『良き社会のための経済学』 ジャン・ティロール著 村井章子訳 (2018年8月24日第1刷)

 

 

 

◇ 第Ⅲ部 経済の制度的枠組み ◇

 

 

 

第6章 国家

 

 

国家の役割を考えるに当たっては、社会にとっての市場の問題点と政府介入の限界を洗い出す必要がある。そのためにまず少し後戻りし、社会がどのように建設されてきたかを振り返りたい。

 

 

1  市場の失敗

 

 

市場擁護論者は、市場の効率性と完全性を主張する。彼らの主張はこうだ。まず効率性について言うと、自由な競争は企業をイノベーションへと駆り立て、財やサービスを安価に提供させる。それによって購買力は向上する。このことは、とりわけ貧困層や中流層にとって意味があるという。

 

市場の完全性は、効率性に劣らず重要である。政治や文化の自由によって人々は多数派による抑圧から守られる。まさにそれと同じように、起業や取引の自由によって、市民は、政治に働きかけて特権を手に入れ社会的利益を犠牲にする既得権益団体の横暴から守られる。

 

計画経済を採用した国の生活水準と、市場経済を選んだ国の生活水準の甚だしい格差は、1989年にベルリンの壁が崩壊したときに、全世界にあきらかになった (今日でも、北朝鮮と韓国の間には1対10の格差がある)。

 

いまや、経済的自由の価値を疑う余地はない。そうは言っても、市場にはたくさんの欠点がある。まずは失敗の全体像を把握するために、基本的な質問を1つ提示しておこう。売り手と買い手の双方が合意した取引が、なぜ社会にとって問題を生じるのか。先験的には、両者が合意したからにはこの取引は両社に利するはずだ。それなのに、なぜ政府が干渉しなければならないのか。

 

市場の失敗は、おおざっぱに次の6つに分類できる。

 

(1) 何らかの取引が、合意に参加していない第三者に悪影響をおよぼす。

環境汚染がその代表例だ。企業は、消費者のために製品を生産する際に、環境を汚染することがある。だが、影響を被る人たちを守る市場のメカニズムは存在しない。人々は一方的に被害を受け、我慢しなければならない。だから市場を環境保護政策で補う必要がある。この根拠により、環境省や原子力庁といったものに権限を与えることが正当化される。

 

(2) 取引の中には、買い手が十分な情報を得たうえで合意したわけではないものがある。

熟慮吟味のうえで合意に達するためには、買い手が正しい情報を提供される必要がある。買い手は、医薬品にせよ他の製品にせよその危険性を知ることができないし、うかうかと詐欺商法にだまされてしまうこともある。そこで、消費者を保護し、不正を監視する機関が必要になる。取引は、暴力の脅しなどにより強制されて成立することもありうるし、当事者能力のない人に押し付けられることもある。こうしたことは、言うまでもなく、許されるべきではない。

 

(3) 買い手は自ら選んで自分に損害を与えることがある。

人間は、自らの将来を犠牲にしてまで現在の快楽を選ぶことがある――だからといって、けっして将来を台無しにしたいわけではない。そこで、タバコや脂っこい食品や甘い嗜好品に税金をかけることが正当化され、薬物の取引が禁じられる。またある種の耐久消費財については頭を冷やす期間(クーリングオフ)を設けて、消費者をのぼせた自分自身から(あるいは断り切れないセールスマンから)保護している。また多くの国で人々に退職後の蓄えをしておくこと(退職積立金)を奨励しているのも、同じような理屈からだと言えよう。つまり人間は、目先の快楽のために遠い将来の備えがおろそかになりやすいと考えられている。

 

(4) 取引の実行が個人の能力を超えてしまうことがある。

あなたが銀行にお金を預けているとしよう。銀行との契約では、一定の手続きに従って預金を引き出せることになっている。だが、あなたが預金を引き出そうとしたとき、銀行が倒産していたら、どうだろう。まさにお金を必要とするそのときに、あなたは途方に暮れることになる。もちろん理論上は、銀行を日々監視し、財務諸表に目を通し、経営不振の気配を察知したらすぐさま預金を下ろしたりすることは可能だ。だが少し考えれば、このようなやり方がうまくいかないことはすぐわかる。そこで実際には、銀行や保険会社を監督する機関が置かれて、あなたが毎日監視しなくてもよいことになっている。さらに万一の破綻の際には、国家の保険機構が、一定額までは預金の保障をしてくれる。

 

(5) 企業が市場の力を悪用することがある。

企業は、消費者に法外に高い値段を払わせたり、品質の悪い製品を買わせたりすることができる。規模の経済などの理由からその企業が市場を独占しているときには、とくにそうなりやすい。市場の力を支えるのは競争の権利と業界規制であり、そのために独占・寡占や反競争的商習慣を監視している。

 

(6) 市場は効率の権化だとしても、そのことは平等を保証しない。

健康保険を例にとろう。共済組合や社会保障制度において、健康保険契約に差別を設けることを容認したらどうなるだろうか。たとえば現在の健康状態や家系の遺伝データに基づいて、あなたは癌になりやすいとか病気がちな家系だと判断され、妥当な保険料では保険に加入できなくなるかもしれない。これは、経済学に古くからあるテーマだ。情報過多は保険を殺すのである。このためほとんどの国の法律では、ある種の個人情報に基づいて健康保険に留保条件を付けることを禁じている。

 

また市場は、社会にとって望ましい所得の分配をしなければならない理由は、いっさい持ち合わせていない。税引き前所得の不平等は、グローバル化した今日の世界では是正されず、一国の富がイノベーションに依存する度合いは高まる一方だ。だが不平等は、正義と効率という2つの観点から高いものにつく。

 

まず正義について言うと、市場経済における不平等は、それ自体が保険の不備と見ることができる。私たちがまだ生まれる前で、社会における自分の将来の位置づけを知る前の状態にいるとしたら、個人の努力が報われることによって、人々が全体のゆたかさに貢献したくなるような社会を望むだろう。だが同時に、もし自分が不運な境遇に生まれついても、尊厳を持って生きられるような社会をも望むだろう。この意味で社会契約はたった1つの保険契約とみなすことができ、こうした保険が用意されているということが、所得税によって再分配を行う根拠となる。

 

次に効率についてだが、不平等は不運な境遇に生まれつく「運命のリスク」を伴うだけでなく、非効率を招きかねない。不平等は社会の絆を断ち切り、外部不経済を生む。安全が脅かされ、スラム街が増殖し、弱い立場に追い込まれた人々は排他思想に流されやすくなる。こうした社会不安の影響からは、恵まれた人々も逃れられない。世界のあちこちに、防犯のためのゲートを設け周囲にフェンスを張り巡らしたゲーテッドコミュニティ(要塞都市)と呼ばれる住宅地区があることをご存じだろうか。その姿は不平等の負の影響をまさに体現しており、運命リスクに対する保険の不備だけでは片付けられない問題だと感じさせる。

 

 

 

2  市場と国家の相補関係

 

 

公の場の議論では、市場擁護派と国家擁護派がしばしば対立する。どちらの側も、市場と国家は相争っていると考えているからだ。だが実際には、市場がなければ国家は市民を(適切に)養っていくことはできないし、市場は市場で国家を必要としている。起業の自由を守り、司法制度を通じて契約の履行を保障するためにも、またその失敗を修正するためにも、国家が必要だ。

 

長いこと社会という組織は、次の二本の柱に支えられていると(暗黙のうちに)考えられてきた。第一の柱は、競争市場という「見えざる手」である。この言葉はアダム・スミスが『国富論』(1776年)の中で使ったことで一躍有名になった。見えざる手は、個々人の利益追求の結果として経済効率が高まることを表した言葉である。つまり競争市場においては、売り手も買い手も規模が小さすぎて価格操作ができないので、価格は、需要と供給が一致して市場が均衡したときの水準に落ち着く。このときの取引の利益が実現し、社会における効率的なリソース配分が行われたことになる。

 

第二の柱は、国家による市場の失敗の是正である。先ほど説明したように、市場には6つの失敗がある。国家は経済主体に責任を負わせ、また国家が連帯責任を負う。この考え方を強く支持した経済学者に、イギリスのアーサー・ピグーがいる。彼はケンブリッジでケインズの師だった人だ。ピグーは1920年に『厚生経済学』を著し、「汚染者負担の原則」を提唱した。

 

国家による市場の失敗の是正には限界があるのだが、この考え方に筋が通っていることは強調しておきたい。国家はゲームのルールを決め、プレーヤーに責任を持たせる。プレーヤーはそのルールに従い自己利益の追求をしてよろしい (というよりも、追求しなければならない)。

 

環境汚染の例で考えてみよう。国家は、企業に対して汚染するなと要求するのではなく、「もし二酸化炭素を1トン排出したら、これこれの料金を払ってもらいます。排出するか払うかは、あなたが決めなさい」というふうに言う (もちろんこれは脚色である)。すると自らの選択が社会に与える影響に最終責任を負う企業は、要求された二酸化炭素排出基準を守りつつ、生産性の向上に全力投球することができる。

 

スミスとピグーの業績は、自由主義や株主価値という概念の基礎なった。重要なのは経済主体が社会的費用(外部不経済)と自らの選択について責任を負うことである。

 

 

■    国家の失敗

市場と国家の関係を分析すると、市場は国家の代わりにはならず、国家も市場の代わりにはならないこと、両者は相互に依存していることがわかる。市場がうまく機能するには、国家がうまく機能することが必要だ。逆に、失敗国家は市場の効率に寄与できないし、もちろん市場の失敗を埋め合わせる手段を講じることもできない。市場と同じく国家も、さまざまな理由からたびたび失敗する。

 

最大の理由は、利益団体の圧力に負けてしまうことだ。大方の人が思い浮かべるのは、ちょっとした依怙贔屓や少しばかりの便宜を図ってやる(たとえばその業界に将来のポストを約束する)ことで政治家と業界が共謀状態になるといった構図だろう。だがそのようなことは氷山の一角にすぎない。もともと政治家の側には、次の選挙で当選したい、再選されたいという強い動機がある。そこに次の2つの要因が重なって意思決定を歪めやすい。

 

1つは、政治家には有権者の先入観と無知無能力に付け入る誘惑が大きいことである。これについては後段で論じる。もう1つは、圧力団体の便宜を図る政治的コストが、それ以外の大多数の人(納税者、消費者など)には見えにくいことだ。その一方で圧力団体のほうには、自分たちの得られる利益がじつにはっきりと見える。この情報の非対称性は、特定業界への優遇措置を意図的にわかりにくくすることによって一段と強化され、一般の人々に選択を誤らせる。

 

このような行為の責任をとらせるのはなかなかむずかしい。責任追及が容易な部門とそうでない部門がある。たとえば、公共輸送部門の失敗は直ちにわかる。これに対して、国や地方自治体の帳簿外の借り入れやさまざまな事業の公営化(長期債務を抱え込むことと事実上同じである)は、有権者にはなかなかわからない。

 

最後に、裁判管轄が絡んでくるため、市場の失敗は必ずしもうまく修正されないことを指摘しておきたい。国際的な合意が成立しない場合、市場の規制は必然的に国ベースで行わざるを得ない。国内で児童労働を禁じることはできても、遠いよその国に禁じることはできないのである。

 

 

 

3  政治の優越か、独立行政機関か?

 

 

国家の介入の必要性を説くだけでは、十分ではない。どのように介入するかということも慎重に考える必要がある。フランスでは、選挙で選ばれた議会と選挙の洗礼を経ていない独立行政機関(AAI:日本の独立行政法人に近い)の分業ほど扱いのむずかしい問題はないと言ってよかろう。

 

大統領選挙のたびに、ポピュリズムに出し抜かれることを恐れる右派や中道左派は、経済的決断における政治の優越性をポピュリスト以上に強調し、国内の規制機関や欧州中央銀行(ECB)の独立性に疑義を呈する。選挙のとき以外でも世論はひんぱんにECBを批判するほか、公正取引委員会などの競争当局も槍玉に挙げる。すると競争当局は競争の維持という強迫観念に取りつかれ、かえって経営者の手から競争する自由を奪いかねない。

 

政治権力からの独立は、けっして目新しい問題ではない (たとえば英国からの裁判官の独立は1701年王位継承法に遡る。また三権分立は、1787年のアメリカ合衆国憲法に定められた)。だがここ30年ほどで進められた改革の顛末と、独立行政機関に対する執拗な攻撃を目の当たりにすると、政治からの独立の根拠と意義を改めて問い直す必要を強く感じる。

 

司法の独立は、政治や社会の目的を決めるのは政治や社会だという、きわめて基本的なことを示している。一方、社会が「正義」をどう定義するにせよ、司法の目的である「良き正義」が最もよく保証されるのは、独立した裁判官が行う場合である。かくして司法の独立は、健全な民主主義を象徴する要素の1つになっている。

 

同じことが、経済政策の決定にも当てはまる。経済学が扱うのは手段であって、目的には関与しない。このため、独立機関に他の選択肢の評価やその技術的解決を委託するわけだ。こうすることで、政策当局には政策の一貫性が保証され、独立機関には圧力団体からの独立が保証される。

 

 

■    なぜ独立行政機関なのか?

たとえば、独占的な地位や買収合併を利用して市場の競争を脅かすようなケースが、大臣の執務室で経営者と議論になったとしよう。そこは政治の場であるから、経済的根拠が正しいかどうかと同じくらい、両者の個人的関係に結論が左右されることになりやすい。

 

しかし独占禁止法の適用を独立行政機関に委ねれば、ゲームの様相はすっかり変わる。なれ合いやお目こぼしは姿を消し、規制する側とされる側は合理的な論拠と確かな事実に基づいて議論することになる。経済理論にも出番が回ってくるわけだ。

 

こうした独立機関が下す決定の中には賛同できかねるものもあるが、それはここでは問題ではない。重要なのは、独立機関は強い反論に遭うにしても、そこで問われるのは議論の質であって、力関係ではないということである。したがって下される決定は、少なくとも大臣の執務室よりは質の高いものになる。独立機関が下す決定の質をより高めるために、われわれ経済学者は研究の質を高め成果を広く共有すること、独立機関のほうは専門知識を深め分析を精緻化することが望ましい。

 

選挙偏重の弊害を挙げておこう。銀行危機やソブリン危機は、しばしば不動産のせいにされる。世界のどの国でも、政府というものは国民に家を買わせたがる。それ自体は避難すべきことではないかもしれない。だが政府が住宅の購入を奨励すれば、どうしても金融機関は住宅ローンの審査を甘くしやすい。返済できそうもない人にまで貸してしまう。そうした借り手は、たとえばローン金利が上昇したり、住宅価格が下落したりすると、ローンを返せなくなって路頭に迷うことになる。

 

アメリカで大惨事を引き起こしたサブプライム危機についてはさんざん議論されたが、じつは同じようなことはヨーロッパでも起きている。たとえばスペインがそうだ。スペインでは2008年までに住宅バブルが膨れ上がっており、それが破裂したときには借り手はもちろん、住宅産業や銀行 (カハスと呼ばれる貯蓄銀行)、最後は国民全体に影響が波及した。銀行を救済したために政府債務は積み上がり (危機前は対GDP比40%未満だった)、結局は国際通貨基金 (IMF)、 ECB、 欧州連合(EU)に助けを求めることになった。失業率はとくに若年層で急上昇し、高い社会的コストを払わされる結果となった。

 

貯蓄銀行をはじめとする銀行部門の脆弱性がスペイン危機の重要な要因だったことはまちがいない。しかしスペインの銀行の監督機関(中央銀行であるスペイン銀行の中にある)は世界でもきわめて優秀だと評価が高く、多くの中央銀行がそう認めている。

 

この監督機関は2005年頃に早くも、住宅バブルのリスクを見抜いていた。しかもまだ強気相場が続いているうちに、世界に先駆けて市中銀行に引当金の積み増しを求めたのである (この積み増し分がなかったらスペイン危機がどれほど悲惨になったかは、想像にあまりある)。ところが中央銀行が状況判断を下したあと、市中銀行に住宅ローン・リスクを減らすよう指導する役割は政治に委ねられた。ここで、人気取りが慎重を上回ったというわけだ。

 

 

 

4  行政改革

 

■    新しい国家の概念

国家の概念は変わった。かつては国家と言えば公職に国民を雇用し、国営企業を通じてモノやサービスを提供する機関だった。これに対して近代国家はゲームのルールを決め、市場の失敗を是正するために介入しても、市場の代わりはしない。企業経営に不向きの国家は、規制機関になったと言えよう。国は市場がうまく機能しない領域で責任を引き受け、機会の平等、健全な競争、公的資金に依存しない金融システム、企業の環境保全義務の徹底、国民皆保険、労働者の保護(失業保険、職業訓練など)などの実現に努める。

 

公共支出の増加は避けられないものではない。現にスウェーデンは、1991~97年にGDP比10%まで切り詰めることに成功している。民間委託を増やし、公務員の数を1990年代に40万人から25万人まで減らしたことが大きい。省庁には戦略立案、予算折衝、議会審議の準備に携わる数百人規模しか残さず、通常業務は独立した専門機関に委託し、雇用と報酬の決定権も与えた。

 

ドイツ、オランダ、北欧諸国、カナダなどには、公共サービスや社会保障の膨張を防ぐ社会民主主義の伝統がある。これらの国々が公共サービス支出を一定水準に抑えることに成功したのは、単一の総合政策によって改革を実現させたからだ。個別の改革というものは、なかなかうまくいかない。改革で損をする業界の利益団体が猛反対する一方で、改革の恩恵を受ける側はそのことをよく知らなかったり、無関心だったりするからだ。包括的な改革であれば、損をする人も多いのだが、パイ自体を非常に大きく見せることができる。

 

 

■    公務員の削減

行政改革では、お手本となる国でもやっているように、まずは公務員の数を制限すべきである。1つには言うまでもなく経費削減のためだが、もう1つには、情報技術の進歩によって以前ほど人手がいらなくなっているからでもある。

 

ところがフランスでは減らすどころか、2000~13年に15%も増えている。何らかの公共サービスを始めるとなると、フランスではまず公務員を雇うことを考える。民間委託方式に比べ、人材活用の仕方が硬直的だと言えよう。EUの統計局ユーロスタットによると、2010年の公共部門の雇用数はフランスでは530万人だが、ドイツはフランスより25%ほど人口が多いにもかかわらず、450万人にとどまっている。

 

労働市場が長らく低迷しているフランスのような国では、公務員の削減は後回しになりがちだ。政治家、とくに地方の首長は、たとえ公務員の数が多すぎるような自治体であっても、新たな雇用機会を創出するよう絶えず圧力をかけられている。なにしろ次の選挙で勝てるかどうかは雇用次第なのだから。だが肝に銘じてほしい。国や地方自治体が公共サービスを拡大してよいのは、そのための増税ができるときだけである。増税をしてまでサービス拡大を認めるかどうかは社会の選択である。ただし、次の2つの点に注意を促したい。

 

第一に、公務員の雇用を増やしても、端的に言って雇用の創出にはならないことだ。その報酬をまかなうために増税をするとなれば、その増税分を誰かが負担しなければならない。たとえば社会保障税を引き上げるとしよう。民間部門でつくられるモノやサービスはその分だけコストがかさむことになる。すると競争市場にいる民間企業としては、人減らしをしてコストを抑制せざるを得ない。したがって公務員の増員を正当化できるのは、質の高い公共サービスの提供が求められている場合に限られる。公務員を増やすときは、この基準で検討しなければならない。

 

第二に、増員が必要になった場合には契約ベースで増やすべきである。恒久的に身分を保障される公務員を今日雇ったら、報酬を手当てするための増税は、今年1年だけでなく40年におよぶ。そのうえデジタル革命によって不要になる仕事は増えているし、今後も増えるだろう。そう考えれば、公務員を新規に採用するのは無謀なことだと言えよう。

 

 

■    支出を減らし、賢く使う

アウトソーシングや契約社員方式以外にも、経費を節減する方法はいろいろある。フランスではとりわけ問題なのは、地方自治体の数がむやみに多いことだ。フランスの人口はヨーロッパ全体の13%にすぎないのに、自治体の数では40%を占める。

 

議員の数も多すぎる。アメリカの上院は非常に活発に活動しているが、議員数は100名である。一方、アメリカの上院に相当するフランスの元老院は、人口がアメリカの5分の1にもかかわらず348名もいる(下院に相当する国民会議は577名)。国民1人当たりの議員数でみると、アメリカはフランスの10分の1である。個人的には、フランスの議員数を大幅に減らす代わりに、専門知識を備えたスタッフを増やすのがよいと考えている。

 

ただし、拙速は禁物である。一般的には、 「カナダ方式」 でプロジェクトの経済性を検討するのがよいだろう。これは、プロジェクトごとに次のような的確な質問を検討するやり方である。そのプロジェクトは公共の利益に資するか。答がイエスだとして、他の公共部門または民間部門で提供可能ではないか。かかるコストは妥当か、コストがもっと少なくて済む方法はないか。聖域を設けずに問いを重ねることが重要である。この種の質問をつねに意識し、議論することで、意外な解決の道が開けることも多い。自国の公共サービスを他国と比較し、彼我の差がついた原因を究明するのも良い方法である。税金の徴収方法は適切か。医療の費用対効果はどうか、等々。

 

カナダの場合、連坊政府が財政再建に着手し、1993~97年に公的支出を19%に削減したとき、医療、司法、住宅、移民など社会的なプログラムの予算はほとんど減らさず、企業向け補助金を60%削減するとともに、産業運輸省の予算を半分に減らしている。国の予算編成は、必要な支出を積み上げていく方式ではなく、目標ごとに割り当てるべきだ。国家が国民に奉仕し、国民のために何をすればよいかを考えることから改革が始まる。

 

行政改革の最後に、行動の改革を挙げておきたい。ここでは、いくつか例を挙げるにとどめよう。まず、公的な手続きの簡素化 (統一フォームの採用など)、ペーパーレス化、電子化をもっと進めなければならない。手続き処理はもっと効率化し、費用対効果分析を組織的に行う必要がある。フランスの職業訓練制度も改善の余地が大きい。ドイツのように、対象者を社会的弱者に限定し企業のニーズに沿ったものにすべきだろう。雇用政策の下で十分な効果を挙げられるよう、制度の簡素化と評価の組織化も必要である。

 

 

■    いまは時期が悪い?

外国の改革の事例から、いくつか学ぶべき教訓を挙げておこう。

第一に、大胆な改革は可能である。

第二に、改革は継続性がなければならない。多くの国では公の場で少なからぬ反対が起きても、社会制度の持続性は国全体の利益になるという観点から実行に移されている。政権交代があって野党が権力の座に就いても、改革に継続的に取り組むことが必要だ。

第三に、十分に市民に説明したうえで迅速に行われた改革は、選挙でも受けがよい。カナダのジャン・クレティエンは13年連続で、スウェーデンのヨーラン・ペーションは11年連続で首相を務めている。

第四に、フランスでは景気が低迷しているいま改革するのは時期が悪いといった声をよく聞く。だが改革の大半は、まさに景気後退期に行われている。

 

スウェーデンの改革は、金融危機の真っ只中で可決された。同国では金融バブルが崩壊し、1990年初めに大手銀行を中心に相次いで金融機関が経営不振に陥った。GDPは1991~94年に5%減となり、失業率は1.5%から8.2%へ上昇。さらに財政赤字が1994年に対GDP比15%に達したときに、短期間で実現したのである。

 

フィンランドの改革もほぼ同時期に行われている。同国にとって重要な貿易相手国であるソ連が崩壊した直後のことだった。またドイツでシュレーダー改革が行われたのも、困難な時期だった。東西ドイツの統合がなかなかうまくいかず、社会保障制度も人口構造面で問題を抱えていた。ほかにも多くの例を挙げることができる。困難な状況は改革を促すのであって、くじくのではない。

 

 

第7章 企業、統治、社会的責任 につづく