不確実さは身体測定指標の基準値の設定に際しても見られる。また、これらの指標は、世帯内での生活状況を明らかにすることができるという強みを持つ。

 

しかし、これらの指標についてさらにもう一点指摘がある。栄養学者を含む一連の見解によれば、広い厚生の概念を踏まえると、栄養必要量を示すために子どもの身体測定指標を用いることには疑念の余地がある。例えば、子どもたちの一見適切な身体成長率の維持が、遊ばないことで低い食物エネルギー摂取量の水準で起こることが時としてある、ことが見出されている。明らかにこれは、どのような子どもにとっても食料に関連する深刻な欠乏である。ここでもまた、貧困比較をするときに、個人の 「厚生」 の概念をあまり狭く捉えないように注意しなければならない。

 

 

■   定性方法と混合方法

定性と定量の方法の違いは、場合によっては、求めるデータの種類の違いを反映する。例えば(ほとんど無関係な)個人を対象とした標本調査は、人々の間の社会関係の研究に用いるには明らかに限界があるだろう。目的に合わせて選ばれた小規模標本を用いる定性研究は、村などについて地元で一般に知られている事実を明らかにするには非常に有効でありうるが、貧困や不平等を測定するためには不適切であることは明らかである。 「純粋な」 定性方法と定量方法の間に出現したどちらとも言えない領域があり、その中には、両方の手法をしばしば独自に組み合わせるさまざまな混合方法がある。

 

拠って立つ方法論上の立場にも違いがある。 「因果関係」 の概念は定量貧困分析の伝統の基礎であり、政策ないし社会経済変化の厚生と貧困への影響を(第Ⅲ部でさらに論じられる)定量化する数えきれない試みに、そのことは明らかである。この違いも実際にはそれほど明確ではなく、貧困の定性研究で因果帰属が試みられることは普通に見られる。その際に直面する問題は、定量と定性のどちらの研究方法を用いるかで異なることはないようである。納得がいくように因果関係を特定するためには、定性研究であっても、定量研究に適用されるのと同じ水準の厳密な推論がなされねばならない。さもなければ、知識の進歩は幻影に終わるかもしれない。

 

時として語られるもう1つの違いがある。それは、社会科学研究の目的に関するものである。定性研究の中には、参加者のエンパワーメントに貢献しようとするものがある。そのような伝統は定量研究にはないが、定量方法が同様のアドボカシーの役割を果たすことはある。第Ⅰ部で見たように、当初から、世帯調査は貧困との戦いに世論を動員するために用いられてきた。このことは、分析の質と、分析が果たす何らかの政策上のないし実践上の役割と、両者の間のトレードオフがあるかどうか、という重要な問題を提起する。そのようなトレードオフの存在を、アドボカシーの役割を務めようとする定量分析に、時として見られることがある。

 

このように、定性と定量の2つの間の隔たりは、方法論上の論争から受ける印象ほどに大きなものではない。現在の最も優れた実践では、賢明な選択がなされ、しばしば異なる方法が組み合わされて用いられる。それでも、いくつかの重要な違いには注意すべきである。調査に基づく客観貧困評価と定性研究に基づく現場での知見(当事者による自己評価であれ、訓練を受けた観察者による評価であれ)との間に食い違いがあることが、しばしば報告されている。

 

当事者評価の例を1つ挙げよう。ロシアの全国標本調査において、成人のおよそ30%が自分自身を主観による 「厚生のはしご」 の最も低い2つの段に置く一方で、これらの人々の約半分のみが、貧困線未満の所得を持つ世帯に属する30%の成人の中にいた。自身を 「貧しい」 と思うかどうかは従来の貧困統計では捉えられないし、逆もまた真である。

 

次に、訓練を受けた観察者による評価の例を1つ挙げよう。北インドの村における貧困についての、1年間在住した調査社の観察に基づく主観評価を用いた研究がある。そこでは、1年間の観察と村民との議論に基づいて、研究者たちは、彼らの調査対象村で、土地なし農業労働者のほぼすべて(99%)が上記の人類学調査法で 「貧しい」 ほうに分類される、ことを見いだした。しかし、25年にわたる4回のインタビューから得られたその時々の所得の平均に基づく恒常所得の指標を用いたときには、54%のみがそのように分類された。研究者たちの貧困に対する認識が、所得データが示すよりもはるかに強く土地なしであることと結びつけられている、ことは明白である。

 

研究者たちは、貧困についての特定の特徴づけに囚われているかもしれない。例えば、インドの村の貧しい人々は、土地を持たず、不完全就業である、という想定が広く抱かれている。しかし、そのような想定は現実にはそれほど適合しないかもしれない。

 

定性データには、人々の厚生に関して通常の定量データでは見つけることができない手がかりが含まれることもある。経済学者(そして、他の社会科学者の一部)は、伝統として主観データを用いないできたが、重要な例外もあった。

 

初期の例としては、所得評価質問(Income Evaluation Question:IEQ)がある。IEQでは、回答者に、所得額を 「とても悪い」 「悪い」 「よくない」 「悪くない」 「よい」 「とてもよい」 とみなすかを訊ねている。IEQの回答は、効用関数を特定するためにファン・プラークと後続の研究者によって用いられた。この方法の適用例として、最低所得質問(Minimum Income Question:MIQ)がある。これは、どれだけの所得が 「生計を保つ」 ために必要かについて訊ねる。第4章では、貧困線の設定におけるこの方法の応用について述べる。

 

所得ベースの指標から完全に離れて、厚生の自己評価を代わりの厚生指標として用いる、自由度の大きいアプローチが出現した。よく用いられるものでは、 「幸福」 や 「生活全体の満足度」 について、人々に自身がどのような位置にいるかを訊ねるものがあり、しばしば 「キャントリルのはしご」(Cantril ladder)を呼ばれる。これは恐らく、貧困あるいは 「経済厚生」 を測定するには広すぎる概念であろう。誰かが 「貧しい」 と言うときに、その人が不幸であるとは言うつもりがないのが通例であろう。

 

主観に基づく貧困測定のより良い出発点は、 「貧しい」 から 「豊か」 までのキャントリルのはしごの各段を定義することである。例として、フィリピンの Social Weather Station によって行われた世論調査や Eurobarometer がある。 Social Weather Station では、標本に含まれる成人に、 「貧しい」 「境界線上」 「貧しくない」 のどの段が当てはまるかを訊ねた。 Eurobarometer も同様の質問をするが、7つの段を用い、自らを下の2つの段にいるとする人々を貧しいと特定する。

 

 「経済厚生質問」 の研究もいくつかある。それらの研究では、回答者が最低と最高の段をそれぞれ最貧と最富裕とする(通常9段の)はしごのどれかの段に自身を置く。この方法は、厚生の主観認識と経済学の伝統として支持される 「客観」 指標の間の食い違いなど、個人の厚生に影響を与える要因をよりよく理解するために、有用であろう。

 

定性分析は、厚生の個人間比較を行う際に、参加者やファシリテーターが他者の厚生ランキングをすることで、三角検証(triangulation)の形でも用いられている。これは、自己評価の妥当さを確認するための方法と考えることができる。これはまた、調査データに含まれ観察できる変数の中で、厚生の自己評価と連動し頑健な説明力を有する変数を特定する、という動機を与えた。原理上は、一次抽出単位の中での無作為標本から作られるフォーカスグループを用いて、厚生評価を三角検証することも可能である。

 

全国レベルの異時点間の貧困比較のためには実現可能な方法でないことは明らかであるが、定性データは役に立つ新しい情報を提供する。経済学者は、人々の厚生についての主観に基づく、ないしは自由解答式の、質問を用いない傾向があった。奇妙にも、経済学者は、人々が自身の厚生を最もよく判断すると考える一方で、どのように感じているかを人々に直接に訊ねることはしない。

 

 

第3章 厚生の測定⑤ につづく

 

『貧困の経済学 上』 マーティン・ラヴァリオン著 柳原透監訳 (2018年9月20日第1刷)

 

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 貧困の測定と評価 ◇

 

 

 

第3章 厚生の測定③ (第3章は①から⑤まで)

 

 

厚生の測定①

厚生の測定② のつづき

 

 

 

3・3  代替指標の理論と適用

 

 

貧困と不平等の測定の目的のために最も一般に用いられる個人レベルでの厚生の指標は、世帯の消費もしくは所得を、世帯人数や世帯構成の違いにつき標準化し、さらに直面する価格の違いを反映して実質化したものである。これは経済厚生についての重要な指標であり、現在利用できる指標の中で明らかに最も優れたものである。

 

しかし、ここまで議論したように、理論と実践の両面で、利用にあたり注意を要するいくつかの限界もある。ありがたいことに、個人の厚生の評価、そして貧困と不平等の測定に関連した有用な追加情報を提供する他の諸指標がしばしば利用可能である。

 

 

■   成人1人当たり換算での実質消費

成人1人当たり換算での実質消費は、すべての財とサービス(自家生産からの消費の価値も含む)に対する総名目支出を、2つのデフレーター(直面する価格の違いを調整する生計費指数と、世帯の人数と構成の違いを調整する等価尺度)で割ったものである。Yを世帯の総消費(もしくは総所得)とし、Zを等価尺度と価格デフレーターを統合したものとすると、これはY/Zと書くことができる。

 

ここでのデフレーター(Z)は、基準とされる経済厚生水準を当該世帯が達成するために要する費用、と解釈しうる。基準とされる経済厚生水準が、世帯が貧困であるかどうかの判定に用いられるときには、Zは貧困線である。貧困線に関しては第4章で詳しく論じる。

 

適切な貧困比較のために、価格指数に関してとりわけ重要なことがある。それは、特別な条件が満たされない限り、ある1つの指数を貧困層と非貧困層の両方に適用することはできない、ことである。

 

一般に、この指数は生活水準の基準がどのように選ばれるかに依存する。もし相対価格に違いがないのであればインフレーションの調整だけ行えばよいが、そのための良い価格指数が必要である。インフレ率だけを調整すればよいもう1つの場合は、相対価格は異なるが、家計消費支出の配分が所得水準にかかわらず同一である、という条件が満たされるときである。この条件は、現実にはめったに満たされることはない。

 

例えば、インドにおける貧困比較では、一般に(全国平均の)消費者物価指数ではなく、貧しい人々によって消費される基本賃金財に大きなウェイトが置かれる農業労働者対象の消費者物価が用いられている。しかし、ラスパイレス指数が用いられているので、時間を通じてウェイトは変化しない。

 

時間を通じての生計費の変化を調整すべきことはよく認識されているが、地域間での価格の相違についての調整は貧困比較でなされることは少ない。しかし、輸送費がしばしば高く、市場の地域間統合に対するその他の障害も大きい途上国においては、地域間での価格の相違はとりわけ大きい。このことは、地域間もしくは農村都市間での貧困比較に明らかに影響を及ぼす。

 

また、地域による生計費の違いを適切に調整しないと、集計された貧困指標の著しい偏りを生みかねない。地域による価格のばらつきは、また、行動と整合する(生計費指数などの)厚生指標の推計に必要な需要パラメーターを特定するのに、大きな助けとなる。

 

留意すべき主な問題として、利用可能な地域別価格データの通常の分類項目に含まれる財が不均一であるかもしれないことがある。これは 「住居」 のような財についてとりわけ重要であるが、 「米」 のような財でさえも品質の違いがある。

 

世帯の間には人数や構成に違いがあり、単に世帯全体としての消費額を比較するのでは、世帯内の個人の厚生の比較としては不適切である。どのような所与の人数と構成の世帯に対しても、等価尺度は、その世帯と同等であるとみなされる(通常は)成人男性の人数を定める。

 

中心をなす問いは、どのような意味で 「同等」 なのか、である。理想としては、世帯の総消費(もしくは総所得)を用いる尺度で標準化したとき、個人間で比較可能な金銭表示厚生指標が得られる、と確信したい。言い換えれば、同じ等価尺度をもつ2人の厚生水準が等しいことを保証するような尺度を求めたい。実際にはこの理想を達成できるかどうかは別のことである。ここでも、観察された行動から厚生を推測することの難しさと同じ問題に直面する。実際には、観察された行動のみに拠らず、理に適うと思われる価値判断をしなければならないであろう。

 

どのように測定を行うかによって、貧困の判定などの結果が左右されうる。貧困と世帯人数の関係を検討しよう。厚生指標の 「世帯人数弾力性」 を、世帯人数が何%か増加したときに厚生指標が何%減少するか、と定義できる。一般に、この弾力性にはある臨界値があり、それ以上では大家族のほうが貧しいとみなされ、それ以下だと小家族のほうが貧しいとみなされる。

 

したがって、(子どもの多い)大家族を優遇する貧困政策の実行を考えるとするならば、実際に測定される弾力性の値がどれくらいかが重要な関心事となる。もし、世帯消費を人数で割るならば (弾力性はー1)、ほとんど常に大家族のほうが貧しいという傾向がわることがわかる。もし (逆の極端の設定として)、世帯人数で割らないで、世帯の総消費を厚生指標として用いるならば、ほとんど確実に逆の結果となる。そして、両極端の間のどこかで、貧困と世帯人数は無相関であろう。

 

実際に等価尺度を決める際には、調査から観察される消費行動に基づくのが普通である。つまり、クロスセクションデータを用いて、ある調査期間における世帯の各種財の消費が(価格や総消費に加えて)世帯の人数や構成によってどのように異なるかを見る。

 

例えば、通常の方法では、各世帯における食料消費の予算シェアが、1人当たり総消費の対数と、世帯構成の分類ごとの人数とに回帰される需要モデルが用いられる。食料シェアは厚生指標の逆数と解釈される。ある厚生水準を、したがって(仮定により)食料シェアを、基準値として定め、回帰式を用いて世帯構成の相違を正確に補償するために必要な消費額を計算することができる。実際には、そのような方法では、成人女性や子どもに対して成人男性等価1未満の値が割り当てられる傾向がある。

 

この方法にはいくつかの問題がある。推定されたエンゲル曲線に基づく上で論じた例では、同じ食料シェアを持つ異なる世帯は等しい厚生水準にあると仮定する。これは厚生主義の立場からは正当化し難い (その仮定を受け入れるのであれば、厚生と貧困の測定のためにわざわざ等価尺度を推計する必要はない。食料シェアそのもので十分な情報である)。

 

また、すでに記したように、観察される食料消費行動の厚生上の解釈は、同じ行動を生み出す複数の効用関数が存在することによって不明確なものとなり、厚生に関係するパラメーターを行動に基づき特定することができない。また、その他の問題として、子どもにかかる費用は親が負担するが、現在の消費は減らさずに貯蓄を削って賄うことがあり、消費への影響は調査時よりも後に起こるかもしれない (子どもたちが成長した後かもしれない)。このように、消費と世帯構成についての1時点のみでの観察に基づくと、等価尺度を作成する際に誤りを犯しかねないのである。

 

消費行動に基づき作成される等価尺度の厚生上の解釈は、世帯内で消費の配分がどのようになされているかについての見方にも依存する。等価尺度が依拠する実証研究の結果の解釈は、(1つの極端な場合として)成人男性による独裁の下で決定がなされているか、あるいは世帯全員の厚生を最大化するようになされているか、でまったく異なるかもしれない。

 

世帯内交渉モデルとして、世帯内の配分において世帯成員の世帯外での選択肢は反映されるもの、を考えよう。消費行動から引き出される等価尺度は、世帯内での分配の2つの側面を反映している、と考える。年齢、性別による実際の 「ニーズ」 の違い(世帯消費における規模の経済とも関連しているかもしれない)と、外部の選択肢と 「バーゲニングパワー」 での不平等、の2つである。分析や政策立案のために世帯の厚生を比較する際に、第一の側面を取り入れるのは正しいが、第二の側面についてはそうは言えない。不平等な厚生の状態をそのままにし、さらに強固なものとしてしまう、からである。

 

先に見た測定の問題は、政策にも影響しうる。表3・1の仮想データを用いて、簡単な例で示すことができる。

貧困の経済学 上 p224表3.1

 

2つの世帯に計5人がいる。世帯Aには成人男女1人ずつと2人の子どもがおり、世帯Bは1人の成人男性からなる。3人の最も貧しい人が世帯Aにいる。例を明確なものにするため、上述の貧困状況のニーズの違いを考慮しても変わらないと仮定する。政府は、最貧層と判定する世帯に移転を行うが、政府が知るのは世帯全体としての消費額と世帯構成のみであり、世帯内での分配については観察できない。

 

2つの世帯A、Bのどちらが先に援助を受けるべきだろうか。少なくとも、女性と子どもに何らかの恩恵がある限り、答えは明らかに世帯 「A」 である。しかし、これを知るためには、各人の消費を知る必要がある。

 

(既知の)1人当たりの世帯消費を基準にしても、答えはAである。すべての人に同じウェイトを与えるこの等価尺度を用いるとき、少なくとも何らかの利益が3人の最も貧しい人たちに届く。しかし、代わりに、成人女性に0.5、それぞれの子どもに0.25を割り当てる等価尺度を考えよう。この場合には、世帯Aは成人男性2人と等価であり、成人男性換算消費は世帯Bよりも多くなる。援助は、最初にBが受け、最貧の60%の人たちにはまったく届かないであろう。

 

もちろん、これは1つの例にすぎず、(しかも)世帯A内での不平等はかなり極端である。しかしながら、この例は2つの重要な点を示すのに適している。第一に、観察される消費行動は重要なデータであるが、観察されないものについての仮定が必要である、ことである。第二に、世帯間の厚生比較の実証研究における一見無害な仮定が、政策選択にかなりの影響を与える、ことである。

 

等価尺度を定めることは、かねてより厚生測定を実施する上での最も難しい課題の1つである。どのような選択がなされるかで政策上の判断に影響が出ることがある。特に、人口中の特定の集団を優遇するような社会政策についてはそうである。世帯人数について考えよう。貧困層の家族構成上の特徴は、人口政策に、そして家族手当などの給付の適格基準の設定に、とりわけ関係が深い。しかし、人数が多い若い世帯を他の世帯よりも貧しいとみなすかどうかは、厚生の測定の際に置かれる検証できない仮定に大きく依存する。

 

先進国では、貧しい家族でさえ、消費において規模の経済が働く財を消費する。1人の2倍未満の支出で2人が生活できる。貧しい国では、このような財が貧困世帯の支出に占める割合は非常に少ない。彼らの消費バンドルは、食料や衣類といった規模の経済が少ない財で占められている。この理由から、途上国を対象とした貧困研究では、世帯の消費もしくは所得を人数で割る傾向がある。これは大まかな近似としては容認しうるものであるが、貧困世帯での消費における規模の経済を過少に見ていることは確かである。考慮すべき事柄はこれだけではない。厚生の測定は、指標が用いられる目的によっても影響を受けることがある。例えば、観察はできないが、世帯人数が多いほど世帯内不平等が大きいであろうことを認識して、政策立案者は、消費における規模の経済に注意する以上に世帯人数を重視するかもしれない。

 

指標の選択に難しさがつきまとうことを考えると、選択次第でどの程度の影響が出るのかを知る必要がある。置かれる仮定に対する指標の感応度(sensitivity)を検証するべきであるが、厚生指標のパラメーターの変化に対する貧困指標の感応度を検証するのは簡単かことではない。

 

この問題を理解するために、その他の条件を一定として、尺度パラメーターを変化させるときに、貧困指標がどのように変化するか見よう。最近の1つの研究では、消費における規模の経済と大人と子どもの支出ニーズの違いを組み入れて、途上国全体を一括して貧困率の推計がなされた。その研究では、上記の設定の下で推計された指標が、 「1人当たり」 尺度に基づく指標と比較された。相当の違いが見出された。途上国全体としての2000年の貧困率は、用いられる尺度が変わることで、31%から3―13%へと低下した。

 

根本の問題は、尺度パラメーターが異なるときに厚生水準を相互に整合するように比較するための、概念上の基礎が欠如していることである。感応度の検証を理解するためには、まず、意味ある比較を可能とするには固定点あるいは 「基軸」 が必要であることが、認識されねばならない。それは、尺度パラメーターの選択に影響を受けない特定の種類の世帯である。

 

感応度の検証で得られる結果は、たまたまどのような基軸が選ばれているかに大きく左右される。尺度パラメーターを次々と変えて等価1人当たりの実質所得の分布を再計算した上で、同一の 「1人当たり」 貧困線を適用するのは、単身成人世帯が基軸とみなされている場合にのみ意味を持つ。

 

しかし、これは恣意による選択にすぎず、成員構成から見る世帯の種類の分布においてかなり極端な例である。どのような成員構成を基軸に採るかによって、尺度パラメーターの違いに対する感応度は大きく異なりうる。基軸の設定についての正当な概念上の基盤を欠いているので、厚生関数のパラメーターが変化した際の貧困指標の感応度については、どのような答えでも得ることができる。したがって、意味ある推測ができるかどうかは明らかではない。

 

正当化できそうな基軸の設定の根拠を見いだそうとするとき、なしうることの1つは、貧困の測定を導いたのと同一の論理を適用することである。それは、(価格指数や非食料品のウェイト付けにおいて)貧しい人々の状況とかなり符合するパラメーターを用いることである。

 

その趣旨は、貧しい人々の厚生を評価する際に妥当しそうもないようなパラメーターを用いてはならない、ということである。それは価値判断であるが、受け入れられそうに思われ、実際において広く受け入れられている。この論理からすると、単身成人を基軸とすることはとても適切とは言えそうにない。

 

 

■   境遇に基づき予測される厚生

研究者によっては、調査から(必要であれば生計費の調整後に)得られる世帯の厚生指標の代わりに、その指標を(通常では同じ調査で観察される)いくつかの変数に回帰して得られる予測値を用いる、ことがある。

 

それらの変数の信頼できる計測値に基づく予測値についての1つのありうる解釈は、調査に基づく厚生指標に含まれる測定誤差を除去する、というものである。しかし、次の懸念がある。予測値は、厚生指標が反映する重要でありうる観察されない厚生の決定要因を除去してしまう。それらの要因とは、世帯による厚生水準の違いをもたらすものであるが、調査には含まれず、先述の変数によって捉えられることもないものである。

 

近年よく見られるこのアプローチの応用として、個人もしくは世帯にとっての 「境遇」 を表すように変数を意識して選ぶことがなされる。これは、ジョン・ローマ―により提案された 「機会の不平等」 を測定するアプローチに倣うものである (Roemer 1998)。

 

より一般に、この解釈では、予測値は、除外された変数よりも厚生との関連が強いとみなされる要因を反映する。機会の不平等を計測するときに目的とされるのは、測定された厚生の分散のどれだけが境遇によるものであるかを特定することである。そうすることによって、残りの分散は努力によるものであるとされ、理論上の問題とはされない。

 

このアプローチについての概念レベルでの懸念については3・1節に記した。次の問題は、不平等のどれくらいが境遇によるものであるのかの判断に十分な自信を持てるのか、ということである。すぐに浮かぶのは、境遇に関して観察事項のリストの実際に用いられるものは、明らかに限られており調査に含まれる変数次第である、という懸念である。

 

同じ国での2つの異なる調査を比較するとき、調査により境遇の違いを表すのに適した変数がどれだけ含むかが異なるために、1つの調査では相違の30%が境遇によるとされる一方で、他の調査では60%とされる、といったことが起こりうる。そして、それぞれに即して、観察される不平等の70%(もしくは40%)は努力の違いによるものであり理論上の問題とはされない、といった解釈が下される。さらに、境遇要因のうち観察されるものは観察されないものと相関がある公算が高く、回帰係数の解釈にも疑問が生ずる。

 

その他に、さらに深刻かもしれない懸念がある。境遇から結果に至る過程に努力が介在しているかもしれないので、観察される境遇要因は表に出ない努力と相関しているかもしれない。これは厚生の解釈を不明瞭にする。

 

ここでの問題は、結果を決定する上で、隠れた努力の要因が境遇と相互作用することから生ずる。これらの予測値が、所得や就学などのうちで努力ではなく境遇のみに帰せられる部分を本当に測定すると信じるためには、努力が無視できる、すなわち境遇と相関しない、と仮定しなければならない。この仮定は、努力が境遇に依存することを許すことによって、いくらか緩められる。しかし、観察される境遇によって決定はされないが、それと相関はする何らかの努力の要素が存在する限り、懸念は残る。努力と境遇の相互作用があるとすれば、懸念はさらに高まる。

 

ここでの問題の核心には、境遇による影響と努力による影響とを明確に分離することの困難がある。貧困を貧者当人の責任だとする人々は、貧困を引き起こす原因と考える行動をあっさりと特定する。 「怠惰」 はその典型例である。機会アプローチによれば、怠惰な人々は貧しいからといって政策による支援を与えられるべきではない、とされる。

 

しかしながら、状態が境遇のみにより決定されることはめったになく、努力により最初の不利な境遇を克服しうることがある。貧者は往々にして怠惰であると考える人々は、実証上で特定される境遇要因は観察されない行動を(単独であるいは境遇要因との相互作用の中で)捉えているにすぎない、ということはないと確信しているにちがいない。

 

しかし、怠惰がある程度は親から子どもへと受け継がれると考えるのであれば、そのような確信を持つのは難しい。子どもの教育と親の教育の間には明らかに正の相関がみられる。子どもが親よりも熱心に勉強する意志をもつことは、ありうるし、実際にある。しかし、努力しうる能力と親の教育の間の相関があることには変わりがない。機会アプローチにとって、この相関を排除することが、観察される境遇要因に基づく予測値が厚生指標として信頼しうるための鍵である。

 

 

第3章 厚生の測定④ につづく

 

『良い戦略、悪い戦略』 リチャード・P・ルメルト著 村井章子訳(2012年6月22日第1刷)

 

 

 

◇ 第2部 良い戦略に活かされる強みの源泉(第6章から第15章) ◇

 

 

 

第1部で繰り返し述べたように、ごくおおざっぱに言えば、良い戦略とは最も効果の上がるところに持てる力を集中投下するところに尽きる。短期的には、手持ちのリソースを活かして問題に対処するとか、競争相手に対抗するといった戦略がとられることが多いだろう。そして長期的には、計画的なリソース配分や能力開発によって将来の問題や競争に備える戦略が重要となる。

 

第2部では、良い戦略ではどのように強みが生み出され活用されているかを説明する。ここでは最も一般的で、かつ読者に新たな視点を提供できるものを選んだ。そして第15章では、これらの手法を一体的に活用した例として、3DグラフィックスのNVIDIAに注目する。

 

 

 

第6章 テコ入れ効果

 

 

良い戦略は、知力やエネルギーや行動の集中によって威力を発揮する。ここぞという瞬間にここぞという対象に向かう集中が、幾何級数的に大きな効果をもたらすのである。これをテコ入れ効果(レバレッジ)と呼ぶ。最も効き目のあるところに力を集中することが、戦略的テコ入れの要諦である。

 

 

■ 的確な予測でテコ入れ効果を引き出す

テコ入れ効果を得るには、的確な予測を行うことが重要になってくる。みごとな予測として、トヨタを挙げておこう。アメリカでガソリン喰いのSUVが大流行していた頃、トヨタは10億ドル以上をハイブリッド車の開発に投じていた。この戦略を支えていたのは、2つの予測である。1つは、エネルギー事情が逼迫する中で、将来的には燃費の良い車の需要が増大してハイブリッド車は主流的な製品カテゴリーになるというもの。

 

もう1つは、トヨタが先行してハイブリッド技術をライセンス提供できるようになれば、他社はそれに応じ、自前でより高度なシステムを開発する方向に進まないだろう、というものである。これまでのところ、どちらの予測も適切であったことが実証されている。

 

戦略的予測では、すでに起きた出来事を起点にして、世の中の趨勢、経済や社会の動向、他の関係者の動きなどを手掛かりに、「下流」で起こりうる出来事を予測するのが定石である。

 

 

■ テコの支点を選ぶ

テコ入れ効果を実現するためには、エネルギーやリソースの効果を数倍に高められるような「支点」を見つけなければならない。適切な支点を選んでテコをあてがえば、力は何倍にもなる。それは、自然に形成されたか人為的に作られたかを問わず、何らかの不均衡であることが多い。ほんの小さな力をそこに加えるだけで、抑えられていた不満や蓄積されていた力を解放する。たとえばニーズは高まっているのに、それに応える製品やサービスが提供されていないとすれば、それは1つの不均衡である。また、開発された能力が十分に発揮されていないとか、他にも応用が期待されるケースなども、不均衡と言える。

 

 

■ 集中によってテコ入れ効果を得る

限られているものを集中投下したときの見返りは大きい。これは、1つには、制約があるからだ。リソースが無制限にあったら、どの目標にするか、誰も真剣に悩まないだろう。リソースに限りがあるからこそ、投入する対象を厳しく吟味せざるを得ない。

 

集中が大きな見返りをもたらすもう1つの理由は、「閾値効果」が表れるからである。このようなケースでは、ターゲットを選び、手持ちのエネルギーやリソースを集中投下することが望ましい。たとえば、広告には閾値効果があると考えられる。すなわち、ほんの少しだけ広告を出してもほとんど効果はなく、閾値を超えて初めて反応が現れるのがふつうである。このことから、まんべんなく長期にわたって広告を出すよりも、短期間に集中豪雨的に出すほうが効果があると考えられる。

 

同様の理由から、企業のストラテジストは、大きな市場でシェアを獲得するより小さな市場を独占するほうを好む。また政治家は、国民全体に広く薄く便益をもたらすより、特定の集団に明らかな利益を提供するほうを好む。

 

組織で集中が生まれる要因としては、閾値効果のほかに、経営幹部の注意や認識能力に限りがあることが挙げられる。人間が一度に5つのことをやろうとしてもうまくいかないのと同じように、組織も重要な課題に同時にいくつも取り組むのは無理がある。

 

心理学の観点から言うと、集中ができるのは、閾値以下のシグナルに気づかないか、無視するからである(これを心理学用語で「サリエンス[顕現性]効果」という)。あるいは、勢いづいていて成功が成功を呼ぶような好循環に入っているときも、集中が起きる。

 

このような集中によって大きな成果をあげ、人々の注意を集め、世論をも変えた例は少なくない。たとえば、2つの学校をみごとに生まれ変わらせることができたら、200の学校が2%ずつ改善されるより、世間は強い印象を受けるだろう。こうして人々の見方を変えることができれば、その行動を支持する動きが生まれ、自ら力を貸したり後押ししたりする人が現れて、一段と効果が高まる。